10.「どっちにしても褒め言葉じゃないのよ?」
「……へ?」
思いも寄らない発言に、義姉はぱちくりと目を瞬かせる。まあそうなるよね、と王子は苦笑を深めた。
「この感情は、きっと吊り橋効果ってやつも多分に含んでいると思うんだけどね」
「……それ、すごく失礼ね」
途端にむっと眉を寄せた義姉に、違いない、と頷く。
「それでも僕にとって、きみは驚異的……いや、脅威的だ」
「どっちの意味に言い直したのかわからないけど、どっちにしても褒め言葉じゃないのよ?」
「そう? 褒め言葉のつもりだったんだけどな」
変なのに捕まった、とばかりに露骨に顔を顰めた義姉に笑い掛ける。逆の立場なら逃げ出しているだろうな、と思う。あるいは、笑顔で躱している。
「これ、今から僕がきみに話したいことにも、絡んでくるんだけど」
「話したいこと?」
何かしら、と首を傾げる。
先程まで気味悪がっていた相手を前に、そんな風に素直な反応をしているから付け込まれるんだよ、と教えたくなったが、やめた。
今のところ付け込むことができるのは王子か魔女の二人だけで、もっと言うと魔女は義姉よりもシンデレラに興味があるようだ。
ゲームをクリアしたら転生するそうだが、転生した先では、ここで話したことなど欠片も残らないだろう。
それなら、せめてそれまでの間、付け込ませて。
「僕の生前の話。死んだ時の話。――きみが自分のことを話したのに、僕が僕のことを話さないというのはフェアじゃない。それに、僕にとってきみがいかに脅威的な存在であるかを証明する手段にもなる」
「……わかった、ニュアンス的に、驚異じゃなくて、脅威の方ね。驚いたんじゃなくて、脅かされたのね。そっちの方がより悪い意味な気がするけど、いいわ、続きをどうぞ?」
ふくりと頰を膨らませながらも、彼女はどこか緊張気味だ。
「――それが私が聞いて良い話なら」
お互い、わかっているのだ。
自分たちだけではない。ここにはいない二人も。
この世界において、自分のことを――どう生まれ、どう死んだのかという話をすることが、どれ程の意味を持つのか。
苦しみをなくして話すことができないからこそ、それは自分の心の一番奥を曝け出す行為に他ならない。
すー、静かに息を吸い込む。
「もちろん。僕はきみに、聞いて欲しいんだ」
唇を湿らせる。柄にもなく、緊張していた。
「僕はね、この世界だと王子役なんだけど、生前も似たようなものだった」
「え、待って、それ、嫌味なの?」
「人によっては」
初っ端から話の腰を折られ、肩を竦める。しかし大体の人間がこれを聞けば、こういう反応になるだろう。
「端的に言ってしまえば、有名財閥の御曹司ってやつでね。生まれた時から環境には……とても、恵まれていた」
客観的に見て、恵まれていた、という表現で合っているのだろう。王子は冷めた感情を胸にしまって、判断する。
「望んだ物はすぐに用意されて、むしろ望む前から備え付けられていて。僕は基本的に、生きるに不自由したことは無い」
「やっぱり嫌味よね、それ」
義姉は完全に引いている。生きている間はその反応を直接受けたことすらなくて、ひどく新鮮だった。……もっと言えば、自分の口でこんな嫌味たらしい物言いをしたことだって無かった。
「だからなのかわからないけど、基本的に欲という欲が全体的に薄くてね」
欲しい物は何かと訊かれても、それが何かわからなかった。一通りの勉学や運動ができたこともそれを助長したのかもしれない。何をしてもそつなくこなせてしまう分だけ、虚しさが残った。物心ついた頃から、それは変わらなかった。ともすれば物心がつく時期さえ、他の人より早かったかもしれない。
自分の中に、無邪気に笑った記憶が見当たらない。
