第186ターン目 治癒術士の 願い
「あれ……ここは、ダンジョン?」
ボクは甘くて香ばしい匂いにゆっくり瞼を上げる。
なんだか懐かしくて、思わず孤児院に居た頃を思い出した。
よく院長先生がアップルパイを焼いてくれたのだ。
「あっ、マル君が目覚めたよー!」
どこか不気味な古ぼけた全身鎧が兜を近づけてくる、言わずもがなボクは勇者さんを見て安堵した。
良かった無事だったんだ。
「マールさん! ごめんなさいごめんなさい!」
「うわ、リリーさん、えと……なんのこと?」
リリーさんはボクに飛び込むと、何度も謝罪する。
だけどボクは心当たりがなく、戸惑った。
「私は最低です、マールさんを危うく死なせてしまうところでした」
「うーん、でもボクはこうしてここにいますよ?」
「マールさん、ごめんなさいごめんなさい」
「うー!」
突然カスミさんが、リリーさんを引き剥がす。
あはは、これは嫉妬かな、カスミさんって意外とヤキモチだし。
「リリーさん、謝るよりも感謝が大事ですよ、まぁこれクロの受け売りですけれど」
「にゃあ、謝罪癖はマールも大概だからにゃあ」
クロは呆れた様子で、ボクの傍で丸まる。
うぅ、言い返す言葉が見当たらないなぁ。
他人を見て我が身を直せ、と。
「それでその、この良い香りは?」
「あらマール、ふふ、今回は最高傑作よー!」
石造りの小さなオーブンから鉄板ごと湯気立つパイが取り出される。
「えとそれって?」
「アップルパイであります!」
フラミーさんは刷毛を手に持ちながら、にこやかに答えた。
あれ、今日はフラミーさんも料理を?
女性二人はそのまま、丸くドーム状に膨らんだパイに、最後に刷毛で何かを塗っていく。
多分溶かしバターだ、あれで艶を出すんだ。
最後に白胡麻を散らすと、魔女さんは魔法でパイを切り分けた。
「じゃーん、私と軍人さんのコラボレーション!」
「アップルパイの完成でありますー!」
小皿に分けられる三角に切り取られたアップルパイ。
パイ生地は何層にも重ねられ、断面から色艶の良いリンゴが見えている。
全員に行き渡ると、ボクは思わず喉を鳴らした。
涎が出る、ちゃんとした地上の料理だ。
「いざ実食!」
「あむ! んんー甘ーい! それでいてパイが焦げて香ばしく、芳醇なバターの塩気がなんと甘さを引き立てるのか、もはやリンゴは宝石のように美しく食べれば、天国へのリゾートですよーっ」
「相変わらず至福の笑顔ありがとう!」
ボクは感動に泣いてしまう。
アップルパイが久しくて恋しくて、念願叶うように噛みしめる。
ありふれたアップルパイ、でも地上でしか味わえないアップルパイ。
これを食べたらもう絶体地上に帰ろうって、望郷の思いが出てくる。
「うむ絶品だ、いやはやカムアジーフ殿は本当に料理がお上手で」
「褒めても何もでないわよっ、それに今回はフラミーの全面監修だったし」
「ふえ? この美味しいアップルパイは、フラミーさんのおかげ?」
「えへへ、パイは慣れているでありますから」
フラミーさんは照れて頭を掻いた。
この周辺地域では、ご家庭ごとのパイがある。
パイはお菓子だけではなく、主食としても用いられる。
ビーフパイにフィッシュパイ、あとは冬の定番シチューパイなど。
つまりこのアップルパイはフラミーさんの家庭の味なのか。
「まさかダンジョンでアップルパイを食べられるなんて思いませんでしたよ」
「いいないいなー、俺も食べたいよー」
「ご愁傷様です勇者さん」
リビングアーマーの定め、こんなに美味しい料理を食べられないなんて、きっと何よりも不幸だろう。
ボクにはなにもしてあげられない、勇者さんは周囲を監視しながら、どこか不貞腐れた。
「これが地上の味……」
小さな口でリリーさんはアップルパイを味わう。
その顔はとても愛らしく、頬を膨らませた。
「美味しいですか、リリーさん?」
「はいっ、こんなに美味しいものが地上にはあるんですね」
「アップルパイはご家庭の味ですから、いわば庶民の料理ですよ」
「信じられません……地上はどうしてそんなにも恵まれているんでしょうか?」
ダンジョンが全てだったリリーさんには、地上の恵みが羨ましいのだろう。
地上を欲する気持ちって、こんなにも普通なんだろうな。
まぁボクたち冒険者こそ、ダンジョンの恵みを奪っているんだから、結局は同じか。
「うふふ、地上にはもっともーっと、美味しい料理があるんですよ」
「にゃー、酒場の煮干し、あれは至高にゃあよー」
クロはいつもの出涸らしを思い出し、至福の顔で微笑む。
ごめんねクロ、いつか本物のお魚食べさせてあげるから。
「皆さん喜んで貰えて幸いであります……痛た」
「っ、フラミーさん、脇腹に怪我が?」
「あっ、これはその、名誉の負傷であります」
「キラーマシーンのヒートブレードの直撃受けたのよ」
キラーマシーンと言われてもピンとこないが、あのフラミーさんが怪我するほどなら、きっと危険な敵だったのだろう。
ともかくボクは食事を中断すると、フラミーさんに駆け寄り、治療の魔法を神へと祈祷する。
「いと慈悲深き豊穣神様、哀れな子羊の痛み、癒やし給え《治癒》」
フラミーさんを優しい光が包み込む。
完治は難しいだろうけれど、これで痛みは消せるだろう。
「マール様、小官感謝感激であります」
「いえいえ、これが治癒術士の務めですよ」
仲間の傷を放っておける筈もない。
ボクは己の無力さも知り、それでも治癒術士として献身しなければならないだろう。
「フラミーさん、もうしばらくは無理をしちゃ駄目ですよ?」
「了解でありますっ、マール様の指示は絶対でありますからー!」
ビシッと軍隊式敬礼をする。
ボクはうんうん頷くと、食べかけのアップルパイの下へと向かった……のだが。
「うん? あれボクのアップルパイは……?」
「キュイ?」
口元を汚し、お腹のぷっくり膨らんだカーバンクルがこちらを見た。
まさか、と思いながらボクは皿を見ると、食べかすだけが僅かに残ったのみ。
「まさかカーバンクル?」
「キューイ」
カーバンクルはもう食えんと、寝転がった。
ボクは大粒の涙を零すと。
「うわーん! あんまりだぁぁぁーっ!」
「ち、治癒術士殿が壊れた!?」
「わわっ、マル君落ち着いて!」
「えーん! 神様の馬鹿ーっ!」
「不敬だわ! あのマールが!?」
食の執念。
悪食だって云われるけれど、ボクは楽しみにしていたアップルパイを奪われた哀しみは泣き喚くことでしか、解消出来ない。
神様の試練だというならあんまりです。
「食べ物の恨みは殺されても文句言えないですからーっ!!!」
――その日、絶体にマールの食事を邪魔してはいけない。
仲間たちはそう心に誓うのでした。




