その4
「この辺、カーブが急なんですよね。何年か前に大きな事故があったらしくて、それから看板できたみたいです」玲香が窓の外を見る。
「うん、知ってる。それ、天馬の事件」さらっと言い放つ賢児。
「え?…あ、す、すみません…」どう反応していいか戸惑う玲香。
「いいよ、そんなに考えなくても。確かに危ないよなあ、このカーブ続き。ガードレール越えたら、崖の下は海だしなあ」
カーブ地帯を抜け、しばらく直線道を走ったところで、玲香が口を開いた。
「周子さんが同乗なさってたんですよね。それで、龍くんと一緒に助かったって」
「ああ。状況からすると、周子さんが、崖から落ちる前に、龍を抱いて外に飛び出したらしい。周子さんがしっかりと抱いていてくれたおかげで、龍は無傷だった。
でも、周子さんのほうが、ちょっと大変で…」
「お怪我でも?」
「いや、怪我は擦り傷程度だったんだけど…うん。彼女、事故のこと覚えてなくて、状況がまったくわからなかった。
しかもさ、周子さんが飛び降りて倒れていた地点と、しばらく走った車が崖から落ちた地点の間に県境があったんだよ。
所轄の県警が違っているもんで、最初は一緒の事件だってわからなくってさ、周子さんと龍のいる病院に行ったのは事件の2日後だったよ」
「そうだったんですか…」
「でも、悪いことばかりじゃなかったっていうか、あの一件のおかげで兄貴たちは今幸せなのかもしれないし」
「どういうことですか?」
「…すごいんだぜ。兄貴も周子さんも。…来週へつづく」
「あ、いいところで、つづくは駄目です。教えてください」ふくれる玲香。
「しょうがないなあ。じゃあ教えるか。実はさ…」
賢児は、その頃のことを話し始めた。
* * *
「叔父さん、この子なんだけど」
風馬が保にそう言うと、後ろにいた女性が一歩前に歩み出て、保に挨拶をした。
「初めまして。鷹司周子と申します。T大学法学部政治コースの4年です。よろしくお願いいたします」深く頭を下げる周子。
「初めまして。西園寺保です。風馬がお世話になってます」
「いえ、こちらこそ、風馬さんにはいつもお世話になっております」
「事務所でのアルバイトをご希望とのことですが」
「はい。…ぜひ、先生の事務所で働かせていただければと思いまして」
「そういう道を志しているんですか?」
「…正直、とても興味があります。ただ、学問として学ぶのと、実際に携わるのとでは、かなりの違いがあるのではないかとも思いまして、実地で経験してみたいんです」
「事務所のスタッフにやってもらっていることの大半は、細かい雑務だけど、それでもいいのかな」
「もちろんです。コピー取りからダンボール運びまで、父の事務所でも慣れてますので、何でもお言いつけください」
自信満々に笑う周子に釣られて、保もつい笑みがこぼれた。
「お父さんの事務所というのは…」
「彼女のお父さん、弁護士さんなんだ。法律事務所でバイトしてたんだよ」説明する風馬。
「ああ、そうですか。そちらのバイトはよろしいんですか?」
「はい。もちろんです。父にも了承済みです」
「ところで…お父様というのは、もしかして、鷹司慶介先生ですか?」
「はい。父をご存知なんですか?」周子が驚く。
「もちろんですよ。ご高名な弁護士さんですからね。同僚にも、お世話になったことがある人間がおります。先日も幹事長のパーティーでお会いしましたよ。いつも、会釈程度で、ゆっくりお話したことはありませんけどね」微笑む保。
「光栄です。うちは、母が先生の大ファンで、先生の甥子さんとお友達になったと話したら、それだけで大騒ぎだったんです」
「それはそれは。お母様にもよろしくお伝えください。もちろん、お父様にもね。…バイトの日数や時間等、詳しいことは、うちの家内と相談して決めてください」
