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てるてるぼうずは泣き濡れた

作者: 飴坊

 首を吊ったことはありますか。僕はありません。より正確さを求めるとするならば、記憶の中には無いと言いましょうか。

 よく使われる死に方だと認識しています。自殺、他殺、死刑、それなりに多くの実績があるからこそ、平凡に生きた僕らにも親しまれている死に方。その苦しみが一体どれほどのものなのか、残念なことに僕は正しくお伝えする言葉を持ち合わせていないのです。

 母の顔を覚えています。父の顔を覚えています。兄弟もいました。優しい言葉を何度も頂いた気がします。しかし僕は、それ以上の何をも思い出そうとしません。今僕は、何処か見覚えのない場所で軒下に吊るされています。

 もっとも古い記憶は、既に色褪せてはいるものの僕がここに吊るされた瞬間の映像です。男の子が、僕の首に繋がれた紐を結んでいました。その後ろから、小さな女の子が期待を込めた眼差しで僕を見上げていました。


「これで大丈夫だね、お兄ちゃん」


 明るい女の子の声に頷く男の子の顔は、酷く退屈そうだったと思われます。訝しげに僕を睨みつけて、諦めたように鼻を鳴らしていました。

 その後の二人の会話はとりとめのないものでしたが、どうやら彼らは来たる運動会の日に晴れることを望んでいるようでした。その一歩間違えれば兄妹喧嘩に発展しかねない言いあいは、しかし僕にとって中々清涼な味わいになりました。互いに遠慮なく思ったことを言いあえる仲というのは──本人たちにとっては当たり前のものでも──傍から見ると羨ましいものです。その幼さに準ずる素直さに、僕はしばし、あるかも分からない耳を傾けていました。

 どうやら自分はテルテル坊主にされているらしい、僕は彼らの話し合いからそういう結論を出しました。その突飛な考えを僕は理性的に幾度となく否定しましたが、状況証拠的にあまり間違っていないように考えられます。手足を動かすことは叶わず、目線さえほとんど変えられません。風に吹かれて、ありきたりの環境音と変わらぬ風景を眺めることしか許されないのです。

 不自由さは僕を哲学者にしました。あるいは芸術的思想家とでも名付けましょうか。何故、人間であったはずの僕がこのような何処かもわからぬ軒下に吊るされているのか。これは果たして夢だろうか。いやいや、ひょっとすると人間であったことこそが夢かもしれない。

 思索は少しのお巫山戯を含んでいましたが、それは紛れもなく孤独と閑散を誤魔化すためだったのです。

 それを幾度繰り返しても、結局僕は軒下の馬鹿面に過ぎません。ただ数少ない慰めは、学校に向かう兄妹の姿を眺められることでした。いつも仲良くとは言わず、むしろ喧嘩腰の時が多いくらいだったかもしれませんが、その遠慮のなさは大いに僕を喜ばせたのです。

 時に、妹の方が僕を見つめて祈る様にお辞儀をすることがありました。もちろんお辞儀を返したり、まして言葉で答えたりはできっこないのですが、そんな時僕は何とかしてこの身に与えられた任を成さねばならないと思うのでした。大袈裟かもしれませんが、使命感を抱いていたのです。

 ただ悲しいかな、僕はテルテル坊主でありながら少しも天気に干渉など出来ませんでした。僕がこの姿になってからというもの、見たのは雨かどす黒い曇り空だけ。

 自らの無力を嘆く時間は、途方もないほど長く感じられるものです。他に気を紛らわすこともないのだから、なおさらでした。天に祈れど、地を睨めど、一点の光も僕を照らすことは無いのです。悲しみに甘えて涙を流すことさえできない、静謐な地獄に僕は囚われました。はじめは慈悲の女神のようだった女の子の視線さえ、徐々に罪人を蔑む目に思えて来るのです。

 時々当たる雨粒が、朝晩の冷えた風が、少しずつ僕を蝕んでいきました。そしてある夜、僕を縛り付けていた糸がほつれたのか、ぽとりと僕は落ちました。濡れた混凝土は冷たく、寝そべった視線はこれまで以上に鬱屈したものに変わってしまったのです。

