その5
「何それ?」驚いて涼一を見つめる賢児。
「話したとおりだ。俺は鷹司周子と結婚する。彼女は親父の跡を継ぎ、俺は今までどおりカワイコちゃんたちと自由気ままに楽しむ。利害が一致したので商談がまとまったんだ」
「商談て…そんなふうにするもんじゃないだろ、結婚て」
「別にいいだろ。彼女は政治家になりたいんだから。それに、おまえも俺も、親父の跡を継げとうるさく言われずに済むぞ。
…というわけなので、彼女から親父や西園寺の家のことについて聞かれたら、おまえなりの立場で教えてやってくれ。頼むな。あ、それから、まだ親父とお袋には内緒だからな。よろしく」
「兄貴! ちょっと待てよ!」
自分の言いたいことだけ言い終えると、さっさと部屋を後にする涼一に、賢児は呆然としていた。
“どうなってんだ、兄貴も鷹司さんも…”
* * *
「周ちゃん、最近ときどき叔父さんちに行ってるんだって?」風馬がためらいがちに周子に確認する。「和江さんがそう言ってたから。涼一に聞いたけど、あいつ理由を言わないんだ…」
「ええ。涼一さんのレクチャーを受けに行ってるの」
「レクチャー?」
「ええ。政治家一家の独特なしきたりだとか、事務所や党の内情、外からではわからないことを、とてもわかりやすく教えてもらってるの。大学の講義より面白いわ」微笑む周子。
「でも、涼一のこと嫌いなんじゃなかったの?」
周子はそれに答えず、コーヒーを一口すすった。
「卒業したら、このまま先生の事務所にお世話になれないかなって思うの」
「答えられない質問だった?」
「いいえ。答えたくない質問だっただけよ」
周子は窓の外に目をやり、通りの向こうの公園でサッカーに興じる子供たちを見つめた。
「周ちゃん、僕は…」
「でも、風馬さんには正直に答えなくちゃね」
周子は風馬の目を見ながら言った。
「涼一さんのこと、嫌いなままならよかった」
* * *
周子の研修期間はあっという間に過ぎていった。今日はその最後の日だ。
いつものように西園寺家の玄関を通され、涼一の部屋の前に来た周子は、ドアをノックするのを一瞬ためらった。不合格だったら、もう二度と、ここを叩くこともないのだ。
“涼一さんに会うことも…”
最初は、あんなに嫌いだったはずの涼一なのに、この部屋で話をすればするほど、もっと一緒にいたい、話を聞いていたいと思う気持ちが、どんどん膨らんでいった。
涼一の頭脳の切れは想像以上だったし、話についていくだけで精一杯だったが、涼一はひとつひとつ丁寧にレクチャーを重ねてくれ、とても親切な講師だった。
休憩時間にはだいぶ雑談もするようになり、その様子だけ見れば、本当の恋人同士のように見えたことだろう。
だが実際には、初めて部屋に周子を招きいれた日の暴言はどこへやら、涼一は周子に指一本触れもしなければ、部屋の外へ個人的に誘い出すこともなかった。
周子は、そんな状況を、少しずつ寂しく思うようになっている自分に気づいていた。そして、最初の話がすべてうまく運んだとしたら、自分は形だけの妻となり、彼がよそで好きな女性と過ごすことに目を瞑らねばならない。
結果がどっちに転んでも、今夜はちゃんと眠れないのだろうなと、ぼんやり思いながら、周子は部屋をノックした。
* * *
「ごめん。親父もお袋も今日は戻らないみたいだ。明日になるけど、いいかな」
「はい。…よろしくお願いします」涼一に深々と頭を下げる周子。
周子への涼一の判定は“合格”だった。すぐに保たちに報告に行こうとした涼一だったが、生憎と二人とも急用で家を空けていたようだった。
「あ、そうか。明日は天馬たちを迎えに行ってもらうんだっけ」
「ええ。でも、昼過ぎには戻れると思います」
風馬の双子の兄、天馬と、その妻の真央、そして息子でまだ生後半年の龍は、この3日間、真央の実家で過ごしていた。
ちょうど、そこから車で20分ほどのところにある、保と同期議員の有川の事務所へ用事を頼まれていた周子は、その帰りに天馬一家をピックアップして戻ってくることになっていたのだった。
「ごめんね。まったく天馬も、ついでだからとか言っちゃってさ。親父の事務所の人間は西園寺家の使用人じゃないっての」口を尖らせる涼一。
