その18
風馬は、静岡に新しくできる自分のアトリエの図面を広げて澪に見せた。
「うわあ。ずいぶん広いんですねえ。これ、ワンフロアとして使うんですか?」
「全然考えてないんだ。何かいい案ないかなあ。コンセプトも含めて」
「あの、それじゃあ、こういうのどうですか? いくつかの空間に分けて、そのうちのひとつを、壁一面が風馬さんの絵になってる部屋にするんです」
「壁一面?」
「はい。私、前から思ってたんです。風馬さんの絵に一面囲まれて暮らしてみたいなって」
「う…ん。まあ、あまり強い色彩を使ってないから、壁紙代わりにいいかもね」
「じゃあ、天井に貼る用の絵も作って下さい。ベッドを置いて、そこに寝転んで上を見るんです」
「あはは。何だか、アトリエっぽくなくていいな」
澪が提案するアイデアをいろいろと検討しながら、二人の話し合いはだんだん熱が入って行った。
「その部分は例えばですね、その本にもあったかと思うんですけど…」
澪が少し腰を浮かせ、風馬の横にあった本に手を伸ばしたとき、胸元のペンダントがコーヒーカップの中に入った。
「あ、澪ちゃん、濡れちゃうよ!」
「きゃっ!」
慌ててカップからペンダントを救い上げる澪。前から風馬がティッシュを手にペンダントに触れる。
「ペンダント貸して。それ、デザートローズでしょ。水分に弱いはずだ」
風馬は、澪の首からペンダントをはずして、ていねいに石を拭き始めた。
「大丈夫かな…。後で色が変わらないといいけどね」
「あ…」小さく叫んで澪が胸を押さえる。
「澪ちゃん、どうし…」
どうしたのかと聞こうとした風馬だったが、その瞬間、澪が風馬の左手のバングルを強く握った。突然、バングルから強烈な何かが体へ流れ込んでくるのを感じる風馬。
澪の手を振り払おうとするが、体が思うように動かない。
強烈な何かは、まだ流れ込み続ける。
強い怒りと恐怖が渦巻きながら、やがて怒りへと淘汰されていく。そして、封じ込められた穴の底から天を叩くかのような悲しみ。時折、諦めにも似た、どこか冷ややかな感情も垣間見える。
「これは、どういうことなんだ…」
風馬がやっとの思いで澪を見ると、澪は風馬から手を放した。
そして、自分の左手の翡翠のバングルをはずしてテーブルに置くと、何も言わずに立ち上がり、外へ出ていった。
「澪…」
風馬も後を追おうとしたが、頭がふらつき、うまく体が動かなかった。それほど強烈な気の流れだったのだ。
そして、やっとのことで風馬が外に出たとき、もう澪の姿は見えなくなっていた。
* * *
玲香が総務から社長室に戻ると、賢児が駆け寄ってきた。
「玲香! 澪さんがいなくなったって。今、伯母さんから連絡があった」
「澪さんが…?」
「突然様子がおかしくなって、出て行っちゃったらしい」
「あの…誠さんは?」
「澪さんから、疾人くんのところに連絡があったらしいので、そっちに向かったって」
「…まさか、澪さん、彼のクライアントなんですか?」
「どうやら、そのようだね」
四辻奏人の息子、疾人の職業はカウンセラーなのだ。
「お仕事場所はどちらなんですか?」
「世田谷の自宅に併設されてるクリニックだ。今、ちょうど周子さんが紗由を連れて、四辻さんちに行ってるって」
「賢児さま、私たちもそちらに合流しましょう」
玲香がそう言ったとき、スマホが鳴った。翔太からだった。
「翔太。…ごめんね、今ちょっと取り込んでて」
「その件で電話したんや。龍くんから、さっき電話もろた。俺、玲ちゃんに言っておいたほうがいい思うことがあるねん」
翔太は、説明会の後に澪の胸のぴかぴかが一瞬にして変化した件を話した。
電話を切ると玲香はすぐさま周子へ電話をした。
「周子さんですか? 今、四辻さんのお宅ですよね。紗由ちゃんと奏子ちゃん、そこにいますか? 傍を離れないようにしてください。…え? あの、すぐに連れて来て下さい。私たちもすぐに行きますから。
澪さんが来ても近づけないで下さい。今の澪さん、多分いつもと違う状態なんです。何かあるといけませんから、お願いします」
