心の浅瀬
童話を書きました。
かつ――と鳴り、不規則に、かつ――――とまた。乾いた音響は伝って、ごうごうとにごった音のする風の向こうへと消えていきます。ゆらゆらとうす暗く、黒い水面には妖しく光輝を揺らめかせて、小船は行きつ戻りつしています。
小さな船は洞窟の浅瀬に閉じられています。複雑に入り組んだ岩場に断ち切られて、海水はその辺りに止められ、果てのないように見える奥には硬い地面が連なっています。わずかな隙をぬって侵入した波へと上下する小船が前進するたびに、塞がった前方の岩を小突いているばかりでした。
洞窟には粘り気のおおい海水がゆったりと重々しく押し寄せます。薄闇に動物の気配はありませんが、青白く発光する菌類は洞窟のすみずみに点在していて、妖艶に輝きを与えているのでした。
かつて迷い込んだ小船は、大潮の勢いに押されていき、複雑な浅瀬を掻い潜っては奥まってしまいました。しばらくは閉じられた海面をぐるぐると泳いでばかりいましたが、ちょうど小船ほどの狭さだった唯一の出口も、徐々に岩場が削られていき崩れてしまいます。海岸から訪れ、寄せては返していく波によって、狭まった岩場は広がっていくはずなのでしょうが、皮肉にも柔らかく溶け出した岩の表層は粘っこい土砂となり、すぐにつながってむしろ出口を塞いでしまうのでした。崩れた岩場は、悪意にけしかけられた様子でしだいに小船を羽交い絞めにしてしまい、長い間離しませんでした。
洞窟を満たした浅瀬の波は、ヘドロにまみれたねっとりとした重たい海水でした。世界からは劇的に生命の環が失われており、ありとある死骸が、かつては生命の巣であった海に、生きとし生ける者たちの息吹を絡めとるように増えていくのでした。死骸は死骸を止めどなく呼び寄せていき、ヘドロの海は腐臭を放つばかりでした。腐敗を好む生物だけが、しだいに、遥か大海を満たしてしまっていたのです。生命は死に絶え、細菌が毒々しげに漆黒を塗り込めていくばかりでした。
*
おじいさんが初めて子を持ったまだ若かりし頃、初めて子を持つには歳遅く、自身でも孫と祖父のような感情の芽生えから始まっていきました。子であるはずの二人の子宝に恵まれ、あたかも、歳の差や関わりにおいての一つひとつの体温からは、孫に対するそれらのように、時に甘やかし、時に包み込むような態度で実の子である二人の兄妹を妻と共に育て、暮らしていましたが、それでも、時が過ぎて実の子たちの産んだ孫たちには、あれほど溺愛していたはずの子たちには抱かなかったほどの、愛情を抱くことになりました。それはとても不思議な感覚でしたが、やはり、「孫を持つ、ということの特別さには敵わないものなのだ。」と、妙に腑に落ちるようなことでもありました。
とりわけ、実の娘夫婦に産まれた初めての孫には、その後恵まれたその他の孫たちよりも勝る、いっそうの愛情を抱くこととなり、それは最期まで変わることはありませんでした。その、初めて持った孫が、小船の玩具を買い与えた男の子でした。
おじいさんは代々、海辺のひなびた町に暮らす一族で、海は町の子にとっては当たり前に隣り合う何よりの遊び場でした。
孫に対する愛情はいかなる時も有り余るほどに抱いてはおりましたが、それとは別のことで少年に何となしに買い与えたはずの、何の変哲もない少年の手には大きくは感じられるという、小さな船の玩具が、おじいさんの思いもよらぬほどに、たいそう悦ばれ、少年にとっては常日頃持ち歩くいちばんのお気に入りとなりました。
初めはおじいさんも、小船に対しそれまで買い与えていた様々な玩具とさして違いを感じたことなどありませんでしたし、気にもとめることはありませんでしたが、少年が小船ばかりを気に入り、肌身離さずでいることを目にし、そんな日々が重なるうちに、他と変わりのなかったはずの玩具をとりわけ意識にのぼらせてしまい、いつしか少年と同じ気持ちを始まりはゆるやかに、気づいてしまえば大いに思い入れて抱くようになってしまいました。
あれほどに大切だった宝物を、少年は失くしていました。「海岸で遊んでたら」と、さして悪びれず告げて、それから数日後には新しい玩具へと、もう忘れてしまったように乗り換えてしまいました。
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こぽ、こぽと音の連鎖は続いていきます。平らかな岩場にはゆったりと粘り気の多い水気が滑り、その勾配をじんわりと洗っています。岩の表面をつついていた足の鋭く尖った親指の爪に黒くて重々しい飛沫が届き、飴色に褪せた爪の根もとからゆるりと落ちて岩肌へと戻ります。
一日の終わりを知らせる、ふくよかなほどの数多の色彩を織りなした鮮やかな陽差しが重々しく雲の層を塗り込めた空の最奥から滲み出して、くすんだ金属のように色づいた薄紫の肌の表面を鈍く光らせていました。頂点にかけては分厚く隆起した藤色の足の甲へと、舞い戻った波の黒の連なりが付着して、五指のやつれた根もとまでねっとりと伝い下りていきます。
