07.「意地悪、したいくらい」
「担当替えの件、ちゃんと考えておきなさいよ!」
そんな捨て台詞を残し、王子に促されるままに――挑発した、ともいう――シンデレラが魔女を追って出て行ってから数分。王子と義姉はまだ、食堂代わりに使っている応接間にいた。
「……担当、って何のこと?」
義姉が王子を睨んでいる。
シンデレラが魔女を追ったのは、彼女自身の意思ではない。半ば強引に王子がそうさせた。きみの担当だから、と背中を押して。
それが、無理やり押し出したように見えたのかもしれない。義姉はシンデレラをいたく気に入っている。だからその『無理やり』という部分が目に付いたのだろう。
義姉がシンデレラを気に入っている理由は至ってシンプルだ。彼女が、シンデレラの姿に実の妹を重ねているためだろう。
咎める視線を前にして、どうしようかと迷ったのは一瞬だった。取り繕うことはいくらでもできたが、王子はそうしなかった。
「問題解決の担当者、って意味。僕自身に問題が無いとは思ってないけど、今の一番の課題は、きみたちだから」
義姉が唇を噛んだ。
「で、担当は僕が決めた。……今のところ、貴方とお嬢さんの関係は一番相性が悪い。だから、喧嘩はするけど、魔女君を相手してもらった方が良いかと思って」
「相性、悪い?」
笑おうとして、失敗したような顔。
「だってきみ、なんでも受け入れて許しますっていう態度を取るクセに、実際は何も許してないでしょ?」
彼女の表情が凍り付く。おそらくこの言葉は、義姉にとって一番きついものだったのだろう。あえて、これまでの生活や行動を見てきた中で、彼女が一番嫌がりそうな言葉を選んだ。
見たくない。聞きたくない。そう訴えて揺れる瞳を覗き込み、王子はにっこり笑う。
「お嬢さんも同じだから、想いの矢印がぶつからない。だから、相性が悪い」
「シンデレラも……同じ?」
信じられない、と目が語っていた。
「うん」
やはり、気付いていなかった。本来の彼女が感情に聡いのであろうことはなんとなくわかる。しかし今、彼女の目にはシンデレラと実の妹を重ねて見ているために、周りの状況が正しく見えていない。
「お嬢さんも、大概受け身だ」
そう思うのは、彼女の在り方が自分の生前と似ているからだった。結局のところ王子も、彼女に別の人物を重ねている。きっとそれによって見えなくなっている部分もあるのだろう。
だから、矢印はぶつからない。重なるだけだ。正確には、ただ重なったように見えるだけ。それでは駄目なのだ。何も変わらない。
――だから、彼女の担当は、魔女以外にはできない。彼にできなければ、他の誰にもその資格が無い。
ならば自分と義姉が相性が良いのかと問われると、否、と返す他無いのだが。
それをどうにか避けるために、王子は、生前の自分とは違う選択する。相手が笑顔になる選択肢ではなく、相手が傷付く選択肢を。表面を滑るだけの偽りではなく、目を背けてはならない真実を。対外用に繕った自分ではなく、本心をぶつける自分を。
「きみも本当はわかっているはずだ。彼女は、きみの妹じゃない」
はっきり、一音一音に力を持たせて、語る。尚も凍ったままの義姉に対し、質問を重ねる。
「きみの妹はどんな人だった?」
わたしのいもうと。反芻し、彼女はようやく口を開く。ぽつり、ぽつりと言葉が零れ落ちていく。
「可愛くて、真っ直ぐで」
言葉の頭には「私よりも」という言葉が付くのだろう。そう思いながら、うん、と相槌を打つに留める。
「だから可愛がって、可愛がられて、それが許される子で。甘え上手で。……私は、それが羨ましかった。私はそんなのできないから、あの子がずっと羨ましかった。狡いって思ってた」
「意地悪したいくらい?」
俯き気味だった彼女が、ゆっくりと顔を動かした。目が合う。
「そう。……意地悪、したいくらい」
真っ直ぐ、彼女はそう口にした。表情は無かった。つう、と透明な涙が溢れ出る。そんな場合でもないというのに、王子はそれを、綺麗だと思った。
自分の前で、嘘偽りなく、醜い本音を語る人間を、彼はこの時初めて見たから。
「本当は意地悪したいくらい羨ましくて、――でも大好きだったのよ!」
突然、義姉が叫んだ。
不安定な環境下で辛うじて抑え込んでいた彼女の中の激情が、弾ける。
「時々生意気な口もきくけど、でもそれだけじゃないの。私が辛いことがあって、でも言えなくて、隠そうとしてたら、一番に気付いてくれて。優しい子なの。狡いところもあったけど、それがたまに憎らしかったけど、それも本当だけど、本心だけど、でも好きなの、嘘じゃない。大好きなの! 自慢の妹で、だから私はあの子のいい姉になりたくて、それは絶対、絶対に、嘘なんかじゃない!」
わかって。
その叫びが、飛び込んでくる。
「……うん」
自分の声は、思ったよりも甘かった。きつく握られた彼女の拳が微かに解けたのを見て、目を細める。
「わかるよ」
ぶありと噴き出した涙を、拭う権利は王子にはない。だからただ、それを眺めた。
許しを請うように、そうでなければなんでもいいから縋り付くように、義姉は手を伸ばし、王子の服を強く掴んだ。
掴まれた箇所がやけに温かい。熱い程だ。
過去にこういうことがあった。それを思い出す。望まれている甘い言葉をかけて、殊更優しい言葉を選んで、声無き声で「わかって!」と叫んでいた相手が泣き出して、――そうやって相手の心を揺らしても、それらを自分の服に皺が寄る光景としてしか見ることができなかった狡い自分を、思い出してしまう。
