六話 『妹のお見舞い』
消毒液の匂い。鉄の味。白い部屋。ふかふかの布団。誰かが動く音。
それが、タレムが目を覚まして一番最初に感じたものだ。
そして、
「兄さん。起きたのですか?」
「……クラリス」
ぼーっとしているタレムに、すぐ、落ち着いた少女の声が掛けられる。
「大丈夫ですか? 凄い怪我だったんですよ?」
「……」
声を掛けたロングストレートの少女は、白黄色の長髪を靡かせながら、タレムの身体をそっと起こしてあげる。
その介抱に慣れた手つきは普段からそういう事をやっているからであろう。
何より、その少女がタレムの介抱には一日の長があるのだ。
なぜなら、
「兄さん……?」
「誰が……兄さんだ!」
「……じゃあ、兄さんじゃなくて良いです。さようなら」
「え? 嘘! 嘘だよ! クラリス! クラリスは俺の可愛い妹さ!」
と、言うように、タレム・アルタイルの義理の妹。
クラリス・アルタイルだからである。
「ふふふ、起きて早々悪ふざけはダメですよ?」
「ご、ごめん」
アルザリア帝国学院医療科に所属しているクラリスが、怪我をしたタレムの為に用意した個室。
タレムの冗談に怒り、そこから出ていこうとするのを辞めて、微笑んだ。
その微笑みは、穏やかで、タレムが兄だからこそ、向けられる笑みだった。
「これを」
そんなクラリスは、切り分けた林檎を皿にのせ、そっとタレムの膝に置く。
「また、負けたんですね? 敗北王さん」
「それ、マジで辞めて」
「相手は?」
「……アイリス・クラネット」
「……そうですか。あの人はまた」
ボソッと何かを呟くが、それ以上は声に出さないクラリスの横で、タレムは林檎を一切れ頬張った。
「……んッ」
……可愛い妹が、タレムの為に切り分けた林檎。美味しくないわけ無いのだが……唇を切られたタレムにはとても染みる。
「これ……お見舞いには間違ってない?」
「お見舞いでは無いですから」
「……え?」
クラリスは真顔でそういうと、タレムに手鏡を渡して、
「治療がしっかりと出来たかの最終確認です。下唇を半分以上を食べられた。なんて時案、経験無いですから。私の魔法、《再生光でも、完治させられるのかが分かりませんでした」
「……」
言われて手鏡を見ると、アイリスに噛みちぎられた下唇は、完全に元に戻っている様に見えた。
「ふふ、その様子では大丈夫そうですね」
「なんだよ……」
「でも、兄さん。その程度だったから、治せただけですよ? ちぎれた肉体をくっつけるのと、一から生やすのでは全然違います。身体にも悪いですし、できれば、肉体は食べられずに拾って帰って来てくださいね?」
「そんなゴミみたいに言わないでよ。俺だって、喰われたくて喰われた訳じゃない。というか普通、食うか?」
「……さあ? 私は兄さんの肉体ぐらいなら食べても良いですよ?」
「え?」
アイリスは元々、意味の分からない言動する為、キスも、そのあとの補食も、猟奇的だがぎりぎり理解できた。
……それをクラリスが?
――ぎゅう。
そんなふうに困惑したタレムの頭を、クラリスが優しく抱きしめる。
「ふふ、私の方が兄さんを愛していますよ? と、言うことです」
「……ん?」
「こっちが、本命のお見舞いです」
「――っ!」
――ふかっ。
それはクラリスの胸にある、たゆんな膨らみ。
天国の様な極楽の場所に顔面が包まれる。
「兄さんだからですよ?」
「クラリスっ!」
――ぎゅう!
優しく囁かれる妹の声に、男の本能が刺激された兄が、貪る様にクラリスの背中を抱きしめて、胸の膨らみを堪能する。
「ふふふ。兄さんは(私の事)大好きですね」
「うん。兄さんは(クラリスのおっぱい)大好きだよ!」
ぐりぐりぐりぐり、ぎゅうぎゅう。
「もう、兄さんは本当に私がいないとダメなんですから……」
「……ぐへへ」
「ずっと、私の隣にいてくださいね? 何があっても……ですよ?」
「ぐへへ」
「勝手に死んでしまったらダメですからね?」
兄と妹の美しい兄妹愛。
誰がどう見ても、タレムとクラリスの中は睦まじかった。
そんな感じで……。
タレムがクラリスの胸を味わってから、気持ちを落ち着かせて、
「そういえば、クラリス」
「なんですか? 兄さん」
クラリスの胸ではなく、白黄色の髪を撫でる。
兄に頭を撫でられる事が好きなクラリスは、タレムに身を預け、寄り掛かりながら、話を聞く。
「俺さ、明日から自分の領地に引っ越す事にしたんだけど。クラリスも一緒に来ない?」
「――ぁっ」
――ピクン。
急にクラリスの肩が跳ねて、潤んだ瞳でタレムを見つめた。
「兄さん。もしかして、誰かと結婚するお積りですか?」
「ん? うん……するよ。騎士だからね。結婚しないと、貴族としての箔も付かない」
「……。誰とですか!」
「え? ……マリカちゃんだけど」
――ぎゅう。
それを聞いたクラリスは、頭を下げてタレムに抱き着き、顔を身体に押し付けた。
表情を隠したいのだろうが、肩が震えている。
タレムはそんなクラリスの肩に手を置いて、
「大丈夫。誰と結婚しようと、クラリスは俺の妹だよ。あの約束は変わらない」
「……はい。ずっと、兄さんを待っております。兄さんの夢、叶えてください」
タレムが家を出るとき、クラリスと、とある約束をしている。
それは、タレムが自立出来る様になった時、アルタイルの名を捨てて、一緒に暮らそうと言うもの。
そんな約束をクラリスとタレムはしているのだ。
「え? 良いの? クラリスはハーレム、反対だったんじゃ無かったっけ?」
「良いんです。兄さんが折角、歩き出したんですから。王女様とのコネクションもあるようですし、不可能ではないなら、私は応援しますよ?」
「……ほんと?」
「はい。兄さんは、たった一人の兄さんなんですから」
顔は上げないが、その声は澄んでいた。
嘘ではないと、タレムは思う。
だから、クラリスの背中を撫でながら、
「じゃあ、クラリス。約束通り、もう、一緒に暮らそうよ? 領地に来てくれるでしょ?」
「……それは。……まだ、早いです。兄さんの夢にはアルタイルの名はまだ必要です。それに……今は」
「……今は?」
「いえ。兄さんは気にせず、領地に向かってください。私は大丈夫ですから」
「……」
貴族には色々なしがらみがある。
それは、中から力でぶち壊せる様なものではない。
順を追ってゆっくりと解いて行くものなのだ。
タレムが騎士の階級を一つずつ登ると同じように……
「うん。わかったよ。でも、何かあったら……いや、何もなくても良いから、辛くなったら俺を頼って良いんだよ?」
「はい……兄さん」
その後も暫く、クラリスが顔を上げる事はなかったのだった。