「いいんです。華織さんの具合がよろしくないということですし、皆さん、こちらに戻られたら、いろいろご心配かもしれません。ぎりぎりまで、のんびりなさっていただければ。…それに、龍くんの可愛い顔が見られれば、私も息抜きになりますわ」
「ありがとう。お手数だけど、よろしくね」
涼一は周子を引き寄せると、軽く口付けた。
「あ…」突然のことで動揺する周子。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「行って…きます」
周子は少しうつむきながら答えた。
* * *
「兄貴、マジなの?」
「だから、最初から真面目な話だと言ってるだろ」淡々と答える涼一。
「…彼女のこと、好きなのか?」少し心配そうに聞く賢児。
「賢児くんになんか、教えてあげなーい」涼一がおどける。「明日の晩にでも、親父たちに話すよ」
「…彼女は、兄貴のこと、好きなのか?」
賢児の問いに、しばらく黙り込む涼一。
「…今後、その質問は一切禁止だ」
涼一はそれだけ言うと、テレビのリモコンのスイッチを入れ、賢児のほうを振り向かずにニュース番組を見続けた。
* * *
保のところに警察から連絡が入ったのは、翌日の夕方だった。
天馬一家と周子を乗せたはずの車が予定の時刻に戻らず、皆、心配をしていたのだが、その心配は、最悪の結果となってしまった。
「車が崖から落ちたらしい。真央さんの遺体が、車から上がったそうだ…」沈痛な面持ちで保が言う。
「そんな……ねえ、あなた、天馬と龍は? 周子さんはどうなったの?」麻美が保の体を揺さぶる。
「まだ見つからないそうだ。車の中には3人ともいなかったらしい」
保と麻美の目の前で、涼一の顔が見る見る蒼ざめて行く。
「…捜してくれ…」
「涼一?」
いつもと様子が違う涼一に保が声を掛けると、涼一は保の胸倉をつかんで叫んだ。
「捜してくれ! 周子を捜してくれ! 頼むよ…頼むよ、親父! 頼むから周子を捜してくれ…」保の服を掴んだまま、涼一が膝から崩れ落ちる。
「兄貴!」賢児が駆け寄り、横から涼一を支える。
「涼一…」麻美は何が起こっているのか、理解できないという様子で涼一を見つめた。
「落ち着け、涼一。今、捜している。大丈夫だ。大丈夫だから…」
「兄貴と周子さん、付き合ってるんだ。…結婚するつもりで」賢児がか細い声でつぶやいた。
「そうなのか?」涼一の顔を覗きこむ保。
「頼むよ…親父、頼むから、お願いだから…」
その先は声にならず、嗚咽する涼一の姿に、保も麻美も、それ以上掛ける言葉が見つからずにいた。
* * *
翌日も、その翌日の朝も、涼一は一睡もせぬまま、何も食べぬまま、電話の前で両手を握り締めて、ソファーに座っていた。
「兄貴…少し寝たほうがいいよ。せめて何か口に入れないと、兄貴のほうが参っちゃうよ」
心配する賢児が、涼一を寝かせようとするが、涼一は賢児の声が耳に入らぬかのように、まったく動かない。
「連絡が来たとき、兄貴の体がやられてたら、迎えにいけないだろ!」
賢児が大声で怒鳴ると、涼一はゆっくりと賢児の顔を見上げた。
「迎え?…」
「そうだよ。そんな髭ぼうぼうのボサボサ頭で行ったら、周子さんに笑われるよ。ほら、少し休んだら、食事して、風呂入りな」
賢児はとりあえずベッドに涼一を連れて行き、横にならせた。だが、涼一は、じっと天井を見つめたまま、それ以上何も言わなかった。
そんな涼一の顔を傍らで見つめながら、賢児は思った。
“そんなに好きだったのか…”
いつも複数の女性が周りにいて、誰とも本気で付き合っているように見えない兄。自分が跡を継ぐのが嫌だから、ちょうどいい相手を見つけてきたと言っていた兄。
そして、いつでもクールだった兄の、あんなに取り乱した様子に、賢児は正直ショックを受けていた。それはおそらく、保や麻美も同じだろう。
“とにかく、3人とも無事でいてくれ。頼む。頼むから…”賢児は心の中で何度も手を合わせた。
その日の昼過ぎ、麻美が部屋へ駆け込んできた。
「涼一! 見つかったわ! 周子さんと龍が無事に見つかったの! 急いで仕度して!」
麻美の声に、ベッドから素早く起き上がり、浴室に入る涼一。すぐにシャワーの音が聞こえ始める。
「あ、兄貴…」あまりの涼一の素早さに、あっけに取られる賢児。「母さん、二人は無事なの? 怪我は?」
「怪我はないわ。大丈夫よ。ただ…」
浴室のほうを見ながら、麻美の顔が曇った。
