護衛の決心
我慢ができなくなる、と言葉は続くはずだった。しかし彼女が誤解をしたまま飛び出したことは明白で、テオドールは一気に青ざめる。
「何をぼさっとしてるんですか朴念仁。いやクソ野郎」
「ぼッ……」
メイドの恐ろしく低い声に反射的に振り返り、少しだけ後悔する。殺されるかもしれないと大人になってから思ったのは初めてだ。
「お嬢様を傷つけたら、たとえお嬢様が許しても私が呪い殺しますから」
ぐうの音も出ない。確かに彼女を泣かせたのはテオドールである。
生来、悩むのは苦手だ。何を伝えたらいいかもわからないまま駆け出す。
***
テオドールに親はない。いくら治安が良くとも、子を捨てる親が絶滅するわけではなかった。
町の隅で似た境遇同士で集まり、その日暮らしをするのが物心ついた頃からの当然で。一生こうして過ごすのだろうと信じていた。
十年前、小さな手が彼に差し伸べられるまでは。
「くそっ……」
チビ達を逃がすために囮になって駆け回った。捕まるまいといくつもの塀や樽を飛び越えた。必死だったせいで気づかなかったが、どこかで足をくじいたらしい。盗んだパンは仲間にあげてしまったし、今夜は最悪、雨水でしのぐしかないだろう。
路地裏の少年を見つけた彼女は、一瞬きょとんと目をまるくしてから、好奇心のままに平然と近づいてきた。身動きがとれない彼の目の前に、ドレスが汚れるのも厭わずぺたんと膝をつく。
……いい匂いがする。鼻がむず痒い。
ボロボロな身なりが恥ずかしくてテオドールは思わずうつむいた。頬の傷痕は、親からもらったありがたくもないプレゼントだった。
「足、ケガしてるの?」
こいつを拐えばどれだけの金になるだろう?
そんなことを考えて黙っている彼に向け、彼女は迷いなく手を差し出す。
こんなにきれいな手を見たことがなかった。傷ひとつなくて、まるで作り物か何かみたいだ。
「お医者さんにいきましょう? ついていってあげる」
無防備にもほどがある。思わず顔を上げると目があってしまう。
傲慢だとすぐにでも一蹴したかったのに。まっすぐな眼差しに、振り払うことができなかった。
「――おい、テオ!」
耳慣れた仲間の声と足音が聞こえて、彼は慌てて少女を木箱の陰に押し込む。悲鳴があがった気もしたが構う余裕はない。
「ん……? 誰かいたのか?」
「誰も。どうした?」
「川向こうの屋台、いつものオヤジがいないっぽくてさ。気の弱そうな兄ちゃんが店番だから、きっといろいろ盗れるぜ!」
「あー……いや、今日はやめとく。疲れちまった」
「ふうん? ま、気が向いたら来いよ」
「ああ」
再び駆けていくのを慎重に確認し、ようやく彼は詰めていた息を吐き出した。
「出てきていいぞ」
「ぷはっ」
なぜ咄嗟に彼女を隠そうとしたのか自分でもわからなかった。だがすぐに、失策だったと血の気を失う。彼女の上等そうな服は先ほどよりさらに汚れてしまっていたからだ。一生をかけても弁償できるかあやしい。
「わ、悪い、その服……」
「洗うからいいの。ふふ、かくれんぼみたいでたのしかった!」
「は? 洗ってもらえるんじゃないのか?」
「ううん、自分でやるのよ。お洗濯って意外とおもしろいんだから」
自分より幼く見える少女はぱんぱんと膝を払い、屈託なく笑う。
「……あんたみたいにきれいな女の子が、こんな場所に近づくもんじゃないんだ」
「え? ……ふふっ」
精一杯の威嚇と嫌みをこめて告げたのに、彼女はますます嬉しそうに頬を染めた。テオドールは混乱する。どこに喜ぶ要素があった?
「あなた、お名前は? テオというの?」
「……」
「すてきな名前ね」
「なあ、襲われるとか思わないのか?」
「どうして?」
「どうして、って……」
うーん、と愛らしく悩む素振り。
「あ。ねえ、甘いものは好き? デートならまずはお茶をするところからって、お友だちが言ってたの」
「お茶? 誰が――いや待て、デート?」
「そうだわ、あなたをうちに招待すればいいのね。おとうさまにお願いしてみる!」
「話きいてるか?!」
「あのね、マリーがつくるごはんはすっごくおいしいのよ」
噛みつこうとしたところで腹の虫が代わりに返事をしたものだから、彼はしばらく顔を上げることができなかった。
***
拾ってもらった身で勝手な願いを抱けば、今度こそ軽蔑されるに違いなかった。手を伸ばしてはいけない。伸ばしたところで届く相手でもない。力ずくで奪う方法しか知らないのでは、どうしたって彼女を自分の物にできないと、ずっとそう思っていた。
「小さい頃はいつもここで泣いてましたね。レネット様」
庭いちばんの大樹の陰でうずくまる少女の前に、テオドールは静かに跪いた。