「ありがとうございます!」思い切り頭を下げる周子。
「ありがとう、叔父さん」
風馬はうれしそうに礼を言うと、周子を保の妻、麻美のところへと連れて行った。
* * *
「風馬さん、ありがとう。西園寺先生の事務所に入れるなんて、夢見たい」周子はうれしそうに笑うと、風馬の手をぎゅっと握り締めた。
「…あ、いや。僕は、少し手伝いをしただけだよ。ああ見えて、叔父さんはけっこう厳しい人だから、周ちゃんが気に入られたってことだよ」
「ええ、そうかしら。だったら、よけいに嬉しいなあ」ふふふと笑う周子。
「…でも、ごめんね。勘違いされちゃったかもしれない。僕の彼女だと思われちゃったかもしれない」
「…そうなの?…ああ、そうかもしれないわ。あんなふうに、いきなり紹介しますと押しかけるなんて、誤解されちゃったかも。全然関係ないのに、ごめんなさいね、風馬さん」
申し訳なさそうに、周子が頭を下げる。
「い、いや、そんなの別にいいよ」
笑って返事をしながら、風馬は周子の言葉が、重く頭の中を回り始めるのを感じていた。
“そうだよな…周ちゃんにとって僕は、ただの…”
「そうだ。次の個展の会場って決まったのかしら。ゼミの子たちがね、見たいって言ってるの。私が慕う兄貴分で、超イケメンだって言ったら、みんな色めき立っちゃって」
「そんな触れ込みだと、会ったらがっかりされちゃうよ。あ、今度はね、原宿なんだ。もうすぐご案内のカードも刷り上るから、よかったら皆さんでどうぞ」
「ええ。ぜひ。じゃあ、今日はこれで失礼します。また来週」
周子はそう言って微笑むと、手を振りながら、その場を後にした。
風馬は、その姿をずっと見つめながら、幸福感と寂しさがせめぎ合う中で、しばらく立ち尽くしていた。
* * *
周子が保の事務所でのバイトを初めて2週間、内閣が解散したため、次の選挙に向け、事務所はにわかに多忙さを増していた。周子は卒論指導とゼミの時間以外、ほとんどの時間を事務所で過ごしているような有様になっていた。
「こんにちは!」
若い男性が、女性を連れて事務所に入ってきた。
「涼一坊ちゃま!」
事務局長の平岡が声を上げる。
「里美さん、お久しぶり」微笑む涼一。
「今日は…どうなさったんですか?」
「ああ…前回のウグイス嬢さん、他に取られちゃったんでしょ。いい子がいるよって言ったら、親父が里美さんのところに連れて来いって。
彼女、沢口ユリさん。アナウンサー学院在学中で、司会の経験はけっこうあります。使えそうだったら、使ってあげてください」
「沢口です。よろしくお願いいたします」
「まあ。キリッとした、きれいなお声だわ。…じゃあ、こちらへどうぞ」
「はい」
ユリは、涼一にウインクしながら、平岡と一緒に奥のブースへと消えて行った。
残された涼一が辺りを見回すと、中央のテーブルで見慣れない女の子がビラを四つ折りにしながら、こちらを見つめていた。
「…君は、新しいバイトさん? 見慣れない顔だね?」すかさず近づく涼一。
「あ…あの、鷹司周子です」立ち上がって涼一に挨拶する周子。
「ああ、風馬のガールフレンドの政治家志望さんだね」涼一が周子のことを、じろじろと眺め回す。
「確かに風馬さんにご紹介していただきましたが、ガールフレンドとか、そんな関係ではありません」涼一の不躾な視線に、少し不機嫌そうに答える周子。
「ふーん、そう。僕は西園寺涼一。当分忙しいと思うけど、よろしくね。…そうだ。風馬とそういう関係じゃないんなら、僕と付き合わない?」
「はあ?」周子が思わず眉間にしわを寄せた。
「僕と付き合わない?」悪びれた様子もなく繰り返す涼一。
「あの…さっきの女性とお付き合いなさってるんじゃないんですか?」ユリが涼一にウインクする瞬間を見てしまった周子は、かまをかけた。
