閑話・二 『マリカの初恋』
――約十年前。
こほっこほっこほっ……。
グレイシス邸の離れで、六歳のマリカは床に臥せっていた。
咳を抑えた右手を見れば、血液がべっとり付着している。
……原因不明の《不治の病》と、医者に匙を投げられたその病は、マリカが生まれた時から持っていた持病だ。
少し、動いただけで発熱し、激しい吐き気と喘息が起きる。
更には、マリカに近づいた者の身に次々と不幸が降り注ぐ……なんて事も続き。
当時のマリカは周囲の貴族達から《呪いの公女》と忌避されていた。
だから、家族以外は誰も、マリカの部屋に近寄ろうとしなかった。
……でも、それを辛いと思ったことはない。
なぜなら、
「……マリカ。マリカ。起きていますか? おやつを拵えてきましたよ」
「おかあさま♪」
……こうして、マリカの大好きな母、マリアが優しく看病してくれるから。
マリカは、さりげなく血の付いた手を拭いて、マリアの用意したおやつを頬張った。
「ふふふ……。そんなに慌てて食べなくても、誰も取ったりしませんよ?」
マリカの病気は、動くことは難しいが、食べる分には問題ない。
むしろ、たくさん食べることによって、体力を増やした方が良いと、医者は言っていた。
だから、か?
ぱくぱくっもぐもぐっぱくぱくっもぐもぐっ……。
マリカは、良く食べた。
たくさんたくさん、マリアの作るおやつを食べて、食べて、食べまくった。
……そして、
「でも……マリカ……貴女は、嫁入り前の乙女として、それで良いんですか?」
「ぱくぱくっもぐもぐっぱくぱくっもぐもぐ……?」
でっぷりと、肥えた豚のように太ってしまったのだ。
マリアがマリカに鏡を見せると、顔はぷっくり丸く、お腹にはどっぷり贅肉が余っている姿が写る。
ボヨンボヨンだ。
「おかあさま……」
それでも食べ続けるマリカは、深紅の瞳で、マリアの黒い瞳を貫いた。
「もうすぐ……くろいモヤモヤが、わたしを向こう側につれていきます」
「……っっ!」
……すでにこの時。
マリカは聖女の力に目覚めていた。
だからこそ、マリカには見えていた。自分を蝕む悪いモノが。
マリカには解っていた、自分が死ぬ……その刻が。
「その前に、わたし、もっと、おかあさまの手料理……たべたいです」
「マリカ……」
そして、ソレは、同じ聖女であるマリアにも見えているもの。
しかし、ソレをどうにかしてあげることは、マリアにはできなかった。
……ソレを、どうにかできるのは、
(いいえ。コレは、ただの食いしん坊ですね)
「……好きなだけ食べていいですよ」
「うん♪」
……それから、また、数ヶ月が過ぎ。
マリカの体調は、素人にでも、ひと眼で「もう駄目だ」と解るほど、悪化してしまっていた。
「こほっこほっこほっ……おかあさま……おみ……おみずを……」
夕刻。
その日、何時間も昏睡していたマリカが、目を覚まし、喉の乾きを訴えた。
しかし、周囲に人の気配がない。
「おみず……みず……みず……」
灼熱を放つ、喉の渇きに、だるい身体を起こして、傍の水瓶へ手を伸ばす……が。
がらんっ。
「あっ……」
高熱と頭痛で視界がぼやけ、水瓶を倒してしまう。
どぼどぼ……と、喉から手が出るほど欲している水が零れていく。
「お……みず……っ」
必死に手を伸ばすが、あと数センチ、マリカの手は、倒れる水瓶に届かなかった。
(なんか……寂しい……寒い……)
途端。
胸が空く感覚に襲われ、涙が零れる。
続いて……意識が、どんどん、遠くなり、ずっと、感じて苦痛が薄れていく。
(あ……コレ……わたし……)
マリカは、幼いながらにソレが、死の前兆なのだと、理解した。
(やっと、むこうに行ける。これでもう、苦しまなくて良いんだ……)
――その時だ。
「……?」
マリカの霞む視界に、銀色の何かが映った。
そのまま、その銀色は、
……そっ。
マリカを優しく抱き起こし、顎を上げ
くちゅっ……。
……口づけ。
「……っ!」
とく……とく……とく……っ。
吹き込まれる、命の息吹。
……こくんっ。
それは、マリカが求めていた水だった。
「……っ!!」
瞬間。
マリカの身体は、地獄の苦痛を思い出した。
……だが、それは、生きている故の苦しみだ。
「こほっ……! こほっ……こほっ……げほっ! げほっげほっ! う~~っ!」
吐血し、苦しむマリカ。
その背を、誰かが、優しく擦っていた。
……暖かい。
「ごほっ……ごほっ……ごほっ」
煉獄の苦しみが襲う中で、背中の温もりが、唯一の癒やし。
無我夢中で、マリカは、背中を撫でている誰かに、しがみついていた。
ぎゅ~~っ。
「こほっ……こほっ……こほっ……」
血を含めた、胃の中の物。
全て、吐き出すまで、マリカの嘔吐は続く。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
暫くして、症状が治まると、マリカは顔を上げた。
……恍惚と、もたれ掛かったまま。
――誰に?
