第83話 姫騎士殿下、東京を駆ける
シンジュクの夜は明るい。アリアスフィリーゼは、まばゆく発光する看板に目を細めながら、冥獣コボルトの後を追った。
鎧をまとっているというのに、身体が軽い。肉体の深奥から湧き出るようなこのエネルギーは、この世界の食事のおかげだろうか。高く林立する建造物群の屋上を飛び跳ねながら移動するのに、まったく支障がない。
だが、追いかけっこもやがて終わりが近づいてくる。ひときわ大きな光る看板を背景にして、アリアスフィリーゼと冥獣コボルトは対峙した。赤から白。白から赤。目まぐるしく色が変わる派手な看板さえ、このシンジュクを彩る景色の1パーツでしかない。その前で、ヒトガタがふたつ睨み合ったところで、眼下を行きかう人々は気にも留めないことだろう。
そこに踊る異世界の文字が、「たのめーる 大塚商会」であることなど、当然アリアスフィリーゼにはわからなかった。
がたんがたん。
視界の隅、センロの上をデンシャが走って行く。あの車体の色は、サイキョウセン。タカサキセンとヤマノテセンも見える。シンジュクの街には人があふれかえっているというのに、耐えず出入りするデンシャの中には、人々がパンパンに詰まっている。
このトウキョウは、人が多いのだ。
だからこそ、いま目の前にいる獣魔を、いち早く始末しなければならない。
「はぁぁぁぁッ!」
ビルの縁の上をまっすぐに走りながら、アリアスフィリーゼは三日月宗近を振りかぶる。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
コボルトは冥獣化した獣魔族特有の咆哮を上げ、〝銃〟をこちらへと向けた。ぱんっ、ぱんっ、という軽い音と共に、筒状の部分から金属製の弾丸が射出される。頭部を的確に狙って放たれたそれは、直線的な動きであるがゆえに避けやすい。先ほどは不意を打たれたが、首をわずかに逸らすだけで、弾丸は後ろへ飛んでいく。
彼我の距離はつまり、あと3歩、2歩、1歩。
そのところで、ぱららららら、という音と共に、アリアスフィリーゼの背面に断続的な衝撃が走った。
「……ッ!」
バランスを崩し、落下しそうになるところを、すんでのところで踏みとどまる。
振り返れば、もう一体の冥獣コボルトが、やや大型の銃を持って立っていた。おそらく、前方のコボルトが持っているものよりも速射性能の高いものだ。前後のコボルトは、同時に銃をこちらに向け、弾丸の雨が一斉にアリアスフィリーゼめがけて降り注いだ。
「くっ……!」
ガントレットで急所を守るが、コボルトは的確に生身の部分を狙って弾を撃っていた。ヒカルから借りた寝巻が、銃弾で引き裂かれていく。
なんとか、突破口を開かねば。そう思っていた時だ。
「うぉぉらァッ!」
粗野な叫び声がして、後方のコボルトとアリアスフィリーゼの間に、割って入る人影があった。
ばさり、とボロきれのようなマントを翻し、銃撃をものともせず正面から冥獣コボルトに突っ込んでいく。横に強く薙ぐような回し蹴りが、コボルトの手から速射の銃を弾き飛ばした。
敵、ではない。では、味方か。ショウタの言っていた、メガネの知り合いのエージェントか?
ボロきれの間から覗く男の顔は、いささか人間離れした威容を誇っていた。ぎょろりとした紅い目玉は、冥獣魔によく似ている。だが、彼は理性のある声で、はっきりとこう言った。
「あんたがプリンセスか。協力させてもらう」
プリンセス呼ばわり。間違いない。アリアスフィリーゼは頷いて、改めて剣を構えなおした。
「助太刀、感謝します。こちらの不手際でお手を煩わせ、申し訳ありません」
「そう言うな。こういうのは助けあいだ」
アリアスフィリーゼは、異形のエージェントと背中を合わせ、目の前のコボルトに意識を集中させた。
「冥獣コボルトの吐く黒い靄と、体液にはお気を付けを。体内の魔力を淀ませ、冥獣化させるものですが、おそらくショウタを見るに、こちらの世界の方々にも〝魔力〟があります」
「忠告感謝する」
かわす言葉は、そこまでだ。アリアスフィリーゼとエージェントは、同時に縁を蹴りたててコボルトへと斬りかかった。まずは大振りの一撃を、冥獣コボルトが回避する。アリアスフィリーゼが脇構えとなったところで、コボルトの構えた銃が、こちらの喉元へと突き付けられた。
この至近距離。この位置。そして喉元という狙い。
なるほど、頭蓋を撃ちぬけなくとも、ここなら気道を確実に潰せ、致命傷を与えられるという判断か。冥獣コボルトが笑みを浮かべる。だが、アリアスフィリーゼは怯まない。
