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騎士王国のぽんこつ姫  作者: 鰤/牙
第一部 勇ましきあの歌声
82/91

   第80話 姫騎士殿下、喫茶店に行く

 帰りがけに、アリアスフィリーゼとスーパーマーケットに寄る。


 ひとつの店舗が肉も野菜も魚も纏めて売っているスーパーは、彼女にとってはどうやら相当珍しいものであるらしい。カートを押しながら食材を積んでいくが、アリアスフィリーゼは何やら難しい顔をして調味料やお菓子の並んでいる棚を行ったり来たりしている。


「こ、香辛料が……」


 その反応も知っていた。実にベタだ。


 ショウタは世界史には疎いが、グランデルドオ騎士王国がこちらの世界の中世ヨーロッパ基準の文明・文化だとは、あまり思っていない。あの世界には魔法があるし、土木技術の発達した騎士王国のは現代日本顔負けの地下水道と排水設備が整っている。

 ただ、やはり香辛料は珍しいものらしいし、その辺はショウタの聞きかじり中世知識と合致する。どうせなのだから、元の世界に戻る前に業務用スーパーで調味料の類をしこたま買い占めておくのも悪くない。いや、大豆を栽培して醤油や味噌を量産するか? これもベッタベタと言えばベッタベタだが、アリアスフィリーゼの立場から勅令を出させれば不可能ではない気がしてくる。


「ショウタ、どうしました?」

「いえ……。騎士王国に帰る際に何か持ち帰ったほうが良いのかな、とか考えて……アリアさん、カートに何を入れてるんですか」

「お、美味しそうだったので……つい……」


 ポテトチップスやチョコパイやら。カートにはいつの間にやらお菓子の類がうずたかく積まれている。


「まったく……。僕も騎士王国に来たばかりの時はお世話になりましたから、これくらいは買いますけど……」

「やった!!」


 拳を握りガッツポーズを決めるアリアスフィリーゼ。


 おおよそ食材が揃えば買い物はおしまいだ。ショウタがレジを通り、会計を済ませるのを、外側からやはりアリアスフィリーゼは興味深げに眺めている。レジ袋に買った商品を詰め込んでいると、やはり真横にやってきて、こちらの行動をつぶさに観察している。


「どうしました?」

「いえ……。似たような市場を国営でできれば便利とも思ったのですが……」


 口元に手をやって、アリアスフィリーゼ姫騎士殿下は考え込んだ。


「……無理でしょうね。この国の優れた流通事情があってこそだと思いますから。私の国も、八方に伸ばした用水路によってそれなりの水運技術は発達しているのですが」

「毎週開かれてる、大陸商会ギルドのバザーがあれば十分だと思いますけどねー」


 こちらの世界のことは、姫騎士殿下の目には何もかも新鮮に映るらしい。当初は子供のように目を輝かせているだけだと思ったが、時折口にする言葉はこの世界で得たカルチャーショックを、どのように自分の国に還元できるかという、実に為政者らしいものである。やはりあの騎士王の子なのだと、ショウタは感心せざるを得ない。

 公民や世界史の教科書は、また彼女の役に立てるかもしれない、とショウタは思った。こちらの世界でどのような国がどのように繁栄し、また滅んでいったか。テストケースを学んでもらうことは大事だろう。


 二人はスーパーを出、そのままマンションへと向かう。ショウタは両手にスーパーの荷物と、アリアスフィリーゼの為に買ったアパレルブランドの紙袋を持っていた。持ちましょうか? と尋ねる殿下に、笑顔でかぶりを振る。このくらいの荷物はキチンと持つ。


