第86話 姫騎士殿下、帰る
勉強したい、と言っていた殿下だが、翌日からは結構いろいろなことをして過ごした。
メガネが、ショウタ達の引き起こした地味に甚大な被害の損害補填に頭を悩ませている中、ショウタとアリアスフィリーゼは図書館で借りてきた本の内容を、旧帝国領の共通語であるガルシア語に翻訳して書き写す作業に没頭した。この辺、人の頭の中を覗ける師匠の功績も大したもので、アリアスフィリーゼは様々な書籍の中身を写しながら、どんどん知識を吸収していった。
で、当然勉強ばかりしていては息が詰まる。午後からは上野でもう一度動物園に行き、さらには東京国立科学博物館に行き、美術館に行き、ちょっと足を延ばして池袋のサンシャイン水族館まで行くなど、かなり知的な一日を過ごした。
で、東京生活6日目。結局この日は勉強しなかった。朝からネズミの遊園地だ。師匠も連れて行ってめちゃくちゃ満喫した。
夜まで散々楽しんで、帰ってきてから、また勉強を始める。ジェットコースターやらホラーハウスやら、連れまわされたショウタはへとへとだったが、今夜がアリアスフィリーゼにとって東京で過ごす最後の夜になるかもしれないので、料理は自分の手で作ることにした。ちなみに彼女をホラーハウスに連れて行った時の反応はとても面白いものがあったのだが、仔細を記すには余白が狭すぎるため、ショウタの心のアルバムにしまいこんでおく。
アリアスフィリーゼが開いているのは医学書だ。骨格、内臓の位置、血管や筋肉の構造に至るまでをつぶさに観察し、大学ノートに書き写していく。師匠はメガネと連絡を取り合いながら、何かの手配をお願いしていた。
「アリアさん、こっちの医学書って参考になります?」
「はい。人体構造に大きな違いはないようですから」
騎士王国も、外科的な医療措置は非常に発達している。王族騎士や伝統騎士の戦闘においても、それは適切な人体破壊の技術として遺憾なく発揮されるのだ。
それだけに、今更医学書なんか見ても……と思わないでもないのだが、アリアスフィリーゼが役に立つというのなら、立っているのだろう。ショウタは何も言わず、フライパンの上にじっと視線を落とす。
和食にするか洋食にするか、最後まで迷ったのだが、結局ショウタはハンバーグとギョウザを作ることにした。どちらも夏場に食べるには若干重いが、ひき肉料理というのが重要なのだ。
騎士王国にはモチョロというひき肉料理があって、ショウタにもアリアスフィリーゼにもなじみが深い。あちらの世界に戻る前に、せっかくなので食べてもらおう、と、そう思ったのである。
「ほーい、電話終わりましたよー」
足をテーブルの上に乗っけるというお行儀の悪さを発揮した師匠が、スマホをしまいながらそう言った。
「プリンセスの送還用に最適のポイントが見つかったようなので、明日、あちらの世界へお送りします」
「それって本当にアリアさんの世界なんですか?」
ショウタはハンバーグをひっくり返しながら尋ねる。師匠はにやりと笑った。
「おっと、信頼してないんスか? 時空境界面と並接界域と観測線の話、します?」
「ごめんなさい、やっぱ良いです」
「はい、結構」
とにかく、そうした小難しいSFじみたアレで、アリアスフィリーゼの世界であるとほぼアタリをつけられたのだろう。科学の力って痺れる。
ショウタは理解できないながらも、そうしたアレコレに関して纏められた資料を、異世界へと持ち込むことに決めていた。ショウタは忘れたわけではないのだ。帝国の魔法都市において謎の事故死を遂げたアリアスフィリーゼの姉、デュエトリーゼ姫殿下の話と、その死の真相に疑問を抱いていたトオン・ノグドラの話を。あの世界の魔法技術によっては、ふたつの世界をある程度行き来できるテクノロジーが発見できるかもしれない。その一助になればと、ショウタは考えている。