「ただ聡かったお陰で、自分の状況や感覚が異常で、それを素直に伝えても何もメリットは無いということはわかってた。だから何をするにも、相手の表情や性格から欲しい言葉や望む姿を読み取って、その通りに振る舞った。無論大前提として人格の統一はしていたけどね。だから世間一般での僕の評価は軒並み、『誰に対しても親切で優しくて、叱る時でも決して怒鳴ったりはせず、リーダーシップもあって頼りがいのある人間』」
「絵に描いたような完璧人間ね」
「そう振る舞ったからね」
「やろうと思ってできるものでもないと思うわ」
「でも」にこり、と笑顔を作る。「気持ち悪いだろ、そんな人間」
義姉は押し黙った。そう思っているけれど、それを正直に認めて良いものかどうか、決め兼ねている表情だ。
彼女の苦悩を終わらせるべく、自分から口を開く。
「少なくとも僕にとって、僕という存在は、気持ち悪かった。精神的な距離が近かったことも理由のひとつかもね。なにせ本人だから、心の中の汚い部分が直接見えてしまう」
他人事のように淡々と続けた。
「で、そんな何不自由なく暮らしていたお坊ちゃまが何故死んだかというとね」
「ちょ、ちょっと待って。そんなに軽く言ってもいい話なの?」
慌てて止められた。彼は前々から話すと決めていたので今更どうということも無かったが、彼女にとってはあまりに唐突だったのだろう。
「きみが相手なら、軽くても重くても、どちらでも。……でもきみ、重く話すと、重く受け取るタイプだろう?」
王子としては、最大限気遣ったつもりだったのだが。義姉は怒っているような悲しんでいるような、いったいどちらに感情を振れば良いのかわからないと言いたげな顔をしている。
「重く受け取らざるを得ない話題でしょう、これ」
「元々重く受け取りがちな人間なんだから、軽く言った方がバランスが取れる」
言い切れば、彼女は怒りと悲しみを一纏めにして、呆れたように息を吐く。
「そんな気遣い方って、ありなの?」
「ありでお願いします。それで、話を戻すけど」
どこまで話したかな、と首を捻る。ああそうだ、自分の死因か。
「飛行機事故だったんだ。搭乗時、まさか自分の乗った飛行機が落ちるなんて、夢にも思わなかった。実際確率は低いでしょ? 調べたことないけど、御曹司として生まれる確率の方がまだ高いと思わない?」
彼女は言葉を失っていた。ほら、そうなる。王子は困ったように口元を緩めた。だから、軽くスルーするくらいの気持ちで聞いて欲しかったのに。
どうしたって相手を良い気分にはさせない話題を始めたのは、紛れもなく自分だけれど。
不意を突いて、死の恐怖が身体の奥底から迫り上がってくる。それをひた隠しにしながら、王子は笑う。
「絶望した瞬間は、二回あった。一回目が、飛行機が落ちるってわかった時。頭が真っ白になったよ。二回目は、死ぬ間際にさ、周りが自分の大切な人のことを想う中で、僕には誰もいないって気付いた時。――意識が途切れるまでの時間、僕の頭は真っ白なまんまだったんだよ。誰かに遺す言葉すら無いなんて、僕の人生、どれだけ薄っぺらいものだったんだろうね」
肉体的に命を落とす前に、自分の心が先に死んだ気がした。
途切れた意識は、そのまま戻らないと思っていたのに、どういうわけか再び彼は目覚めた。
けれど身体は元に戻っても、心は死んだまま。
「また薄っぺらいまま死ぬくらいなら、これまでの反対を選ぼうと思った。逆を選べば嫌われるんだろうって思ってたけど、それでも薄っぺらいよりかはマシだろう?」
シンデレラは予想通り、嫌そうな顔をした。魔女も、そうだ。おそらく嫌われている。後者には、別の個人的な感情が絡んでいるとはいえ。
予想外だったのは義姉の反応だった。ひどい、と言ったくせに、同じ口で、ありがとう、と言う。
