名前などない
揺れる女の髪はいつもと違って短く、明るい色をしていた。
俺が黒髪のロングヘアが好きだと言ってから、ずっと伸ばしていたくせに、だ。
今まで一度だって染めたことなんかなかっただろう髪は、ついこの間まで肩までの長さがあったのに、今や柔らかそうなライトブラウンのショートカットになって、ぱさりぱさりと動く度に跳ねている。
しっとりと汗ばみ、おくれ毛が張り付いたうなじに口付ける。
肩のあたりに鼻を埋めると、カラー剤の甘やかで人工的なにおいと女の持つにおいとが混ざり合って、無性にうまそうだ。
こうしていると、まったく知らない女を抱いているような気がするな、と俺はどこか他人事のように思った。
俺にはこの女と違うカノジョなるものが別にいるが、女がそのことについて何か言ったことはない。
女が振り返る。
唇を重ねようと顎を掴むと、女はそれを拒むように顔を背けた。
「こういうのは、もうこれで終わりにするから」
「…………は?」
こうして繋がっている今この時にどうしてそんなこと言えるのか。
半ば唖然として腰の動きを止めた俺に、女はなんでもないような顔でつづけた。
自分には新しい男が出来た。そいつは美容師で、頭もそいつがやってくれた。
これからはその男と付き合うから、もう二度と俺に会う気はない。
つまりは、そういうことだった。
今まで俺は一度たりともこの女に「俺の他に恋人を作るな」だなんて言ったことがなかった。
奇妙で、そしてとてつもなく傲慢な話だが、女が俺以外の誰かを好きになることなど想像もしていなかったのだ。
初めは抱き寄せるたびにぎこちなく身体を強張らせていたくせして、今では彼女の身体は他の誰よりも俺の手に馴染む。
それなのに、今さら俺から離れていこうというのか。
自分が考えたことに苦笑がもれる。
そんなこと、俺の言えた義理じゃない。
犬のように後ろから女に覆いかぶさっていた俺に、女は前からがいい、と言った。
最後くらい好きなようにさせてやるか。
そう思い、体勢を変えて彼女を抱き直すと、女の白い腕が蛇のようにするりと俺の首に巻きついた。
女の手首は折れそうに細く、その華奢な手首におなじく華奢なとても小ぶりの腕時計がいつも巻かれているのを、俺はひそかに気に入っていた。
女の手がくしゃくしゃと俺の髪を乱す。
女と違ってカラーリングを繰り返してきた俺の髪は、痛んでぱさついているはずだ。
ん、ん、と小さく声を漏らしながらも、頬にゆっくり手を当てられ、唇を押しつけられた。
口を開け、舌を絡める。
女のどこもかしこも、それこそ口付けを落としていないところがないくらいだったのに、こうしてキスをすることはほとんどなかったな、と思いだす。
馬鹿みたいに互いの唇を貪って、ようやく顔を離したとき、女の瞳は潤み、唇は赤く熱を持っていた。
何度も何度も見たはずの女の顔。
そのとき、胸に何かをねじ込まれたような急激な苦痛を感じて、俺は思わず一瞬動きを止めた。
女が何度か瞬きをして、俺を見ている。
ああ、俺はこの女が好きなのだ、と。
地味で、我慢強く、そして時折こちらがはっとするほど胸をつく表情を見せる女、しかし数時間後には俺と何の関係もなくなるこの女のことが、俺は 好きなのだ、とようやく気づいた。
どこかせつない声をあげて達した女に少し遅れて、俺も女の上にくずおれた。
上下する胸と胸。直に伝わりあう体温と汗。
しばらくしたら、女はなんでもないような顔をして服を着て、俺の部屋を去り、そしてもう二度と訪れなくなるのだろう。
その時、最早俺たちの関係に、名前などありはしない。
そろりと女の腕が解かれていくのを感じながら、俺は静かに目を閉じた。
The End