「明日……ですか」
アリアスフィリーゼはそれまで少し黙っていたが、目を閉じてぽつりと呟いた。
「あっという間でしたね」
「まぁ、一週間ッスからねぇ。名残惜しいッスか?」
「当然です。よくしていただきましたから」
師匠の言葉に、少し寂しそうに微笑む。
「ですが、帰らないわけにはいきません。私の国に危機が迫っているのは確かなのです」
「みたいッスね。まぁ、立派ッスよ。ショウ年、おまえはどうします?」
「まぁ、ついて行きますよ」
ハンバーグを皿によそいながら、ショウタは答えた。
「それは、プリンセスが放っておけないから? わたしのスマホを取りに行かなきゃいけないから?」
「どっちもです。ちゃんと持って帰ってきますので、それはご心配なく。〝せんぱい〟」
「結構」
師匠は腕を組んで満足げに頷く。ショウタがテーブルに皿を並べ始めると、アリアスフィリーゼは本と大学ノートを閉じ、ショウタを手伝いはじめた。
「ああ、良いんですよ。アリアさん」
「いえ、こうした〝お手伝い〟は、あちらではなかなかさせてくれませんから」
それも、そうか。ショウタは狭い食卓を見渡して思う。
明日、異世界へと戻る。だが、こちらの世界にも帰ってくるつもりだ。アリアスフィリーゼとも師匠とも、これでお別れというわけではない。一番忙しいが、同時に一番気楽なポジションでもあった。少なくともこの3人で食卓を囲めるのは、おそらくこれが最後だ。
「なーにしみったれた顔してんスか」
師匠が言った。
「せっかくの料理が冷めますよ。さあ、早く食べましょう。はちみつ出してください」
「自分で出してください。僕、これからギョウザ焼くんで」
「あら冷たい」
夜である。なんだかんだ言って同じ部屋に布団を敷いて寝るのも慣れてしまった。が、それも今日までだ。明日からは、また別々の部屋で、王宮のふわふわしたベッドか、あるいは民家の硬いベッドか、どちらかで寝ることになる。まぁ、それも良い。
人間1週間もすればすっかり心が適応してしまうもので、あれだけ懐かしかった東京の味気ないビル街にも、今は大した感慨を覚えなくなってしまった。明日からは騎士王国に戻る。視界を遮る不粋な電柱ともおさらばだ。楽しみなような、ちょっとそれも寂しいような。
「いよいよ明日ですね、ショウタ」
そう言いながら、アリアスフィリーゼは荷物の整理をしていた。彼女が持ち帰るものは私物が多い。
こちらの世界の歴史や経済、政治などについてまとめたり、あるいは医学書を写したりした大学ノート。2日目にショウタが買った渋谷の有名カジュアルブランドの服。師匠に譲ってもらった下着。上野動物園で買ったパンダやハシビロコウのぬいぐるみ。カップラーメン。今日買ってきたネズミのカチューシャ。そして東京銘菓ひよこ。ひよこの発祥は東京ではなく福岡なのだが、東京土産というよりもむしろこちらの世界土産であるので、別に発祥地にこだわる必要はないだろう。別にサルミアッキだろうがシュールストレミングスだろうがカンガルーのジャーキーだろうが珍しければ良いのである。
「明日ですねぇ」
布団の中でアリアスフィリーゼの様子を見守りながら、ショウタは呟いた。
「ショウタは、何か持っていかないんですか?」
「どうしましょう。通例にしたがって味噌とか醤油は持ち込むべきなのかな……。あと……胡椒?」
「胡椒! 香辛料ですね!」
「業務用スーパーで大量に買い込んでも良いんですけど、結局消耗品だから、いつか無くなっちゃうって考えるとなぁ……」
