八話 『第一印象は大事です』
大量の水分を含んだどろどろの地面。
そんな地面に沈み、放置され、腐りかけた名も知れぬ亡者たち。
飛び交う鉛の矢が、阿鼻叫喚の地獄絵図を描いている……。
約五か月の旅路を越えて、タレムと彼の白銀騎士団のべ一万人がたどり着いたのは、広大な湿地帯の前であった。
今回の目標である《精霊の国》は、まだ少し先だが、帝国兵が布陣している様子を窺えば、どうやら、ここが、最前線のようである。
……予想していたよりも、遥かに進攻が遅い。
「コレが……戦場……っ」
「……」
初めて見る生の戦場の凄惨さに、隣のノーマが言葉を失って委縮している。
ちらりと振り返れば、兵たちのほとんどが、ノーマと同じような反応を見せていた。
「団長……これから、私たち、あそこに……」
それを想像し、あまりの恐怖に、途切れてしまったが、続く言葉は想像に難くない。
「入っていくのかって? 大丈夫。今日は、まだ。入らないよ」
「……っ」
急に決まった昇格で、急遽、集めた兵隊たちだ。
頭数だけはそろっているが、戦場慣れしていなのは当然で、有象無象といっていい。
……しかし、それは重ねて当然のこと。
本来、新造騎士団は、もっと小さな戦場で経験を積むものなのだから。
(だからこそ、高いかねを出して、歴戦の傭兵をかなりの数、雇ったんだけどね……そっちを主体にして戦略を練らないと、しばらくはノーマの戦闘能力も当てにできなさそうだな……)
「まずは、ここの指揮官にあいさつに行かないと……本陣はっ……と、あっちか」
ノーマに騎士団をその場で常駐させるよう指示を出し、タレムは一人、本陣へ向かう。
部下の手前、自分の心を掌握し、平静を装うタレムだが、背中に欠く不快で不健康な汗を止めることはできていなかった。
……騎士失格である。
しかし、タレムもまた、これが初陣であった。
――ガッッ!
「っ!」
そんなタレムが、明らかに普段より強張った顔つきで、本陣へ向かっていると、何か硬いものに躓いてしまった。
転びそうになるが、そこは騎士、とっさに湿った地面に平手を付いて、華麗に前転を決めて態勢を立て直そうとする……が、その手を、
「ふんっ」
――ガッッ!
何かに……否。
何者かが、金属性のブーツで払い飛ばした。
「なぁぁぁっ!?」
前転をしようとしていた途中で軸を失い、そのまま、だらしなく背中から転ぶ。
どてんっ。
視界が反転し、灰色の分厚い雲海が真上に見える。
同時に、キラキラと蒼宝石のように輝き、そよ風に靡く長髪が見えた。
「うふふ……っ。あら、タレムじゃない? ねぇ。なんでそんなところで寝ているの? 新しい性癖? 馬鹿なの? 死ぬの?」
そこに、地に背を付けるタレムを、のぞき込む、小悪魔のような笑みを携えた少女が一人。
……アイリス・クラネットである。
「ねぇ……アイリスちゃん。いくら人を罵倒したいからって、無理やり口実を作るのは、むなしくない?」
「くす。――まったく。大体、あんなの、ぼうっとアホ面さらして、歩いている。アンタが悪いんじゃない。 転ばせてくれって言っているようなものでしょ」
いい性格だ。
……そういう所も、タレムの特殊な性癖を刺激する。
「アイリスちゃん。早く、そのスレンダーなお腹に俺の子を孕んでくれ」
「どういう思考回路を通ったら、そういう発言になるのか、まったく理解できないし、したくもないけど、一つだけ――」
――気持ち悪い。
アイリスが、そう言って、タレムに唾を吐き捨てた。
べっどりと、ただでさえ、泥で汚れているタレムに、アイリスの痰が絡まった唾がこびり付く。
「くそっ!」
「ふぅん? いっちょ前に、怒ったの? でも、今のアンタの方がいい瞳をしてるわよ」
「そりゃそーだよ! だってっ、こんな屈辱的な辱めをうけても、アイリスたんの体液だと思うと、俺、ご褒美にしか、思えないんだっ!」
「キモ」
最後の言葉を言ったアイリスは、汚物でも見るような顔をしていた。
しかし、そんな表情すら……。
ただの変態である。
「おいおい。騎士同士、仲が良いのは結構だが、じゃれ合いはその辺にしとけ、よ?」
そこで、響く、独特なイントネーションの声は、お馴染み、イグアスの声。