「あなた……は……?」
絡み合う……深紅の瞳と、白銀の瞳。
そこで初めて、マリカは、相手が誰なのか認識した。
「……タレム……お兄ちゃん」
「ごめん……多分、俺は、君が知る、《タレム》じゃないよ」
「記憶……喪失……」
「うん」
そこで会話が止まり、数秒間、沈黙が流れる。
普通は気まずいことだが、なぜか、このときのマリカは、心地よく感じていた。
……この沈黙が、この時間が、このまま、ずっと続いて欲しい。
頭の痛みも、喉のいがみも、身体の火照りも、どうでも良くなるほど、両の肩に掛けられた十本の指が、心地良い。
「……あっ。服っ」
しかし、沈黙は、忘れていた理性を呼び戻し、マリカに粗相を思い出させた。
……タレムの服が、血と嘔吐でドロドロになっている。
「ごめんなさいっ。わたしっ」
慌てて離れるマリカだが、
……くらぁ~~。
衰えた体力は戻らない。
ふらつき、また、意識が遠のいていく……。
「こらこら、急に動いちゃ駄目だろ」
――昏倒する……寸前。
ぎゅっ。
「っ!」
タレムに抱き戻された。
太く、たくましい腕。
分厚い胸板に挟まれる感覚は……父親と一緒にいるかのような安心感だ。
とくんっ……とくん……っとくんっ。
強く脈動する心音も、生き生きしている。
……何もかも、マリカとは正反対だった。
「さぁ。これで良い。ゆっくり、眠るんだよ」
「……っ」
タレムにされるがまま。
ぼーーと、身を委ねていたマリカは、いつの間にか、布団で横になっていた。
看病を終えた、タレムの手が、離れていく。
……そのまま、部屋を出て行こうとしている。
「――まってっ!」
「……あん?」
――反射的に身体を起こし。
タレムの手を掴んでいた。
……理由は、胸が空く、感覚に襲われたから。
(こわい……独りになるのが)
「タレムお兄ちゃん……行かないで……」
「……」
口から出た弱音が、無茶な事だと、すぐに察した。
タレムが、困ったように、顔を濁らせたからだ。
「あ……ごめんなさい」
他人の家に来ている時点で、
何か、用事があるということ事ぐらい、聞かなくても解ることだった。
「ふ……まぁ、俺も、剣術の特訓より、君の相手をしていたいところだけどね」
「~~っ!」
かぁぁぁぁっっと、マリカの顔が紅色に染まる。
……茶化されている。
「――でも」
と、タレムは言い。
人差し指で、マリカの額をコツンと押した。
「……っ」
ふさっ。
反動で、後ろに倒れたマリカは、枕に受け止められる。
「病人は、ちゃんと寝て、休まないと、治らないだろ?」
「……っ」
「元気になってから、たくさん、遊ぼう」
布団を整えながら言われた、その言葉に、マリカは強い衝撃を受けた。
「タレム……お兄ちゃん……っ。わたしのこと。しらないんですか?」
「知っているよ……不愉快な、あだ名まで」
その衝撃は、全身を何周も駆け巡り、涙のしずくとなって、表われる。
……ぽろぽろ、ぽろぽろ。
「っ。マリカちゃん……ごめん。ちょっと、配慮に欠けていた」
「違います……」
そのしずくは、衝撃が砕いた、心の氷だ。
「嬉しくて……びっくりして……」
「……嬉しい?」
今まで。
マリカに、病気が治ると言った人間はどれだけいたか。
少なくとも、病状が進行してからは、一度も言われなかったことである。
……この病気はもう、治らない。
マリカの家族も、マリアも……マリカ自身も、心の何処かで、そう、思っていた。
ぽろぽろ……ぽろぽろ……
涙が止まらない。
(……熱い。……心が煮だちます)
「あなたは、わたしが、治ると言ってくれているんですね……」
「……。ふ、マリカちゃん、また、明日、君に会いに来てもいいかな?」
「っ。はい……っ。是非。ぜったいに、来てください。例え、わたしが『眠って』いても。……やくそく。ですよ?」
その日、タレムが去った後も、マリカは夜遅くまで、泣き続け、最後は泣き疲れたことで、ぐっすりと眠ることになる。