 師匠の家へと戻ると、相変わらず彼女はリビングで行儀の悪い座り方をし、ペットボトルをラッパ飲みしていた。


「おかえんなさい」

「ただいまです」

「ただいま戻りました」


 ショウタは、紙袋を洗面所に置いてアリアスフィリーゼに言う。


「アリアさん、シャワー浴びて着替えちゃってください。汚れた服はあとで洗っときますんで」

「あ、はい。下着はどうしましょう。昨日からつけっぱなしなのですが……」

「……えぇと、」

「替えも私の貸しますから、一緒に脱衣かごに入れといてください。プリンセス」


 師匠がそう言うと、アリアスフィリーゼは笑顔で頷いて洗面所の扉を閉めた。


 ショウタもほっと一息だ。スーパーで買ってきた食材を冷蔵庫に入れたり、台所に並べたりしながら、さっそく夕飯の支度に取り掛かる。その後ろから、師匠が声をあげた。


「ショウ年、この、表参道で車に轢かれそうになった子供を助けた外国人の女性って、プリンセスッスか?」

「ああ、やっぱニュースになってます?」

「口コミで広がってるだけッスよ。動画とかもあがってないッスね」

「そんな余裕なかったでしょうしねぇ……」


 まさか10トントラックに撥ね飛ばされてピンピンしているとは、誰も思うまい。師匠はその間、テレビを見ながらテレキネシスを駆使して、自分の部屋から下着を洗面所に放り込んでいた。器用な真似をするものである。

 ショウタもショウタで、切った野菜を、触れずにまとめて鍋に放るくらいの真似はするので、何も知らない人間から見ればポルターガイストが巣食った部屋にも見えるだろう。


「ショウ年、いつの間にか成長してるんスねぇ」

「あっちでは、師匠の後ろに隠れてーなんてことも、できませんでしたからね……」


 命がかかれば、訓練にも真剣になる。それでももちろん、師匠のように、呼吸するように力を行使することはできていない。

 師匠の話では、ショウタは潜在的な能力では彼女を大きく上回っているのだという。これもベタな話だな、と思いつつ、ショウタはあまり真剣に自らの超能力を成長させるつもりはなかった。少なくともこちらの世界にいる間は、この力だって生きるのにちょっと便利な能力というだけで、師匠並に強力な能力を行使できるようになっても、生かす道はほとんどなかった。


 が、それはあくまで、こちらの世界での話だ。


 ショウタは、また向こうへと戻るつもりでいる。忘れ物は取りに行かなければならない。あのスマホがなければ、師匠の宿敵となる件の研究施設を撲滅することができないし、その手助けをすることはショウタのできる数少ない恩返しだ。師匠がいなければ、ショウタはまだあの母親のもとで鬱屈とした毎日を送っていた。

 もちろん、アリアスフィリーゼの手助けをするという意味もある。結局のところ、ショウタはあちらの世界に大きく関わりすぎてしまった。咬蛇王に狙われているという状況を知ってまで、放置しておくつもりにはなれない。


 師匠を越えるほどの潜在能力が自分にあるのなら、ショウタはそれを引き出したいと考えている。


「なるほど」


 師匠はこちらの思考を読み取ったのか、そんなことを言った。ショウタは慣れっこなので特に動じることもなく、調理を続ける。


「できますかね」

「一朝一夕じゃあ無理ッスね。どうせあちらへ帰るなら、じっくり修行する余裕もないでしょうから。が、まぁ、そういうつもりなら手伝いはしましょう」

「ありがとうございます」


 一人で鍛錬を積むには限界もあった。超能力のメカニズムに対し、より専門的な見識を持っている師匠に手伝ってもらえれば、あちらにいた頃よりは捗るだろう。


 アリアスフィリーゼがシャワーから上がり、頭をバスタオルで拭きながらリビングに入ってくる。その頃には、夕飯の支度もほぼ整いつつあった。煮物や味噌汁を改めて器によそい、グリルから取り出した焼き魚も皿にのっける。


「わあ、良い匂いですね」


 ニコニコと笑いながら、アリアスフィリーゼも食卓につく。


「そんじゃあ、いただきますか」

「はーい。いただきまーす」

「いただきます」


 日本に来てから4回目の食事である。アリアスフィリーゼは、ショウタや師匠の箸の持ち方をつぶさに観察し、なんとか真似をしようとしている。ショウタは丁寧に教えてあげようと思ったが、彼女は自分で学ぶといって聞かなかった。そこまで意固地になることでもないと思うのだが。