「変なこといってんじゃないわよ。英雄(絶望)。勝手にじゃれついているのは、この馬鹿犬よ」
「いや、いや、最初にちょっかいかけてきたのはアイリスちゃんだよね? いくら未来の飼い主様でも、全部、飼い犬のせいにしちゃだめだぜ?」
「わかった。わかった。キング。クイーン。その辺にしとけ……。おい。(絶望)ってなんだ」
イグアスは、呆れたようにため息をついて、タレムに近づくと、手を差し出した。
「タレム卿。百騎士長ともあろうものが、いつまでも地に伏せてていいのか? 後ろでお前の部下たちが驚いているぞ?」
「あ……ああ……って、いぐあすぅぅぅ~~っ! 大好きだ。俺の嫁になってくれぇぇl」
しかし、タレムはその手を取らず、号泣し始める。
「な、なんだっ!?」
何事だと、驚くイグアス。
それに対してタレムは、本気の涙を滲ませながら言うのであった。
「だって、イグアスだけだったんだっ。百騎士に昇格して、男爵になった俺を、卿と呼んでくれるのはっ! ほんとはもっと、ちやほやされたいのにっ! 帝国史上最速出世記録所持者とか、言われたいのにっ!」
「タレム……」
あんまりにもあんまりな未来の主君になる男の姿に、さすがのイグアスも頭痛を覚え、頭を押さえた。
だが、実はタレムの言うことにも一理ある。
同時期に、アイリスとイグアスが電撃出世してしまったせいで、影が薄くなってしまったが、タレムの出世スピードは、もっと褒められてしかるべき偉業といっていい。
なにせ、騎士になってから、わずか、一年足らずで、百騎士まで上り詰めたのである。
通常なら、もっと大騒ぎになっていてもおかしくない。
さらに、それを何となく、流された、だけ、ではないのだ。
百騎士になった際、さりげなく準男爵から、男爵に爵位が変更されているが、この、『男爵』という、爵位は、貴族にとって大きな意味をもつ、爵位であった。
騎士伯・準男爵・男爵・子爵……と続いていく、貴族の証たる爵位だが、実は、王侯貴族界隈では、男爵未満の爵位を持っていても、貴族として扱われないことが多いのである。
理由はいろいろあるが、一番わかりやすいのは、『金さえ持っていれば誰でもなれるから』……という一言に尽きる。
血統や伝統を遵守する貴族会で、金を貢げばだれでもなれてしまう、爵位にどれほどの価値があるか?
端的に無価値である。
実際、帝国の政治を決める『帝国総会』には、男爵以上の貴族しか参加できなかったりするのだ。ほかにも、男爵を境として、できるようになることが山の如くある。
だからこそ、男爵以上の貴族は敬意と畏怖を持って『卿』をつけて呼ぶ習わしになっている。
……だというのに、シャルルも、マリカも、クラリスも、誰も男爵として、名を呼ぶことはなかった。
タレムは、それを密かに、寂しく思っていたのである。
「導入が、長いわよっ! そんなんだから馬鹿犬なのよ。馬鹿を拗らせて死になさい」
「ひどいよ。アイリスちゃん。これだけ、前振りしても、まだ、呼んでくれないなんてっ……というか、いつもは、もう少し、名前で呼んでくれるじゃん。蔑みの中に憐れみがあるのがアイリスちゃんじゃんっ。卿をつける方向で弄ってよ」
「ふん。勝手に私のイメージを固定しているんじゃなくてよ、気持ち悪い。大体、それを言うなら、アンタがまず、私に尊敬語と謙譲語を合わせて使いなさい。アイリス・クラネット閣下とよびなさい」
「……ぼく。学がないから、尊敬語と謙譲語の差がわからない。でも、謙譲語はいらないと思う。あれ、たしか、皇帝陛下に使う言葉だった気がする」
「うふ。バカ犬♪ 忘れたの? 私はアンタの《女王様》でしょ♪ 飼い主でしょ♪ ご主人様でしょ? ねぇ? もう一回この場で調教してほしいの? わんわん?」
「……」
思い出される、過日の醜態。
途端。
真っ青になって、それだけは勘弁してくださいまし……と、マリカがいつも使っているような言葉遣いになるタレムであった。
そして、そんなタレムの肩を、真剣な顔で考え込んでいたイグアスが、そっと叩き、
「なあ、タレム。確かにお前の出世速度は俊足だが……俊足に関して言えば、お前の師匠の右に出る奴はいないんじゃない、か?」