「ああ」
「ああ、って」
「他にも二人いる。でも別に、付き合う女性は一人だけなんて決まってないでしょ。奥さんは一人じゃないとまずいだろうけど」
周子の前に座り、そばにあったボールペンを器用にくるくると回す涼一。
「お断りします。そういう不誠実な男性、大嫌いですから」
視線を手元のビラに戻し、せっせと折り続ける周子。
「そうか…。君の嫌いな男性のタイプはわかったけど、好き嫌いをはっきり言うだけじゃ、政治家なんてなれないよ。
それに、この場所でそんな不機嫌な顔されたら困るなあ。今後どんどん、人の出入りが激しくなるし、敵方の人間が様子を探りに来ることだってあるしね」
「あ…」涼一の言葉に動揺したように彼を見上げる周子。「申し訳ありません」
詫びながらも、周子は心の中でどこか納得がいかなかった。“なにさ。息子が派手な女性関係だなんて、それこそ先生のイメージダウンじゃない…”
「なーんか、納得行かないって顔だね。僕の女性関係が問題になったら、親父に迷惑かかるとか、そんな感じ?」にっこり微笑む涼一。「心配いらないよ。全員、他の女がいるのを納得づくで付き合ってるし、選挙の前後は特別な用事がない限り会わないことにしてる。…さっきの彼女は特殊技能の持ち主だから、例外ね」
「…そうですか。ずいぶんと人のあしらい方がお上手なんですね」皮肉りながら、周子は思い切り微笑んで見せた。
「そうそう。その調子。うーん、でも、君は目の力が強いから、もっと優しい目をして笑わないと、脅されてるみたいな気分になるなあ。政治家って、全方向からいろんな人間にチェックされるんだよ。鏡見て研究したほうがいい。
男は、美人というだけで票を入れるかもしれないけど、女性に好かれる笑顔が作れないと、この業界やっていけないよ」
「あ、あの…」
「さてと、僕も自分のスケジュール確認しないと。…じゃあね」
涼一は周子の言葉を待たずに、その場を離れ、平岡たちが消えたブースへと歩いていった。
“何なの、あの人!”周子は腹立たしい気持ちで一杯だった。“誠実で紳士的な先生と、優しくてしっかり者の奥様の息子とはとても思えないわ。選挙前だけ会わなくたって、女癖悪いことに変わりはないじゃない!”
だが、その反面、彼に言われたことが一理あることにも気づいていた。
“女性に好かれる笑顔か…”周子はテーブルの下のバッグからコンパクトを取り出すと、膝の上に乗せ、そーっと鏡を覗き込み、恐る恐る笑顔を作った。“ああ、でもやっぱり頭に来る!”
周子はコンパクトをしまうと、下を向いたまま、ビラを折り続けた。
* * *
「とても西園寺先生の息子だなんて思えないわ。不躾で女癖が悪くて…従兄弟の風馬さんには申し訳ないけど、ああいう人、全然理解できません」
周子はふくれっつらをしながら、風馬に訴えた。
「昨日だって、“はい、プレゼント”とか何とか言って、事務局長にリボンのついた包みを渡すんですよ。なんか、こう、節操がないっていうか」
「気を悪くさせちゃったら、ごめんね。あいつ、頭が良過ぎるっていうか、物言いがね、ちょっとシニカルなんだ。でも、根はいいヤツだよ。家族思いだし。それに、あいつが事務所に顔を出すのは、選挙期間中だけだろうから、しばらく我慢してくれれば、それで済むよ」
「…そうですか。わかりました」
「じゃあ、これ、追加の案内状。5通ぐらいでいいかな」
「ええと…10通いただけますか?」周子は風馬から、次の個展の案内カードを受け取ると、丁寧にバッグにしまいこんだ。
「ありがとうございます。それでは、バイトに行ってきます」
「あんまり、血圧が上がり過ぎないようにね」
やさしく微笑む風馬に、周子は明るく手を振って、彼のアトリエを出た。
風馬は天井を見上げながら、ふと思った。