「ショウタ、この魚はなんですか?」

「アジです」

「なるほど、アジな魚ですね……」

「………」

「すみません……」


 さて、食事がしばらく進むと、師匠は昼間に電話をかけてきた件について話はじめた。


「その、メガネというのは、どういう人なんですか?」

「本名は僕も知らないんですけど、なんでしたっけ師匠。政府内閣……」

「内閣特殊異能対策室。そこの室長がメガネッス。もともと、内調の1セクションだったのが格上げになったんスよ。まぁ、公表はされてないんスけど」

「あ、アリアさん。内調っていうのは、内閣情報調査室の略です。みっちゃんみたいな人がいるところです」


 アリアスフィリーゼは真剣な顔をして聞いている。


 ショウタや師匠の持つ超能力のことは、公には秘匿されているが、その内閣特殊異能対策室によって国に存在を把握されている。師匠の宿敵たる光田士郎の超能力開発研究所などについては、それを撲滅せんとする方針で師匠と利害が一致しており、協力関係にある。

 師匠の口ぶりでは、おそらく異世界トリップという現象そのものについてもそうだ。それ以外にも、一般には隠された多くの超常現象を取り扱う内閣の秘密セクションが、この内閣特殊異能対策室というわけである。


「つまり、その特殊異能対策室の一番の偉い方と、明日お会いできるのですね」

「はい。エノモト・レポートについても独自の研究を進めているので、もしかしたら帰る方法もあっさり見つかるかもしれないッスね」


 師匠は言いながら、小鉢の筑前煮をヒョイヒョイつまんでいく。アリアスフィリーゼは、箸を上手く使えず、アジをバラすのにも苦戦している様子だ。


「おや、プリンセス。筑前煮にまったく手を付けてないッスね。いらないんなら、わたしがもらいます」

「あーっ! ああーっ! ああああーっ!!」


 師匠の箸は、手慣れた仕草でアリアスフィリーゼの小鉢に伸びる。悲鳴をあげる姫騎士殿下に、ショウタはそっと自らの小鉢を差し出した。


「うう、ショウタ……。やっぱり、教えてください。ハシの使い方……」

「ああ、ええと。はい。まず、こうやって持ってですね……」


 そんな感じで、東京生活2日目の夜は更けていくのであった。





 翌日である。


 赤羽から神田へは、京浜東北線で一本。高崎線で上野まで出てから、東京メトロで向かった方がわずかに早い時もあるが、まあ乗換は面倒だ。ショウタとアリアスフィリーゼは師匠に連れられて、神田にあるやや高そうな喫茶店に向かった。メガネとのミーティングは、だいたいいつもここだ。プリンが絶品で、たまに一緒の作戦に参加するフリーのエージェントは、ここのプリンで毎回おっぱいプリンを作っては、師匠に超能力で叩き潰されている。


「いらっしゃいませ!」

「ああ、待ち合わせなんスけど」


 笑顔で出てきたウェイトレスに告げると、奥のプライベートルームからメガネが顔を出した。


 整髪剤でオールバックに撫でつけた髪が印象的な、すらりと背の高い美形だ。まるでカミソリのような印象がある。年齢については知らないが、30代後半は行っていないはずだ。今ついている地位を考えると、若くしてずいぶん有能な男である。

 琥珀色の店内を通り、メガネのいる部屋へと案内される。防音設備と盗聴、盗撮対策が整えられたプライベートルームは、何故こんな神田の片隅にある喫茶店が有しているのかと思うほど、しっかりした作りだった。


「姫騎士殿下、紹介します。メガネさんです」


 ショウタが紹介すると、メガネは小さく会釈した。名刺は出さないし、握手も交わさない。アリアスフィリーゼは、にこりと頷いて同様に会釈した。


「騎士王セプテトールの子にして、大英霊デルオダートが孫裔。姫騎士プリンセスアリアスフィリーゼと申します。私達の流儀であれば、ここで剣を抜いて真実であることを誓うのですが」

「構いません、プリンセス。こちらは日本ですし、私も本名を明かしているわけではありませんので」


 そう言って、メガネはこちら三人に座るよう促す。ショウタと殿下が並んで座り、メガネの横には師匠が腰を下ろした。自然、アリアスフィリーゼが一番上座になる。冷静に考えれば、一国の姫君で、なおかつ王位継承権を持っているのだから国賓クラスの人物だ。異世界ではあるが。