「きみが僕を嫌わなかったことだけが、僕を動揺させたんだ。その想定外の事態を、僕は、嫌じゃない、むしろ嬉しいと感じた。そんな自分を気持ち悪いとは思わなかったし、たとえ気持ち悪いと感じたとしても構わないと思った。――初めてだったんだ、矛盾だらけの、そんな感情。それまでの僕からはかけ離れた感覚だった。だから、『脅威的』」
俯き加減で黙ったままの彼女を見、さすがに困らせたか、と息を吐く。困らせる程度なら良いが、盛大に引かれている可能性も高い。もう関わりたくないと思っているかもしれない。
普段はよく働く勘の鋭さが、この時ばかりはどういうわけか上手く働かなかった。
いったん頭をすっきりさせた方が良い。
席を立つ。
「飲み物を持ってくるよ。お茶で良い?」
返事が来るとは思っていなかったので、「ええ、ありがとう」と返ってきた時は驚いた。
ふ、と息を吐き、一度部屋を出る。その間に彼女がいなくなっていても仕方がないと思っていたが、戻ってみると、彼女は王子が部屋を出た時と全く変わらないポーズでそこにいた。
どうぞ、と茶の入ったカップを置くと、ありがとう、とまた礼の言葉が戻って来る。しばらく机を彷徨った彼女の手は、やがてカップの持ち手を掴んだ。湯気が揺らめく茶を一口、二口と口に運び、ほう、と静かに息を漏らす。
「貴方の話を聞いて、いろいろ考えたんだけど」
「うん」
「一番強く思ったのはね」
「……うん」
あまり緊張しないように、心掛けた。悟られたら、無意味に彼女まで緊張させるかもしれない。そう思いつつも、つい息を詰めた。
「それで薄っぺらいとか、馬鹿にしてるのかしらってことだったわ」
「……うん?」
思っているのと違う反応に、つい素っ頓狂な声を上げた。
「むしろ濃過ぎる。そんな濃い人生送ってる人、あんまりいないと思うの。私たち、何かの漫画の話をしてるんだっけ、って何度か疑ったもの」
生真面目な顔でそう言われ、そうかなあ、と頰を掻く。
カップから離れた手が、躊躇いがちに王子に伸びてくる。細い指先が、髪を掠めた瞬間に、どくん、と大きく心臓が跳ねた。自分はまだ生きていたのかと錯覚しそうになる。
「だから私は、貴方に対してなんと言ったら良いのかわからないけど、ただ……貴方はとても、頑張ったのね」
彼女の手が、彼の髪を、くしゃりと搔き乱した。
――熱い。
触れられた部分に、血液なんて通っていないのに。それなのに、おかしくなるくらい、身体の全てが。
熱く、渇く。
「なるほど」
これが欲というものか。
初めてはっきりと自覚した欲望になんの抵抗も無く従い、相手を掻き抱いた。ひゃあ、と高い悲鳴が耳を打つ。その甘さに、口元が緩んだ。
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど、良い?」
「そ、それより、苦しい、……です!」
どうして敬語なのか。ははっ、と声に出して笑いながら、少しだけ腕の力を緩める。
「名前を訊いても?」
「……自分は名乗らないのに?」
それもそうか。頷いて、名乗る。
「公義」
「お堅い感じね」
「字を当てると更にね。公に、正義の義だから」悪いことができなさそうな、大層な名前だ。肩を竦める。「それできみは?」
「和子。和やかな子で、和子」
「和やか?」揶揄すると、ぷくりと頰が膨らんだ。「冗談だよ。似合ってる」
嬉しそうに微笑んだ和子は、公義に囁く。秘密を共有するように。
「妹の名前は、もっと素敵なの。あの子に合っていてね。――陽菜子っていうの」
「とても似合ってるね。憶えておくよ。きみの名前も、きみの妹の名前も」
到底不可能だと知っているのに。
それでも約束を交わした。
決して違えないと、誓った。