令嬢の苦心
不思議なことに、いくら甘い言葉や贈り物を貰おうともジェラルドへの恋愛感情は沸かなかった。
愛は後からついてくるのだと、『白い結婚』をした知り合いは言っていた。今のレネットには想像もつかないが、そういうこともあるのかもしれない。
屋敷は広いにもかかわらず掃除が行き届いており、なるほど、レネットに紅茶を出したメイドも仕立ての良い服を着ている。
テオドールのいつも以上の仏頂面が気にはなったが、もしかしてやっと妬いてくれたのだろうか? だとしたら……遅すぎた。家への招待を受けてしまえば、あとは親同士の承諾を得るだけだ。
憂鬱をおくびにも出さないのも社交術である。いつも通りに笑みを湛えて。
「さ、レネット嬢。こちらの飲み物をどうぞ?」
「ええ、いただきます」
ジェラルドはやたらとそのお茶を勧めてきた。先日の件といい、軽率に口をつけるわけにもいかない。こうも押し付けられるとなおさら。
はたとレネットは気がついた。こちらの心を操作しようという気概が透けて見えれば見えるほど、なけなしの好意も冷めていく。自分がしてきたのはこういうことだったのか。
「……それは、こうなるわよね」
「レネット嬢?」
「あ、いえ! 失礼をいたしました」
「はは。そう警戒されずとも、毒なんか入ってませんよ」
爽やかな笑顔で自身のカップを傾ける。
「いえ、でも……」
「冷めてしまいますから。さあ」
とうとう彼がソーサーに触れようと乗り出した時、大きな手がそれを素早く横取りした。
「テオっ?!」
「なんてことを!」
叫んだのは同時。割り込んできた男は中身をすっかり飲み干すと、ジェラルドを睨み据えた。
「なんてこと? 睡眠薬入りの紅茶を飲んでやったことか?」
言うが早いか、胸ぐらをつかんで絨毯に引きずり倒す。控えていたメイドたちがきゃあと悲鳴をあげた。
「バカな! あれを飲んで動けるやつなんか……!」
「はっ、ボロを出したな」
鈍い音がした。先ほどまで婚約者候補だった男が殴られた音だ。
「汚ねえ手でお嬢様に触るな外道!」
「うッ……こ、こちらがわざわざ売れ残りをもらってや――グエッ!」
「このゴミ野郎が!!」
呆気にとられるレネットの前で、聞いたことのないような罵詈雑言を浴びせ、再び拳を振り下ろす。
「テオ! やめなさい、やめて!」
ようやく我にかえった時にはもう、ジェラルドの顔は見るも無惨に腫れ上がっていた。動く気力も残っていないだろう。
テオドールは盛大に舌打ちしつつも手を放す。控えたメイドや使用人たちを睨みつければ、彼らも一様に震え上がった。
ショックだったが、まずこの場を収めることを優先しなければ。なおも殺気を隠そうともしない男に命じる。
「話はあとで聞きます。まずはジェラルド様の手当てを」
「こんな奴に」
「テオドール」
気をつけていたつもりが、声が震えてしまう。彼はぐっと顔をしかめ、心底しぶしぶといった様子で「わかりました」と発するのだった。
***
金と土地が手に入ればよかったらしい。いわゆる既成事実というやつを作ろうとしたのだと、ようやく喋れるほど回復したあとでジェラルドは白状した。
「我が家は土地だけは広いけれど、大半は既に貸してしまっているじゃない?」
「そうですね」
「だから、うちの一存で自由にできる範囲なんてたかがしれているのよ」
「ええ」
顛末書を確認するレネットのそばに控え、護衛とメイドは淡々と述べた。
「まあ単にあの男が」
「クズだったということですね」
「まあ……」
未遂で済んで本当によかった、本人にとっても。事が起きていたら忠犬は躊躇なく剣を抜いただろう。
見合いは当然中止だ。父親の胃薬の量が増えたようだが、自分で蒔いた種はどうにかしてもらうほかない。
テオドールが飲み干した紅茶は、マリーに手を回させて事前に交換したらしい。だからといって無茶をしていい理由にはならないが。
「テオ。ひとつ訊いてもいいかしら?」
「どうぞ」
「なぜ、お茶を出されるまで黙っていたの? あなたなら知った時点で止めそうなものだけど」
責めているのではないわ、と付け足せば、わかってますと返事がある。
「お嬢様が望むなら、邪魔をしたくなかったからです。あなたが選んだ道が俺の居場所ですから。だけどあの時は明らかに嫌がっていた。だから止めに入りました」
そして、これもまた淡々と返ってくる。
レネットは両手で顔を覆ってため息を吐いた。長い長いため息だ。
「……やっぱり、無理よ」
我慢できるはずもない。
「テオ」
「なんでしょう」
「好き」
「はあ。それは何度も」
「わかってないわ、よく聞いて」
立ち上がり、つかつかと目の前へ。
マリーがそそそと離れていった。
「わたしはね、あなたを恋愛対象として好きだと言ってるの」
「……は?」
「だから! 結婚するならあなたがいいと言っています」
じっと長身を見上げる。テオドールは見たことがないほど動揺もあらわに口を開閉していた。が、一歩後退りすると、顔を背けて絞り出すように言う。
「いい加減にしてください、お嬢様……! そうやって甘えられると俺だって――」
気づけばレネットは部屋を飛び出していた。
熱いものがどんどんこみ上げてくる。みっともなさに涙が溢れて止まらなかった。
迷惑だったのだ。ぜんぶ、ぜんぶ。彼にとっては、あんなに強い口調で拒絶するほどに。