 ショウタは、メニューの内容を隣に座る殿下に読み聞かせ、彼女は真剣に頷きながら注文を吟味していた。


「ショウタ、私これが食べたいです」

「あ、はい。じゃあ注文しときますねー」


 アリアスフィリーゼ姫騎士殿下が御所望されたお茶やケーキを注文し、一同は改めて向き直る。


「さて、ショウ年」


 メガネはそう切りだした。視線はまずショウタの方へと向けられた。どうやら、彼が中心になって話すことになるらしい。師匠は砂糖をひたすら手に取って舐めているから、まぁ、それが妥当だろう。


「プリンセスやショウ年の異世界トリップについてはこちらでも把握している」

「あ、はい」

「時空境界面の揺らぎはかなり前から観測されていてな。今までに確認されている行方不明者の中で、異世界トリップの疑いがあるものをリストアップしてみたので、まず心当たりがないかどうかを確認してほしい」


 そう言って、メガネは一束の書類を取り出した。目を落とすと、それは約5、60人ばかりの名前が書き連ねられた名簿である。五十音順で綺麗に並べられてはいるが、パッと見たところで知っている人間はいない。

 そもそも、あちらの世界に行って、日本人らしき人物とは一度も会っていないのだ。ひとつひとつ名前を読み上げてみるが、アリアスフィリーゼもピンと来ていない様子である。


「……あ、そうだ。トオンさん」


 はたと思い出し、ショウタは名簿をめくる。


 コンチェルトの養父、トオン・ノグドラ。彼はおそらく日本人だ。彼が異世界トリップをしたというのなら、名前があってもおかしくはない。


「えぇと、橘涼、天道優香、鳥野誠一、仁科淳……。……ないか」

「そもそもトオンは、出生がきちんと確認されていますから、こちらの世界からあちら側にトリップした、というわけではないと思いますよ」


 アリアスフィリーゼが、運ばれてきた紅茶に口をつけながらそう呟いた。


 となると、また別のメカニズムで転移したことになるのか。例えば魂や記憶だけが引き継がれたことになるとか。輪廻転生。生まれ変わり。そういったものもあるのだろうか。


「すいません。力になれなくて」

「いや、構わない」


 ショウタはメガネに書類を突き返す。メガネは短く答えて書類をしまった。


 メガネは更に話を続ける。内閣特殊異能対策室では、すでに異世界からの転移経験者と思しき人物何人かと接触しているということなのだが、いずれもグランデルドオ騎士王国という言葉に聞き覚えはないらしい。すなわち、アリアスフィリーゼと同じ世界から来た、という可能性は低い。

 そういった異世界人は、すでにこちらに完全に帰化しているものがほとんどで、元の世界に帰るつもりはないとのことだった。また、元の世界へ繋がる境界面が安定しきっているため、送り返すことができない、とも言われた。


「私の場合は、どうなんでしょうか」


 アリアスフィリーゼは、真剣な表情で割って入る。彼女は当然、こちらの世界に帰化するつもりなどない。元の世界に戻れるのかどうかは、死活問題ですらある。

 メガネは人差し指と中指で、メガネを上げなおすと、こう答えた。


「おそらくプリンセスの世界と面していると思しき時空境界面は、1、2ヶ月前ごろから非常に不安定な状態を保っています。これが良いことか悪いことかはわかりませんが、少なくともあなたを元の世界へと戻す一助にはなるはずです」


 とは言え、技術的には大きな問題がある。現状、相似擬界領域フラクタライズ・サーバーを経由して、二つの世界を繋ぐ観測線を拡大させるだけの科学技術が、こちらの世界には存在しないのだ。量子通信の発達がそのブレイクスルーになる可能性はあるが、実用化までは数年かかる。


「なので、異世界への帰還には、おっぱいエスパーのサイキック能力を用います」

「お、おっぱいエスパー……!?」

「師匠のコードネームですよ。メガネさんネーミングセンスないから」


 ショウ年ことショウタはぼんやりと呟いて、自分に運ばれてきたアイスティーを飲む。


 超能力の発動に用いる思考領域サイキック・サーバーというのは、人間の意志の力により拡張された、個人用の相似擬界領域のことだ。卓越したサイキッカーであれば、時空境界面の歪みに乗じて、アリアスフィリーゼを世界の向こう側へと返還することも可能である。というのが、メガネの話であったのだが、ショウタも殿下もさっぱりわからない。

