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‐1‐

 暗闇に一条の光が射す。冷たい光。

 ああ、なんて寒いのかしら。胸の前で組んだ手を、ぎゅっと体に引き寄せた。

 そのとき気付いた。わたし、裸……。そう思った女は自分の肌に触れ、ぞくっと身震いした。

 なんで裸なの?

 薄目を開ける。


 いったい、ここは何処かしら。

 女はほんの一瞬、夢と覚醒の狭間を行き来したが、あまりの寒さにはっきりと目覚めた。

 真っ暗なのはともかく、なんか冷たい板の上に寝ているみたい。

 敷布がないし、掛け布団もないのは何故なの?


 目が慣れてきて、まわりが少し見えてきた。

 頭の上の隙間から薄明かりが漏れている。

 そこでやっと、自分が窮屈な箱の中に寝かされていることに気付く。

 ぎょっとして起き上がる。

 途端に頭をぶつけた。

「出して!」と、声にならない声を出す。


 必死で手を伸ばし、明かりの射す隙間に指を入れた。

 ぐんっと引くと、脳天をぶつけはしたが、箱ごと体が滑って何かの入れ物から出た感じがした。

 何処なのここは?

 いやいや、と僅かに首を振る。

 余計なことを考えるのは後にしよう。

 まずは一息付くことだわ。

 今、体が求めているのは温もりだもの。

 とりあえず何か着ないことには凍え死んでしまいそう。


 氷みたいなタイルへ下りて、素足で踏みしめた。

 そこで自分が引き出しのような棺桶から出てきたことが分かった。

 寒さに歯をガチガチ鳴らしながら、手探りで壁に沿って歩いて行く。

 戸棚にぶつかった。

 良かった!

 毛布があるわ!


 女はそれに包まって部屋の一隅に腰を下ろした。

 はあっと息を吐いた。

 やがて少しづつ温まってくる。

 強張った四肢に再び生命が通い始めた。

 肉体が息を吹き返すようだし、同時に気力も息を吹き返した。

 ふと、女は毛布の中の手で乳房を掴んでみた。

 感じていた。

「夢じゃないわ」

 両手を少しだけ毛布から出して頬にあてがって撫でた。

 そしてそれを何度も繰り返した。

「夢じゃないわね」


 気が変になった訳でもなさそうだ。

 もともと若い頃から心臓には問題があった。

 喘息もあったし……。

 ストレスなんて人一倍。

 でも太り過ぎ……太り過ぎで良かったかも。

 さもなければ、この寒さでとっくに凍え死んでた。


 女は習慣から腕時計を見ようとした。

 時計はしていなかったが……なんでしょ、この妙な物は。

 手首に何かくっ付いている。

 浴槽の栓を繋いでおく鎖みたいなもの。

 札も付いてる。

 女は撫でてみてから目の前にそれを持ってきた。

 暗がりに目を凝らした。

『田之上 智子』


 自分の名だと分かったが、同時に求めていた答えも得たような気がした。

 ここは霊安室?

 たぶん病院の霊安室。

 先ほどから何となく、そんな気がしていた。

 ──わたし、死んだんだ。


 いや、実際には死んじゃいないけど。

 だって死んでたら、こうして毛布に包まって、あれこれ考えたりしてる筈ないんだから。

 だいぶ体が温まってきて、何故だか眠気が来たみたいで、智子の頭もぼんやりとして来た。

 毛布から出ている足は相変わらず冷たいのに。

 わたしは死んだ人間なんだ……。


 夫や娘は今どうしているかしら。

 笙美は夫の連れ子だけれど、中学へ上がる頃から大事に育てて来た。

 わたしには子供が出来なかったから。

 そう思っていると、智子はなんだか楽しくなって来た。

 みんな、わたしが死んだと思ってるわけよね。

 死亡時刻がそんなに前ってわけはない。

 だって、ここに居たのも短い間のはず。

 さもないと、わたしはとっくに凍死してるはずだもの。


 智子は躍起になって思い出そうとした。

 何をしてたんだっけ?

 そうそう、誕生パーティー。

 わたしの?

 いえいえ、わたしは春先に三十七歳を祝ったばかり。

 夫の五十三歳のパーティーだ。

 ああ、そうだった。この別荘に知り合いを招いての食事会。

 ええっと、夫がスピーチをするって言うので、前日から何度も原稿を推敲してたのは覚えている。

 わたし、そのときからどうも気分が良くなかったのよね。

 夫に悪いから我慢してたの。


 呼吸困難。

 それに、あの左肩に針を刺されるような痛み……。

 でも時間は迫ってたし、とにかく忙しかった。

 みんなの前で、テーブルに倒れ込んだんだっけ?

 それとも夫のスピーチの最中?

 もっと後だった。

 庭先のプール。

 プールの中に落ちたのは思い出した。

 気を失いかけて、よろけて。


 そうだ、みんながわたしの死を悼んでるはず。

 夫や娘をさぞ悲しませたに違いない。

 ここを出なくちゃ、と智子は思った。

 なるべく早く、皆が居る別荘へ。

 でも、どうやって?

 死者への敬意ということからも、霊安室には鍵が掛かっているに違いない。


 ドアを手探りしてノブを見つけ、回すと開けることができた。

 外側からだけ鍵を開け閉めできる作りのようだが、とにかく良かった。

 廊下へ出た。

 廊下は生暖かかった。

 体を包む毛布を掴んだ手が緩む。

 ドアを静かに閉めるとき、再び手首の名札に気付く。

 およそ自分でもやっていることの意味が分からないが、智子は名札をはずしてノブに掛けた。

 だって、こんなもの持ち帰ったって記念にもならないでしょ。


 突き当たりに洗濯室があったが、鍵は掛かっていない。

 中には看護師の白衣。

 そのひとつを選んで、ハンガーごと手元に引き寄せた。

 そのときはずみで、肩から毛布が滑り落ちた。

 見ると足元にはサンダルまであることが分かった。

 壁に剥ぎ取り式のカレンダーを見付けたが、その横に大きな鏡があって、その中に三十七歳のちょっと太った女の裸体が写っていた。

 それがなんだか不思議に思えた。

 先ほどまでは死に掛けていた、いや死んでいた体なのだ。


 カレンダーは夫の誕生日の翌日になっていた──きちんと捲られていればだが。

 入り口の時計が刻む正確な音に気付いた。

 針は十一時ちょっと前をさしていた。

 再び廊下へ出て分かった。夜の十一時だ。

 受付にいる夜勤の看護師は本を読み耽っていて、ちらっとこちらに目を向けただけだった。

 すぐに本に目を落とした。

 この時間、あの人の仕事は救急患者の受け入れだから、他の看護師がうろついていたからといって、細かい関心を持たなかったのかも知れない。

 この病院が別荘の近くにあったことは不幸中の幸いだった、と智子は思った。

 なんせ一文なしじゃ、バスにしろ、タクシーにしろ、手も足も出ないから。


 六月の明るい夜とはいえ、夜風は湿っぽかった。

 裏山の別荘地の方角から、フクロウの鳴き声が聞こえた。

 隣の墓地に差し掛かったとき、智子は墓地の生垣の傍らに佇み、月と墓石を交互に眺めた。

 危うく、あそこに入れられるところだったんだわ。

 そのことを思い浮かべた途端、足はひとりでに速まった。

 家ではみんな、さぞかし嘆き悲しんでいることだろう。

 可哀相に……。

 だから死ぬほどビックリさせないように、慎重な上にも慎重に出て行かないと。

 なんといっても、墓を抜け出した幽霊くらいに思われるのが関の山なんだから。

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