コボルトが引き金を引くより早く、こちらが倒せばいいというだけのこと。
既にアリアスフィリーゼは、必殺の体勢に入っているのだ。
「天崩・裏翔けッ!!」
逆袈裟に放たれた高速の斬撃が、コボルトの肋骨の隙間に入り込む。しかし、冥獣化個体特有の、異様に硬質化した骨が、三日月宗近の侵入を阻んだ。わずかな呼吸。全身に、力を入れなおす。
「いィィやああアァァッ!!」
裂帛。骨の継ぎ目と継ぎ目を狙う精密さと、王国騎士の持つ常人離れした膂力が、それを可能にする。アリアスフィリーゼの斬撃は、冥獣コボルトの身体を上下に完全に両断する。一拍遅れ、コボルトの指が引き金を引いていた。ぱんっ、という軽い音が宙にこだます。
勢いを殺し切れず、アリアスフィリーゼの斬撃は、背後のLED広告塔に激突した。ばちっ、という音がして、看板の光が消灯する。
数秒後、再び看板に光が灯ると、アリアスフィリーゼの前には、冥獣コボルトが存在した痕跡は微塵も残ってはいなかった。絶命した冥獣化個体は、骨も崩れ、砂のように風化して消滅する。
後ろを振り向くと、ちょうどエージェントも、冥獣コボルトを追い詰めているところだった。
エージェントは小型の銃で応戦するコボルトの攻撃を、的確に弾いている。素手がまるで鋼鉄になっているようだった。距離を詰められた冥獣コボルトは、そのまま銃を捨て、棒のようなものを取り出してエージェントに叩きつけた。
だが、エージェントはそれすら受け止め、素手をコボルトの心臓部めがけて突き込んでいく。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
断末魔の絶叫が響いた。鋭いカギ爪による貫手が、背中側まで貫通する。びくん、びくんとコボルトの亡骸が痙攣し、そのままゆっくりと崩れ落ちる。エージェントは、手についた血をピッと払った。
貫手を放った時には確かに素手だったはずだが、その時彼は、手に何かを持っていたように見える。
「(鍵……?)」
にしては、形状がひどく歪で、禍々しい。まあ、あまり踏み込むべき話ではないだろう。
とにかく、東京に放たれた7体の冥獣コボルトのうち、2体は処理できたのだ。アリアスフィリーゼは、改めてエージェントに頭を下げる。
「ありがとうございます。助かりました」
同時に、こちらに視線を向ける、別の影に気付く。エージェントは短く『ああ』と言って、視線を光る看板の上へと向けた。
直後、弾丸の雨が二人の足元に降り注ぐ。アリアスフィリーゼは飛びのいた。もう一体いたのだ。
「シ、シシシシシ……」
その冥獣コボルトは、こちらを見下ろしながらニタニタと笑った。アリアスフィリーゼが剣を構え直し、看板を駆けあがろうとすると、それより早くコボルトは飛び降りる。
「なっ……!」
そのまま壁を蹴り、高く跳躍したコボルトは、ちょうどセンロの上を走っていた緑色のデンシャ、ヤマノテセンの上に飛び乗る。逃げる気だ。
「逃がしません!!」
「お、おい、プリンセス……」
アリアスフィリーゼは、叫ぶや否や、自らの纏う鎧をすべてその場に脱ぎ捨てた。ずん、という音がして、白磁の甲冑がビルの上にめり込む。さしものエージェントも、これには驚いた声をあげる。
「い、今までこんなに重い鎧をつけて戦っていたのか!? っていうか、下はパジャマか!?」
驚愕を置き去りにし、アリアスフィリーゼは床を蹴りたてた。センロが走る鉄橋の欄干を疾駆し、ヤマノテセンを並走する。車内の乗客たちが、目を丸くしてこちらを見ていた。が、気にしている暇はない。彼女はそのまま車体の壁面に飛び移り、窓を足蹴にし、地面とは並行になりながらもヤマノテセンの車体を駆け上がっていく。
そんなアリアスフィリーゼを見送ったエージェントは、遠ざかる山手線を眺めながらしばし呆然とし、やがて我に返ったように携帯電話を取り出した。
「ああ、もしもし。メガネか。俺だ。新宿にいる。プリンセスと協力して、標的を2体撃破した」
とりあえず、今回の依頼主に電話をかける。そのまま、足元に視線をうつした。
「ところでだ。俺の足元にプリンセスの脱ぎたてナマ甲冑があるんだが……。回収しといてくれないか」
アリアスフィリーゼにスマホを持たせておいたのは正解だった。ショウタは、位置検索機能を利用して彼女の足取りを追う。先ほどまで新宿にいたはずなのに、今や彼女は高速で移動を開始していた。こともあろうに、JRの路線に沿ってだ。
新大久保、目白、池袋。そこから東側への分岐。これは山手線だ。