“周ちゃん、昨日も今日も、涼一のことばっかりだな…”
* * *
「そうなのよ。ほら、涼一さんはもう25だから、衆院には立てるでしょ。選対委員長から直々にお話があったって、もっぱらのウワサよ」
「私も聞いたわ。でも、涼一さんはその気がないんでしょ」
「あら、やっぱりそうなの?」
「だって、涼一さんはあっちの有名な科学雑誌に論文掲載されちゃうような人なんでしょ。このまま大学に残って研究者になるんじゃないのかしら」
「末はT大教授ってことね。…街頭で声を張り上げるよりは、そっちのほうが、お似合いかもね」
保の事務所では、涼一のウワサで持ちきりだった。選挙の最中だというのに、もう次の候補者に白羽の矢を立てるのが当たり前だと言わんばかりの様子に、周子は話を聞きながら、いささか頭がくらくらした。
「保先生くらい女性票が見込めそうなのにねえ。もったいないわ…」
その場にいた女性たちが一斉に笑う。
「周子ちゃんは、どう思う?」
「え?…私にはまだよくわかりません…」
「涼一さんと賢児さん、どっちが好み?」
「あ、あの…私は先生の下で政治の勉強をしたいだけですから…」うつむく周子。
「周子ちゃんは真面目なんだから、あんまりからかっちゃダメよ」平岡が皆に注意する。
「賢児さんも、その気なしなんでしょ。このままだと困るわよねえ」
「彼は、先生から向かないって太鼓判押されちゃったみたいよ」
「へえ。…よくわからないわねえ、先生の判断基準」
「お聞きしたらね、“私みたいに性格が悪いほうがいいんですよ”だって」
再び笑いに包まれる一同。
「でも将来的にどうなさるのかしら。甥子さんたちも、全然その気なしなんでしょう」
「奥様、お姉さま、お姉さまのご主人…あとは可能性があるとしたら、涼一さんの奥さんか、賢児さんの奥さんてところかしらね」
「息子の嫁っていうのも、ありなの?」
「隣の選挙区の石川先生のところは、先生の後継者で、市民運動家だかなんだか、長男の嫁が出てるじゃない」
「そうねえ。そういうパターンもあるのね。…ねえ、周子ちゃん、政治家目指してるんなら、涼一さんのお嫁さんになっちゃえば?」
「え?…」
周子が目をぱちくりさせていると、当の涼一が麻美と共に事務所に戻って来た。
「ただいま戻りました」にこやかに声を出す麻美。
「今、僕の名前が聞こえたような」涼一が辺りを見回す。
「おかえりなさいませ」皆が一斉に二人に声を掛けた。
「そうそう。昨日、涼一さんが置いていってくださったハンドクリーム、すごくいいですわ。べたつかないし、長時間もつし。ありがとうございました」平岡の横にいた年配の女性が礼を言う。
「そうですか。よかったです。この時期、普段よりも紙を扱うことが増えるでしょうから。皆さんのお美しい手が、親父の選挙のせいでカサカサになったりしたら、申し訳ないですからね」皆を見渡して微笑む涼一。
“そうか、あれ…ハンドクリームだったんだわ”涼一の行為を悪意で捕らえていた周子は、恥ずかしくなって下を向いた。
「鷹司さん」涼一が周子に声を掛ける。
「は、はい」驚いて返事をする周子。
「バーターっていうわけじゃないんだけど…後輩が法律事務所でバイトしたいって言ってるんだ。お父さんに話だけでも、してみてもらえないだろうか」
「はい…それはかまいませんが」
「じゃあ、ちょっと奥でいい? 彼の履歴書を預かって来てるから」
涼一は周子を奥の応接スペースに呼び出した。
* * *
友人のバイトに関する話を一通り終えると、涼一が言った。
「さっきの話、悪くないと思わない?」
「え?」
「西園寺保の後継者になる最短距離だよ。僕の嫁さんになるのが」
「な、何をバカなことをおっしゃってるんですか」厳しい顔つきになる周子。
