三十六話 『未来で会おう』
堕天使の翼を斬り落とし、ノルンの前に立ったタレムは、すかさずノルンを抱き上げて、マリカやアベルがいる場所まで飛び下がった。
『逃がすかぁぁぁっ!』
それをさせまいと、堕天使も後を追うが……
ばちんっ!
タレムに魔の手が届く寸前で、白い炎の壁によって弾かれる。
『なんだとっ⁉』
「無駄でございます。わたしの《聖火》で結界を張りました。いかなる存在でも、邪悪な心をもっていては、それを越えられません」
……そんな訳があるか。
堕天使は、一瞬でマリカの言葉を切り捨てる。
いくら、マリカの魔法でも、神である堕天使を、阻むことなんてできない。
阻めるのは、タレムがやったように、同じ神の力を持つもの……神器ぐらいだ。
『そうか、イシュタルぅぅぅぅっっっ~~‼』
……そう、マリカの力だけでは無理だが。
マリカの体に宿る、天使が力を貸せば可能であった。
これでは、堕天使もマリカが張った結界の外には出られない。
「とりあえず、これで無限復活は無効化できた」
そして、ノルンの身体と引き離された今。
もう、堕天使に《運命再編》は使えない。
「助かったよ。マリカちゃん」
「ふふ。ご主人様を護るのが妻の役割です」
堕天使を倒す上で一番、厄介だった《運命再編》。
それを、攻略できたのは、一重に、《祝福の儀礼》に参加する何も知らない修道士達を説得し、纏め上げたマリカの功績だ。
……タレムでは、百人もの修道士に、《愛の祈り》を祈らせ、《神払い》でノルンから堕天使を引き剥がすことは出来なかっただろう。
「大して、満足させられる説明も、しなかったのに……」
天罰の制約で、詳しい説明ができなかったタレムの頼み。
それをマリカは、
「貴方の言葉がひとつ有れば。私は、例え、明日、星が降ってくると言われても、信じます」
タレムに対する信頼だけで、やって見せた。
「君が楽しみにしていた、出世の道を諦めろって言うような頼みだったのに……ね」
「ふふふ、貴方の言葉がひとつ有れば。私は例え、他の殿方に身を許せと言い付けられても、行いますよ?」
「そんなお願いは死んでもしないよ」
「存じております。それ故、そんな貴方が、それでもお願いしなければいけない、事情がある……そういう事だと、信じていますから」
「……」
どんなにむちゃくちゃな願いでも、それがタレムの意思ならば。
……喜んで、身を捧げる。長年の夢でさえ、切り捨てる。
マリカには、そういう覚悟があったのだ。
「最高の女だよ。マリカちゃんは」
「どうぞ、牝豚とお呼びくださいまし」
「……なんでだよ」
それをポンコツな女神は、《愛》と、言う。
「アベル司祭も、助かったよ」
「いえ、僕は元々、タレムくん。貴方に救いを求めようとしていたので。……貴方になら騙されてもいいと思って協力しています。例え、これで妻が戻らずとも……僕は貴方を恨みませ――」
「――ふ……騙してなんかねぇ~~よ」
鼻で笑ったタレムは、指で、ぴぃんっと、指輪を弾いた。
……その指輪は、アベルと妻の結婚指輪。
「流石に連れては来れなかったけど……。身の安全は、俺の一番、大切な女性。《シャルル・アルザリア・シャルロット》の名に懸けて保証する。今はアイリスちゃんが保護してるよ」
「あっ……ああっ。ありがとう。ありがとう。タレムくん」
「……。(シャルの名前は出しすぎだったかな? アイリスちゃん……流石に、意味もなく、アベル婦人を殺したりしないよね?)」
ともかく、これで、タレムは、アベルとの約束も果たした。
あとは、堕天使を倒すだけである。
(まぁ……この神剣を取りに行く次いで。だったんだけどね)
「一番大切な女性が、シャルル様。で、ございますか……はぁ。やはり、わたしの名前を出してはくれないのですね」
「揚げ足を取らないでよ。マリカちゃん。ここは高貴な身分の名前を出すのが定石なんだから……」
「つまり。権力者がお好みと。シクシク……さようなら。わたしの出世の道。これでタレム様の一番にはなれなくなってしまいました。――でも、後悔はありませんわっ!。だって、代わりに愛する人のお役に立てたのでございますから」
「よし、わかった。後でじっくり話し合おう。俺が如何にマリカちゃんを愛しているか、わからしたるわっ! ――でも、今は」
そこで、タレムの視線は、腕に抱く、ノルンに向いた。
今、一番、タレムが優先しなければならないのは、拗ねるマリカではなく、ここまでずっと、一人で、堕天使と戦ってきた、妹だ。
「ノルン……。もう大丈夫だから――っ!」
「……」
――だが。
ノルンに声を掛けようとして、タレムは気づいた。
(意識がない⁉ ……さっき、何かの攻撃を受けたのか? 見た目には、怪我をしていないように見えるけど)
「マリカちゃん。ノルンを治療してくれ。俺の大切な妹なんだ」
「旦那様の大切な女性……」
「いや、そうじゃなくて――」
「――いえ。……すみません。なんとなく、わかりましたので。……解っておりますので。ここからは真面目にいきます」
――ただ。
マリカは神妙にそう言って、首を横に振った。
「そのお方を、わたしが癒すことはできません。あくまで……《聖火》の、癒しの力は。肉体に作用するもの。身体の何処にも異常がないお方を癒すことはできませんので」
「あん? ――じゃぁ、ノルンはただ、眠っているだけ……とか?」
「魂の磨耗……劣化……が見られます。わたしでは、理解が及びませんが、神子様は、常人では考えられないほどの、過酷な時を永く過ごされたような状態です……と、意味わかりますか?」
「……っ!」
「どうやら、貴方には解るようでございますね……」
「で……ノルンは?」
「肉体と魂。二つ揃って、生命です。どちらか片方が失われれば……」
……死。
その言葉を、マリカは最後まで言わずに口を閉じた。
最愛の夫が『大切なひと』といった人物を前に、それを言うのはあまりにも残酷なことだったからだ。
「っ……。ごめん。本当に遅かったみたいだね……」
ノルンの神通力。《運命再編》は、ノルンの魂を、過去のノルンの肉体に移す力。
肉体ではなく、魂が消滅してしまっては、《運命再編》で過去へ移す魂が存在しない。
ぴくり……。
タレムが抱き締めたのを感じたのか、ノルンの瞼がうっすらと開いた。
……しかし、その見開かれた瞳に、力はない。
「ノルンっ!」
「……」
そんなノルンは、泣きそうな顔で、自分の名を呼ぶ、男を見て、口端を少しだけ広げていた。
そして、問う。
「……そなたは……吾の……救世主か?」
「……っ!」
それは、ノルンが堕天使に取りつかれ、運命の螺旋に囚われた時から、タレムの顔を見る度に、何万回と問うてきた質問。
それは、タレムが同じ時を繰り返してきた中、ノルンに出会う度、何万回と問われた詰問。
……その度にタレムは、意味がわからないと首をかしげて来たが……今。ようやく、解った。
これは、ノルンがずっと漏らしていた、痛々しい悲鳴だったのだ。
助けを求める叫びだったのだ。
いつか、来たる。
未来で救世主となったタレムへ向けて。
この設問の意味を答えられるタレムを、ノルンはずっと待っていたのだ。
何年も、何千年も、何万年も、幾千万の運命を越えて……。
それを理解した上で、タレムは、そっとノルンの手を握り、答えた。
「ああ……俺が、君の救世主だよ」
「……ふふ」
……と。
その一言で、ノルンの硬かった表情が、柔らかく解れ、か弱い少女の顔になった。
「待ちくたびれてしまったぞ……兄じゃ」
ノルンは最初から、なにもかもを知っていたのだ。
明言しなかったのは、魂にとりつく堕天使に情報を漏らさないようにするため。
「自称、神託の神子……か」
「兄じゃ……吾はもう、疲弊した……この戦。委任してよいか?」
「ああ……。あとは、お兄ちゃんに任せとけ。だから、ゆっくりおやすみ……」
救世主が現れるまで、タレムが時を越えて救世主となるまで、堕天使に世界を滅ぼさせない為に。
ノルンは、たった独り、孤独に耐えて戦っていた。
消えそうな魂を必死で繋ぎ、何度も何度も、終わった世界を元に戻してきたのだ。
……そういうことである。
「ふふ……兄じゃ……っ……兄じゃ……逢いたかったぞ」
「……ノルン。よく頑張ったな。さすがは俺の自慢の妹だ」
「……ふふ」
タレムが頭を撫でて言うと、ノルンは微かに笑って瞳を閉じた。
そして、二度と。その瞳を開けることはなかった。
――死んだ人間は決して、生き返らないのでございます。
そんなときに、タレムはマリカの忠告を思い出す。
魂が死んだノルンはもう、どう足掻いても、蘇らない。
……世界の命を繋いでいた《運命改編》も、起こらない。
(ここから先の死は……覆らない……か)
――だが。
(上等だ!)
「イシュタル様。アレを倒せば、ノルンを救ってくれるんですよね」
「……ええ。私の力で堕天使にまつわる災厄、その全てをなかったことにして、世界を再構築します。その時、運命の神子の《運命》も、一から書き換えましょう」
「それって……このノルンは……今の俺たちは……」
……再構築される世界と一緒に、消えてしまう。
神子として生命を培ったノルンは、戻ってこない。
……そういうことだ。
「不満。でしたかぁ? この世界を救う方法は、他にありませんよ?」
(全く、つくづく、神様たちは、言動の次元が違う……でも)
「できれば、次は、ノルンに幸せな人生を与えてください」
「与えられた運命をどう生き、どう想うかは、その人間、次第ですよ」
「ふっ……意地悪なポンコツ女神だな。今度は独りじゃなく、家族くらい与えてくれても良いだろう?」
「……一人の運命を大きく変えると、他の人間の運命も変わってしまうのですよ。あまり大きな書き換えは世界を破綻させてしまいます」
「……なら、出来るだけで良いですから」
「愛ですねぇ……」
タレムは魂が消滅し、人形と化したノルンの体を抱き締めて、
「さて。俺は行く。また、《未来》で会おう……ノルン」
その体を床にそっと、横たえて、立ち上がり、歩き出す。
振り返らないタレムの視線が写すのは、堕天使の姿だけである。(続く。もうすぐ終わり)