 ま、とにかく、師匠の助力を得て、アリアスフィリーゼを元の世界に送還できるのだ、ということは、わかった。


「ただ、条件に適した場所を現在探索中です。それまではもうしばらく、ご辛抱いただきたい」

「……どれくらいかかりますか?」


 そう尋ねる殿下には、いささかの焦りが見られる。こちらの世界で1日が経過すれば、あちらの世界で3日が過ぎる。あまりよくない話ではあるのだ。だが、メガネは冷静さを保ちながら、こう言った。


「あと3日か、4日。あなたがこちらの世界にきてから1週間経つまでには、必ず送還させます」


 つまり、3週間。


 強大な勢力が、ひとつの都市を焼くには十分すぎる時間だ。アリアスフィリーゼは、黙り込む。


「大丈夫ですよ」


 ショウタはにこりと笑って、彼女の手を取った。


「あの世界にはメロディもいますし、それに騎士王国にだってたくさんの強い人がいるじゃないですか。そう簡単にやられたりしませんよ」

「……はい」


 アリアスフィリーゼは、やや緊張した面持ちで頷く。その様子を見て、メガネが師匠に耳打ちをしていた。


「……ショウ年はいつからあんなスケコマシみたいなことを言うようになった?」

「いえ、元からあんなんでしたよ」


 実に心外である。


 結局、その後は特に詳しい話もなく、茶会は終了した。ショウタは、険しい顔をしたアリアスフィリーゼを和ませるため、東京メトロ銀座線で上野まで出てから、動物園で一緒にパンダを見た後、高崎線で赤羽まで帰ったということである。





 さて、そんなショウタ達とはまるで関係のない、湾岸エリアの倉庫街。そこで起きた、ある夜のことだ。


 この倉庫街からは、東京湾に浮かぶ人工浮島メガフロートを拝むことができる。色々とキナ臭い貸倉庫もあったりして、さほど有名ではないにせよ、東京でもいわくつきのスポットだ。一部の倉庫には明らかにカタギではないような警備員がうろついていたりするものだから、なおさらキナ臭い。

 その警備員も、正規の警備会社に勤務しているような男ではない。警備員らしき装いはしているものの、地元の暴力団に連なる筋の人間だ。倉庫に隠した、ちょいとヤバいブツを監視するため、他の同僚と警備員の真似事なんかをやっている。


 だが、時間になっても交代要員がやってこない。男はタバコを加えながら、苛立ちを押さえるように靴で地面を叩いていた。


「まぁそんなカリカリすんなや」


 同僚は薄ら笑いを浮かべながらそんなことを言うが、男はタラタラと不平を口にした。


「こんなムシムシする夜に、警備なんかやりたくねぇよ」

「俺だってそうさ」


 こいつは一体何をそんなヘラヘラしているのか。ますます苛立ちを持て余す。

 さらに10分、20分と待つが、いまだに交代要員は現れない。男は頭を掻きむしりながら立ち上がった。


「ったく! なんだよアイツ!」


 ポケットからスマホを取り出し、交代要員のアドレスを呼び出す。同僚は相変わらずヘラヘラと笑っているだけだった。男の笑顔と、夏の暑さがますます怒りを加速させていく。3、4回のコールの後、相手は出た。


「おい、いつまで待たせんだ! 交代時間はとっくに過ぎてんだぞ!」

『……ア……』

「あぁ? なんだよ! はっきり言えよ!」


 男が叫び返すと、電話の向こうから波の打ち寄せるような音が聞こえてくる。近くに来ているのか? と耳を澄ませると、さらに唸るような声が続く。


『ア……ア……ナンダ……ヨ……。ハッキリ……ナンダ、ヨ……』

「おい、ふざけてんのか? てめェ、あァ?」

『ナンダ、ヨ……。ハッキリ……ナンダ、ヨ……。シ、シシシシシシ……』


 最後は笑い声のようだった。直後に通話が切れる。男が首を傾げる。一体なんだというのか。


「クスリ打ちすぎてヤバくなってんのかもしんねェ。ちょっと探してくる」


 男はそれだけ言って、懐中電灯を片手に歩きはじめる。同僚の男は、相変わらずヘラヘラ笑いを浮かべたまま、手を振っていた。しばらくも歩かない内に、人影のようなものが視界の隅をよぎった。