その記憶と、比べる。今は――何かが違っていた。
「だから、私は、意地悪なんてしない! したかったけど、したくないのよ!」
先程と全く逆のことを怒鳴るように叫ぶ彼女の言葉は、確かに真実だった。
「したくなかったのに……! いつもしないのに、あの日だけは家を出る前に喧嘩して、ひどいこと言っちゃって……だって私、知らなかったの。事故に遭うなんて知らなかった! わかってたら言わなかったのに。仲直りだってちゃんとできたのに! なんであの日だったのよ! 大好きなのに、それなのに、なんであの日なの! 私とあの子の最後が、なんであれじゃなきゃならなかったの! なんで私、あんなこと言っちゃったの……っ!」
癇癪を起こした子供のように、わあわあと泣きじゃくる彼女の姿は、とてもみっともなかった。それゆえに、やはり美しかった。しばらくそうして「なんで」「どうして」と想いの片端を叫び続けた彼女は、やがてぷつりと糸が切れたように静かになった。
静かに、とても静かに、心を絞り出す。
「大事だったことは、嘘じゃない。それなのに私……きっとあの子、今も傷付いてる。私が傷付けてしまった。今も、これからも、ずっと……私よりも、あの子の方が、ずっと、長く……。だからあの子に意地悪なんて、できるわけない。していいわけ、ないの」
ワンテンポ遅れてから、うん、と相槌を打った。叫んでいる間も、ずっとそうしていたから、どこか自分の声が嘘っぽく思え、嫌だった。
それでも、まだやることがあった。す、と息を吸い、覚悟を決めてから、口を開く。
選択肢は二つあって。王子は、いつもは選ばなかった方を手に取る。
「だからシンデレラに意地悪をできないんだよね」
自分の服から、彼女の手を強く引き離した。
彼女はへたりとその場に座り込む。
「――でも、勘違いしちゃいけない。彼女はきみの妹じゃないんだよ。贖罪になんてならない。きみの罪悪感がなくなることも無い。だってきみやあの子は死んでいて、きみの妹は生きている。何があってももう、絶対に重ならないんだ。きみの妹とシンデレラは、まったくの別人だ。違う人格を持って、違う人生を持って、違う想いを持って、違う死に方をする、互いに何の関係も持たない赤の他人だ。それなのにきみは、二人を無理やり重ねてる。そのやり方で救われるのは、きみの妹でも、あの子でもない。……きみはいったい今、誰を大事にしてるの。本当に、そのやり方で良いと思っているの?」
ごめん、という言葉は飲み込んだ。
ひどく傷付けるとわかっている言葉を投げ付け、そうなるとわかっていたのに謝って、……それでいったい、何を望むのか。それではただ、彼女に全てを押し付けているだけだ。
間違ったことをしているつもりはない。けれど、それは他人を傷付けて良いという免罪符にはならない。
ならば、せめて彼女が容赦無く恨むことができる相手でいなければ。
ゆっくりと、彼女が顔を上げる。
感情を吐き出し切ってぼんやりしている彼女の瞳の奥に、恨みのようなものは見えなかった。そのことに安堵している自分に幻滅する。人の顔色を窺う生前のクセは、わかっていても、どうしたって抜けない。
「ひどい人ね」
次いで彼女の口から溢れた言葉に、自分の心は傷付き、それでいてどこか救われた気分になった。そうだね、と返事をしようとしたが、それよりも早く彼女が手を伸ばした。
赤く跡がつく程、きつく握り締めていた彼の拳に。
柔らかい指先が触れた。
不意に気付く。王子が義姉を観察しているのと同様に、彼女もまた彼のことを観察していたことに。
「……ひどくて、ずるいわ。責められないくらい優しいなんて。騙す気なら、もっとしっかり騙してくれないと……困るわ」
目を見開く王子から手を離した彼女は、ふっと肩の力を抜くと、憑き物が落ちたようににっこり笑った。
「でも貴方のお陰で全部外に出せた。全部吐き出せたから、やっと認められる。……私は、もう妹には会えない。あの子は、私の妹じゃない。あの子には、あの子の事情があって、あの子だけの感性がある。そんな当たり前のことが、わからなくなってたのね。私、また後悔するところだった。あの子に謝らないと。今度はちゃんと、間に合う内に。――ありがとう、王子さん」
「……え?」
間の抜けた声を出す王子に深々と頭を下げると、義姉は部屋から飛び出して行く。全力で廊下を走る音が響き渡った。
しばしぽかんとしていた王子は、やがて困ったように眉尻を下げた。
「……恨まれる、はずだったんだけどなぁ」
選択肢を間違えれば、恨まれて当然。そのはずだ。なのに――。
ひょっとしたら、生きている間にだって、上辺だけの仮面ではなく、その裏に潜む汚くて綺麗なものを見れたかもしれない。もし真正面からぶつかったなら、そんな人を見つけられたかもしれない。
……ああ、そんな後悔を抱きたくなんてなかったのに。
苦笑から一転、むっつり眉を寄せた彼は、机に体重を預けた。
恨まれる覚悟はあった。嫌われる覚悟もあった。礼を言われる準備だけは、これっぽっちも無かった。
防御していた場所をすり抜けて、ダイレクトにダメージが加わる。彼女を傷付けるために差し出した剥き出しの心に直接、温かいものがぶつかる。
予想外の攻撃に、く、と唇を噛んだ。
瞳から、水滴がぽたりと落ちる。そこに込めた想いの意味が、自分のことなのにわからなかった。