深淵の赤い糸
俊風に巻かれるように切れ端は風に飲み込まれ空中を旋回しやがてあっけなく音もなく、その深淵へすうっと沈み消えてしまった…
それを見ていた…
全てが引き込まれてしまうように錯覚を覚える闇の風景に精神が引き摺られ、反して記憶が逆流していった。
街…
その瞬間に歓喜は輝く光の渦だった。眩い矛先は燕の遊泳のごときスピードで流れて、行方を追うように雑踏は感嘆と動揺を轟かせた。群衆を掻き分けてそれは薄暗い路地へと流れ込み…
すたすたと優雅な足取りで…汚い路地から顕れた彼を見る人混みのいちいちに笑みを堪え…澄ました顔で通り過ぎていく…そんな彼は、あたかも神のように写っているに違いなかった。
赤い糸が垂れている…
「丈夫な糸でね…勿論人間が下がったくらいじゃ千切れる訳がねえ!」
ひらひらと揺れる糸…しかし程なくそれはピンと張り詰めてまるで凍りついたかのようだった。深淵の縁である地面のその場所に、美しい宝石によって止められたその糸が遥か深淵へと永遠に下がっていた。
(…ここを伝い降りよと…?)
視界すらなく、感受しうる全てを遮断する最奥へ続く闇…深淵はつまりその器であった。
「巨大な星が近づいているんでさあ…だから途方もない引力で何もかも奪われちまう…ここは言ってみりゃあ宇宙で一番高い崖のようなもんでさあね…」
案内人のダミ声を体内に流し、彼は別の意識へと遷移するのを止められずにいた…
(月…確かに!巨大な引力が更なる気配で接近していることを感じずにはいられない、想像に難い程に美しく目の前に地の底へと張り詰める糸…それがまさか天空へと伸びている事をこの身に実感するのは至難の業なのだ。巨星がどんどん近づいているという破壊的なヴィジョンでもなければそれは不可能な荒唐無稽なのだ…よってそれを成立させるのは、転じて奇跡の事実しかなかったのだ…しかし…それならばどうして…この、踏みしめられた地面…この月全体の僅かな体積は…一挙に飲み込まれることなく…一定の距離感を保ち続けその神秘的な実体…勢い留まらず接近するばかりの巨星へと吸い、潰され、引き摺り落とされる事はないのだろう…?)
彼は…ひとつ…ひとつ…慎重さを保ってもはや棒状に揺るぎない細く剛健なその糸を伝い降りて行くのであった…
きれいに整列した集会での記憶。
神の声が聞こえていたのは果たして誰であったか…突然彼が頭の中で声を聞き…すぐさまそれが神の声であったのだとすんなり直覚したのはそれが、神の啓示だったためであろうか?
神に挙手を命じられ、静かに…心の奥底で彼は挙手をした。
後の街中で、彼へと飛んでいったあの、深淵へのチケットへ…そして下降への特権へと…その因縁は続くのだった。
一歩一歩…
深淵はときおり光の層を走らせていた。
光の筋道に列ぶ平面次元は、彼や通過するこれまでやこれからの下降者へと向けて、様々な光景…つまり世界を手渡すのであった。
無論、ここで手を離すと肉体は精神ごと永遠の脱出不能な迷宮へと飲み込まれてしまうので、絶対に油断は出来ないのであったが、しかし、そのいちいちで手渡される世界の温度や振動のリズムは、安息を得ずにはいられない位のものだった。
「神が隠れているのだよ…」
チケットを手に入れた彼が真っ直ぐに向かったのは、博学な彼の恩師であった。恩師が彼に示したのは、深淵には無限の闇ばかりではなく、その所々に光に満ちた世界があるはずであり、それがただその入口以降のこちら側の世界には届いて来ないだけなのだ、という一説であった。
「そして宝石を見つけるのだよ…」
(ふぅ~…師が言ったことはこのことか?もしかして本当のことであったのかもしれないや…)
肉体はずっと下降を続けている…その時々に彼を惹きつけたその世界世界は…肉体から離脱するように…精神を捉え引き止めて…しまいに彼は分裂してしまったのである…
彼は今…何人の彼になったことだろう…?
そのひとつひとつは神の茶目っ気じみた悪戯のようだった…狸や狐が化かすように…深淵のそれぞれの層を守るその神々は…分裂して増殖を止めない彼の人格のイチイチに愛嬌だらけの企みを仕掛けるのであって… その無意味で自由な遊戯の数々が…彼に元来の目的を忘れ去らせてしまうのだった…
分裂した彼はどこへ行くのだろう…?
分裂した本来の彼は深淵のどこの境地へと一体辿り着いてしまったというのか…?
彼…そのひとりの彼はどこかの光の王国へと安住した。そしてそこから脱出することなどとうに忘れてしまっていた…
「王子が囚われているのさ…そして君はそれを探すのだよ…」
知り合いのひとりが彼に告げている…この世界はなんの為にあるのか?なんのパワーバランスに成り立っているのだろうか?柔らかい理不尽…無意味な…シュールな…理屈の通らないその成り行きの全体は…なんの価値観の達成の為に存在しているのだろうか…?
彼は探し続けた…永遠の…消えてしまった時間や…充満する光を頼りにして……
見つけていた…
彼は神を見ていた…
巨翳に隠れ…遥かなる…厖大な嘘に紛れたその宝石を…
彼はとうとう見つけてしまっていたのだ…
彼は湖面を掬っていた…
それは黄金の泉なのだった…
現実からも…光からも…宇宙からも遠ざかるこの異質な夢幻世界で…彼を写した彼自身の姿が…神そのものであることに彼は直ぐ様気づいていたのだ…
つまり。
宝石は彼自身だった…
深淵に垂らされた…ピンと垂直に垂らされた赤い糸…しっかりと根元に留め具となって…光る宝石に共鳴して…彼は…全ての宇宙の宝石たちと、永劫の饗宴を続けていくのである。