玲香は電話を切ると、バッグを手にしてドアに向かった。
「賢児さま、早く!」
「ど、どうしたんだよ、玲香!」
わけがわからぬまま、賢児は玲香の後を追った。
* * *
車の中からも、玲香は華織や風馬に電話を入れていたが、二人とも圏外でつながらなかった。
「どういうことなの、いったい」
「取り越し苦労ならいいんですけど、子供たちが危ないかもしれません」
「何で危ないの? 澪さんは、凶暴になるような精神疾患なの?」
「わかりません…でも、私の推理が当たっていたら…澪さんは、いつもの澪さんではありませんし、紗由ちゃんたちの力が悪用される恐れがあります。その結果として彼女たちの心身に悪影響が出る恐れはあると思います」
玲香は、そう言って一瞬黙り込んだ後、自分の推論を賢児に話し始めた。
* * *
「さゆちゃんは、ひみつのおにわ、ある?」
「うーん。ない!」
「かなこね、あるんだよ」
「ええっ。すごーい。みせて、みせて!」
「こっちだよ」
奏子は紗由の手を引っ張り、父親のクリニックに隣接する花壇のほうへ連れて行った。木戸を開け、隙間をすり抜けるようにして、クリニックの裏手側に出る。
「あっ。かなこちゃんのバッグのおはなが、いっぱいだ!」
「うん。おじいちゃまがね、そだててたの。いまは、おにいちゃまとかなこが、そだててるの」
「すごいねえ。かわいいねえ。さゆね、きいろいおはなだいすきだよ!」
「じゃあ、あとで、はちにうえたのあげるね」
「うん。ありがとう!」
紗由と奏子は、うふふと笑った。
「ひみつのおにわは、こっちだよ」
奏子は、花壇の横をすり抜けて、細い道を少し行ったところにある切り株を指差した。
「きのねっこ?」
「うん。あくんだよ」
そう言って奏子は切り株の上部を、まるで缶の蓋でも開けるかのように取り除いた。
「うわあ…」
「なかにね、おじいちゃまとかなこの、ひみつのたからものがはいってるの。これはね、おしゃしん」
「あ。おじさまが、かなこちゃんだっこしてる」紗由は、奏子が差し出す写真を覗きこんだ。「クッキーのカンみたいなおうちだね、これ」
「うん。おじいちゃまのひみつのおうち。あと、これはね、かわいいたからもの」奏子は、切り株の中から、ブレスレットを取り出した。
「ああっ! さゆのおともだちとおんなじだあ…」
奏子が腕にはめて見せたのは、華織が持っている“命”の印のひとつ、スギライトとラリマーのブレスレットだった。
「かなこちゃんちの子も、かわいいねえ」
奏子の腕には大きいブレスレットを、紗由が二重にはめてあげながら、やさしく撫でる。
「ありがとう」はにかんで笑う奏子。「あとね…これもだよ。きょうは、おじいちゃまの日だから、ぽっけにいれておくの。そうするとね、おはなしできるんだよ」
「この子のおとうさん、うちのひみつきちにいるよ」タイタンルチルの玉を撫でた後、掌で転がす紗由。
「ひみつきち?」
「うん。じいじは、しょさいってよんでる。でも、ドアとはこがいっぱいあるから、ほんとうはね、ひみつきちだとおもうの」紗由が辺りを気にしながら小声でささやく。
「じゃあ、今度そこに入れてくれない?」
紗由と奏子が振り向くと、そこには澪が立っていた。
知っている相手のはずなのに、なぜか怯えた顔をして、紗由の袖にしがみつく奏子。
紗由も相手を見上げて、じーっと見つめたまま、挨拶をしようともしない。
“あれ? へんなみおちゃんだ”
「二人とも、お久しぶり。相変わらず可愛いこと…」
澪は、紗由と奏子ににじりよった。
* * *
「保ちゃん! 保ちゃん、開けて! 開けないと蹴破るわよ!」
「姉さん! どうした…」
保が聞くのも待たず、華織は龍と一緒に保の書斎に踏み込んだ。
「じいじ。説明は後。紗由たちの一大事なんだ」龍が保のほうを見ずに答える。
「龍、羽龍の水晶をはめて」
「うん」龍は華織に言われるままに、タイタンルチルの置物の口の部分に、羽龍の水晶を咥えさせると、龍の頭部に手を置いた。
* * *
“紗由、おばあさまよ。聞こえる?”
