十七話 『人は、願いによって神化する』
タレムとマリカが下山し始めて、一時間がたった頃。
……それは唐突に、始まった。
ぐにゃりっ。ぐにゃり……
と、辺りの景観が、歪み始めたのだ。
空も地面も、ぐにゃりぐにゃりと、うねっている。
「……っ」
「これは……世界全体が歪んでいる。のか……?」
その光景に言葉を失い足を止めたマリカを、かき抱きながら、タレムが、そう呟いた。
……どこか、時間を止めているときの世界に似ている。
「……これが……あなたの言っていたこと。で、ございますか?」
「ハハハ……。まさか……違うよ。俺はこんなの知らない」
タレムは単に、神殿の中で起こる悲劇を予感していただけである。
それが、まさか、世界全体が歪み始めるとは、夢にも思っていなかった。
このまま世界の歪みが増せば、タレムが予感していたことよりも、もっと大きな悲劇が起きるかもしれない。
「……神子さまが仰っていたように、なにもかもが、遅かったのかもしれませんね」
「マリカちゃん……は、なにか、解るの?」
「わかりません……でも。不吉な事が起こっている予感がいたしまする」
「だね……俺もそう思う」
そんな、二人の不安を刺激するように、
――ばりんっ。
歪んでいた空に亀裂が走り、外側に漆黒の空間が露出した。
そして、その漆黒の空間は、内側の空間を浸食するかのように、吸引し始める。
その漆黒の空間に光が、空気が、土が、みるみると吸い込まれていく。
しかも、空間の亀裂は至る所で連鎖していた。
……吸い込まれたモノがどうなるかは、考えたくもない。
「っ! タレムさまっ!」
「大丈夫。俺が居る。絶対に離さない。絶対に……独りにはしないから」
「……はい。なら、安心でございます」
未知の状況を前にして、肩を震わせるマリカを抱き締めて、励ますが……
タレムにできるのは、そこまでであった。
(ちっ。空間自体が歪んでいるからか? 魔法が使えない。これじゃぁ、逃げようにも……)
……既に、漆黒の空間は四方を囲み、逃げ道はなかった。
(でも。嘘でも何でも良いから……マリカちゃんだけはっ! 俺が守るんだ!)
そう思うと、自然に、マリカを抱く、タレムの腕には力が入っていた。
どくん……どくん……どくん……どくん。
(いつもより早い心音。タレムさま……)
未知の状況を前に、平常でいられる者はいない。
それは、タレムも同じであり、マリカの手前、気丈に振る舞っているだけである。
……ならば、こういう時、嫁は、か弱いからと守られているだけの存在なのか?
「わたしがおりますっ!」
「あん?」
――違う。
「あなたにもっ。わたしがおります。だから……大丈夫でございますっ」
「……」
(こういう時。こそっ、わたしが、タレムさまを支えなければっ)
タレムが、自分の身より、マリカが大切なように、
マリカも、また、自分の身より、タレムが大切であった。
「あなたが辛いなら、わたしが受け止めますから」
……夫を支えたい。
そう、言うかのように、マリカはタレムの腕を抱く。
「俺……そんなに切羽詰まって見えたかな?」
「あなたこそ。わたしのことを……ただのか弱い女の子だとでも、思っておりましたか?」
「……フ。確かに一度も。マリカちゃんを可愛いと思っても、か弱いと思ったことはない、な。むしろ。鬼嫁――」
「――そこまでは聞いておりませんので」
ニコリ。
と、マリカが微笑む姿は、紅い薔薇の花の様で、美しかったが、
チクリ。
……薔薇には棘がある。
「痛い。痛いよ。マリカちゃん。つねらないでっ、脇腹はだめぇぇ」
「はて? なんのことでしょう?」
「クソぉぉおおっ。とぼけるマリカちゃんも、めちゃんこキュートだぜぇぇっ」
「タレムさまのお言葉は、たまに理解不能、でございますが。わたしは、今のように、おバカなあなたの方が、好きでございますよ? わたしの前では……ずっと、そのまま、ありのままでいてくださいまし」
