五話 『人当てゲームという理不尽』
それはタレムが、とある事情で借り宿にしている馬小屋の扉を開いた時であった。
「ああ~あ。くそ。負けた負けたまた負けた。流石は俺、敗北王だよね。ハハハっ。……風呂沸かすか。いや、その前に腹が減ったしカエルでも探して来るか」
誰も見ていないと思いタレムがそんなことを口走ると、
「お帰りなさいませ。タレム様。お風呂の準備は出来ておりますよ? それともお夕食に致しますか?」
「……」
まるで絵画の中から出て来たかのような、美しいセミロング紅髪少女に正座で出迎えられた。
「……ん? どうかなさいましたか? 私の顔に何か?」
「……い、いや」
着ている服装が、アルザリア帝国では上級貴族御用達の和服と言われる振り袖。
紅葉模様がお似合いで、タレムは一瞬、見とれてしまっていた。
何時もなら、すぐにでも口説きに行くところだが、この少女にはそれが出来ない……。
「フフフ。どうなさいますか? 外の釜風呂にお湯を張っておりますが……ハッ! やはり、先にお夕食に致しますか? そちらもすぐにお出し出来るようにしておりますので。何なりとお申しつけください」
「あ……ああ。じゃあ、先にお風呂に入って来ようかな」
「はいっ♪ では、只今、準備致しますので」
「……準備?」
ということで、数分後。
タレムは和装少女に背中を流されていた。
……気持ちい。
「お加減は、如何でごさいますか?」
「うん? 好い加減だよ」
「それは、ようございました♪」
和装少女は、穏やかに微笑むと、高級な石鹸を泡立てた細くなめらかな指で、タレムの身体を洗っていく。
上から下まで全て。
……前をやろうとした時だけ、
「わぁ……これが、タレム様の」
と、もごもご呟いたが、そのあとは慣れた手つきで、タレムの身体を洗いきってしまった。
そして、
ざーぶーんっ!
タレムは和装少女が沸かしてくれたという釜風呂に身体を浸からせた。
「お湯加減は如何でございますか?」
「好い加減だよ」
「それはようございました♪」
和装少女がタレムの言葉に一々大袈裟に反応する。
それを見ていると一服感。
(さて……じゃあ、そろそろ)
タレムは本当に気持ちいい湯加減で癒されながら、火を調節している和装少女に質問する事にした。
「ところで……お嬢ちゃんは何処の誰かな? 身なりが相当良いみたいだけど」
そう。ここまで至れり尽くせり、されたあとで、悪いとは思ったのだが、タレムは少女の事が全くわからなかった。
「……え?」
煤と汗と泥に汚れ、高級な振り袖を捲ってシワを付けてまで、楽しそうだった和装少女の顔が、困惑色に染まっていく。
絹のように真っ白な肌と無垢な瞳が、高貴なお家の御令嬢で、蝶よ花よと、とてつもなく大事にされていたであろう事は伺える。
今は召し使いじみた事をしている和装少女だが、普段は絶対にこんなことはしないであろう。
……悪いとは思っている。
「……いやね。お嬢ちゃんが、俺を知ってるみたいだから、誰君? とかちょっと言い出しずらくてさ」
「タレム様……お兄様から――ッ。……いえ、私が……わからないのでごさいますか? 忘れてしまったのでございますか?」
和装少女の顔がみるみる青く染まっていく。
今にも泣き出しそうだ。
……向こうが知っている素振りなのだ、タレムも少し話せば思い出すかも知れないと思ったのが失敗だった。
「うん。ごめんね……全然、わからない」
「そんなっ! それは……あまりにも……っ。残酷でございまする」
タレムはアルタイル家の次期当主だった頃、こういう高貴な御令嬢と顔を合わせたした事はある。
だが、その記憶を全て掘り返そうとも、汗と煤と泥塗れになってもなお、神々しささえ感じる程、清楚で美しい和装少女の記憶は思い出せなかった。
(というか、こんな器量の良い少女、そうそう忘れないだろ!)
つまり、
「人違いじゃね?」
「タレム様ぁ~~っ。私が貴方様を見間違える事は万に一つも有り得ませんよぉ~」
「……」
「タレム様~ぁぁ。もう本当に……思い出してはいただけないのでしょうか?」
(と、言われても……はてさて)
……誰だろう。
全く持ってわからなかった。
だが、そこはハーレム王を目指す男、タレム・アルタイル。
自分に縋って泣きそうなレディーの為に、ちょっと頭を捻ってみることにした。
というか、色々やらせた手前、断れなかったというのが本音。
(ええいっままよ! 記憶を探っても思い出せねぇ。なら、別の角度から行こう……)
こう言う時に便利なのが、タレムの魔法である。
《光速思考》発動!!
トーンっ。
世界の時間が百分の一倍速となった。
(身なり、仕種、言葉使いから醸し出る貴賓の高さ! それらを総合的に考えれば、和装少女は超上級貴族の箱入り娘であると仮定出来る。爵位は候爵か公爵くらいか……ん? 公爵?)
そういえば、和装少女の完璧を超えた容姿には見覚えがないが、灼熱の炎の如き紅い髪は見覚えがあった。
それはアルザリア帝国、英雄の末裔、三大公爵が一人、グレイシスの血筋にそっくりではないか!
そう、タレムの親友である、イグアスの系譜だ。
(そういえば、さっきイグアスがなんか言いかけてたけどあれってこれの事か! そうだよ。きっと間違いない。だとすると……この美少女は……まさか)
タレムはグレイシス家と特別仲が良いが、その血筋で知っている女児は一人しかいない。
……だが、その女児は、もっとまるっとしていたようなぁ~
(でも、他にいないしな。よし! 覚悟を決めるんだ!)
と、言うことで、時間の流れを戻し、泣き出しそうな和装少女に、
「なぁ~んてね! 嘘だよ。マリカちゃん。三年ぶりだね。会いたかったよ! 大きくなったね!」
イグアスの妹。マリカ・グレイシスの名を呼んでみた。
「――ッ!」
(……どうだ!? どうなんだ!! 当たりかハズレか! どっちだ!)
……タレムが魔法を使ってないのに関わらず、とても長い一瞬を体験した後。
和装少女は……
「フフフ」
ホッとしたように微笑んで、
「もうっ! タレム様は、いつも意地悪をなさいますね。今回は、本当に、お忘れになられてしまったのかと思いましたよ?」
この言葉で、マリカちゃんであると確信した。
「私、今、タレム様に忘れられてしまっていたならば、舌を噛んで死んでしまおうかと思っておりましたんですよ?」
「ハハハ、でも、死ぬなんて冗談でも良くないよ?……」
「いえ、冗談ではありませんので」
「……え?」
「本気でしたので。……お願いですから、このような御冗談はお止めくださいませ」
「……ハハハ」
「お忘れなきように」
「……」
マリカの瞳は無垢だからこそ、本気だと分かりやすかった。
タレムは危うく、親友の妹を死に追いやってしまうところだった。
と言うか、マリカの声から抑揚が、表情から微笑みが消えて……
「お忘れなきように」
「と、とりあえず。マリカちゃんも汚れてるし、お風呂に入りなよ!!」
……淡々と同じ言葉を同じ温度で繰り返されると、
「お忘れなきように」
「ひぃ――ッ! お、俺でてるからね! 話はマリカちゃんが綺麗になった後で」
……怖い!!
「お忘れなきように」
「ひぃ――ッ!」
この時のマリカの言葉に、タレムは暫くうなされたという。