味噌と醤油にしたって、帰ってすぐに醸造施設を作れる状況ではないだろう。とりあえず咬蛇王の侵攻を退け、場合によっては戦後復興に注力しなければならなくなる。そもそも、あっちの世界の微生物についてショウタはよく知らない。麹菌が駆逐されて変なモノが出来上がる可能性だってあるのだ。
ああ、菌と会話できる能力でもあればな。ショウタは棚に挟まったお気に入りの漫画を眺めながら思った。
まあ、でも、持って行こう。味噌とか醤油の作り方も、ネットで調べて印刷するなりして。大豆の苗とかも準備しよう。もし量産に成功すれば、きっと騎士王国の新たな産業になる。商会ギルドを通じて大陸に売りさばけば、国内も外貨で潤う。
そういう意味では、香辛料もかき集めておくか。咬蛇王との戦争が終わり、疲弊した国内を立て直す資産になれば、なおのこと良い。
「あとはまぁ……アレですね。持って行くものはだいたいメガネさんにお願いして準備してもらってるんで」
「ここにあるものではないんですか?」
「結局、個人の力で集められるものには限度がありますから。国家権力が融通利かせてくれるなら、それにのっかっちゃいますよ」
持って行くのは、せいぜい着替えくらいなものだろう。
正直、あまり言いたくはなかったのだが、ショウタは当初異世界に行った時に着ていたワイシャツと学ランを、ずっと着まわしていた。もちろんきちんと洗濯し、その間はあちらの世界の服に袖を通してはいたのだが、やはり、着慣れたものの方が心地が落ち着く。あとはなんだろう。将棋やトランプでも持って行こうか。
いざ何でも持っていけるとなると、少し迷うな。
そんなことを考えていると、ちょうどアリアスフィリーゼは荷物を整理し終え、『よしっ』と呟いていた。
「終わりました?」
「ええ、終わりました」
「それじゃ、灯り消しますかー」
ショウタが念力で蛍光灯の紐を引っ張る。夜目が慣れるまでのしばしの間、じっと目を閉じ、明日以降のことを考える。
「ショウタ」
「うっひゃああっ!!」
思った以上に近い位置から声をかけられ、おもわずショウタは跳び起きる。アリアスフィリーゼの気配は、すぐ真横にあった。
「ど、どどど、どうしました。アリアさん」
「いえその、特にどうもしないのですが……。それです」
「どれでしょう?」
「その……、〝アリアさん〟って……」
アリアスフィリーゼは、少し視線を逸らして呟く。
「あちらの世界に戻ったら、呼んでくれないでしょう?」
「あ、あー……」
あちらの世界でのアリアスフィリーゼは、アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオ。騎士王国の姫騎士だ。人前で、みだりに〝アリアさん〟なんて呼べない。アリアスフィリーゼ姫騎士殿下である。
「まぁ、殿下は殿下ですしねぇ……」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「こちらにいる間に、もう少し、呼んで欲しいな……って」
「………」
ショウタは、別に姫騎士殿下という呼び方にそこまで距離感を感じているわけではないのだが、彼女の場合は、そうでもないのか。
ショウタはふっと笑い、彼女の手を取った。
「お安い御用です。アリアさん」
「も、もう一度……」
「はい。アリアさん」
アリアスフィリーゼの肩に手をかけて、耳元でそっと囁く。頭がわずかに揺れて、髪の毛先が鼻に当たりこそばゆい。彼女の吐きだす息が、ショウタの首筋に当たるのがわかった。
アリアスフィリーゼはもう何も言わなかったが、彼女が飽きるか寝つくまで、ずっと名前を呼んであげようと思った。
「中学生か」
だだ漏れになっている二人の思考を受信しながら、ベッドで漫画を開いていた直輝はぼそっと呟いた。
