護衛の不惑
目を離すとこれだ、とテオドールは内心で頭を抱えた。首根っこをつかまえるよりも先に至極まっとうな疑問の言葉を出せたのは、我ながらかなりの成長だと思う。
「何をなさってるんです」
「あの子」
レネットが裸足になって、今にも庭の木にのぼろうとしている。
とりあえず事情を訊ねてみれば、平民よりもずいぶんときれいな指先が、頭上の枝へと向けられた。
「降りられないみたいなの」
「はあ」
猫だ。
テオドールは少女の代わりに木のこぶに足をかけた。ひょいひょいと枝を移って猫をつかまえ、軽やかに着地。地に足がつくと見るや、小動物は腕を抜け出し、あっという間に茂みに消えていってしまった。
「すごいわテオ! ありがとう!」
「お嬢様が怪我をされるよりましですから」
淡々と首を振る。昔、大人たちから逃げるために町中を駆け回っていた頃に比べれば、別に造作もないことだ。
彼が不服だったのは恩知らずな小動物の態度である。礼を言うべきは己の主人ではなくあの猫では?
「せめてその剣を預けてくれればよかったのに。重たくなかった?」
「どうせ興味本位で抜いてみるつもりでしょう」
「ちょ、ちょっとならいいじゃない」
「ダメです」
腕組みして主を見下ろす。こういったことの度に跪いていたら膝がまっ平らになりかねないので、もはや互いに諦めて久しかった。彼らの身長は頭一つぶん以上の差がある。
「こういう時はご自分でやるのではなくて、俺を呼んでください。いいですね?」
「体が先に動いちゃったの。仕事の合間に窓の外を見たらあの子が困ってたから、つい」
「ただの野良猫でしょう。放っておけばいいのに」
身長差がある。それはレネットの側からすれば、意図しなくても上目遣いになってしまうということだ。
「ごめんなさい。迷惑だったかしら……?」
テオドールはますます顔面に力をこめる。今回も彼の鋼鉄の意思は堪えた。
「俺があなたを迷惑と思うことなんて、たとえ世界が滅んでもあり得ません」
「ほんとう? ふふ、嬉しい」
「ぐ……」
決してメイドが言うようなウブではない。付き合いで花街に行ったこともある。だが、主の笑顔を直視するのは何年経っても難しいままだ。
***
ある日、レネットは父親に呼び出された。当然のようにテオドールもついていく。
向かい合って座る親子、壁際に直立不動の護衛。
屋敷の主人の前ではさすがの彼も不遜な態度はとらない。が、やんわりと促された退室は断った。彼にとっての最優先はレネットであり、家に仕えたつもりはないのだ。
「相変わらずの忠犬ぶりだな……。まあ、だからこそかわいい娘の傍につけているわけだが」
おほん、と咳払い。隠居するような歳でもないものの、白髪は少し目立つ。
早くも核心をついたのはレネットの側だ。
「お父様。また見合いのお話ですか?」
年齢も年齢、これまで何度も話はあった。レネット本人が持てる根回し力のすべてを使って破談に持ち込んでいることを、幸か不幸か父は知らない。おおかた、あの謎に小回りのきくメイド長が陰で動いているのだろう、とテオドールは薄々思っている。
「うむぅ……申し出はあったんだが。エドモント公はおまえも知っているだろう?」
「も、もちろんです。本当に? とても由緒あるお家柄ではありませんか」
「二十年以上前、少しだけ融資をした縁があってな。公は奥方様に先立たれて以来おひとりだったが、おまえが、あー、なんというか」
「嫁き遅れ?」
「まあ、うむ、まあ……」
断る度に条件の良い縁談は少なくなる。数々の破談を客観的に見れば、人間性に問題があると疑われても仕方がない。
「だが、えー、大事なのはここからでな。その話は断った」
「え?! そんなありがたいお話、どうしてです?」
目をまるくするレネット。父親は泣きそうに顔を歪め、叫んだ。
「自分より年上の息子だなんて! 公はもう五十だぞ?! 私が嫌だ!」
「……」
「それでその……断るために、えー、もうおまえの婚約が成立したと」
「嘘を?」
「う、うむ……。そうしたら、ぜひお祝いをさせてほしい、今度こちらの領地にくるから婚約者も一緒にと」
室内に緊張がはしる。一つの嘘のせいで、心優しい御仁の良心が大ピンチに変換されてしまった。
レネットは大きなため息を吐く。
「……つまり、結婚相手を急ぎ探す必要があると。そういうことですね?」
がっくりとうなだれた当主に、もはや威厳はない。
話はここで終わりらしい。もちろん彼女はそんな下らない理由なら断るだろう。関心を失ったテオドールがこのあとの業務に思いを馳せていると。
「わかりました」
耳を疑う。紛れもなく……彼女が言った?
「見合いの場を設けてください、お父様。必ずや運命のお相手を見つけてみせますわ」
えっ、という声を慌てて呑み込んだ。全力で抑えつけた結果、奇妙な鳴き声になってしまったのは誤算である。