その19
部屋にはしばらく重苦しい空気が流れていた。
さすがの紗由も、涼一の膝の上でおとなしくしている。
「ねえ、伯母さんの力で彼女の“焔”を封じられないの?」賢児が華織に尋ねた。
「封じ切れないものを封印しても仕方がないわ」
「伯母さんにもお手上げのものなんて、あるんだ」賢児が少しわざとらしく笑う。
「責任が取りきれないということよ。私が亡くなったときに出て来られても困るでしょう? “焔”が、ちゃんと納得して消えてくれないと意味がないわ」
「そうですよね。それに多重人格に関しては、必ずしも消えなくても、共存できればいいという考え方もあります」玲香が言う。
「共存…。そうね」華織がうなづく。
「そもそも、“命”の質が落ちたのは、彼女の父親の後の総帥、今の総帥になってからだし、質が落ちて数を減らさざるを得なくなったから、妙な統合が始まったりしたのよね。質を上げるための方策を練りもせずにね。
“焔”は自分に権力を集中させるために、一部の“命”の強化を狙ったようだけど、それが“弐の命”への教育係として養成されたものなら、あながち間違いとも言えない。要は、今一度システムを見直す時期に来ているのよ」
「じゃあ、“焔”を説得して、こっちの味方にすればいいじゃないか」涼一が言う。
「そうだよ。説教…いや、論理的な説得だったら、兄貴にやらせればいいよ。絶対に落ちるって」賢児が拳を握り締めた。
「もはや、“焔”だけの問題じゃないんだ」保が口を開く。「“焔”は、元々潜伏していた不穏分子に利用されていると考えるほうが自然だ。小娘ひとりのアイデアに乗ずるほど、甘い世界じゃない」
「政治の世界と同じということですね」周子が厳しい表情で答えた。
「じゃあ、なおさらだよ」涼一が保に言い返す。「“焔”は不穏分子の情報を握ってるんだ。味方につけて、そこからつぶしていけばいいじゃないか。…泳がせるにしても、情報を得られるように策は練るべきだ」
「ああ、その通りだ。純粋に機関と“命”の話で済むならばな。だが、今大切なのは、澪さんと誠くん、そして風馬の気持ちだ」
保の言葉に一同は静まった。
「ねえ。風馬は、彼女のこと、“焔”のこと、知らなかったんだよね?」賢児が尋ねる。
「ええ、知らなかったわ。知っていたのは、誠さん以外では、躍太郎さんと保ちゃんと龍だけ。
風馬は、機関から思念を探られないようにと思って、ガードを強めさせたし、私のほうでも皆の力を随時調整してたから…」
「翔太が“鎧”と表現していた、皆さんの状態はそれだったんですね。ぴかぴかの色も見えづらいって言ってました」
「さすがは翔太くんだわ」華織が楽しそうに笑った。
「…伯母さん、今回の件、風馬にとっては“お試し”とやらの一部なのか?」涼一が聞く。
「ええ、そうよ」
「悪いけど、俺も“命”のシステムとやらを壊したくなってきたよ。結局、辛い思いをする人間だらけじゃないか」涼一はいらだたしげに席を立った。
「涼一さん!…あ、すみません、皆様」
涼一の後を追い、周子も部屋を出て行った。
「姉さん、すまない…」
「いいのよ、保ちゃん。涼ちゃんてば、風馬のこと快く思ってなくても当然なのに、あんなふうに…。優しいのね」
華織は天井を見上げた。
「でも、保ちゃん。長期戦になりそうだわ。本番はこれから…」
* * *
風馬は、華織が仕事部屋と称する部屋に入って行った。
「風馬さん…」ベッドサイドにいた誠が立ち上がる。
「遅くなってごめんね。向こうの部屋に行ってくれるかな。母が呼んでる」
「そうですか…すみません、じゃあ、お願いします」
誠は、ベッドで眠っている澪の頭を撫でると、部屋を出て行った。
「澪…」
風馬は、誠のいた椅子に座ると、澪の手を握り、澪に向かって話しかけた。
「いや、“焔”…、もう一度だけ話をしないか。僕は君に感謝しているよ。君は今まで澪を守ってくれた。君がいなかったら、澪は狂っていたかもしれない。君とは意見が合わない部分もあるだろうが、澪を守りたいという気持ちは、僕も同じだ」
風馬は、澪のネックレスとブレスレットを、ゆっくりとはずした。
「これなら、いいだろう?」
風馬が澪の手を握ると、澪はゆっくりと目を開けた。
「いいの? こんなことして」
「いいさ。君が誰かに危害を加えるようなら、僕がその場で君を処分する」
「澪に後遺症が残るよ、そんなことしたら」