「俺……なんか、バカにされてる? しかもバカを肯定されてる⁉」
密かに、誰からも愛されるような、完全無欠な男を目指していたタレムが驚愕し、マリカがクスクスと笑う。
例え、世界に何が起こっていようとも。
その夫婦は互いに互いを想い合い、支え合う。
二人とも、
――もう、怖くはなかった。
「タレムさま……永久に、一緒でございますよ?」
「ああ……君を、誰にも。何にも。渡しはしないさ」
全てを吸い込む漆黒の穴を目前にして、二人はお互いの身体を固く結びつけた。
……穴に吸い込まれたら、死ぬ。
と、半ば確信を持ちながらも。
そして、
「どうか……タレムさまに、女神さまのご加護がありますように……」
マリカはタレムを想い……神に祈った。
――自分はどうなっても構わない。その、代わりに、愛する人だけは……と。
瞬間。
「んっ⁉ あっ……あっんっんっ!」
マリカが、色っぽい吐息を漏らし、
ピカァァァァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアん。
突如、マリカの瞳が、輝きだした。
ドクンっ、ドクンっ、ドクンっ……
「マリカちゃんって、熱っ!」
さらに、身体が脈動し、灼熱を放ち、修道服が燃え上がる。
「――けど。離さないっ! 約束だし」
そして、ごうごうと、燃える中、ドクンっ、ドクンっ、と脈動するマリカの身体が二回りほど成長した。
……それに伴い、髪も伸びる。
「マリカ……ちゃん?」
その姿は、帝国一の美女と言われていた今までが塵に見える程、華麗であった。
……それが、マリカであるのか、疑ってしまう程の変貌である。
『……まさか、ワタシが、卸されてしまうとは。面倒なことなってしまいましたねぇ』
変貌を遂げたマリカは、最初に自分の手の平を見つめて、独り呟いて、
『ああ……ワタシは、アナタの言う、マリカではありません。ですので、離れてくれませんか? それくらい見てわかって欲しいものですね。……はぁぁ。めんどくさい。もう、眠ってしまいたい』
酷く、覇気のない声で、そう言って、大きな溜め息を付いた。
……声と顔に、マリカの面影あるが、確かに、マリカなら、絶対にしない言動である。
(マリカちゃんじゃない? マリカちゃんなのに? マリカちゃん。急にどうしたんだろう……)
紅い髪が地面まで伸びたマリカを抱きなら、タレムが状況を飲み込めないでいると、
『……。ワタシは離れなさい。と、言っていますよ?』
ぞくりっ。
「――っ!」
瞳を妖しく光らせるマリカにそう言われ、とっさに後ろに飛び下がった。
かつて、邪神と出会った時と、同じような、拒絶感を感じたからだ。
……圧倒的強者による威嚇。
「あららら……だからって――」
ぱしっ。
しかし、マリカは、素早く、タレムの肩を掴み、
「――おうしっ⁉」
「そんなに慌てて離れろとも、いっていません。穴に吸い込まれたら一巻の終わりですよ……? はぁ。これだから人間は面倒くさい」
逆に引き寄せた。
「そんなに慌てん坊さんなら、もう、危ないから、離れなくてもいいですよ」
むちっ。
すると、タレムはマリカの胸に抱き止められる形となる。
しかも、今のマリカは、いつもより、色々と成長した肉体で、何より裸体。
それはもう――
「うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――っ」
――柔らかい。柔らかい。柔らかい。柔らかい。にく。と、
甘い。甘い。甘い。甘い。甘い。甘い。甘い。からだ。
オトコであるならば、触っただけで、本能が勝手に歓喜に震える程の肉体である。
……こんな女御を知ってしまったらもう、普通の女御では満足できなくなってしまう!