アリアスフィリーゼの移動経路からして、彼女は明らかに電車の上に飛び乗っている。普通なら異常発生なりなんなりで電車が止まっているはずなのだが、一体どうしたことか。
まぁ、気にしても仕方がない。彼女は山手線で移動している。ショウタがいるのは新宿駅周辺だ。当然、電車では追いつけない。タクシーは融通が利かない。テレポートは多用できない。ショウタはぐるりと周囲を見回し、道路脇に駐車してある、一台のオフロードバイクを発見した。
「……よし」
バイクに駆け寄ると、当然鍵はかかっている。御丁寧に柵にチェーンまでかけてあった。
まあ、壊すが。
ショウタは付近に持ち主がいないことを確認すると、念力でチェーンを切断し、さらには鍵のあたりに手をかざし、ゆっくりと目を閉じた。中学時代からやってきたことだ。最近は御無沙汰だったが、カンは鈍っていない。
「持ち主の人、ごめんなさいっ!」
ロックが外れる。更に力を込めると、エンジンがかかった。よし、行ける。
きちんと壊さないように気をつけなければ。あとでメガネ経由で持ち主に返せるようにしよう。
急用でバイクを使わねばならないとか、急いで彼女のもとに向かわないとフラれてしまうとか、そういった込み入った事情があるかもしれないが、そのあたりはもう知らない。ショウタはバイクのシートにまたがりヘルメットをかぶった。
「あっ、泥棒ッ!」
「やばっ!」
後ろからバイクの持ち主の声が聞こえ、慌ててアクセルグリップを回す。ショウタを乗せたオフロードバイクは、勢いよく地面を滑り出す。
持ち主の罵声が飛んでくるが、気にしている暇はない。心の中でごめんなさいともう一度謝ってから、ショウタはスマホの画面を改めて確認する。アリアスフィリーゼはいまだに山手線の上だ。どこで降りるかはわからないが、まずは上野を目指して先回りする。首都高速に乗って、彼女の動き次第で1号か5号に乗り換える。それで行こう。ショウタは新宿通りをまっすぐに東進した。
ショウタがスマホをポケットに戻そうとすると、ちょうど着信がある。師匠からのものだった。イヤホンマイクの通話スイッチを押して、スマホはそのまましまった。
『もしもし、ショウ年ッスか』
「僕です。すいません、アリアさんとはぐれました!」
『みたいッスね。わたしは品川の一体を片づけました。ショウ年はこのあとプリンセスとの合流を?』
「まぁそうですね。できれば上野での合流を目指そうかと」
『わかりました。わたしは別の場所に出た個体を追います』
「了解。通信終了!」
バックミラーから後ろを確認するが、警察が追ってくる気配はない。メガネに連絡をとって、事情を説明しておくべきかと思ったが、今はまずアリアスフィリーゼの行動を確認したい。両手はハンドルを握ったまま、ポケットに入れたスマホを超能力で操作し、彼女に持たせた携帯の番号を呼び出す。わずかなコールの後、アリアスフィリーゼが電話に出た。
『ショウタ!』
「アリアさん、今、電車の上ですか!?」
『いえ、先ほどまでコボルトを追ってセンロの上を走っていましたが、道路に出ました!』
「道路に!?」
まずい、上野では合流できないか?
『追いつけるかと思ったのですが、デンシャを盾にされました。コボルトは道路に出て、停車していたジドウシャを奪い逃走中です』
「今、どこかわかります?」
『私でしたら、先ほどヤマノテセンとケイヒントウホクセンの合流地点から道路に出たところです』
田端だ。そのまま南下していけば、上野方面には出るが。
ショウタは現時点で、首都高速環状線に入っていた。1号に乗るか、5号に乗るか。判断が難しい。
手を触れず、ポケットから取り出したスマホを宙に浮かべる。彼女の位置情報を確認したほうが早い。
田端から国道458号線を南下、不忍通りに出るところだ。そのまま左折し、東へ回っている。このルートならば、5号線の方が早い。ショウタはバイクのハンドルを右に切り、一ツ橋料金所を突っ切っていく。左手に神田の街並みを確認しながら、神田橋、常磐橋、呉服橋を渡る。
意外と、覚えているものだ。バイクを操ったのなど、中3の夏が最後だったが。
もちろん無免許だ。今も無免許である。とんだ悪たれ小僧だなと、ショウタは苦笑いをする。
首都高速1号上野線が見えてくる。ショートカットだ。ショウタは6号向島線に乗り入れると、そのままバイクを跳ねさせ、念力で持ち上げた。6号線から1号線に強引な乗り入れ。着地と同時に周囲の自動車がクラクションを鳴らし、あわや交通事故を引き起こしそうになるが、それでも気にしてはいられない。ショウタは1号線を一気に北上する。