翌朝である。いつものように歯を磨き、顔を洗い、師匠はついでに朝シャンをする。洗面所には入れないので、ショウタは居間でアリアスフィリーゼの髪を梳かした。櫛と霧吹きもあっちの世界に持って行った方が良いだろうか、と、漠然と思う。こちらほど髪のケアについてのノウハウが発達した世界だとは思えないのだが、アリアスフィリーゼもセプテトール騎士王陛下もたっぷりとした綺麗な髪をお持ちだ。キャロルやルカの髪も特に傷んでいる様子はなかったし、ハゲているのはウッスア宰相くらいなものである。
ああ、いや、コンチェルト・ノグドラの髪は割と傷んでいたな。やはり髪のケアは重要だ。
「ショウタ?」
「ああ、いえ。なんでもないです」
ふわあ、とあくびを漏らすショウタ。アリアスフィリーゼはあのあと1時間もしない内に眠ってしまったが、ショウタは寝つけなかった。理由に関してはわざわざ記すまでもあるまい。
師匠がシャワーからあがり、みんなで軽い朝食を摂る。
8月11日。先日の冥獣コボルトの一件は、大したニュースにはなっていない。ネット上で騒ぐ声がちらほらあったものの、彼らにはもっと興味深いニュースがたくさんあったようで、すぐに移ろいでいってしまった。メガネ達の火消しも、それなりに役には立ったのだろう。
朝食は作りすぎた昨日の残りだ。あとはパンなどを適当につまむ。
「師匠、明日から僕いないですけど、あんま偏った食生活しちゃダメですよ」
「心配すんなら早くかえってくるように」
朝食が終わる頃には、メガネの手配した車がマンション前に到着する。アリアスフィリーゼの持つ大量の荷物を階下に運んだショウタは、まずそこに並んでいた車を見て、あんぐりと口を空けた。
「じゅ、10トントラック……!」
マンション前にデンと置かれた10トントラックと、その前後にやや高級そうな黒塗りの車が並んでいる。メガネの他には、黒服にサングラスといういかにも怪しげな出で立ちの男たちが、そこに待機していた。
「ああ、10トントラックだ。ジープや装甲車なんかでも良いと思ったんだが、まあ積載量と入手のしやすさを重視した。ショウ年、ちょっとこっちに来い」
メガネに手招きされて、ショウタは荷台へと上がる。そこに並んでいるものを見て、また唖然とすることになった。
確かに、いくつかはショウタが手配を要請したもの、あるいは持って行けたらいいなと思っていたものだ。だがその量がぶっ飛んでいた。少なくとも、一個人が異世界に行くために持ち込むような品物ではない。
メガネは裸電球をつけ、ひとつずつ説明していく。
「まずはショウ年に頼まれたオフロードバイクだ。カワサキのKLX250。水冷式の250CCだな。市販モデルではなく、陸自の偵察隊に使われているものを調達できた。まぁ、異世界の道路がどんなもんか知らんが、性能的に問題はないはずだ」
「あ、はい。えーっと、ガソリンは?」
「予備をこれだけ用意してある。あとは現地でなんとかしろ」
トラックの荷台に大量に置かれたガソリンのタンクを指して、メガネはそう言った。
やはりそうなるか。魔法かなんかでガソリンを精製できればいいのだが。しかし、騎士王国は魔法技術の発達が極めて遅れている。最悪、超能力でエンジンをガン回すしかないが、その場合は空焚きになるのでバイクの寿命そのものを縮めそうな気がする。
「あとはコレだ。H&KMP5」
「サブマシンガンじゃないですか!」
「今回の一件で押収されたものをちょろまかした。カービン銃を持ってこようかと思ったが、ショウ年の身体ではこの辺が限界だな」
確かに、冥獣コボルトからショウタが奪い取ったものと、おそらく同じタイプの銃だ。もともとは暴力団が隠し持っていたもので、ただのヤクザが手にするには高価すぎる武器だとメガネは呟いていたが、ショウタはそのあたりはよくわからない。