人間の、子どもほどの体躯をした子鬼が夕闇の中にたたずんでいます。複雑な色彩が広がるなかで一筆書きの単色がすっと引かれた、藤色の全身の肌を露わにしては何も身につけず、他には額の中央へと夕陽を映した白いツノがひとつ弓なりに突き立っていて、ざんばら髪は柔かな金色を湛えています。
つるりとした大小の岩が浅瀬を満たして、後方の洞窟まで続いています。
低く垂れ込めた分厚い雲が空のほとんどを塗り込めています。低空を満たした目くるめく変幻が突然単一の深みへと転じていき、雲の裾より滲んだ紅は刹那極まって、以降色褪せては一途に闇へと落ちていきました。
子鬼が生きていることは、世界が終わりを迎えようとしていることに他ならないのです。重たい雲は老い先の短い世界の瞼のように、大空を閉じようとしているのでした。
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大人になり自分もやがて同じように年老いて子や孫を残していくのだと、そしてそのようにしおえたのだと、大人になった少年はこれまでの長く過ごした日々を思い起こすのでした。夜も更けて、月明かりなど漏れ出す余白のほとんどない、深い闇。おじいさんのくれた小船への悲哀、うっすらとした後悔と甘い想念がただひとつ浮かんでいました。
判別不能の大気から黒々とした大海の肌だけがわずかな光を照らしていました。波音とは違った叩くような音が海面から聞こえてきました、突然稲光が閃いて分厚い雲から透けていました。雷鳴が遅れて騒ぎだすと、また稲光が連続していきます。その瞬間だけ世界は仄青い光を放ち、むしろ闇が際立って見えるのです、雨が降りていました。
おじいさんはもうとうに亡くなりました。無論、大人になり、そして年老いていった少年もまた、おじいさんと過ごした少年時代から百年が過ぎたこの世界にはいなくなってしまって久しいものでした。
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かつ――かつ――――。
菌類の輝かせる青白い照明が、ぽわん、ぽわんと浮ぶ闇の中で。まるで舳先のツノでした。小船の舳先は極端に尖った構造をしていました。ただ、長い間の衝突の繰り返しで鋭角も丸みを帯びているのでした。コツコツと地道に、しかし小船は攻撃を止めることはありませんでした。ひと突き、ひと突き、一日、そして幾星霜を経ながら、眼前の障壁にめげず、飽きたらずに、削り取り、止まっているかのように見える前途を、地道に、掘り進んでいきました。ただの玩具にすぎぬ物でしたが、しかし金属の部品が使われていることはただひとつの幸いだったのかもしれません。
いよいよ、悠久の時をまたぎ小船を閉じていた岩石の障壁は、左右を内からくり貫かれ、薄い殻のように番っているところにまで迫っていました。重たげな黒い波が寄せ、途端、番の片側が砕け、その破片が小船のすぐ真横を勢いよく通り抜けて、直後沈んでいきました。引き潮に乗り、開いた方の扉へと舳先から船体が押し込むように侵入していきました。すると、もう一方の番を衝撃が打ち破り、今度は引き潮がその向こうへと破片を押し流してしまい、小船の前方へ、沈んでしまいました。ほとんど同じ幅でしたが、重たげな波の勢いは、潤滑油のような役割で小船を突破させてくれたのでした。
いよいよ、遥か大海へ。入り組んだ暗い洞窟内の浅瀬を久方ぶりに進んで行くのです。
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ちゃぷ、ちゃぷ、と漂流物が海面を鳴らしていました。
暗く重たげな雲に覆われて久しい世界の朝。薄闇の空の下方に、わずかな光明が黒い海の肌をキラキラと輝かせる一瞬です。光は足もとの岩場へと伸び、下方から藤色の肌がじわじわと色づいていくのでした。
子鬼は、背後の波音から、普段とは違ったすこし甲高い飛沫の音を聴き取っていました。ぬぅっと振り向き様に、ガタガタに破損した、しかしひと目で見覚えのある漂流物を洞窟の境に視認して、同時にその玩具へと釘付けになってしまいました。
途端、子鬼は気づいたのでした。自分は、とうに死んでいるのだと。あれはかつて、自分にくれた思い、あの、おじいさんのくれた小船の玩具なのだ、と。言いようのない感情のせいで、正直な言葉もかけられず、放り投げることしかできなかった、少年らしい、あるがままの心を、心残りを。しかし生き場をなくした喪失感は、少年の胸に、同じく、おじいさんの胸に、ずっとしつこく、離れずに突き刺さったまま、知らぬ間に世界全体の怨念のように広がりきってしまっていました。子鬼は邂逅して、拠り所を得ます。ああ、自分は、怨念に産まれ、捉えられ、あの拠り所より、ずっと乖離しては、放られたままだったのだと。すっと、何もかも解りました。ようやく、世界は、感情のはけ口を知りました。世界は再び、新たに生命の息吹を知っていくはずです。
突然のことでした。空の中央から、明々とした光輝が生まれていました。子鬼は、世界へと溶けていく自分とその、久しく溜め込んでしまっていたイメージを知っていました。
ゆるやかに雲は重なりをほどいていき、久方ぶりに世界に、まばゆい光明が差しているのでした。