「あ!」頭の中で聞こえる声に、紗由が思わず声をあげた。
「どうしたの? 紗由ちゃん。何かあったの?」澪が不気味な笑みを浮かべる。
“その澪さんは偽物よ”
「にせものだ! みおちゃんはにせもの!」紗由はタイタンルチルを握り締めた。
「人聞き悪いなあ」
“奏子ちゃんと手をつないで。そうしたら、奏子ちゃんにも聞こえるわ”
言われるままに手をつなぐ紗由。
びっくりした顔で奏子が紗由を見つめる。
「かなこちゃん、こわくないからね。さゆがいるから、だいじょうぶだよ」
そう言いながら、紗由がこくりと頷くと、奏子も頷いた。
「そう。ちょっとお願いを聞いてくれれば、怖いことなんてしないから」
澪が紗由の頭を撫でようとすると、紗由はひょいと体をかわした。
“奏子ちゃんのブレスレットを、澪さんの腕にはめてちょうだい”
そう指示されたものの、紗由も奏子も、澪が怖くて近づきたくなかった。腕にブレスレットをはめるどころか、澪が一歩近づくたびに後ずさる二人だった。
「ねえ、ちゃんとお話しようよ。簡単なことなんだよ。私と同じことをしてくれればいいの。ね?」
澪が言うと、紗由は奏子の手をぐっと握った。
“はしるよ!”
“うん!”
二人は一目散に走り出した。
* * *
「紗由!」
「奏子!」
周子と響子は、玲香からの連絡を受け、二人が遊んでいるはずの庭に出たが、そこには二人の姿はなかった。
「どこ行ったのかしら…」手をあごに当て考え込む響子。「クリニック側の庭かも。そうよ。澪さん、いつも裏から帰るって疾人さんが言ってたわ。周子さん、こっち」
二人は急いでその場所へ向かった。
* * *
「誠くん、澪さん来ないんだよ。電話もつながらない」
「そうですか、先生。でも、とっくに着いているはずなんです。失踪した場所からすると。
僕ももうすぐ着きますので。お手数ですけど、ご近所を探してみていただけませんか」
「わかった。探してみるよ」
疾人は、白衣のまま外へ出た。
* * *
「紗由!」いち早く周子が二人を見つけた。「響子さん、あそこ!」
必死で走っている紗由と奏子に、周子と響子が正面から駆け寄る。周子は途中で靴を脱ぎ、澪に向かって投げた。
靴が澪の額にぶつかり、一瞬澪がひるむ。そこから裸足で猛ダッシュした周子は、体勢を立て直した澪が二人に追いつく前に、二人を両腕に抱え上げて走り出した。
「奏子!」
響子が奏子を受け取り抱きしめる。
「ママ! すごいよ! さゆちゃんと走るとね、かぜみたいだよ。さゆちゃんのママはね、しんかんせんみたいだよ!」
「奏子…そういうこと言ってる場合じゃないのよ。あ…」
響子の声で、周子が紗由を抱いたまま後ろを振り返ると、そこには、後ろから澪の腕をひねり挙げている風馬の姿があった。
「風馬さん!」
「放せ!」
暴れる澪の腕を、さらに強い力でひねりあげながら風馬が言う。
「少し話をしよう」
「邪魔するな!…いい加減好きにさせてくれ。別に子供たちに危害は加えない。少し協力してもらうだけだ。力を借りるだけだ」
「君はそのつもりでも、子供たちは怯えている。あの子達がそういう状態だと、君の思うような協力は得られないんじゃないのかい?」
「……」
澪の力が、少し緩んだ。
“紗由! ブレスレットを澪さんの腕にはめて!”
紗由の頭の中で華織の声が再び流れた。
“あ。わすれてた! かなこちゃん、ブレスレットだよ。はめるよ!”
紗由の声に反応して、紗由を見る奏子。
“あ、うん!”