こちらも、予備の弾倉と弾薬が大量に積み込まれていた。足りなくなったら現地調達、ということらしい。
他にも発電機や携帯無線、発信機、トランスミッター、それらのための中継機器など、ショウタ一人では到底集められないようなアイテムが惜しげもなく積まれている。
ショウタも自家発電でスマホの充電くらいはできる。こうした電子機器は、ある程度長く使えるだろう。
「あとは異世界必携品と思われる、香辛料と味噌と醤油を大量に積み込んだ。このくらいだな。他に欲しいものはあるか?」
「いや、特にないんですけど……良いんですか? こんなにたくさん……」
「ショウ年には生きて帰ってきてもらないと困るからな。まあ、申し訳なく思うなら、向こうの技術のひとつやふたつ盗んできてくれ」
そう言い、メガネは最後に一冊の書類を手渡した。大型車両の運転マニュアルとある。
「あのう、これは……」
「異世界にはおまえとプリンセス二人で行くんだ。このトラックを運転するのはおまえだからな」
「………」
「トラックに乗って異世界に行くなんて、なかなかシャレてるだろう?」
ニヤリと笑うメガネを見て、ひょっとしてこの人は楽しんでいるのではないか、と思った。
ひとまず、荷台にアリアスフィリーゼのパンダやハシビロコウを次々に運び込んでいく。まだ少しスペースに余裕があったが、運転中に動いたりしないようしっかり固定した。メガネが調達してきてくれたというサブマシンガンは、さっそく服にねじ込んでおく。
少し遅れて、師匠とアリアスフィリーゼも降りてきた。さすがにアリアスフィリーゼは驚いた様子で10トントラックの車体を眺めている。彼女は鎧下に甲冑という、あちら用の衣装にしっかり着替え終わっていた。
「こ、これ全部、あちらへ持っていくんですか……!?」
「みたいです」
ショウタは小さく肩をすくめる。
「ひとまず送還地点まではこちらでお送りしますので、プリンセスとショウ年は、こちらの車に」
メガネが指差したのは、黒塗りの高級車だ。運転席にはやはり黒服の怪しげな男が座っていた。アリアスフィリーゼはにこりと微笑み、メガネに頭を下げる。
「わかりました。こちらの世界では、大変お世話になりました」
「いえ、無事のご帰還をお祈りしております」
高級車の後部座席に乗り込み、別の車にメガネと師匠が乗り込み、一同は赤羽のマンションを発つ。
ショウタがいつか戻って来るべき場所だが、アリアスフィリーゼは、おそらく二度と踏まないであろう土地の光景だ。横を流れる荒川と、その対岸に並ぶ川口の街並みを、彼女は黙ってじっと眺めていた。一期一会、という言葉はあるが、今のアリアスフィリーゼは、きっとそうした思いでいるに違いない。
かなり長い間、車に揺られていたことと思う。
ビルの建ち並ぶ都市的な街並みは、やがて徐々にその高さをひそめて行き、住宅街を過ぎ、やがて民家すらもまばらな土地に入っていく。山や森がやや目立つようになってくると、アリアスフィリーゼはこの光景もまた新鮮なようで目を丸くしていた。確かに、東京ではこうした場所を案内していなかったし、騎士王国の田舎とも少し違っている。
やがて、大きな廃墟のある野っぱらで、車が停まった。
「ここは……」
見覚えのある場所だ。ショウタは拳を握る。
ショウタがちょうど3ヶ月前、こちらの世界では1ヶ月前、最初の異世界転移を体験した場所だ。光田士郎の残した超能力研究所の廃棄施設。まだ取り壊されず、残っていたのだ。
「結局、ここが一番、時空境界面の揺らぎが強かった」
後ろの車から降りて来ていたメガネが、そんなことを言う。
「じゃあ、ここでわたしがその揺らぎを通じて、フラクタライズ・エラーを起こせば良いんスね」
「ああ。おそらくそれでゲートが開く」
