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暗闇に一条の光が射す。冷たい光。
ああ、なんて寒いのかしら。胸の前で組んだ手を、ぎゅっと体に引き寄せた。
そのとき気付いた。わたし、裸……。そう思った女は自分の肌に触れ、ぞくっと身震いした。
なんで裸なの?
薄目を開ける。
いったい、ここは何処かしら。
女はほんの一瞬、夢と覚醒の狭間を行き来したが、あまりの寒さにはっきりと目覚めた。
真っ暗なのはともかく、なんか冷たい板の上に寝ているみたい。
敷布がないし、掛け布団もないのは何故なの?
目が慣れてきて、まわりが少し見えてきた。
頭の上の隙間から薄明かりが漏れている。
そこでやっと、自分が窮屈な箱の中に寝かされていることに気付く。
ぎょっとして起き上がる。
途端に頭をぶつけた。
「出して!」と、声にならない声を出す。
必死で手を伸ばし、明かりの射す隙間に指を入れた。
ぐんっと引くと、脳天をぶつけはしたが、箱ごと体が滑って何かの入れ物から出た感じがした。
何処なのここは?
いやいや、と僅かに首を振る。
余計なことを考えるのは後にしよう。
まずは一息付くことだわ。
今、体が求めているのは温もりだもの。
とりあえず何か着ないことには凍え死んでしまいそう。
氷みたいなタイルへ下りて、素足で踏みしめた。
そこで自分が引き出しのような棺桶から出てきたことが分かった。
寒さに歯をガチガチ鳴らしながら、手探りで壁に沿って歩いて行く。
戸棚にぶつかった。
良かった!
毛布があるわ!
女はそれに包まって部屋の一隅に腰を下ろした。
はあっと息を吐いた。
やがて少しづつ温まってくる。
強張った四肢に再び生命が通い始めた。
肉体が息を吹き返すようだし、同時に気力も息を吹き返した。
ふと、女は毛布の中の手で乳房を掴んでみた。
感じていた。
「夢じゃないわ」
両手を少しだけ毛布から出して頬にあてがって撫でた。
そしてそれを何度も繰り返した。
「夢じゃないわね」
気が変になった訳でもなさそうだ。
もともと若い頃から心臓には問題があった。
喘息もあったし……。
ストレスなんて人一倍。
でも太り過ぎ……太り過ぎで良かったかも。
さもなければ、この寒さでとっくに凍え死んでた。
女は習慣から腕時計を見ようとした。
時計はしていなかったが……なんでしょ、この妙な物は。
手首に何かくっ付いている。
浴槽の栓を繋いでおく鎖みたいなもの。
札も付いてる。
女は撫でてみてから目の前にそれを持ってきた。
暗がりに目を凝らした。
『田之上 智子』
自分の名だと分かったが、同時に求めていた答えも得たような気がした。
ここは霊安室?
たぶん病院の霊安室。
先ほどから何となく、そんな気がしていた。
──わたし、死んだんだ。
いや、実際には死んじゃいないけど。
だって死んでたら、こうして毛布に包まって、あれこれ考えたりしてる筈ないんだから。
だいぶ体が温まってきて、何故だか眠気が来たみたいで、智子の頭もぼんやりとして来た。
毛布から出ている足は相変わらず冷たいのに。
わたしは死んだ人間なんだ……。
夫や娘は今どうしているかしら。
笙美は夫の連れ子だけれど、中学へ上がる頃から大事に育てて来た。
わたしには子供が出来なかったから。
そう思っていると、智子はなんだか楽しくなって来た。
みんな、わたしが死んだと思ってるわけよね。
死亡時刻がそんなに前ってわけはない。
だって、ここに居たのも短い間のはず。
さもないと、わたしはとっくに凍死してるはずだもの。
智子は躍起になって思い出そうとした。
何をしてたんだっけ?
そうそう、誕生パーティー。
わたしの?
いえいえ、わたしは春先に三十七歳を祝ったばかり。
夫の五十三歳のパーティーだ。
ああ、そうだった。この別荘に知り合いを招いての食事会。
ええっと、夫がスピーチをするって言うので、前日から何度も原稿を推敲してたのは覚えている。
わたし、そのときからどうも気分が良くなかったのよね。
夫に悪いから我慢してたの。
呼吸困難。
それに、あの左肩に針を刺されるような痛み……。
でも時間は迫ってたし、とにかく忙しかった。
みんなの前で、テーブルに倒れ込んだんだっけ?
それとも夫のスピーチの最中?
もっと後だった。
庭先のプール。
プールの中に落ちたのは思い出した。
気を失いかけて、よろけて。
そうだ、みんながわたしの死を悼んでるはず。
夫や娘をさぞ悲しませたに違いない。
ここを出なくちゃ、と智子は思った。
なるべく早く、皆が居る別荘へ。
でも、どうやって?
死者への敬意ということからも、霊安室には鍵が掛かっているに違いない。
ドアを手探りしてノブを見つけ、回すと開けることができた。
外側からだけ鍵を開け閉めできる作りのようだが、とにかく良かった。
廊下へ出た。
廊下は生暖かかった。
体を包む毛布を掴んだ手が緩む。
ドアを静かに閉めるとき、再び手首の名札に気付く。
およそ自分でもやっていることの意味が分からないが、智子は名札をはずしてノブに掛けた。
だって、こんなもの持ち帰ったって記念にもならないでしょ。
突き当たりに洗濯室があったが、鍵は掛かっていない。
中には看護師の白衣。
そのひとつを選んで、ハンガーごと手元に引き寄せた。
そのときはずみで、肩から毛布が滑り落ちた。
見ると足元にはサンダルまであることが分かった。
壁に剥ぎ取り式のカレンダーを見付けたが、その横に大きな鏡があって、その中に三十七歳のちょっと太った女の裸体が写っていた。
それがなんだか不思議に思えた。
先ほどまでは死に掛けていた、いや死んでいた体なのだ。
カレンダーは夫の誕生日の翌日になっていた──きちんと捲られていればだが。
入り口の時計が刻む正確な音に気付いた。
針は十一時ちょっと前をさしていた。
再び廊下へ出て分かった。夜の十一時だ。
受付にいる夜勤の看護師は本を読み耽っていて、ちらっとこちらに目を向けただけだった。
すぐに本に目を落とした。
この時間、あの人の仕事は救急患者の受け入れだから、他の看護師がうろついていたからといって、細かい関心を持たなかったのかも知れない。
この病院が別荘の近くにあったことは不幸中の幸いだった、と智子は思った。
なんせ一文なしじゃ、バスにしろ、タクシーにしろ、手も足も出ないから。
六月の明るい夜とはいえ、夜風は湿っぽかった。
裏山の別荘地の方角から、フクロウの鳴き声が聞こえた。
隣の墓地に差し掛かったとき、智子は墓地の生垣の傍らに佇み、月と墓石を交互に眺めた。
危うく、あそこに入れられるところだったんだわ。
そのことを思い浮かべた途端、足はひとりでに速まった。
家ではみんな、さぞかし嘆き悲しんでいることだろう。
可哀相に……。
だから死ぬほどビックリさせないように、慎重な上にも慎重に出て行かないと。
なんといっても、墓を抜け出した幽霊くらいに思われるのが関の山なんだから。