* * *
「お義兄さん! こっちよ。龍はここ。無事よ!」
「龍!」麻美の腕から龍を受け取る躍太郎。「よかった…おまえだけでも、無事でよかった…」躍太郎の頬を涙がつたう。
「周子さんがね、守ってくれたようなの」麻美も涙ぐむ。
「周子さんは?」
「今、ちょうど検査の時間だから、皆で病室で待っているところ」
「怪我はないのかい?」
「幸い、目立つ怪我はなかったんだけど…記憶が…自分の名前しか覚えていないらしいの」目を伏せる麻美。
「そうなのか…。天馬たちと一緒だったせいで、申し訳ないことになってしまったな」
「事故のショックらしいわ。一時的なものだといいんだけど…。そうだわ、華織さんのほうはどうなの? まだ眠ったままなの?」
「ああ。村上先生は、呼吸も安定しているし、大丈夫だと言ってるが…このまま覚めないほうが幸せかもしれない」
「そうね…天馬も早く見つかるといいんだけど」
麻美の目から涙が零れ落ちると、躍太郎は小さくつぶやいた。
「あいつは、もう無理だろう」
* * *
病室では、周子の両親と保、涼一、賢児の5人が、検査室から戻る周子を待っていた。
「本当に、この度は申し訳ございませんでした」頭が膝につきそうなくらいに頭を下げる保。
「いえ、先生もいろいろとご心痛、お察しいたします。娘は幸い無事でしたから…」周子の父親も保に頭を下げる。
その時、ドアが開く音がした。皆が一斉に振り返る。
「周子!」周子の母親が、ハンカチを握り締めながら、車椅子に乗った周子に駆け寄る。「よかった。よかった、無事なのね、よかった…」
だが、当の周子は不思議そうな顔で母親を見つめている。意識もぼんやりしているようだ。
「おかあさん、少し落ち着かれてください。先ほど電話で少しお話しましたように…まだ、娘さんの記憶は万全ではない状態です。今のところ、覚えているのはご自分の名前だけです。まあ、どうぞ、そちらへ」
周子の詳しい状態を説明しようと、担当医がそばにあったテーブルに両親を招いて座らせた。
車椅子を押していた看護婦が、テーブルのほうに車椅子を寄せようとしたとき、涼一が周子の前に歩み出て、彼女の手を強く握った。
「周子。俺だ」
その声に、ハッとしたように涼一を見つめる周子。
「涼一…さん?」周子が車椅子から立ち上がる。
「周子!」思い切り周子を抱きしめる涼一。
「涼一さん…涼一さん…」
うわごとのように何度も涼一の名前を呼びながら、ポロポロと涙を流す周子の姿を、当の二人以外の人間は、しばらくの間、あっけに取られながら見つめていた。
* * *
「まあ、あの時、一番びっくりしてたのは、あの医者だろうなあ」腕組みをして頷きながら言う賢児。「二日間も検査して、名前しかわかりませんからって言った傍から、兄貴の名前呼んじゃうんだもんなあ」
「愛の力ってやつですね…」うっとりしたように呟く玲香。
「俺は兄貴が泣くところ、今まで3回しか見たことがない。
お袋が亡くなったときと、紗由が生まれたとき、そして周子さんが行方不明になったとき。
いつだってクールだった兄貴があんなにうろたえるなんて思わなかったし、そんなに周子さんが好きなんだとは思ってなかったんだ。彼らはギブアンドテイクの契約婚をするつもりなんだとばかり思ってたから」
「二人とも、きっと最初から、お互いのことが気になって仕方がなかったんでしょうね。
…冷静に考えると、二人とも結婚のメリットがさほどないですよね。結婚したところで、周子さんは必ず先生の後継者になれる保証はないし、涼一さんにしてみれば、別に周子さんを後継者にしなくても、楡沢さんをプッシュすれば済むことです。
実際、龍くんの代まで待つという話になってますものね。先生がご健在の間は、急ぐ案件ではありません。それに、結婚後に浮気したければ、認めようが認めまいが、見つからないようにすればいいだけですから」
「そうだよな。何で俺、騙されちゃったんだろう…」小さく溜め息をつく賢児。
「人生の大イベントを掛けた、真剣なゲームだったからじゃないですか」
「そうか」
「そうです」
「じゃあ、次は俺たちの番だな、イベント」
賢児がそう言うと、玲香はうれしそうに笑って頷いた。
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