日本現代詩研究における“科学的”方法論・序説
本稿では,研究目的でなく,規範的な「分析態度」を記載している。
≪1 序≫
かつて,詩人,萩原朔太郎はこのように述べた;
「詩とは何だろうか?……例えば,或は詩は霊魂の窓であると言い,天啓の声であると言い,或は自然の黙契であると言い,記憶への郷愁だと言い,生命の躍動だと言い,鬱屈からの解放だと言い,一々個人によって意見を異にし,一も普遍妥当するところがない。畢竟これ等のものは,各々の詩人が各々の詩論を主張しているのであって,一般についての 『詩の原理』を言ってるのでない。吾人が本書で説こうとするのは,こうした個人的の詩論でなくして,一般について何人にも承諾され得る,普遍共通の詩の原理である」[1]。
科学が発展し,技術が進歩した現代にあっても,今日における詩,詩論および詩学の在り方は,萩原が嘆いた状況から,さほど変わっていないのではないだろうか。それは,詩,詩論および詩学が,科学的な分析態度で検討されていないからである。
「経験科学にとっては反駁されうることが可能でなければならない」[2]p49。
また,人間の行動を説明する際に,その行動がとられた時の外的な状況ではなく,その行動をとった本人の性格や嗜好といった内面的な要因を過度に重視してしまう傾向を,「根本的な帰属の誤り(fundamental attribution error)」と呼ぶ;
“we shall term the fundamental attribution error, is the tendency for attributers to underestimate the impact of situational factors and to overestimate the role of dispositional factors in controlling behavior.” [3]p183。
文学論において,以下が指摘するところの「実証主義のはきちがえ」とは,すなわち「根本的な帰属の誤り」であろう;
「読者は作品を読み,どんな人が書いたのか,どのようにして書いたのか,に関心をもつ。……批評にせよ,研究にせよ,作品に代えて,作家を対象にするようになった理由のおおもとは,実証主義のはきちがえにある」[4]p32-33
≪2 「記述」と「説明」とのちがい≫
実証主義のはきちがえ,について,もう少し補足しておこう。つまり,「説明」することと「記述」することはちがうのだ,ということである;
「およそ現実の社会現象を研究するには,現実の現象がいかなる状態にあるかを正確に観察し,それを客観的に記録しなければならない。……記述的研究にはたとえば,人口の増加率,自殺率,離婚率などの増減を正確に観察し記録することなどがあるだろう。……しかしながらこれらの社会的現象の正確な観察と記録は,それ自体では『なぜ自殺率が俗化したのか』という,『なぜ』という疑問に答えるものではない。そしていかに正確な観察に基づいた客観的な記録であっても,『なぜ』という疑問を考えないのであったら,それは因果関係を問題としない記述的な研究に他ならない。それは科学として,提示な段階に留まるものにすぎない。このような『記述』に対して『説明』は『なぜ』という疑問を発して『結果』として扱われる現象と,その『原因』となる現象とを,論理的に関係させようとするのである。……科学が因果関係に対して,少しでも確かな推論を行おうとする限り,記述ではなく,説明を行わなければならない。もちろん『説明』とは『原因』となる現象と,『結果』となる現象との関係に他ならない。したがって,正確な両者の『記述』がなければ,信頼できる『説明』は存在し得ない。その意味で正確な『記述』は,『説明』的研究に進むために,欠くことのできない前提となる。しかしたんなる記述に終ってしまうなら,それは科学として,現象を理解しようとする本来の目的を,放棄したことになるのである。」[5]p40-43
≪3 「規範的評価」と「説明」≫
「説明」するにあたっては,客観的であらねばならない;
「分析の対象が現実の政治や社会で生じている現象となると,話は少し違ってくる。現在進行形の政治や社会現象に対してわれわれは,さまざまな意見を持っている。そのため客観的であるはずの分析に,自身の規範的意見が影響を与えていることがあるかもしれない。……価値判断と分かり難く結び付く政治や社会現象を説明する際には,だからこそよりいっそう注意深く価値判断と独立した形での説明を心掛けねばならない。」[6]p7-8
≪4 詩の「普遍的定義」と,詩の「現在」を探ることは異なる≫
分析対象となる言語が所属する時代,および社会の影響は免れ得ないため,時代を超えた普遍性を定義することと,現在の定義をすることは,異なる;
「近代言語学と言われているものは,別の箇所では記述言語学とよばれているものに対応する。即ち,それは,厳密科学として言語学を成立させるために,予断や教条を一切排除し,コーパスの収集よりはじめ,経験より一定の厳格な手続きを踏んで帰納する。したがって,それは『言語の諸事実からのみ出発し』,思考や論理等,言語の外,コグニティヴなものへの依存を避ける禁欲的な経験科学である。ただし,言語データ,コーパスは,ある時代・ある社会に内蔵しているから,言語学もその影響を免れることはできず,それ故にこそさきほどの『一般文法』も,当時のフランスの政治社会事情の産物たることを知るべきなのである」([7]p102)
≪5 詩の普遍的定義と「記述」「説明」「規範」≫
誤解を恐れずにいえば、詩を普遍性をもって定義することは,たやすい;