スマホを確認すると、アリアスフィリーゼ達は、相変わらずまっすぐに不忍通りを南下していた。
「アリアさん、そっちはどんなです!?」
『コボルトが信号を無視するので、市民が非常に混乱しています!』
「ああ、でしょうねえ……」
アリアスフィリーゼ達も、そろそろ上野公園が近い。ショウタは秋葉原、御徒町を左手に拝んだ時点で、再びバイクを跳ねさせ、春日通りへと躍り出た。
コボルトは、民間人の車両を強引に奪い、逃走している。道具を自在に扱うのがコボルトの習性とはいえ、まさか自動車の操縦までこうも簡単に習得するとは。アリアスフィリーゼは車道を激走しながら、唇を噛む。
信号が赤い時でさえ、コボルトは容赦なく突っ込んでいく。途中、アリアスフィリーゼは、何度か轢かれそうになる市民を助け、そのたびにわずかに距離を放された。全力で追いかければ、縮まる距離ではあるが、さすがにこちらのスタミナは無限ではない。
『アリアさん!』
通話状態の電話から、ショウタの声が聞こえた。
「ショウタ!」
『左手前方に、ビルがなくなって木々が見えてきますね!?』
「は、はい」
その通りだ。シンジュクを出た時に比べ、周囲の建物の高さはだいぶ低くなってきており、さらにその建物は、ある一点から木々の緑に変わっている。どうやら、ショウタはなんらかの方法でこちらの位置を把握しているらしい。便利な道具だ。アリアスフィリーゼは改めて驚嘆した。
戦場で、常に連絡を取り合えることの利便性。
この道具を元の世界に持ち込むことができれば、戦い方に明らかな革命がおこる。アメパ堰堤要塞の一件でさえ、ショウタとアリアスフィリーゼが連絡を取りあえれば、あそこまでモタつくことはなかったのだ。
『よく聞いてください、アリアさん。左手側には、すぐに池が見えてくるはずです。見えてきたら、池の方に、コボルトの乗った車を追いこんでください。池を南北に通る小さい道があります。アリアさんが今向いているのが、南側です』
ショウタの言葉を、一語一句聞き逃さず、しっかりと反芻する。
「わかりました。ショウタは?」
『道の南側から挟み撃ちにします。弁財天で会いましょう』
「べ、べんざ……えっ?」
そうこう言っているうちに、左手に水たまりが見えてきた。これがショウタの言っていた池だ。
つまり、追いかけっこはもう終わりに近い。アリアスフィリーゼは、さらにアスファルトを蹴りたて、勢いを加速させた。前を走る自動車の右手側に回り込み、右側の御者席……いや、運転席と言うのか? そこめがけて、愛剣三日月宗近を振りかぶる。
「………!!」
コボルトは、素直に左側に自動車を動かした。柵をぶち破り、木々をなぎ倒して、歩行者の為の通路へと乗り上げる。だが、アリアスフィリーゼはショウタの言葉を愚直に実行した。獣魔族を追いこむ戦い方は、要塞線で習った。
大きな池を二つに割る道は確かにあった。アリアスフィリーゼは、左右への斬撃を繰り出し、確実その通路へとコボルトの車を追いこんでいく。
『見えました。アリアさん』
耳に挿したイヤホンという道具から、ショウタの声が聞こえてきた。
見れば、池を二つに割る狭い道の先に、一人の少年がいる。少年は、しばしば自動車と一緒に見た鋼の騎馬にまたがりのっぺりとしたフルフェイス型の兜をかぶっていた。その服装には見覚えがある。そして、少年は兜を脱ぎ、その黒い瞳をコボルトと、そしてアリアスフィリーゼに向けた。
「ショウタ!」
アリアスフィリーゼが声を上げる。同時に、コボルトを乗せた車は、急に勢いを加速させた。
ショウタを正面から轢き殺すつもりなのだ。だが、ショウタは動じることなく、その手のひらを自動車へと向けた。直後、四つの車輪が別々に弾け、車は火花を散らしながらスリップしていく。アリアスフィリーゼは目を見張った。
「こちらの世界は勝手知ったるものですから。まあ、このくらいは」
自動車の構造をある程度把握していたからこそ、できた真似だというのだろう。
ずいぶんと、頼もしいものだ。
以前から、立派な戦士になっていたと、そう思っていたが、まさかここまでとは。アリアスフィリーゼは、まるで我が事のように嬉しくなる。ショウタは鉄の騎馬から降りて、自動車に乗ったままのコボルトを睨む。アリアスフィリーゼも、改めて剣を構えなおした。
コボルトが車の天板を弾き飛ばし飛び出てきたのと、アリアスフィリーゼ、ショウタが動くのは、ほぼ同一のタイミングだった。




