第79話 姫騎士殿下、服を買う
「あれ、そこにいんの、宝林じゃねェの?」
アパレルショップから少し離れた場所で、ジュースを飲んでいたショウタに声がかけられる。
ショウタは顔をあげ、声のした方へと視線を向けると、つまらなそうな顔をして呟いた。
「……なんだ、チャーリーか」
「あン? なんだってなんだよ」
「高校のクラスメイトかと思った」
そんなことを言いながら、実はショウタには親しい高校の友人というものがいない。中学の時にそうとうヤンチャして、高校では大人しくしようと思った結果、あまり友達が出来なかったのだ。
今、ショウタに声をかけたのは、そのヤンチャをしていた中学時代の友人である。
ひょろりと高い身長にホストのようなライオンヘアー、そこまで汚らしさがあるわけではないが、眉を剃っていることもあって見た目は完璧なチャラ男だ。中学時代から札付きの不良だったわけだが、ショウタと違って今も似たようなことをやっていると聞いていた。学年の上ではショウタの1年先輩で、今も高校に通っていれば3年生というところだが、とっくに中退してしまっている。
ショウタは愛情と友情を込めてチャーリーなどと呼んでいた。
「相変わらずシケたツラしてんな。こんなとこで合うたぁ思わなかったけどよォ。最近何やってんだ?」
「ちょっと異世界行ってた」
「は?」
チャーリーは驚いた顔をして、しかしバカにすることもなくショウタの隣に座りこんだ。
中学のヤンチャ時代、ショウタのことを特に気にかけていたのがチャーリーだ。生まれ持った力のせいで母親に気味悪がられ、それをひた隠しにしようとしてクラスでは孤立していたショウタだが、ある日絡んできた不良を返り討ちにしたのをキッカケに、そっち側の世界に首を突っ込むことになる。
ショウタは結局のところ、周囲の理解を得られずになじめなかっただけなので、あまり不良とつるまない方が良いと言っていたのがチャーリーなのだ。が、他に居場所もなかったので、ショウタはチャーリー達と一緒に喧嘩に明け暮れた。
高校に進学してからは、チャーリーの忠告通り大人しくしていたのだが、それでも友達はできなかったのだから、あまり意味のある忠告ではなかった。力をひた隠しにするのは、ショウタにとっては異様なほどに苦痛だったのである。
超能力の師匠たる直輝と出会ったのもチャーリーとの縁が切っ掛けで、彼女に二人がかりで挑んでコテンパンにされたのが始まりなのだが、まあそのあたりはまた別の話である。
ともあれ、そのようなチャーリーであるからして、高校進学後のショウタのことは結構気にしている。
「ま、あんま高校うまくいってねーらしーじゃん」
「高校中退したチャーリーに言われたくないよ」
「や、おれもさ、やっぱベンキョーしたほうがイイなってんでよ、アレ、受けようと思ってんだよ」
「アレ?」
ニッ、とチャーリーは笑顔を浮かべる。タバコを吸う割に、綺麗な歯だと思った。
「アレだよ。高認? 大検? 高認って奴。コートーガッコーソツギョーテードニンテーシケンとかいう、パねェ奴」
「えっ、マジで? チャーリー大学受けんの?」
「マジマジ。やっぱ中卒だとさぁ、できる仕事もすくねェし。今、学費稼ぎながらベンキョーしてんだよ。ホラ」
そう言ってチャーリーが取り出したのは、今までの彼からは想像もつかないような、分厚い参考書だった。
「へぇぇぇー。どういう心境の変化?」
「だから、やっぱ中卒だとできる仕事もすくねェってハナシ」
「大学受けんのは良いことだと思う。頑張ってよ」
「おう」
自分とは直接関係のないことなのに、ショウタは何故か妙に嬉しくなる。なんのかんの言って、チャーリーは今までで一番仲の良かった友人であったし、その彼が将来を見据えて改めて勉強しなおすと言うのだから、それはめでたいことだ。
「で、宝林は?」
「ん?」
その直後、矛先は改めて自分に向けられた。
「伊勢行ってきたって?」
「ああうん。伊勢ではないんだけど……」
どこまで真面目に説明したものかな、と思い、ショウタは頬を掻く。
「女は出来たか?」
「そういう親戚のおじさんみたいな聞き方やめてよ……」
「でもおめェ、ずっとアネさんと一緒って息詰まんねェ?」