主張1-1 「詩とは,フィクション(虚構)で,言語上の創意に富む,倫理的な発言であり,各行をどこで切るかは,プリンターやワープロではなく,作者自身が決めるものである。……この定義は脚韻にも,また韻律,リズム,イメージ(比喩),詩語,さらには象徴性などにも,まったく触れていない。その理由は,これらを用いない詩はいくらもあり,またこれらを用いる散文がどっさりあるからだ。散文は中間韻を使うことがあるし,リズム,イメージ,象徴性,音韻効果,文彩,調子の高い言語その他,詩の資源を平気で横取りすることも,決して珍しくない」[8]p57
主張1-2 「人々が詩人と呼ぶのが,……無差別に,韻律の使用という基準によっているからである。じじつ,医学あるいは自然学の論文も,韻文で発表されるなら,それらの著者は同じように詩人と呼ぶならわしである」[9]p22
主張1-3 「もちろん散文は,ふつう韻律を用いない。韻律は脚韻と同様,おおむね詩に特有のものだ。だがどう見ても,それが詩の本質にかかわるものとは言いがたい。なぜならじつに多くの詩が,韻律なしでも立派にやっているからだ」[8]p58
主張1-1は力強く,堅固な定義である。しかし,主張1-1に付随する,主張1-3には,重大な問題が内包されている。なんであろうか。それは,主張1-1の定義が,「記述」であるにもかかわらず,主張1-3で「かくあるべし」的な「規範的」定義に言及していることである。
また,よく読まねば気付かないが,主張1-1および主張1-3は,「経時的な視点」,すなわち「詩のルーツ」と「詩の現在」とが混同されているきらいがある(主張1-2を間に介在させることにより,この指摘は,より明示的になったものと思料する)。
定義をすることは,容易にできる。しかし,「規範的意見と独立した形での説明」を満たすような,かつ社会に埋め込まれていることに意識的な定義をしようとすると,とたんに難しさを孕むのだ,ということである。
≪6 N=K問題≫
ねんのため申し上げておくと,わたしは,本稿で,研究目的を示してはいない。あくまで規範的な「分析態度」を記載しているのみである。つまり,普遍的共通の詩の原理を探ることは,私の(また本稿の)目的ではない。もし,「普遍的共通の詩の原理」なるものによって,詩のいかなる部分もおしなべてぜんぶ説明できるのだとすれば,それは「N=K問題」に陥っているといわざるをえないだろう(わたしは,例外なくすべて説明できるような理論が存在するとおもっていない);
「Nとは説明されるべき事例の数であり,Kは説明の和である。NとKの数が等しいとき,その説明は問題を抱えることになるとされる。……では何が問題なのか。ここでの問題も,どの国のことも説明できる説明方法になっていることである。ボリビアであろうが,カザフスタンであろうが,それぞれの国の文化から結果を説明できてしまうのである。これは,すでに見てきたように『何でも説明できる』ということであり,逆にいえば,『何も説明できない』ということと同じである。要するに後付の説明となってしまっているのである」[6]p43-44。
≪7 小括≫
科学的に検討される仮説は,反証可能性を持っていなければならない。また,規範的意見とは独立した精確な記述に基づいた説明が試みられねばならない。そしてその説明は,N=K問題に陥らぬよう留意せねばならない。詩を,人文科学の俎上に載せるには,われわれが、分析対象を作家,主体,発話者に偏重することないよう留意し,かつ反証可能性のある説明が試みられるよう留意すべきである。
[1] 萩原朔太郎『詩の原理』新潮文庫,1954年
[2] Popper, Karl R. “The Logic of Scientific Discovery” Hutchson, 1959.(大内義一・森博共訳『科学的発見の論理(上)(下)』恒星社厚生閣,1971~1972年)
[3] Ross, Lee ‘The intuitive psychologist and his shortcomings: Distortions in the attribution process’ Berkowitz, Roger. et al “Advances in experimental social psychology vol. 10” New York: Academic Press, 1977, p173–220.
[4] 鈴木貞美『日本文学の論じ方――体系的研究法』世界思想社,2014年
[5] 高根正昭『創造の方法学』講談社現代新書,1979年
[6] 久米郁夫『原因を推論する――政治分析方法論のすゝめ』有斐閣,2013年
[7] 岩成達也『誤読の飛沫』書肆山田,2013年
[8] Eagleton, Terry “HOW TO READ A POEM” Blackwell Publishing Ltd, Oxford, 2007(川本皓嗣訳『詩をどう読むか』岩波書店,2011年)
[9] Ἀριστοτέλης “Περὶ ποιητικῆς”(Kasse, Rudolfus “Aristotelis de arte poetica liber” Oxford University Press, 1965.(松本仁助・岡道男訳『アリストテレース詩学・ホラーティウス詩論』岩波文庫,1997年))
初出:活動報告2014年 10月01日(水) 08時10分(http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1734/blogkey/998768/)
なお,本稿に対しては,Sai氏,午雲氏,みもり氏との対話を経て,初稿から一部追記をさせていただいた経緯がある。ここに御礼申し上げたい。