「…そうかなあ。まあ、ここで何年か勉強して、自分で地盤築くのもいいだろうけど、君、せっかちそうだからさ」
「別にせっかちなんかじゃありません」
「すぐにいらつくのって、十分せっかちだよ。
…そうそう、で、本題に戻るね。第二秘書のお袋は、立つ気なんて毛頭ないから、こっちに置いておくにしても、第一秘書の楡沢さんがいるし、候補者になるまでだって、かなり時間かかるだろうね」
「それはそうですが、私にも勉強する時間は必要ですし…」
「仮に君が将来、秘書になったとして、君みたいな美人を立候補させたら、マスコミに騒がれるよ。親父の愛人だろうって。長男のスマートな女癖なんかより、ずっと面白そうだからねえ」ニヤリと笑う涼一。「男だったら、よかったのにね」
「涼一さんの考え過ぎです」ぷいと横を向く周子。
「悪いけど、僕のほうがこの世界のことを知ってる」
「…私たちの結婚は、私にとってはメリットがあるのはわかりました。でも、涼一さんにとってのメリットは何なんですか?」
「僕が配偶者に求める条件は二つ。僕の行動に制約を加えない人間。それから、西園寺家に貢献してくれる人間」
「一つ目の意味がよくわかりません」
「僕の女性関係を黙認してくれる嫁」
「じゃあ、私は問題外じゃありませんか」
「いや。君は割り切ってしまえば、かなり上手に振舞ってくれそうだ」
「勝手なこと言わないでください。私は浮気公認なんて嫌です」
「それは好きな相手と結婚する時の話だろ? 君は僕のことを好きなわけじゃない。君の側のメリットは十分過ぎると思うけどね。
…僕にとっても都合がいい。お袋は君のことをかなり気に入っているようだし、親父ももちろんだ。事務所の人間にも評判がいいし、有名弁護士のお嬢様だ。家族もきっと喜んでくれる」
涼一の言い分に腹を立てながらも、周子は、もしかしたら、それもありなのではと心の片隅で思っていた。世の中に仮面夫婦などいくらでもいる。現に、自分の両親もそうだ。
だが、だからこそ周子は、保と麻美のような仲のいい夫婦に心の底から憧れたし、自分もそんな家庭を築きたいと思っていた。
「…私は、保先生たちみたいに、お互いを思いやる結婚がしたいです」か細い声で言う周子。
「そうか…。わかった。じゃあ、この話はここまでだ。バイトの件、よろしくね。じゃあ」
涼一はそれだけ言うと、足早にブースから出て行った。
* * *
それから数日間、周子の頭の中では涼一の言葉がぐるぐると回り続けていた。
周子は何度も自分に言い聞かせた。
“何を迷う必要があるの。あんな馬鹿馬鹿しいこと、本気にするなんて、どうかしてる。だいたい、彼は自分をからかっているだけかもしれないじゃない”
だが確かに、涼一の提案が最短距離には違いなかった。
周子の両親は彼女が政治の道を志すことを快く思っていない。父親の人脈を使った地盤作りというのは実際問題、難しかった。
いったん、父親と同じ道を歩んでから、その中で少しずつ築いていくか、上級公務員になって官僚から政治家への道へ進む。選択肢はそんなところだろう。
普通は、そうやって地道に築き上げていく。それに対して、政治家の家に入ることにはアドバンテージがある。
自分の性急な考え方に少しいらつきながらも、周子は涼一の提案が、どんどん自分の中で大きな位置を占めていくのに気づいていた。
そして、涼一自身への嫌悪感というものが、その過程でまったく存在してないという事実に、周子は気づかずにいた。
* * *
「きっとOKしてくれると思ってた」涼一はコーヒーをすすり終えると、伝票を握り締めながら言った。「行くよ」
「ど、どこへ?」
「僕の部屋」
「涼一さんのお部屋に行ってどうするんですか?」
「体の相性を確認する」
「な、何ですか、それ」思わず大声を出す周子。
