「なろう批判を批判する」を批判しない
「なろう批判を批判する」というエッセイがランキングに上がっていた。僕はこの文章を批判する気はない。
この文章の内容に関しては、改行ばかり多く、意味も少なく、考える余地のないもので、「なろう」らしい文章だと言えるが、この文章は勝ちか負けかで言うと勝ちであろう。
というのは、この文章のアクセス数、ポイントなどを見ると、他のエッセイに比べて桁外れに多いからである。この文章が正しいかどうかという正当性を決めるのは「なろう」の読者であり、この社会では数は力であるから、その多寡によって様々な事は決定される。この文章は、なろう読者の多くによって支持されているのである。だから、この文章がくだらなかろうと、そうでなかろうと、この文章の勝利は目に見えている。
僕のエッセイもランキングに載る事があるが、アクセス数は遥かに少ない。それで事は決している。
だから、総じてこの文章を批判する事もないし、「なろう批判」を肯定するという事もない。というのは、そこで肯定するとか批判するとかいう基盤は、なろう読者の賛否に委ねられており、なんのかんの言っても異世界小説は圧倒的なアクセスがあり、そこから書籍化云々という色々なものが続いているからである。僕はそれらをつまらないと思う人間であるが、つまらないと思う人間が少数者である以上、それは主流とはならない。
だから、当該の文章が正しいかどうかという以前に、その文章の方向性に「なろう」というサイト、並びに多くの読者が存在する為に、その文章は「正しい」のである。ただ、一部の人は、この正しさに疑問を感じてはいるだろう。だが、その疑問もーー僕のようにーー「小説家になろう」というサイト内部で繰り広げられているので、結局の所、疑問よりも多数者の投票が勝利する。
というわけで、僕はこの文章を批判しはしない。むしろ、正しいと思う。僕もまた、「小説家になろう」というサイトを使っているという時点で、それらの趨勢を、何らかの形で肯定しなければならない。ただ、自分はそれらとは違う見方を取っているのだが、その見方は、多くの読者にとって無用なものであろう。そして、それが無用かどうかと考えるという事も、多くの読者にとってはやはり無用であろう。しかし、「小説家になろう」というサイトや、読者の趨勢も変化するだろうから、それが変化した時、「なろう批判を批判する」という文章が依然正しくあれるかはわからない。趨勢が変化すれば、その文章にもまた違った意味が与えられる事になるだろう。その時、人々は自分の姿を自覚するかと言えば、やはりしないだろう。人々は最後まで、己の姿を見ないだろう。