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別荘に着いた。
二階の窓はまだ煌々と灯りがついていた。
鍵を忘れたときのために、玄関脇の赤い植木鉢の裏にスペアキーを置いておくことにしていたが……。
あった、あった、ちゃんとあった。
たったそれだけの事なのに、今の智子には感慨がとりわけ深かった。
たった一日と数時間留守にしていただけなのに、浦島太郎の気分なのだから。
音を立てないように、そうっとドアを開けた。
玄関を爪先立ちで横切って、階段を上って行くと、中ほどにある踊り場付近で娘の声が聞こえて来た。
笙美──ああ、また娘の声が聞けるなんて!
部屋のドアは細く開いていて、暗い床に一筋の光が漏れ出ている。
「今さら、あの女が好きだった、みたいなフリしないでよ」
と笙美。
「あいつのせいで、あたしはあんなに嫌な思いをして来たのに!」
「ああ」
男友達の声。
「そうよ。義理の母親ってだけで、体裁のいいお飾りなのよ。例えれば、あんたの友達のクルマ、ポルシェとおんなじ。
ステータス・シンボルってだけのもの。あの女はクソよ。どうしようもないエゴイストのクソッタレだわ」
「おいおい」
「なによ! あたしたちも他の人も踏み付けにして、自分だけ、やりたい放題じゃない。毎年、休暇は決まって此処に来てたけど、骨の髄まで冷え切ったわよ。
あいつはこの別荘がお気に入りだったからね。あたしはずっと海に行きたかったってのに。
事務所に後継者が必要だからって、否応なしにやりたくもない仕事やらされたし。
でも、それももうおしまい! 夢みたいだわ! これで自分のスタジオが持てる。これからは音楽三昧よ!
資金ならふんだんにある。パパがあの女に保険をかけてたから。ああ、明日から何から手を付けたらいいんだろ!」
「でも、お母さんの事務所はどうなるんだ?」と彼氏。
「もちろん、パパが引き継ぐの。あの女が居なくなったから、ようやく手腕がふるえるって言ってたわ。経理の今日子さんとやっていくと思う……」
「笙美、さあ、お母さんのこと好きじゃなかったのか? 気付かなかったよ」
「憎んでた。十六で無理やり留学させられたときは、正直、殺してやろうかと思ったくらい」
「ふええ……オーバーだな」
「証拠、見せようか?」
引き出しを開ける音。
「何だよ、これ! ナイフじゃないか」
「もうちょっとで、ほんとに刺してたわよ」
「まさかあ」
ひと呼吸置いて、
「あ、そろそろ帰るよ、俺」
「うん、またね」
智子は白衣を翻して隣の部屋に隠れた。
階段を下りていく足音、ドアの閉まる音が消えると静寂がのし掛かって来た。
ここじゃいったい、何がどうなってるの?
ん? 誰か呻いてる声がする?
智子はまた廊下に出た。
また聞こえる。
廊下の突き当たりの寝室から聞こえて来る。
まるで泣き声のよう。
奥の寝室ににじり寄り、ドアに耳をつけた。
女の声がはっきり聞こえるようになった。
「ああ……ああ、いいわ、止めないで! もっと! 素敵よ! あなた凄いわ! 愛してる」
驚いた、なんてものではなかった!
智子は肝を潰してドアから飛び退いた。
規則正しく聞こえる呼吸の音は雄弁だった。
女のあえぎ声と、それに感極まった夫の叫び……。
「今日子ぉ!」
ええ!?
あんまりだわ!
本来は自分の寝室だった、そのドアにもたれ掛かった智子は否も応もなく、夫が部下である経理の女と交わる声を聞かされた。
しかも、その貪欲なことといったら。
わたしのときとは雲泥の差ね。
まだ埋葬も済んでないっていうのに、もう……わたしの死を勝ち誇ったように祝っている。
そういうことだったの!?
真実を認識するには、一度死ななきゃならなかったってこと?
誰一人、わたしを愛してはいなかった。
それにしても……娘には憎まれてるし、夫は他の女を愛している。
しかも、わたしが死ぬのを待ってたんだ。
智子の心臓が喉元から飛び出しそうになる。
それにまた、左胸の性質の悪い痛みがぶり返す。
智子は再び死の影が迫って来ているのを感じた。
目が……眩む。
ここはもう、わたしの家じゃないんだわ。
憤激が、絶望が、そして怒りが……!
もう終わらせるしかないと思い至った。
再び襲う胸の痛みに、智子に突然すべき事が閃いた。
笙美が寝静まってから部屋に忍び込む。
引き出しからナイフを持ち出した。
廊下で白衣を脱ぐ。
素っ裸になったが、その必要があった。
夫と今日子がいる寝室に忍び込む。
二人が寝ている枕元に立ったとき、智子の存在に、最初に気付いたのは夫だった。
夫のあの顔!
全裸で立っている元妻の姿に気付いて、えも云われぬ表情で目を剥いた。
そこへ全体重を預けるようにして心臓を一突きした。
そして今日子の顔!
彼女は不穏な空気を察して目を開けたが、そこに全身返り血を浴びて立っている智子の顔を見て、どう思っただろうか。
いや、思う暇さえ与えなかった。
智子は今日子の上に馬乗りになり、豊満な乳房を揺らして、狙ったところを一突きにしたのだから。
あの二人は、突然目の前に現れた智子を見て、驚きの余り動きを封じられたかのようだった。
無抵抗のまま心臓を突き刺したのが、あのナイフなのだから、明日以降の笙美はとんでもない目に遭うことだろう。
その後、シャワーを浴びてから白衣を着なおし、台所へ行って睡眠薬を大量に飲んだ。
夜道を病院へ戻り、白衣を脱いで再度裸になり、サンダルも元どおり洗濯室に戻した。
霊安室へ戻る途中で、智子は「あっ」と言って鍵の存在を思い出した。
ドアに鍵が掛っていたら入れない。
だが近付いたとき、それは杞憂に終わった。
あの時ノブに掛けていた名札が、なんとドアの隙間に挟まれた状態で、鍵は掛かっていなかったのだ。
もし仮に鍵が掛っていたとしたら自分はどうしていただろう、と思うこともなく、智子は名札をはずして手首に戻し、再び棺桶に横たわった。
棺台の端を掴んで両手を伸ばすと、大きな引き出しはゆっくりと閉まった。
狭いが、気にはならなかった。
もう薬が効き始めていたのだ。
これで二度と目覚めることはあるまい。
でも、それでいい、と智子は思った。
少しばかり延命したところで、この命はそう長くは持たない。
どうして智子は二度死んだのか?
そんなことを気にかける者が現れるはずもない。
誰一人、この霊安室に真犯人が居たなどとは思いもよらないだろう。
なにしろ公には、智子はあの二人が殺される一日前に死んだことになっているのだから。
遠くにサイレンの音を聞きながら、彼女は深く永い眠りについた。
‐Hora Hora, HORROR COMES HERE‐