頭を掻きながら言う師匠に、メガネが頷いた。
「ヒカル……」
周囲をきょろきょろと見回していたアリアスフィリーゼだが、師匠の言葉が聞こえると、彼女の方をじっと見た。
「この一週間、ありがとうございました」
「いやッスよ水くさ……おぉっと」
そのままアリアスフィリーゼは、正面から師匠をぎゅっと抱きしめる。師匠は珍しく、驚いたように目を白黒させていたのだが、やがて小さく頷き、微笑みを浮かべながら抱きしめかえす。
「まぁ、ショウ年をよろしく」
「はい。必ず守り抜きます」
抱きしめられたまま、師匠はちらりとショウタに視線をよこした。
「ショウ年もショウ年で、プリンセスのことはしっかりお守りするように」
「はい」
当然ですよ、とか、言われなくても、とか。
偉そうなことをはいくらでも吐けたが、ここでは素直にそう頷いておく。
別れの挨拶を、いつまでも引きずるわけにはいかない。アリアスフィリーゼも、最後には師匠を放し、ショウタと一緒にトラックに乗り込んだ。ショウタが運転席、アリアスフィリーゼは助手席だ。ショウタは説明書を見ながら、エンジンをかけ、ハンドルを握る。バイクなら無免許ながら何度も動かしているが、マニュアル式の大型車両はさすがに初めてだ。
これから自分たちは、グランデルドオ騎士王国へと帰還する。おそらくは、冥獣王の侵略により、窮地に陥ったあの国に。
師匠が虚空に手をかざす。気だるげな仕草ではあったが、彼女の思考領域にアクセスする脳波がビリビリと虚空を揺らし、その余波がショウタの脳にまで干渉してくる。師匠がここまで強い力を行使することなど、滅多にない。
やがて、空中にひびが入るようにして、暗い球状の〝何か〟が姿を現した。
『あれが相似擬界領域ッス』
ショウタの頭に、師匠の言葉が直接響いてくる。
『一本の観測線で、現在あちら側へと繋げています。長くはもちませんよ』
手を掲げ、異世界へのゲートを維持する師匠は、こちらに視線をよこさずに続けた。
『いってらっしゃい。ショウ年』
『はい。せんぱいもお元気で』
『わたしは元気ですよ。おまえがいなくてもね』
交わす言葉は、そこまでで良かった。ショウタはステアリングを手にしたまま、正面からゲートを睨み、トラックを発進させる。大きなタイヤがゆっくりと雑草を踏みしめ、前身を始める。アクセルを踏み込むと、車体は徐々に加速していった。
「姫騎士殿下、行きます!」
「はい!」
またしばしの間、さらば東京。ショウタの覚悟を映すかのように、トラックはスピードをあげていき、ゲートとして開かれた相似擬界領域に、正面から突っ込んだ。
衝撃が10トントラックを飲み込んでいく。大きく開かれたそれは、やがてぷっつりと消滅し、山間の野原には、それを見送った数人と2台の高級車だけが残された。
「……っあー! しんどッ……!」
直輝はそう叫んで、野原に思いっきり腰を下ろす。メガネは無言のまま、2リットルのペットボトルを彼女へ差し出した。
「ショウ年は帰ってくるだろうか」
メガネがぽつりと呟く。輝は口元からジュースがこぼれて行くのも厭わず2リットルを一気飲みすると、それをクシャリと握りつぶしてこう答えた。
「ま、帰って来ないかもしんないッスね。それならそれで、構いませんよ」
「帰ってきたら?」
「ちょっと嬉しいかな。でもまぁ、それだけです」
衝撃が止むと、トラックは夕焼けが照らす草原へと飛び出した。ショウタはトラックを急停車させ、周囲を見渡す。
見渡す限りの草原。電柱はなく、ビルもない。それどころか、建造物が見当たらない。ショウタがかつて転移してきた場所によく似てはいたが、しかし確証はもてない。ここは、アリアスフィリーゼの世界なのか? グランデルドオ騎士王国なのか?