「……」
能力も使っていないのに、三秒ほど時間停止するタレム。
頭の中で、鬼の仮面を付けた少女リンが、どや顔をしている姿が再生される。
……確かに、十二歳で二千騎士長になっている化け物がいた。かわいい。
それと比べてタレムはなんと、遅漏なことか。
「ししょうぅぅぅぅぅぅ~~っっ! 俺が褒められないのって、いつもいつもいっつもっ……アンタのせいじゃねぇ~~かっ!!」
戦場に木霊する哀しい叫び。
その声は、どこまでも場違いで、どこまでも低俗なものであった。
「貴様ら。何を騒いでいるのだ!!」
「「「っ!」」」
そんな声に釣られて、本陣から、筋骨隆々の大柄な男が歩いてきた。
低く渋めの声でタレム達を叱るその男は、年齢は二十代後半……。
戦場だというのに、綺麗に短く切りそろえられている髪は、黄金に近い黄色で瞳は紫であった。
……そのアルザリア帝国人で、その髪色を持つ人物は、
「うむ? 貴様らは……。本国から増援に来るという。新進気鋭の有力騎士団団長たちかっ。貴様らが動けば、驚天動地だと聞いていたが……いきなり、面目躍如をみせつけられるとはなっ。はっはっは……歓迎しよう。首を長くして待っていたぞ」
「「(第三皇子。レオ・レオナルド・アルザリア!!)」」
即座に、イグアスとアイリスが膝をつく。
意外かもしれないが、プライドが高いアイリスは、処世術として媚びることに、少しもプライドが傷付かないタイプの人間である。
……が、なぜか、煽られ耐性は低い。
「ちょっ、なに? どうしたの? 状況がよくわかんないうえに、四文字熟語が多すぎて話が理解できないよぉぉっ。熟語の意味を一つずつ説明して、イグアス」
「すまん。俺もわからん」
そして、悲しいかな。
珍しく敵対していない皇子との初対面に、タレムは仰向けて倒れ、号泣しているせいで、何が起こっているのか、確認できなかった。
そしてもちろん、レオ皇子のタレムに対する第一印象は、だらしがない、変な奴。である。
「じゃあ、アイリスちゃん教えてっ」
「ばかっ。あんた。いつまで、ふざけてるの? 総司令様よ。直りなさい」
「え……総司令ってことは、まさか」
当然、この戦場の総司令が帝国の第三皇子だと、タレムも把握している。
あわてて、起き上がり、膝をつこうとするタレムに先んじて、レオ皇子が言う。
「ふ。そのままでよい」
「「はっ」」
同時に立ち上がるアイリスとイグアス。
この言葉の意味は、王族と対話する時のめんどくさい形式を無視していいということ。
王族がよく使う、あいさつみたいなものである。
……しかし。タレムにとっては違った。
(あれぇ。これ、俺、立ってもいいのかな? そのままでよいって、そのままでいろ、ともいえるし、勝手に立ったらダメなんじゃ)
何も難しいことを考えず、普通に立てばよかったのだが、余計なことを考えてその機を逃してしまう。
「「「……」」」
アイリス。イグアス。レオ皇子。三人の痛々しい視線がタレムを貫いた。
……泣きたい。
「失礼ですが……あの……皇子。私めは……いかようにすればよろしいでしょう? 踏みます?」
「……。……。……。……さて。貴様らに、戦況の説明をしなければならんな。本陣まで同行願おうか」
「「御意」」
とことことこ……。
失望のまなざしを浮かべ、タレムのことを視界から除外し、歩いて行ってしまう、レオ皇子。
間髪入れず、それに続くイグアス。
そして、
「くすっ……アンタの騎士人生。今終わったわね(失笑)」
悪魔のような顔でタレムをあざ笑うアイリス。
「あ、わたし、アンタにとって、憐みのある女だったわね? じゃあ。おみげを上げるわ……《氷帝・絶対零度(小)》」
「ちょっと、うわ、冷たっ。って、あれ? 背中が氷ついて、立てない。立てないよ。ちょっ、しかもこれ、帝級魔法……自然凍解しないやつじゃね? ……アイリスちゃん。冗談だよね?」
「うふふ。足の引っ張り合いは騎士のつねってね? お馬鹿さん♪ ばいばい~~♪」
「ちょっと、ちょっと、アイリスちゃん。女王様。ご主人様っ! まって、まってぇぇぇぇぇぇっ!」
そのまま、本陣に行ってしまうアイリスであった。(続く)