奏子は自分の腕からブレスレットをはずすと、紗由に渡した。受け取った途端、紗由が澪に向かって猛ダッシュする。
「紗由! ちょっと、危ないわ、紗由!」慌てて後を追う周子。
紗由が澪の前に立つと、風馬が澪の左手を紗由の目の前に差し出した。持っていたブレスレットを澪の左腕にはめる紗由。
「あ…!」
その途端、澪の体が一瞬硬直したかと思うと、その場に膝から崩れ落ち、気を失った。
さらに風馬が澪の体を支えながら、紗由がはめたブレスレットの下に、自分のはめていた翡翠のバングルをつけ、ポケットから出した澪のデザートローズのネックレスを首にかけた。
「澪さん!」
クリニックの中庭から抜けてきた疾人が、倒れている澪の姿を見つけ、叫んだ。
「風馬くん。これは…」
「疾人くん。お騒がせして申し訳ない。僕が油断したから」風馬はうつむきながら頭を下げた。「彼女はうちへ連れて行く。母が待ってるから」
「わかりました。必要があれば呼んで下さい」
風馬が澪を抱きかかえて立ち上がったところへ、賢児と玲香が走ってきた。
「紗由!」
「あ。けんちゃんだ!」
風馬たちのところから、賢児たちのところへと走っていく紗由。
「けんちゃん! れいかちゃん!」
「よかった…無事で」
賢児は紗由の頭を何度も撫で、玲香も紗由の手をぎゅっと握り締めた。
「奏子ちゃんも、大丈夫ですか?」玲香が響子たちのほうへ歩み寄る。
「風馬、これ、どういうことなんだ?」
賢児が風馬に向かって歩きながら声を掛けると、風馬はそれには答えずに言った。
「賢児、すまないけど、彼女と僕を、母さんのところまで送ってもらえないか。僕も知りたいことがあるんだ」
* * *
「お疲れ様、みんな。…紗由、偉かったわねえ。本当にいい子だわ」華織が紗由を抱き上げる。
「どういうことなんだよ、伯母さん」
連絡を受け、出張先から戻ったばかりで、事情がよくわからない涼一が華織を問い詰める。
「とうさま。おばあさまが悪いことしたわけじゃないよ」
「…ああ、そうだな。すまない。でも、澪さんが紗由と奏子ちゃんを拉致しようとしたんだろう? 彼女は機関側の人間だったってことなのか?」
「そうだよ。僕たちが考える“跡継ぎ”は、澪さんだったんだ」
「え?」
一同が龍を見つめる。
「龍、もういいわ。あとは私から話します」
華織は皆を見回した。
* * *
「澪さんはね、一条家の本当の娘じゃないの。
彼女は、機関の前総帥が、愛人との間に作った子供。しかも、その愛人というのが“命”だったのよ。
本来、機関の血筋には“命”の血筋は入れないようにしているのに、彼女の存在によって、そのルールが破られそうになった。当然、圧力がかかってきたわ」
「機関から? それとも“命”の側から?」賢児が聞く。
「機関はもちろん、目を光らせたわ。でも、あくまで倫理的な意味でね。前総裁には正妻との間にすでに娘がいたし、総裁職自体は、本来世襲ではない。そこはあまり気にするようなことではなかったはず。
“命”の側も、横のつながりが基本的に禁止というか、機関側から阻止に近い形で制限されていたから、そんなことを波風立てるような状態ではなかった。正直、そんなプライベートなことにかまっていられるほど、“命”は余裕がないから」
「じゃあ…本妻の側ですか?」玲香が聞く。
「ええ。そのとおり。澪さんのお母様は、彼女を産んで亡くなったの。しばらくしてから、正妻が引き取って育てることになったんだけど、問題は、正妻よりも、その娘、長女のほうだったのよ。
澪さんは、5歳を過ぎた頃から力の兆しが見えてきて、周囲には彼女を総帥にしたらどうかという人が現れ始めたの。
5歳の彼女には、よくわからなかったでしょうけれど、長女はそのとき中学校に上がったばかりだったらしいわ。腹違いの妹の存在が面白くなかったんでしょうね。澪さんを虐待した。…しかも、それだけじゃ済まなかったのよ」
華織は、そこまで言うと口をつぐんだ。
「伯母さん?…」