確証がつかめずにいると、アリアスフィリーゼは、窓の外を示してこう言った。
「ショウタ、あれを」
彼女の指の先には、大きな山々が連なっているのが見える。その中でひときわ大きなひとつからは、もくもくと煙が上がっている。
「ヴァンガーヴ火山です。どうやら転移には成功したようですね」
「ああ、えっと。あの、超絶なんちゃら要塞があるっていう……」
「超絶無敵大要塞バンギランドです」
そう、それだ。もう聞くだけで懐かしい。
バンギランドは南だ。逆方向に進んでいけば王都があるか。こっちの世界に戻ってきてしまったので、もう地理に関してはアリアスフィリーゼに聞いた方が早い。ショウタがそう思っていると、草原の片隅に異変をとらえた。
「殿下、あれ……!」
「ええ、煙があがっています。戦闘ですね」
姫騎士殿下の表情は険しい。なにせ、単純計算で3週間だ。どれだけ状況が変化していても、おかしくはない。
この広い草原で戦闘が起きている以上、それが咬蛇王の手の者による可能性は高かった。
「行きましょう、殿下」
「もちろんです」
言うなり、殿下は助手席の扉を開け、そのまま荷台の上へと飛び移る。剣を抜き、正面を見据えた。
ショウタも懐のサブマシンガンと腰のトウビョウを確認し、大きくハンドルを切る。戦闘が起こっていると思しい方向へ、トラックの車体を向けた。
やがて見えてきたのは、複数人の騎士たちと、ヘビ人間のような異形どもによる交戦だった。ヘビ人間には見覚えがある。アメパ堰堤要塞で出くわした、アジダとかいう咬蛇王の手先にそっくりなのだ。もはや疑う余地はない。ショウタは更にアクセルを踏み込み、威嚇を込めて思いっきりクラクションを鳴らした。
「……!?」
「な、なんだアレは!?」
「鉄の塊が走って来るぞ!!」
期待通りの反応だ。科学の力を見せてやる。
騎士とヘビ人間たちは、突如として乱入してきた鉄のバケモノに理解と対応が追いつかない。散り散りになって逃げるところを、ショウタは逃がさず追いかけた。ヘビ人間の一人を容赦なくトラックでぶちのめし、そのまま運転席の扉を開けて外に転がり出た。
轢いたヘビ人間は野っぱらへ放られ、全身打撲で身体中から血を流している。ショウタはサブマシンガンを取り出し、両手で構えて引き金を引いた。正しい撃ち方ではなかったが、正しい撃ち方などショウタは知らない。
ヘビ人間の周囲に火球が浮かび上がる。魔法だ、と意識した瞬間、ショウタは高速集中思考を発動した。銃口の位置を補正し、解除。魔法を発動しようとしたヘビ人間に、1秒間たっぷりと鉛玉が注ぎ込まれる。
「いィやァァァ―――――ッ!!」
トラックの荷台から飛び降りた姫騎士殿下が、愛剣を構えてヘビ人間達に向けて駆け出した。
「断界剣ッ! ―――月、穿ィッ!!」
叩きつけるように放つ奥義が、剣圧と共に草原を縦になぎ払っていく。ぽかんと見ていた騎士達が、彼女の剣筋を見て呆然と呟く。
「月鋼式戦術騎士道……!」
「そなたら、一体……!」
「私たちは! ……私たちは、えっと……」
問われ、アリアスフィリーゼは少し困惑した。
本名を名乗るべきかどうか、迷ったのだろう。王国を離れて3ヶ月。普通に考えれば、アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオは死んでいるか、あるいは影武者をたてられている。ここでヘタに本名を名乗ると、かえって疑われるのではないか。
だが、先頭に立つちょび髭の騎士は、剣を抜いてこう叫んだ。
「名乗れぬか! ならばいい、加勢にきてくれたのだな!」
「はい!」
「騎士隊長アーマルの子、伝統騎士ルルーガ! ご助力に感謝する!」
「おお、ノリが完全に騎士王国だ……」
ショウタはサブマシンガンのグリップを握りながら、帰ってきたことを実感する。