「今さら何を…」風馬がくすりと笑う。「後遺症も含めて、僕は澪と生きていくさ」
「おい、一生面倒を見るつもりなのか? 澪と結婚しないのが、西園寺家が兄さんに協力する条件じゃなかったのか」
「条件なんて絶対不変なわけじゃない」
「ふーん。澪が聞いたら喜ぶな」“焔”は嬉しそうに笑った。
「君は、誠くんや母をどうしたいんだい?」
「どうって、彼らに危害を加えるつもりなんてないよ。加えようとしても、力の差があるし、そもそも無理だ。ただ、淘汰に協力してもらいたいだけ」
「母も今のシステムには疑問を感じている。昔、“弐の命”をやっていたころとは、あまりにも様子が違うらしいからね。
でも、君に権力を集中させて、君が思うような世界を作ることには協力できないよ。…澪もそんなことは望んでいないはずだ」
「澪が望まないなら、自分はここにはいない」“焔”は、くくっと笑った。
「…確かにね。でも、君は利用されているだけだ。前総帥の娘という立場、“バラエティ”の能力、いや、“ストレート”なんだな、君のほうは。それをネタに担がれているだけだ」
「だったら何だ。あいつらが牛耳ったところで、“命”が分裂してシステムが機能しなくなるだけだ。いいじゃないか。それで、こんなくだらないシステムが空中分解してくれるなら。いっそ別の勢力が牛耳ってくれたほうがいい」
「…そういうことか。最終目的はシステムの破壊か。君は頭がいいな。…と言いたいところだが、まだ読みが浅いよ。母さんレベルの“命”が、奴らの味方について、君を見限ったなら、君は道筋を引いただけ、美味しいところは彼らに持って行かれることになるんだ」
「華織さんレベルなんて、今現在は存在しないよ」バカにしたように“焔”が言う。
「母さん自身が、奴らについたらどうなる?」
「え?」
「あの人を甘く見ないほうがいい。父さんも含めて、必要とあらば冷酷になれる人たちだ。君とは訓練されてきたレベルが違うんだよ。龍でも十分そうなんだからな」
「脅すのか…」
「いや、違うよ。システムを壊したところで、君の恨みは晴れないし、澪も救われはしない。澪のような人間を作らないシステムを作ること、澪の姉さんのような人間を作らないようにすることが大事なんじゃないのか?」
「…おまえに何がわかる。炎の中で、澪は焼かれたんだ」
風馬は、すすり泣く“焔”の髪をなでると、掛けていた布団を取り、彼女のブラウスのボタンをはずした。
「な、何するんだ!」
「確認だよ」
風馬は抗う“焔”をうつぶせにし、ブラウスを途中まで脱がせると、肩から背中にかけて焼け爛れた痕に、そっと触れた。
「辛かったんだね…」
風馬の目から落ちた涙が、その痕に滴り落ちる。
「やめろ…」
風馬がその痕にそっと口付けると、“焔”は一瞬体を硬直させた後、ぐったりとし、再び眠りについた。
* * *
「皆さん、ご迷惑をおかけして、本当にすみません」
リビングに入ってきた誠が深々と頭を下げていたところへ、周子が涼一を連れて戻ってきた。
「涼一さん、周子さん、申し訳ありませんでした。紗由ちゃん、ごめんね。怖い思いをさせて、本当にごめんね」
誠が紗由の前に膝間づいてそう言うと、紗由は元気に答えた。
「かあさまが、しんかんせんしてくれたから、おもしろかった!」
一同が周子を見る。
「いったい何したの?」怪訝そうな涼一。
「二人がつかまらないように、両脇に抱えて走って逃げました」
しらっとした顔で周子が答えると、その様子を想像する一同。保がくすりと笑う。
「奏子ちゃんが、紗由にすごかったねって何度も言ってたのは、それか」賢児が納得したように頷いた。
「まあ、そういうわけですから、あまりお気になさらないで下さい」涼一が誠に言う。
「ありがとうございます。…華織さんのご厚意に甘えてしまいましたが、やはり無理があったようです。澪は、それなりの施設で面倒を見てもらおうと思います」
「あら。それは困るわ。風馬のお嫁さんがいなくなっちゃう」
「華織さん…。ご存知でしょう。あれは、人に怯えていた澪に、何か希望のようなものを与えてやりたくてついた嘘なんです。“命”の力で察知したものではありません」
「嘘っていうのはね、最後までつき通せば真実になるのよ」
「ですが、これ以上、皆さんにご迷惑は…」
紗由を危険な目にあわせそうになったのだ。涼一や周子が快く思わないだろうと思った誠は、ちらりと二人のほうを見た。