「ふふふ。ワタシの身体に触れたことで、絶頂してしまいましたか? まぁ……それも仕方ありませんね」
色々な方向で危ない成人のマリカは、白目を向いて叫ぶタレムに微笑み、優しく頭を撫でながら――
――だって、ワタシは、愛と美の女神。イシュタルですから。
自らを女神と名乗ったのであった。
「めんどくさいので、私を呼ぶときは、イシュタルで構いませんが、敬称は、つけてくださいね?」
しかし……
「ひゃあほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっいっ! マリカちゃんのからだぁさいっこおおおう」
敗北王と言われる少年は、全く聞いていなかった……。
……目の前に出された女神の《にく》の《あじ》に夢中である。
「はぁ……。めんどくさいですが。呼び出されてしまったからには、この肉体の持ち主の願い通り、アナタにワタシの永遠の愛を与えましょう――」
「やあああっほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおいっ! マリカちゃんが! 俺のマリカちゃんがっ! 女神に神化しちゃったよぉおう! これが育成大成功ってやつかいなぁぁぁぁぁ!」
「……いえ。あの。女神を身体に卸したマリカさんの魂は消滅しましたよ? 通常、ワタシの魂を卸すためには、一万人以上の清らかな心を持つ聖人の魂が必要な筈なのですが、今回は……」
「ヒァアアアアアアアアアホォオオオオオオオオオオオオオオオイッ!」
自称、女神イシュタルが、わりと真面目な顔で、わりと大事な事をいっていたのだが……
興奮する銀髪の少年に、《魂》なんて言う、難しい話など耳に入るわけもなく、妻の身体で遊ぶの夢中。
(なんなんでしょうか? このめんどくさい人間は。大体。愛と美の女神であるワタシの身体を与えられて、下乳をツンツンするだけ。とは……逆にくすぐったくて仕方ありません)
このオトコ……めんどくさい。
と、思った、女神イシュタルは、未だに乳をつついて遊んでいるタレムの背中を鷲掴み、
「――どうやら、アナタに愛を渡せるのはワタシではないようですね」
ひょいっ……と、タレムの事を、漆黒の穴に向かって、放り投げた。
「ど、どうしてっ! マリカちゃん⁉ 一緒に居ようって約束したのにぃぃ」
「だから、マリカでは――まぁ。なんでもいいです。とにかく、この世界はもう、終わります。……最上位の天使であるワタシなら、救えないこともないですが……」
――永遠にアナタの相手なんてしたくありません。
「!?」
「一度、世界をリセットして、この身体の持ち主の魂を、呼び戻しましょう。どうやら今、この世界は特殊な法則に支配されているようですし」
「まああああありかあああちゃあああああぁぁぁぁぁんっ――っ!」
「女神の話を聞かない人ですね……はぁ。めんどくさいのに呼びだされちゃったなぁぁ」
そうして、タレムは漆黒の空間に飲み込まれ、存在が世界から消失した。
……つまり、死んだのである。
「結局、最後まで。ワタシの事を女神だと認識して貰えませんでしたし……さて。これからどうしましょうかねぇ。……はぁ。面倒です」
女神、イシュタルは、どうでも良さそうに呟いてから、漆黒の空間が、侵食する世界を見渡して、
「ん? 《ノルニル》……アナタ達の加護が、悪しき神に悪用されていますよ? え? どうにかして欲しい? それを、ワタシに頼みます? 面倒臭いですねぇ……ワタシ、下界なんてどうなっても構わないのですが。ええっ! 神界に戻ってきたら、好きなだけ眠れる快適な場所を用意する! オトコも好きなだけ⁉ ……ふふふ」
何も無い空を見上げながら、確かに何者かと会話をしていた。
……そして。
「《ノルニル》。ワタシを誰だと思っているのですか? ワタシは愛と美の女神。イシュタル。アナタに頼まれなくても、下界のおぞましい様相を見捨てられません。心が痛みました。力を貸しますよ」
――でも。
と、ソコで紅く瞳を煌めかせるマリカは、タレムが消失した穴を見つめて。
「ワタシはあくまで、女神。人間を救うのは、人間だけ。神子を作ろうにも、降臨したばかりで神力も万全ではありませんし。となると、現状《運命》の神力に抗えるのは《時》の……ふふふ。世界を救えるのは自分だけと、あの子は解っているのでしょうかねぇ。はぁ……なにはともかく、めんどくさそうです」
……その日。世界は、終わりを迎えた。
そして。世界は――×××
《空白》
――タレム様。起きてください。朝でございますよ。
五月二十五日と暦が下がる部屋で、銀髪の騎士が三度、目覚めるのであった。
(続く。ここで、三節。)