賢児が傍に行って肩に触れると、華織は後を続けた。
「…姉はね、彼女を残して閉じ込めた部屋に火をつけたのよ。幸い命は助かったけど、今も彼女の肩には、その時の火傷の痕が残っているわ」
「ひどい…!」玲香が思わず声を上げる。
「それに気づいた一条さん…誠さんのご両親が、彼女を養女にもらいうけたの。
その頃、本妻は、自分の実の娘がしたことに気づいて、少々精神のバランスが崩れていたようで、事情を理解した総裁も、澪さんをここにおいておけないと悟ったらしいのね。
一条家に引き取られてから、15になるまでは、澪さんは幸せに暮らしていた」
「何かあったの?」
「ええ。お姉さんが尋ねてきたのよ」
「まさか、追っかけてきてまでいじめるつもりだったのか?」涼一が苦々しそうに言う。
「いいえ、逆よ。澪さんの力が、かなりのものだったという話を後から聞いて、自分がしたことを省みて、復讐されるに違いない、そう思って怖がって澪さんに謝罪に来たのよ」
「謝罪って、都合がいいなあ、なんか」賢児が眉間にしわを寄せる。
「そのとおりよね。でも、澪さんは、彼女の出現が、ただただ恐怖だった。炎の中で苦しんだ記憶が甦って、彼女を拒絶した」
「当然じゃないのか、彼女にしたら」涼一が言う。
「ところが、姉はその後、強迫観念から自殺してしまったのよ。澪さんは、自分を責めた。恐怖に脅かされつつ、自分を責めた。…そして、自分を守るために、もう一人の自分“焔”を生み出したの」
「“焔”…炎の群れ。澪…“水の筋”の対極にある者という意味ですか?」玲香が尋ねる。
「ええ、そのとおりよ。そして“焔”の恨みは、やがて機関と“命”のシステムに向けられるようになった。そんなものがなければ、こんなことにはならなかったのだと。
そして自分に特殊な力があるのなら、それを使って自分が思うようにそのシステムを作り変えてやるとね」
「解離性同一性障害…ですね。俗に言う、多重人格」玲香が言う。
「専門用語では、そう言うのかしら。つまり、そういうこと。
一条家のご両親も誠さんも、心配なさって、精神科やら心療内科やら、いろんなところに連れて行ったらしいの。
でも、いつも澪さん…というか“焔”は診療の途中で逃げ出してしまって、その繰り返し。ところがね、あるカウンセラーにだけは、心を開くというか、ちゃんと話をしたんですって。それが当時医学部を卒業したばかりの疾人さんだったのよ。
そんなこともあって、四辻親子共々、一条兄妹の面倒を見るようになったの。一条のご両親は、奥様があまり体が丈夫じゃなかったこともあって、気候のいいハワイで静養されているらしいわ。だから、澪さんの面倒は誠さんが一人で見ていたのね」
「それは大変だろうなあ…」賢児がつぶやく。
「誠さんは、澪さんの状態に少しでもプラスになるものがあるならと、各地を回ってパワーストーンを探したわ。どうやら、“焔”の誘いに乗る人間が何人もいたようで、誠さんも四辻さんも、その動きに不安を感じていた。
本来の澪さんはバラエティだけど、“焔”は“ストレート”なのよ。2人が手を組めば、かなりのことができると思うんだけど、澪さんが拒んだ。
だから、“焔”はパートナーが必要だったのね。でも、探すのが大変。“バラエティ”の数はそれほど多くないから。紗由がねらわれたのは、そういうわけなの。奏子ちゃんにも、だいぶその要素があったし」
「玲香の推理どおりだな」賢児が頷く。
「一方、助力する人間が出てくれば来るほど、“焔”の“ストレート”としての力も大きくなる。かといって、誠さんだって、24時間彼女についているわけにもいかないし、遠隔で連絡されたら阻止するのは難しい。誠さんは気が休まるヒマがなかったと思うわ」
「だからなんですね。賢児さまもおっしゃってましたけど、澪さんの身につけている石、修復作用というか、心の傷にいいとされているものばかりで、何かちょっと引っ掛かってたんです」玲香が頷く。