……久しぶりの快眠だった。
――そして、約五年後。
医者から『病の完治』を診断される。
その報告を、マリカが、一番初めに伝えようとした相手は、タレムであった。
「タレムお兄ちゃん……っ」
家族への報告も忘れ、居ても立っても居られなくなったマリカは、屋敷を飛び出し、アルタイル男爵邸へと掛けだしていた。
「タレムお兄ちゃん……」
……間違いなく。
病に勝てたのは、タレムのお陰だ。と、マリカは思う。
ドキ……ドキ……ドキ……ドキ。
この五年。
辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、恥ずかしいとき、嬉しいとき、愉しいとき。
いつも、マリカの隣にタレムが居た。
「……わたし……わたし」
病の看病も、途中からは、殆どタレムにされていた。
もちろん、タレムがした看病は、綺麗な事だけでない。
「……あなたに」
嘔吐や、排泄の処理まであった。
それでも、タレムが、嫌そうな顔をすることも、苦言を漏らした事も、一度もなかった。
……いつも、優しく微笑み、頭を撫でてくれたのだ。
「伝えたい事がありますっ……」
そんな日々の中で、特別な感情が、すくすくと育まれたのは、自然な流れである。
「タレムお兄ちゃんっ!」
アルタイル邸に到着し、庭で独り黄昏れる、タレムの姿を見たマリカは、足を止める事なく飛びついた。
「……っ。マリカちゃん!?」
いきなり飛びつかれたタレムは、反射的にマリカを抱き止めるが……
……ドテンっ。
と、後ろに転び、背中を打つ。
「痛てて……マリカちゃん。大丈夫?」
「タレムお兄ちゃんっ!」
タレムの上にのしかかる形になったマリカは、体裁など、考えず、瞳を見開いた。
……そして。
「大好きですっ。わたしと結婚してくさいっ」
「……っ。ど、どうしたの? いきなり」
五年間。
育み、暖めていた想いを爆発させた。
……ずっと、決めていたのだ。
もし、《不治の病》が治ったら、タレムに告白すると。
「タレムお兄ちゃんが、お嫁さんを探していると聞きました」
「……あん?」
それは兄、イグアスから聞いたこと。
まだ、タレムも十二歳だったが、貴族の家督を継ぐ、後継者であれば、別におかしな事でもない。
そして、タレムが、アルタイル男爵家の後継であることは、周知の事実であった。
「どうか、お願いしますっ。他の雌豚ではなく。わたしを、私だけをっ、お嫁さんに娶ってくださいっ」
「……雌豚って」
……だが。
もちろん、当時のアルタイル家当主、ユリウス・アルタイルが、まだ幼く、魔法も開花させていない、十二歳のタレムを、誰かと結婚させようと、している筈もなかった。
そんな若齢結婚しようと、子供を産める訳でもないのだから。
「マリカちゃん……その話は――」
――では。なぜ、そんな話を、マリカが聞いたのかと、言うと。
答えは単純だ。
この頃から、タレムが、『ハーレム』を作ると、言い出していたからである。
「――わたし……じゃ……不満……ですか?」
「……」
瞳を潤ませた問いに、当時のタレムは、当時のタレムなりに、マリカの本気を悟り、誠意を持って答えることにした。
決して、安易に『俺は美女のハーレムを作りたいから! 太っているマリカちゃんはムリ』などとは答えない。
「……」
じっくり、間を取って、長考し、答えを用意する。
「マリカちゃん」
「はい……」
「君の事は大好きだよ」
「……っ♪」
――でも。
「それは、女の子としてじゃなく。可愛い妹としてだ」
「……っ!」
「君を女の子として見たことはない。マリカちゃんだって、俺をお兄ちゃんと呼んでくれているじゃないか」
ばぁりんっ。
と、マリカの中で、何かが砕け散る音がした。
きっと、初恋が失恋に終わった音だろう。
……すぅぅっと、世界が暗くなる。
「だから、今のマリカちゃんと結婚する気はないよ」
「イモウト、トシテ……」
ぽろり……ぽろり……と、マリカの瞳から……涙が零れ――。