「結婚するのに他人のままなわけ?」びっくりした顔の涼一。
「そ、それは…でも、まだ付き合ってもいないのに…」
「けっこう、意気地がないんだね。もっと肝が据わってるかと思ったよ。政治家を志すくらいなんだから」涼一が、少しバカにしたように笑った。
「行けばいいんでしょ。行きます!」周子は怒って席を立つと、早足で店を出た。
* * *
「僕が脱がせる? それとも自分で脱ぐ?」
「服ぐらい、自分で脱げます」
そうは言ったものの、こういったことに経験がなかった周子は、緊張と恐怖感とで涙声になっていた。
上着を脱ぎ、ゆっくりとブラウスのボタンに手を掛ける周子。二つ目のボタンまではずしたところで、指先が激しく震えて、うまくボタンをはずすことができない。
「…しょうがないなあ」
周子の前に立ち、ボタンに手を掛ける涼一。
だが、その手は、周子がやっとはずしたボタンを手際よくはめていく。
驚いて涼一を見つめる周子。
「もういいよ。無理やりするほど悪趣味じゃない」涼一はドアに向かって歩き出した。
「待ってください! ちゃんと、脱げますから」
「ちょっと、ここで待ってて。すぐ戻るから。…服は着たままでいい」
涼一は部屋を出て行った。
取り残された周子は、ベッドにぺたんと座り込んだ。まだ心臓がばくばくいっている。
しばらくして、少し気持ちが落ち着くと、周子はベッドから立ち上がり、目の前のアコーディオンカーテンを開け、その向こうにあるリビングスペースを見回した。
入ってきたときは周囲を気に留める余裕もなかったが、初めて入った涼一の部屋は、高い天井まで続く壁一面の本棚が印象的な、いかにも研究生活を送っている人間のそれだった。
“本当に服を着たままでいいのかしら…”
涼一が機嫌を損ねて、この話はなかったことになってしまうのかもしれない。
周子は、ピークに達した緊張感から開放されてホッとする反面、チャンスをものにできなかった自分を後悔した。
5分ほどすると、涼一がワゴンテーブルを押しながら部屋に入ってきた。部屋に紅茶の香りが広がる。
「そこに座って」涼一は掌でソファーを指し示す。
「は、はい」
再び緊張した面持ちになる周子の目の前に、涼一はティーカップを置いた。
「これから3ヵ月間、週に2回、ここで僕の講義を受けてもらう。最後にリポートを書いてもらって、僕が合格と認めたら、正式に君を、結婚を前提として付き合っていると両親に報告しよう」
「あ、あの…」何が何だかわからないというふうに、涼一を見つめる周子。
「勉強する時間が必要だって、自分で言ったでしょ? 政治家の家に育った人間に比べたら、どうしたって基礎知識が少ないからね。だから協力して、その勉強の効率化を図ろう」
「は、はい…。いいんですか?」
「何が?」
「…相性を確認せずに、そんなことまでしていただいても」真っ赤になって、うつむく周子。
「見込みがなさそうだと思ったら、途中で終わりにするからね」涼一は、周子の問いには直接答えない。「僕だって、やたらな人間を親父の後継者として推薦するわけにはいかない。…それに、不勉強な人間は個人的に好きじゃないんだ」
「わかりました」きゅっと唇をかむ周子。
「講義と言っても、僕が君に質問をして、答えてもらって、それに対して僕が解説をするだけだ。
つまり、君の答え次第で、僕から引き出せる情報の量は変わってくることになる。質問の答えがよくわからないときは、正直にそう言ってくれ。ここと地下の書斎にある本、インターネット、知人への電話…何でも使って調べた上で答えてくれればいい」
「はい」
「じゃあ、まずは政治家になりたい理由から聞かせてくれないかい」
こうして、いささか不思議な、涼一による周子への教育期間が始まった。
* * *