「風馬がずっと一緒にいれば落ち着くでしょう。もう、あの子の力も元に戻したから、今回のようなことにはならないわ。それに、一緒に静岡に来てもらえば、私や躍太郎さんも目配りできるし」
「静岡なら、翔太くんもいるから、ぴかぴかを見張っててもらえばいいよ」龍が言う。
「でも風馬さんのお気持ちが…。結婚しないのが協力の条件だと言われたと、澪が…」
「人の気持ちなんて変わるわ。だって、あの子、最近妙に明るいもの。絵の話のつもりで、澪さんの話ばかりしてるし」
「…あ、あの、私もそう思います」玲香が言う。「すみません。私が口を差し挟むようなことではないのかもしれませんが、最近仕事で時々、風馬さんと澪さんにお会いしてるんですけど、普通に幸せなカップルにしか見えません」
「普通に幸せなカップルの片方が言うと説得力があるね」涼一が笑う。
「あの…私からもよろしいですか?」周子が誠に言う。
「は、はい」
「紗由も龍も、こういう家に生まれた以上、いろんなことが起こるのは、もう仕方がないことなんだと思うんです」
「段々慣れてきた部分もあるしな」涼一が苦笑する。
「ええ。毎回、とりあえず何とかなってます。それに何かしら起きるのは、普通の家でも同じことだと思います。
ですが私たちは、伯母さまにシグナルを発していただいて、それに一つ一つ対処していくことができるはず。澪さんが私たちの前から消えることは、風馬さんが悲しむ以外、何ももたらしませんわ」周子が微笑む。
「あのね。みおちゃんのおっぱいは、おうまさんのなんだよ」紗由が神妙な顔で誠に言う。
「え?」
「紗由のおっぱい占いは当たるんですよ」にこにこ笑う賢児。
「ありがとうございます…」
誠は、ぽろぽろと涙を流しながら、何度も頭を下げた。
* * *
「賢児さま…私、ひとつだけ気になることがあるんです」
「何?」
「誠さん、澪さんのこと好きだったんじゃないでしょうか。本当の妹でもないのに、あんなふうに面倒を見るなんて、なかなかできることじゃありません」
「うん。たぶん、そうなんだろうな。でも、目の前でどんどん元気に、幸せそうになっていく彼女を見たら、風馬に任せるしかないって覚悟したんだろう」
「誠さんにも、早く素敵な人が現れるといいですね」
「きっと現れるよ」
「まりりんちゃんのおばあちゃまにお願いしてみましょうか」
「それ、いいかも」賢児は楽しそうに笑った。
* * *
「ええーっ! もう籍入れちゃったの!?」
思わず賢児が叫んだ。
「先越されちゃったな、おまえ」涼一が笑う。「誠さんとそれぞれの両親で食事会をするだけで、披露宴をしないんだってさ。黒亀亭と住居のビルができたら、すぐ向こうに移るって言ってた」
「…そうなんだ。あっちに行く前に、うちでもお祝いぐらいしてやりたいな」
「ああ、それはもう、周子と玲香さんが進めてる。明日の夜だってさ」
「みんな早いな、仕事が」
「一回り以上、下だぞ。しかも、可愛いしな…何かムカツクな」
「何、言ってるんだよ。周子さん横取りしておいてさ」
「それは言いっこなしだ」不機嫌な顔になる涼一。
「まあ、よかったよな」
「もうひとつ、びっくりすることがある」
「まさかダブルおめでたとか?」
「違うよ。風馬も同じだったんだ」
「同じって何が?」
「乖離性人格障害」
「はあ? どういうことだよ」
「うーん。天馬が亡くなった後、出てきてたらしいよ、天馬が。風馬の罪悪感とか、そんなもんが原因なのかな」
「今は大丈夫なの?」
「ああ。ヒーリングに専念していた1年で消えたらしいよ。正確に言うと、4年ぶりに龍の姿を見て、天馬はすっかり陰を潜めたらしい」
「何で?」
「天馬は風馬に言ったんだそうだ。僕がいると龍が混乱するからって」
「…ねえ、兄貴。それって、もしかして本物の天馬だったんじゃないのかな」
「ああ。親心ってやつかな。きっとそうだ」
涼一は賢児の頭をくしゃくしゃと撫でた。
* * *
賢児が帰宅すると、母屋のリビングには、あちこちに紙が貼られていた。
「何だ、これ。…ええと、“たろうのごはんを やくそくします”“まいにちおさんぼ みんじとう”」
「それね、さゆの、こうやくだよ」紗由が唇をきゅっと結んで賢児を見上げる。
「公約?」
「松田さん、しばらく入院することになっちゃって、太郎のもらい手を探してるんだ。それで、紗由が立候補したんだよ」龍が説明する。