だが、救援はヘビ人間の側にもあったようだ。ヘビ達の中で、ひときわ立派な体躯を誇る一体が手に持った杖を掲げると、空間が揺らいでゴブリン達が姿を現す。アリアスフィリーゼとショウタは、ともに驚愕した。
「あれは……!?」
「知らんのか。敵は獣魔族を戦力として召喚できるのだ。まずは頭を潰したいところだが……」
ゴブリン達が盾になっており、それも難しい。面倒くさいからトラックでまとめて轢くか、などと、とうてい元の世界では思いつかないような物騒な作戦に意識を巡らせていると、今度はまた別方面から、野太い男の叫び声が聞こえた。
「獅子王爆裂掌オオオォォウッ!!」
目の前を、獅子の頭の形をした炎が通り抜け、ゴブリンとトカゲ人間たちをまとめて飲み込んでいく。
ぽかんとするアリアスフィリーゼとショウタ。だが、それとは対照的に、騎士達のリーダーであるルルーガは顔を綻ばせた。
「間に合ったか!!」
声のした方向に立っているのは、筋骨隆々の体躯を誇る、獅子頭の獣人だった。それだけでショウタの頭くらいはあろうかという拳を握り、その拳からはシュウシュウと煙が立ち上っている。いま放たれた炎のライオンは、この男が放ったものに違いないだろう。
こんな男は当然、騎士王国にはいない。だが、ルルーガの反応を見るに味方なのだろうか? 今度は、ショウタ達が、理解が追いつかずに混乱する番であった。
さらに獅子頭の男は、このような驚きの発言をする。
「獅子王マグナム! 戦場に罷り通るぜ! さァ、死にてェ奴からかかってきやがれッ!!」
「獅子王!?」
ガツン、と拳をぶつけ合い、高く咆哮する男を見て、アリアスフィリーゼは叫び声をあげる。
獅子王。聞き覚えのある名前だ。それはかつて、勇者メロディアスを一時は退けた、恐るべき冥獣七王が一人だったはずの男である。それがなぜ、同じ冥獣七王の配下たる咬蛇王の部隊に攻撃をしかけ、あまつさえ騎士王国の人間から参戦を歓迎されているのか?
だが、やってきたのはどうやら獅子王だけではないらしい。晴れ渡っていた青空に、いきなり稲光が轟き、生き残ったゴブリン達を焼き払っていく。一方で、地上から湧き上がる柔らかい光が、傷ついた騎士達を癒していく。見れば、獅子王の背後から、さらに二人、ローブを纏った小さな少女と、修道服を纏った妙齢の女性が立っている。
そして、
「お、おのれ……! ここまで来たか、勇者御一行どもめ!!」
ヘビ人間のリーダーと思しき男が、忌々しげに口にした、その視線の先。
ショウタとアリアスフィリーゼのよく知る少女が、ゆっくりとこちらに歩いてくるところだった。
全身から立ち上る光が、周囲の大気を著しく乱している。少女は小柄だったが、その視線には強い意志の炎が宿っている。一歩一歩、大地を踏みしめるたびに、身体に纏う光が強くなっているようだった。
「輝煌闘法っ!!」
腕を天に掲げた瞬間、全身の光がその拳に集約される。
「奔流波ッ!!」
突き出した拳から、光がエネルギーの奔流となって発射された。
放たれた光はヘビ人間に一切の逃走を許さない。その場にいた残りのヘビ人間も、獣魔族も、断末魔さえあげることなく、光に飲み込まれて消えて行く。ショウタとアリアスフィリーゼはその光景を呆気にとられて眺めるしかなく、そして最後に辛うじて、こう呟いた。
「……メロディ?」
少女はその言葉に初めてショウタ達へと視線を向けた。すぐに顔を綻ばせて、叫ぶ。
「お兄ちゃん! お姉ちゃん! やっぱ生きてたんだ!!」
勇者メロディアス・フィオン。彼女は走ってきて、ショウタの胸元に飛びついてくる。
だが、ショウタにもアリアスフィリーゼにも、再会を喜ぶよりは困惑の方が強い。今の状況は、どうなっているのか。
どうやら、知らねばならないことは、多そうだった。
Next Episode 『渾戰激化』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM




