三十二話 『百万回、生きた神子』
――タレムが新たな能力を獲得する少し前のこと。
聖教教会・大聖堂地下。
薄暗いその部屋で、オッドアイの瞳を持つ少女が瞼を開いた。
聖教教会所属の神子、ノルンである。
「また……刻が巡ったか」
ポツリと呟いた言葉に、答える者は居ない。
己の内にとりつく堕天使も、今は眠っていて干渉される心配はなかった。
「母上……」
ぎゅっ。
神子は横たわったまま、消えてしまいそうな声で呟き、自らの尻尾を抱き締めた。
この部屋は、ノルンの母が、最期の時、幽閉されていた場所である。
『ノルン。幾千万の刻のその先で。貴女を救う《救世主》が必ず現れます。それまで、希望を捨ててはいけませんよ?』
思い出すのは、母、レムリアの言葉。
ノルンを産んで、一年と経たない内に死んでしまう母が、子守唄のように何度も、何度も、云い続けていた言葉だった。
「吾は……いつまで……」
その言葉を、ノルンはよく覚えている。
……何千・何万・何十万と、繰り返し聞いた言葉だからだ。
「今宵……月が天に昇る刻。吾は潰える……か。また、《救世主》は現れなかった」
人は等しく平等に、時は前にしか進まない。
それは、時間を操るタレムであっても。
――だが。
運命の神々に寵愛を受けたノルンだけは、己の死と共に、己の起源へと立ち返る。
だから、例え、今日、死ぬという運命を知っていても、ノルンに恐怖は微塵もなかった。
運命の神子。ノルン。十三歳。
まだまだ、少女と云って良い歳である。
――但し。
既に、十万回以上、死んでいて、百万年以上も生きている。
螺旋のように繰り返す、同じ人生を、何度も……何度も……。
「……繰る」
唐突に、ノルンが呟き、立ち上がると、
かちゃり。
「――出るんじゃ。解っているんじゃろうが、今日は、仕事をしてもらうぞぃ」
見計らったように、聖教教会教皇、ウィルドルド・ドラクレアが扉を開けたのであった。
「何も云うな。煩わしい。吾は、凡て、心得ている。そなたがこれから云う詞も、踏み行う、行動も」
「カッカッカ……。ならば、よい。ワシについてくるのじゃ」
十万回以上繰り返した人生で、最早、ノルンが知らない事はない。
未来も過去も、そこで起こること、出会う人、話す内容。何もかも、ノルンは知っている。
これから、ウィルドルドが自分を神の依り代にしようと目論んでいることも、もちろん全て、知っている。
それでも、
「……」
彼女は、ウィルドルドの背中を何も言わずに追うのであった。
もし、己の死を、阻止しようと動けば、たちまち、内に眠る邪神が目覚め、ノルンを殺すだけだからだ。
……運命を変える力を持っている筈なのに、なぜか、彼女が一番、運命という鎖に囚われているのであった。
今のノルンには何もできない。出来ることは、未来を詠む母が予言した《救世主》の到来を待つことだけ。
「……されど、其れも、終演が近い」
実質、不滅の命を持つノルンだが、その魂は、有限である。
彼女が運命を繰り返す度、少しづつ、少しづつ、ノルンの魂が劣化し、すり減っていた。
今はもう、一日の大半を意思の無い透明な人形として、無意識に動いているだけである。
……神子と邂逅したタレムが、存在感が無いと感じたのは、ノルンの意識が消えかけていたからだ。
いずれ、ノルンという少女の心が消滅し、空っぽの人形になるだろう。
「吾が出てこれるのは、今回が最期になるかもしれぬな……」
――それが、死ぬことも、生きることも、出来なくなったノルンという少女の末路である。
……そして、それは、世界が堕天使に滅ぼされるよりも速く訪れるであろう。(続く)