「そうだねぇ。詰まるねぇ。ずっと師匠と一緒だと……」
現在、ショウタが師匠と同じマンションで暮らしていることは、チャーリーも知っている。実家には、こちらの世界の時間換算でも、もう1年は帰っていない。母親との不仲を見かねて師匠が提案してくれたことで、それ自体はありがたいのだが、まぁ、一緒に暮らしていると息が詰まる。
女か、と思い、ショウタは先ほどのアパレルショップの方へと視線をやった。
「チャーリー、ちょっと自分語りしても良い?」
「おゥ、好きなだけ語んな」
「気になる人は、いてさ」
コンビニの前に座り込み、空を見上げるショウタを、チャーリーは興味深げに見る。
「ほゥ、それで?」
「いやぁ、互いの事情でいつか別れなきゃいけない人だから、手を出すのは良くないなぁって思っていて、でもそれを言い訳にするのも、それはそれで良くないなぁって気づいて、今はそんなところだよ」
「相変わらずマジメだなおめェは」
「臆病なだけさ」
そんな会話を続けていると、アパレルショップの扉が開いて人影が出てきた。
夏の日差しに、ふわっと金髪がなびく。リゾート感のある花柄のスカートとパンプス。柄のない落ち着いた、涼しげな色合いのブラウスに、上からはデニムのジャケットを羽織っていた。綺麗な人だな、と思ったのも一瞬。すぐにショウタはかぶりを振る。
あれは姫騎士殿下だ。後ろからは、服を見繕ってくれたスーツ姿の女性スタッフが、紙袋を持って立っている。
「ショウタ!!」
アリアスフィリーゼ姫騎士殿下がこちらを向いて大きく手を振ると、隣にいるチャーリーが口笛を吹いた。
「良いじゃん。すげぇの引っ掛けたな」
「人聞きの悪いことを」
ショウタは立ち上がって、ちらりとチャーリーを見る。
「とりあえず、僕は行くけど」
「おゥ。おめェの女によろしくな」
「チャーリーも人のこと気にしてないで、彼女探したら」
精一杯の反撃をかましてやると、付き合いの長いチャラ男は笑った。
「おれはリスペクトできねェ女にはなびかねェしそんな女なかなかいねェからなァ」
「そういうこと言ってる奴ほどのめり込むと危ないよねぇ」
それだけ言って、ショウタはアリアスフィリーゼの方へと歩いていく。
しかしまぁ、モデルさんみたいだこと。ショウタは他人事のようにひとりごちて、女性スタッフに会釈する。紙袋の中には、他の服や着てきたセーラー服が入っている。
「いかがかしら」
「バッチリです。えーっと、お値段は……」
スタッフが笑顔で提示した金額は、大層なものではあったが予算の範囲内だ。もちろんキッチリと支払う。男の甲斐性として。頭を下げる女性スタッフに見送られて、ショウタとアリアスフィリーゼはアパレルブランドの店を後にした。
こうしてみると、こちらの世界のカジュアルファッションに身を包む殿下というのは、当然ながら新鮮だ。白磁の甲冑を脱ぎ、王宮内でドレスを着ている彼女も中々にドキドキさせられたものだが、この装いはまた違った趣がある。今までひたすら上品で凛としたたたずまいであったアリアスフィリーゼ姫騎士殿下が、急にショウタの身近な存在になったような、非常によろしくない錯覚がある。
いや、その錯覚なら既にあったか。あの丈の短いセーラー服は、似合ってはいたのだが妙に下品というか、オッサン趣味というか、殿下の肢体を辱めているようであんまり良いモノではなかった気がする。
その点、こちらの服はまだ良い。色気はあるが非常に健康的だ。目のやり場にも困らないし。
「ショウタ、どうしました?」
「ああ、いえ。非常にお似合いです、殿下」
「殿下……ですか」
少しつまらなそうに、唇を尖らせる姫騎士殿下。
「お店の中のようには、もう呼んでくれませんか?」
「え、あ、アレですか……。そう呼んだ方が良いんですか?」
「さあ。ショウタ次第です」
そのような言い方が一番困るのだ! ショウタは叫びだしたい気分だったが、口には出せない。
いや、この言い方は間違いなくそう呼んでほしいに違いない。姫騎士殿下、なんて、味気ない言い方ではなく、もっとこう、親しみを込めた呼び方で。だが口にしようとして、ショウタは思いとどまる。
自分はどちらで呼びたいのか?