「そういうこと。誠さんも必死だったのよ。そしてある日、偶然立ち寄った画廊の個展、そこで買ったカタログが、彼らの運命を変えたの」
「風馬の個展?」
「そう。誠さんが買って帰ったカタログを、澪さんは何度も何度も食い入るように見ていて、それからしばらく、人格の交代がなくなったらしいの。
それで誠さんは、風馬に目を付けた。…というより、風馬の絵が澪さんにもたらす作用に目を付けたの。
彼は彼女に言った。おまえは、この画家のお嫁さんになるんだよって。
彼女自身、風馬の絵によって気持ちが落ち着くことは実感していたから、すがるような思いだったのかもしれないわね。風馬のこと、絵をいろいろと追いかけて、もうひとりの自分を抑えてきた。そういうことなの」
華織の話に、誰もが言葉を口にできないでいた。
「そうだわ、玲香さん。このハガキ…玲香さんにも届いたと思うけど」華織は花菱草の絵葉書をテーブルに置いた。
「あ…はい。いただきました。響子さんにうかがったら、四辻先生のペンネームだと」
「澪さんが四辻さんから頼まれていたのね。外務大臣になったとき、不穏な動き…機関じゃなくて、政治がらみのね、動きを感じて、自分に何かあったら投函してくれって」
「澪さんにですか?…でも、このハガキ、何も書いてないんですね。私のほうには“おめでとうございます”とありましたが」
「彼が私に送りたかった言葉は、花言葉よ。“私の願いを叶えて”とか“いやだと言わないでください”とか、そんな感じだったわよね」
「はい」
「澪さんのことを頼むという意味よ。澪さんがこれを投函できる間は、“跡継ぎ”… “焔”の完全な影響下にあるわけではない。まだ何とかなる。彼はそう思っていたのでしょうね。だから、頼みを断るなと」
「…それで、お引き受けになったんですね」
「ええ、そうよ。紗由や奏子ちゃんには、怖い思いをさせてしまって、申し訳なかったと思うけど…そうしたかったの。紗由…ごめんなさいね」
「おばあさま! さゆはだいじょうぶだよ。チョコたべるとげんきだもん!」
「ちゃっかり催促するな」涼一が紗由の頬をなでる。
すると突然、部屋の隅の椅子に座っていた風馬が低く笑い出した。
「風馬?」賢児が心配そうに声をかけるが、風馬はただ天井を見つめている。
「でも結局、僕の絵じゃ、だめだったんだな」風馬ぽつりとつぶやいた。
「そんなことないよ」龍が立ち上がり、カバンからノートを取り出した。「これ見て。翔太くんが描いた、ぴかぴか日記だよ。翔太くんは、僕たち一家だけじゃなくて、清流のお客さんの中で、気になった人のぴかぴかを前から描いてあったんだ。清流でそれを見せてもらってたとき、翔太くんはもう一冊のノート、こっちも見せてくれたんだ」
龍が二冊のノートを広げ、そこに描かれたに2つの絵を指し示した。
「こっちは、ずーっと前、清流にお客さんとしてやってきたときの澪さん。それとこっちは、説明会のときの澪さん」
「中心のピンクの分量がだいぶ増えてるな」賢児が言う。
「そうだよ。叔父さんが増やしたんだ」
「そうです、風馬さん。風馬さんの絵の効果で、澪さんの中で、“焔”の存在が薄れて行ったんじゃないでしょうか。
ここ1年、“焔”が暴れていたのは、きっと風馬さんがヒーラーとして活動していらして、彼女が絵を直接目にする機会がほとんどなかったからです。別人格にしたら、抵抗するチャンスだったんだと思います。
それに、風馬さんと接していれば、澪さんはきっと満たされていて、“焔”が出てくる必要がなかったんだと思います。風馬さんのことを話すときの澪さん、本当に幸せそうですもの」
「そうか。“焔”が何も仕掛けてこないんじゃなくて、風馬がいたから、出てこられなくて、仕掛けられなかったんだ」
風馬は、皆の言葉を聞いているのか、いないのか、ふらりと椅子から立ち上がった。
「風馬、誠くんをここに呼んでくれ」躍太郎が声をかける。
風馬は何も答えずに、静かに部屋を出て行った。
* * *