――そうになったが、
グッ。
マリカは拳を握り、たるんだお腹に力を込めて、ソレを耐え忍んだ。
「『今の』……なら。どうなれば、結婚してくれますか?」
そのひと言に。
タレムは大した意味を持たせなどいない。
……ただの言葉の綾だ。
「それは……」
されど、マリカは意地でも、初恋を失恋として終わらせようと、しなかった。
「そうだな……じゃあ。マリカちゃんが、マリカちゃんのお母さんみたいな女の子(美人)になったら結婚してあげるよ」
「お母様みたいな女の子(修道女)……」
その抵抗が、一筋の希望を遺したのだ。
「解りました。タレム……さま」
「……さま? いきなり、よそよそしくならなくても……って、まさか、妹って言ったのを引きずって――」
「――わたし、必ず、そう(修道女に)なって、もう一度、タレムさまに告白します」
「え……(美女に)なれるの?」
「はい。だから、そして、その時が来たら、私をタレムさまのお嫁さんにしてくれますか?」
「あ……うん。むしろ、大歓迎だよ」
「……約束……ですからね?」
そう言ったマリカは、駆け足でタレムの前から逃げ出した。
タレムに背を向けた……その瞬間から、大粒の涙が零れていた。
マリカは泣く。鳴く。啼く。
五年間、暖めた告白は失敗した。
――されど、これは失恋ではない。
マリカの初恋は……そんな程度では終わらないのだ。
いままで病を治すことしか目標がなかったマリカに、この涙は新しい夢と、原動力となる。
この日、帰宅したマリカは、真っ赤に腫れた瞳で、
――わたし。修道女になります。
そう、家族に宣言するのであった。
……マリカが、見習い修道女として、修道院に行ったのは、この翌日のことである。
「――とまぁ……、タレムさまとの、大まかな馴れ初めは、こんな所でございます」
マリカの話が終わったとき。
それを聞いていた一同が、それぞれ様々な事を思う中……
かぁぁぁぁっっ。
クラリスだけは、恥じ入るように赤面していた。
なぜなら、長年、タレムと妹として、最も近くでその実像を見てきたクラリスには、マリカの話の中で美化されているタレムが、本当は何を考えていたのかが、手に取るように解ってしまったからだ。
(兄さんは……絶対、美女と結婚したかっただけです)
「あの……マリカちゃん。兄さんはその……」
「クラリスさん。皆まで言わなくても、解っておりますので」
「……え?」
せめて、告白の真相だけでも教えておこうとするが、言葉の途中でマリカが首を左右に振る。
「どうせ、忘れられている話なので。この方の言葉など、どうでもいいのでございますよ」
今、話した内容は、マリカにとっては、大切な思い出だが、タレムにとっては、そうでもないことである。
それを、三年ぶりに再会した、その瞬間に突きつけらたのだ。
「この話で、本当に大事な所は、タレムさまが、私に『未来』を信じさせてくれたこと。私が……タレムお兄ちゃんを好きになったと言うこと……そして、大好きな男性の為に、変わったから、幸せな『今』があるということです」
それでも、マリカの初恋は終わらない。
「むしろ、自分を何も変える努力もせず、欲しいモノを手に入れようとしていた、あの頃のわたしが愚かだったのでございます(赤面)」
マリカが惚れた男は、今も昔も、タレム、ただ一人なのである。
そこで言葉を切り、眠るタレムの頭を撫でて。
「では、そろそろ……このお方を寝室で寝かせてさしあげますね」
そう断ると。
リンの拘束を解いて立ち上がり、寝室へ消えていく……。
「あらあら、まぁまぁ……お盛んで。若いっていいですわ。息子達が、うらやましいですわね、マリアさん」
「ふふふ……そうですわね。私も、当てられて、五人目が出来ちゃうかもしれませんわ」
「ふふふ、それはまあ、おめでたいですわね」
そんな後ろ姿を見送るおばさん二人が、ニヤニヤと意味深に微笑むのであった。(終わり)