アリアさん、は、良い。なんというか、非常に距離がぐっと縮まったような気がする。そう呼ばせてくれるのであれば呼んでみるのも良い。
が、姫騎士殿下が悪いかというと、案外そんなこともない。殿下は殿下だ。色気もへったくれもないが、ショウタはこの言葉に壁を感じているわけではないのだ。アリアスフィリーゼだって、それはわかっているだろう。
「む、むむむ……」
「あれ、困らせてます?」
「気分次第で変えようと思います。ひとまず今は、アリアさんで。ここは日本ですしね」
「はい。わかりました」
そう言って、アリアさんはにこりと笑う。
この格好で、アリアさん。アリアスフィリーゼさん。もう姫騎士要素が微塵もないな。さすがに彼女の正体を見失いかねないので、明日は姫騎士殿下と呼ぶことにしよう。
「ショウタ、これからどうします?」
「良い時間ですから、お昼にしましょう。アリアさんは何か食べたいものあります?」
「んんー……」
と、言っても、迷わせるだけだな。こちらにはあちらにない料理がたくさんあるし、そう言ったものを食べたいという気持ちはあるのだろうが。
「肉か魚か。さっぱりしたものか、こってりしたものか。ご飯、パン、麺。甘いの辛いのすっぱいの。いや、すっぱいのはあんまないかな……」
「んん……。ショウタ、あれも大衆食堂の行列でしょうか?」
「えっ」
そう言って、アリアスフィリーゼが指差した先には、たいそうな行列が並んでいる。渋谷によく来るわけではないので、どんなものなのか見当もつかない。見るとシャツをぐっしょりと濡らした、肉付きの良い男性が大量に並んでいたりするので、何やらオタク関係のイベントかとも思うが。
ショウタがゆっくりと視線をずらしていくと……、
ラーメン三郎。
あ、これはダメな奴だ。ショウタは視線を逸らした。
「まぁ、モノが食べられるところではありますが……」
「ではあそこにしましょう。変わった匂いも漂ってきますし……」
「それあまり言いたくないんですが行列に並んでるお兄さんたちの体臭です」
アリアスフィリーゼ姫騎士殿下がそう仰せになるのなら、ショウタは従うしかない。どちらにしても、騎士王国に帰れば食べれないものではあるのだ。思い出として食べる分には悪くないだろう。
しかし、渋谷にまで進出していたのか。ラーメン三郎。
渋谷店というだけあって、それなりにオシャレな恰好をした客も並んでいる。アリアスフィリーゼの服装自体はそう目立たなかったが、端麗な容姿とコーカソイド系の顔立ちはやはり行列の客から驚いたような目で見られていた。
彼らから見れば、アリアスフィリーゼは日本観光についでに有名なラーメン屋さんにちょっくら寄っていこうと考えた若い白人女性、といったところだろうか。
列はゆっくりと店内に吸い込まれ、消化されていく。
ショウタは食に貴賤はないと思っている。ラーメン三郎を豚のエサなどと揶揄する類の風説もあまり好きではない。それを美味しいと思って食べる人がいるなら結構なことだし、それが評価されて支店を広げているなら、それは良いものなのだ。
ただ、それはそれとして、ショウタ個人はああいった料理が苦手だ。強いニンニクは胃袋を傷つけるし、そもそもとしてショウタは少食で、ついでにいえばあっさり目の味付けが好きだ。アリアスフィリーゼが行こうと言うのなら断らないが、ショウタは断固として小を頼む。そう心に決めていた。
「あのう、アリアさん」
「なんですか?」
未知の料理に期待を膨らませるアリアスフィリーゼに、ショウタはそっと耳打ちする。
「残しちゃダメですからね……?」
「御心配なく。出されたものはキチンと食べます」
にこりと笑うアリアスフィリーゼの笑顔に、翳りは一切なかった。
「う、ううう……。お腹が……」
「大丈夫ですか? ショウタ」
結論から言おう。ショウタは小を半分残した。それを含めて完食したのが、隣の席のアリアスフィリーゼ姫騎士殿下である。ちなみに彼女は注文の仕方がよくわからないので、前の人に従って大のトッピング全マシを注文していた。大したものである。この時ばかりはとんこつ殿下であった。
彼女は箸の遣い方がよくわからないので、そこには苦戦したが、食べるスピード自体は大層なものであった。結果、今は食いすぎに腹を押さえてうずくまるショウタと、それを心配そうに見守るアリアスフィリーゼの姿がある。
「ああ、そうだ。アリアさん、これ……」
ショウタは、先ほどコンビニで買ったばかりのタブレット菓子を、数粒、アリアスフィリーゼに手渡した。彼女は首を傾げた。
「なんです、これ?」
「いえ、多分そのままだとニンニクが効いて口臭がよろしくないと思うので……」
「え、そ、そうですか……?」
思えば、騎士王国にはニンニクはなかった。味付けと言えば、出汁を取って塩をかけるだけの簡素なものがほとんどだ。ラーメン三郎のガッツリした味付けは彼女にとってカルチャーショックだったことだろうが、さすがに放置してニンニクのフレーバーを撒き散らすアリアスフィリーゼは、ちょっと見たくない。