「おい、斉藤、おまえか!?」


 懐中電灯を向けるが、そこに人影はない。男は首を傾げ、倉庫街を進んでいく。

 やがて懐中電灯の光は、倉庫街の地面に転がる、男のよく見知った顔を映し出した。思わず、顔を引きつらせる。


「さッ、斉藤ッ……!?」


 それは、警備の交代要員として来るはずの、男の同僚だった。その表情は恐怖にゆがみ、頭が割れて血を流している。それだけではない。肩から腹にかけて、内臓が見えるほどの大きな裂傷があった。明らかな他殺だ。


 誰だ、誰がやった!?


 男は狼狽し、周囲を見渡す。懐に忍ばせた、中国製の安っぽい拳銃に手が伸びる。敵対している組織の連中か。倉庫にしまっておいた例のブツを奪いにきたのか。


 不意に、男のポケットに突っ込んでおいたスマートフォンに着信がある。

 まさか、と思い、スマートフォンを取り出す。真っ暗な倉庫街において、手にしたスマートフォンのバックライトが、男の顔を下から照らし出していた。発信者の名前を見ると、『斉藤』とある。今、目の前に死体として転がっている男だ。


「……もしもし」


 こいつを殺した奴がかけているのかもしれない。男は通話を押し、相手の声を確認しようとする。


『シ、シシシシ……シ……』


 先ほどの声だ。そう思うと、男の怒りが一気に燃え上がった。


「て、てめぇっ! てめぇ、どこのモンだ! 答えやがれッ!」

『シシシ……。ンダヨ……。ハッキリ、コタエ……シシ……』

「あァ!?」


 電話の相手を探ることになっていた男は、後ろから歩いてくる人影がわからない。足音が露骨に聞こえてきた頃には、既に逃走の叶わない距離となっていた。はたと気づき、振り返る。鈍い衝撃が頬を横に薙いだのは、その瞬間だった。


「がっ……!」


 男の身体が浮かび上がり、宙を舞う。倒れ込んだ身体は、斉藤の死体がクッションとなって受け止めてくれた。


 顔をあげる。その視線の先にいるのが斉藤を殺した犯人だと、すぐにわかった。片手には斉藤の携帯電話を持っていたのだ。


 だが、思い描いていたような犯人像ではない。

 そもそもとして、人間ですらない。


 人間に似た、しかし毛むくじゃらのシルエット。犬によく似た頭部。らんらんと輝く紅蓮の双眸。それを着ぐるみによるふざけた犯行だと断じるには、口から洩れる息遣いがあまりにもリアル過ぎた。

 未知への恐怖心が怒りをもみ消し、男の腕を突き動かす。銃口を向け、躊躇うこともなく引き金を引いた。


 ぱんっ、という乾いた音。しかし血はしぶかなかった。毛むくじゃらは首を傾げ、ゆっくりと近づいてくる。2発、3発と発砲。しかしそれでも、異形の動きは止まらない。毛むくじゃらが吐き出す吐息はまるで黒い靄のように色づき、虚空へ紛れて消えて行く。


「く、来るなッ! 来るんじゃねェッ!」

「シ、シシシ……。クル……ナ……。クルナ、クルナクルナ……」


 爪の生えそろった腕が、ゆっくりと男の手に伸び、拳銃を掴む。抵抗することすらできず、男を守る唯一の武器は、あっさりと奪われた。毛むくじゃらは、手にした拳銃をつぶさに観察し、そして、まるでそれを生まれた時から知っている武器であるかのように、しっかりと握る。銃口は、男の額に向けた。


「や、やめろ……やめて、やめ……」


 毛むくじゃらが、にたりと笑う。


「――――――――――――――――――――ッ!!!」


 直後に響いた銃声は、地の底から響くような怪物の咆哮にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。

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