第178ターン目 サキュバスの 回想
サキュバスが誕生したのはダンジョンの中であった。
彼女が自分の出生をよく覚えていないのは、ダンジョンの魔物では極普通である。
ただ親もなく、時として魔物さえ敵になる環境で、彼女の本能にあったのは、『異物を排除せよ』という、怨念めいた脳情報であった。
幸い彼女がいた第八層に冒険者は殆どこない、彼女にとって第八層は穏やかでさえあった。
そんな彼女に転機が訪れたのは、この第八層で最も強大な力を持つリッチキングに目をつけられた時だ。
「サキュバスか、使いようはありそうだな、おいそこのサキュバス」
重力が滅茶苦茶な空間でのんびり浮遊していた彼女は声のする方を見ると、骨だけの存在が薄汚いローブで全身を隠し、彼女を呼んでいた。
気持ち悪い存在だ、美味しくなさそう、そんな野性味溢れることを考えていると、リッチキングは尊大な態度で言う。
「お前に価値を与えてやる、喜べ、お前はこれから771だ」
「リ、リー?」
「そうだ、お前の名前だ771」
リリー、それが自分の名前だとわかると、彼女は赤紫色の瞳をキラキラと輝かせた。
魔物が名前を貰う機会は殆どない。
ダンジョンの魔物に名前など必要ないからだ。
だが名前を持つというのは特別な意味がある。
特異個体、そこから彼女は急速な自我を獲得していく。
「仕事の時間だリリー、これから第七層へ向かい、この治癒術士を始末しろ」
リッチキングが手を振るうと、彼女の目の前で空間に映像が映された。
時空魔法、リッチキングの恐るべき力の一端である。
映像には線の細い美少女のような少年が映っている。
治癒術士、というのはよくわからない。
でも彼女は自身満々だった。
きっと楽勝だ、なんたって私はリリー、特別なんだもん。
「いいか失望させるなよ? 奴は大魔王様を脅かす可能性がある、確実に暗殺しろ」
リリーは精一杯頷いた。
そのまま一気に第七層へと飛んでいった。
……そして、全然大丈夫じゃなかった。
治癒術士マールの夢の中にはナイトメアがいるし、リビングアーマーとかニンジャエルフとかからは、物凄く警戒されている気がする。
自分が本当は特別じゃなかったなんて、直ぐに気付かされた。
正面から戦えば五秒で殺される、そんな相手を騙し討ちしなければならない。
彼女はこの任務が成功しても自分は使い捨てだろうと判断した。
どうあっても生還出来る未来が見えない。
死にたくない、絶対死ぬもんか。
そんな弱腰の時もマールさんは、傍にいてくれる。
殺す対象なのに、どんどん彼女はマールさんを好きになっていった。
殺すことに躊躇いさえ覚え、彼がクレパスの亀裂に落下した時は無我夢中で飛び出してしまった。
正体バレした時は、もう終わりだとさえ考えてしまう。
ならいっそマールさんに殺して貰う方がマシなんじゃないかって。
だけどマールさんってば。
「ボクはサキュバスだろうと人間だろうと、リリーさんの善性を信じます、必ず地上へ連れて行きますよ」
だもんな、嬉しいんだか悲しいんだかとにかく泣いちゃった。
彼女、リリーは特別な存在なのか?
ありふれたダンジョンの魔物に過ぎないのか。
彼女には憧れがある、それは地上の空だ。
太陽に照らされてみたい、青い空を茜色の空を、満天の星空を見てみたい。
彼……マールさんなら連れていってくれる。
リリーは立ち上がった、決心がついた。
「マールさん、私マールさんを信じます、ですからどうか……私を助けて」
「助けます、ボクは治癒術士ですから」
彼は安心させるような顔で微笑む。
マールのよく使う豊穣神スマイルというらしい。
彼女もまた迷える子羊なのか、豊穣神はサキュバスにも手を差し伸べてくれるのか。
もしそれが叶うなら豊穣神に帰依しても良い気がした。
そうすればマールさんと同じ豊穣神の加護を持てる気がするから。
「それにしても上はなにも見えませんねー」
マールさんは改めて頭上を見上げた。
ここはかなりの深さがある地下道であろう、もはや寒ささえここには届かない。
周囲はデコボコとした大地で、道は一直線に伸びている。
「マールさん、行きましょう、どの道ここもリッチキングの手の中です」
「どういう意味でしょうか?」
「リッチキングは時空魔法の使い手、リッチキングの前では時間も空間も自由自在なんです」
「時空魔法ってカムアジーフさんも時々使うアレか」
時の大魔女カムアジーフ、リリーはあの青肌の魔女について考える。
あれほど高次元な魔法使いをリリーは知らない。
おそらくリッチキングと同等か、あるいは魔力ならカムアジーフの方が上かも知れない。
一体何者なのか、何故時空魔法を使える?
「警戒はしておきましょうか、ここからなにがあるのか」
マールさんはゆっくり歩き出す。
後ろにピッタリくっつきながら彼女はいつでもマールを守るつもりだ。
マールさんは特別だけど、平凡でもある。
腕力はリリー以下だし、頭だってそんなによくない。
ただただ優しく、けれどそれは危惧すべき甘さでもある。
本当なら冒険者には似つかわしくないような人物なのに、彼は臆することはなかった。
「あの、マールさんは死ぬのは怖くないんですか?」
「そりゃ怖いですよ、てかさっきだってこれは死んだって思いましたし」
それは落下の時だろう。
マールさんは目を瞑って震えていた。
それが今やケロッとしているんだから、頭のネジは何本か抜けている気がする。
豊穣神を信望するあまり狂っているのか、ちょっと心配な人だ。
宗教に熱心な人、マールさんいわく公正神の信徒などは、ちょっとやり過ぎなくらいのめり込むみたいだから、宗教というのは少しだけ恐ろしい。
心の拠り所、というのは誰しも必要だ。
それはリリーにも。
リリーの心の拠り所はマールである。
つまりリリーはマール教ということか。
「あっ、なにか見えて……え?」
突然視界に強烈な光が二人を襲った。
次に見えたのは不可思議な空間だった。
「青空が下にありますね」
そこは重力も空間も滅茶苦茶な空中回廊だ。
真っ白い通路と階段が滅茶苦茶に生えて、魔物が逆さまに歩き、真横に向いて飛ぶ。
物理法則のまるで通用しない空間、こここそが第八層の本当の姿。
「第八層リッチキングの空間です」