「対立候補はいるのか?」
「紗由の立候補を阻止しようとしている人はいる」ちらっと周子を見る龍。
「…民自党は、公約を破るとわかっている候補者は立てられません」ムッとした表情で言う周子。
「えー、たろちゃんと、ともにあゆむ、みんじとう! みんじとうの、さいおんじたもつを、どーかよろしくおねがいします!」
「じいじの名前を勝手に使わないの!」
「こどものえがおがきえないしゃかいを、みんなできずこうではありましぇんかあ!」
「紗由…かあさまの笑顔が消えてるよ」
龍が紗由の袖をひっぱると、紗由はひっくひっくとしゃくり上げ始めた。
「さゆはできるもん…とうさまにおやつあげたり、とうさまをおさんぽにつれてって、れんしゅうしてるもん!」
「ただいまぁ」
涼一がネクタイを緩めながらリビングに入ってきた。
「とうさま! さゆ、おやつはんぶんこしてるよね? いっしょにおさんぽもしてるよね?」
「え? どうした、紗由。…うん、ああ、してるぞ。紗由は優しいから、とうさまにもおやつくれるんだよなあ」
にこにこ顔の涼一を見ながら、周子が深い溜め息をついた。
「…ちゃんと面倒見なかったら、すぐによそにあげちゃいますからね。わかった?」
「太郎を飼ってもいいの、かあさま?」
うれしそうに叫ぶ龍に、賢児が耳打ちする。
「あまり露骨に喜ぶな。かあさまは、可愛そうな夫を見るに忍びなくて、苦渋の決断をしたんだよ」
「あ…」しまったという顔になる龍。
「かあさま! ありがとう!」
紗由は大声で叫ぶと、太郎のケージが置かれている勝手口まで、一目散に走って行った。
「兄貴のやつ、もう紗由からおやつ半分こしてもらえないんだろうなあ…」
賢児が小声でつぶやくと龍が言った。
「僕がとうさまに半分こしてあげるよ。可愛そうだもの…」
「おまえが優しい子でよかったよ、本当に」
「ん? どうした?」涼一が賢児の傍にやってくる。
「兄貴は優しい妻と息子を持って幸せだなあと思ってさ」賢児はふっと笑った。「それと、知略家の娘もね」
* * *
「さすがね、澪さん。あのリスト、抜けがあったのに、よくわかったわね」
「お義父さまが抜くところが浮かびました。でも、リストから抜いた人たちは何なんですか?」
「そうねえ…」
「“焔”と関わりがある人たち…ですか?」澪の顔が曇る。
「心配は要らないわ。関わりがあるというより、彼女か機関の関係者が、接触した可能性がある人たちよ。あまり“焔”を刺激したくなかったから、あらかじめ抜いておいてもらったんだけど、澪さんの能力だと、意味なかったみたいね。
…ただ、申し訳ないけど、必要に応じて“焔”のふりをしてもらうことになるかも」
「は、はい…」
「あはは。奥さんが二人いるみたいで得した感じだね」風馬が笑う。
「二人欲しいんですか?」澪が怒った顔になる。
「澪が二人なら欲しい」
風馬が微笑むと、澪はうれしそうにうつむいた。
「はいはい。続きは自分たちの部屋でお願いね」
「母さん、いよいよだね」風馬が急に真面目な声になる。
「ええ。強力な味方もできたことだし、目一杯、本領発揮で頑張るわ。四辻さんのことも決着をつけたいし、澪さんを巻き込んだ人たちのことも暴きたい。…まあ、何よりまず、“命”本来の職務を全うすることが最優先ですけどね」華織が微笑む。「ほら、澪さん。そんな不安そうな顔しないの。私を誰だと思ってるの?」
「出た!…母さんは、“命”どうこうじゃなくて、普段からいつもこうなんだ。いじめられたら、すぐに言えよ」
「風馬。人聞きの悪いこと言わないでちょうだい」
「そうだぞ、風馬。華織は少し気が強いところはあるが、まあ、何だな、ちょっとわがままなところもあるが…」
「躍太郎さん! もう知りません」ぷいと横を向く華織。
「ふふっ」澪が思わず笑う。「す、すみません…」
「澪さんは遠慮し過ぎだな。長い付き合いになるんだから、無理はしないほうがいいよ。少し華織を見習って、マイペースで行けばいい」
「はい! お義母さまみたいになれるように頑張ります」
澪が明るく答えると、風馬があせって遮った。
「それはちょっと…勘弁ていうか…」
4人の笑い声は、静岡の新居にいつまでも響いていた。
* * *
参ノ巻 終 続いて 番外編 西園寺保探偵事務所1 名探偵「翔太」へ
番外編3つの後、肆之巻へ続きます