 状況は悪化したように思われましたが、僕には一つ希望の種がありました。きっと朝になれば、気づいた女の子が兄の男の子に頼んで僕をあるべき場所へ戻してくれると。その折に、もしかするとあの小さいお辞儀をしてくれるかもしれない。きっとその瞬間は、僕にとって至上の喜びになることでしょう。

 その想像が、辛い夜を過ごす最大の糧になりました。男の子のほうだって分からない、少しだけ素直になって、僕に一縷の望みをかけてくれるかもしれない。そうしたら、何が何でも運動会の日は晴れにしてやろう。この身のすべてを捧げてでも、一日の晴天をもぎとってやろう。根拠もないまま抱いて決意にすがりついて、僕は夜を明かしました。

 次の朝、軽い足音が柔らかい土を踏む音を僕は待ちました。ぽつぽつと降る雨がビニール傘に当たる音を、僕は待ちました。過ぎ去った足音を数えては、今のは母親がゴミを出す音、今度のは父親が勤めに出ていく音、そう自分に言い聞かせて待ちました。

 何度目か、高い声と一緒に出てくる足音が聞こえ、僕の心は躍りました。もし心臓があったのなら、胸を突き破らんばかりに早い鼓動を打ったでしょう。愛と言うほどのものではないですが、無機質で無価値な自分に人が振り向いてくれるその瞬間を、僕は求めてやまなかったのです。

 布切れで出きた身体は、傷つこうと苦しむことは無いのです。普通ならそれは幸運なことのはずなのですが、なまじ自分を人だったと思い込んでいる僕には受け入れ難い現実でした。痛まないことに苦しむ、矛盾した苦悩は孤独によって何十倍にも膨れ上がっていました。

 だから僕は、声の出ないまま叫んでいました。拾ってくれ、僕を見つけてくれと。そのまま捨てるだけでもいいから、もう一度僕を見て欲しい。行き場のない思いは、しかし僕の力には変わることはなく。

 女の子は、僕に気付くことなく歩いていきました。あどけない声と長靴の音だけが、僕の孤独を抉るようにただ流れて過ぎ去りました。無邪気なる残酷さ、咎めるべきではないでしょう。

 声は出せず、震えることもできず、僕はただそこに転がっていました。世界のすべてから見放された孤独は、僕から意志さえ奪っていくように思われます。永久にも感じられる時間を、僕はそのまま過ごしました。

 その次の日も、雨でした。僕は相変わらず地面に伏したまま、ぼうっと狭い世界を見つめていました。僕が感じられる世界は、小さな住宅地の庭のほんの片隅だけになっていたのです。いつかの、もう薄くなり過ぎた人間だった頃の記憶を思い返していました。夢だったようにも思えるその時間は、過剰なまでに美しく脳裏に蘇るのでした。

 悲しみは、時間が癒してくれるものでしょうか。人であったころはそんなものだったようにも思えます。しかし、今の僕には新たに記憶を塗り替えてくれるものが無いのです。新たな喜び、新たな悲しみさえ、与えられることがない孤独の牢獄。絶望しても、もう首は吊れません。

 混濁した意識の中で、僕は顔に流れる雫を感じました。涙を流せるはずもなく、それはきっと雨だったのでしょう。布の顔の感覚など、信じられるはずもないまま僕は濡れていました。このまま消えていくのなら、それでいいと思えました。使命も果たせず、誰一人に思い出されることも無く終わりを迎える。相応しい末路、そう笑う自分の声は忘れていました。

 雨の音が遠くなり、閉じられない眼にささやかな光が飛び込んだ時、僕はもう自らが永くないことを悟ったのです。これで終わりだと、分かっていました。


 ※


「晴れたよ、お兄ちゃん。テルテル坊主が仕事してくれたんだ!」


「晴れたけどさ、意味無いんだよな」


 諦める声を出すことに少しなれた少年は、無邪気に笑う妹を眺めて呟く。連日の悪天候でグラウンドが機能しないことが察する程度に、もう大人になってしまっていた。

 濡れてぼろぼろになったテルテル坊主を、素知らぬ顔で太陽が照らしていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 書き出しの一言から引き込まれて、最後の一文まで余すことなく堪能させていただきました。 困惑とささやかな喜び、無力を呪う自己嫌悪な感情。 落下して僅かに膨らむ期待と決意、裏切られたときの深い絶…
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