タブレット菓子を口に放り込んだアリアスフィリーゼは、喉から鼻へ突きぬけるような未知の感覚に、目を白黒させていた。
ショウタも胸やけを押さえながらようやく立ち上がる。真夏の日差しは鬱陶しいが、今は風も涼しくぶらつくには悪くない。ショウタとアリアスフィリーゼは、渋谷から明治通りを通って表参道に抜けて行く。
「こちらから左に行くと、代々木公園。あと明治神宮とかありますね」
「神宮……。神の宮、ですか? 教会とは違う?」
「うーん、どうなんでしょうね。シュライン……。聖堂かなぁ。でも、王都にある大聖堂とはまたちょっと違いますねぇ」
騎士王国では、あまり神の信仰というものがない。帝国と同じ、ゼルシア聖教? とかいうものを信仰しているらしいのだが、王都に立派な大聖堂が建っているくらいのものだ。あの大聖堂の上から見下ろした、夕焼けの王都は大層美しかった。
明治通りも表参道も、相変わらず車の行き来が多い。びゅんびゅんと行きかう自動車を、アリアスフィリーゼは視線だけで追っていた。
「この、鉄の車が吐き出す煙は、少しばかり嫌な臭いがしますね」
「ああ、はっきり言っちゃっていいですよ。あまり良いものじゃないですから」
これでも、自動車の排気ガス量は一昔前に比べて大きく減っているはずだ。ショウタはその時代のことはよく知らないのだが。
時速40キロで往来する自動車は、その衝突の衝撃によって容易に人体を破壊せしめる。迂闊に車道を覗き込むアリアスフィリーゼを、危ないですよと引っ込めるのだが、この場合危ないのは彼女ではなく車体の方だ。戦術級騎士に到達するアリアスフィリーゼの肉体であれば、おそらく時速40キロで走行する自動車の車体など、容易に破壊せしめる。
「このあたりは、アカバネより車が多いのですね」
「大きな道路ですからねえ」
「デルオダート街道のような?」
「えぇと、どうなんだろ。デルオダート街道くらいになると、五街道ですかね。東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道かな。参道っていうのは、お参りするための道だから、さっき言った明治神宮に向かう道って意味なんですよ」
代々木公園に入ってから、都道413号線から山の手通りに出られる。このあたりから見られる大きな道路というのはそれくらいだ。ショウタはスマホで地図を確認しながら言うと、アリアスフィリーゼは感心したように頷いていた。
「あ、ショウタ、見てください。小さな子供もいますよ」
「まあ、そりゃあ、いるでしょうねえ」
アリアスフィリーゼの指した方向には、母親の後を追って歩く子供の姿がある。子供はおもちゃを持って、必死に歩いている。親も親で、子供の歩調に合わせているのか、ゆっくり目であった。
「どこの世界でも、子供の愛らしさは変わりませんね……」
「ん、そう、ですねえ」
メロディアスよりは、さすがに年下か。あの子はどうしているだろうか、とショウタは考える。咬蛇王が騎士王国に侵攻していると知れば、真っ先に駆けつけてきそうではある。だが、そこにアリアスフィリーゼとショウタはいないのだ。
ショウタがメロディのことを考えていると、アリアスフィリーゼが、隣で小さく『あっ』と声をあげた。
なんだろう、と思いショウタも顔を向け、やはり声をあげる。
アリアスフィリーゼの視線の先で、ちょうど子供が、取り落したおもちゃを追って道路に飛び出そうとしているところだった。
「ショウタ、行きます!」
「行きますって、え、あ、はい!」
そう叫んだ次の瞬間、アリアスフィリーゼは歩道を蹴りたてた。バゴン、という音がして、床のブロックが大きく陥没する。次の瞬間、姫騎士殿下は行きかう自動車の間をすり抜けるようにして、飛び出した子供のもとへと駆け抜けた。
母親の悲鳴が響くより早く、子供を抱きかかえて、アスファルトの上を転がる。アリアスフィリーゼは、腕の中の子供に、優しく微笑みかける。
「大丈夫ですか? 危な……」
対向車線を走行していた10トントラックが、アリアスフィリーゼに直撃した。
「あっ……」
ショウタは思わず声をあげる。
子供を抱きかかえたまま、ぼこん、と吹き飛ぶ姫騎士殿下。何度かアスファルトの上をバウンドしながら、ごろごろと転がっていく。そこかしこから悲鳴が響いて、表参道は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図へと変貌した。
むくり、とアリアスフィリーゼが起き上がり、腕の中の子供を確認する。彼女がそのまま何事もないように立ち上がったものだから、悲鳴はなお一層大きくなり、その直後、しんと静まり返る。
姫騎士殿下はまったく気にせず、ピンピンした様子で母親のもとまで歩いて行き、そっと子供を降ろした。
「あ、あの……」
「子供は無事です。次からは、目を放してはいけませんよ」
「え、ええと……」
にこりと笑うアリアスフィリーゼ。母親が何かを言う前に、ショウタは殿下の右手をひっつかんで明治通りの方へと駆け出した。
「あん、ショウタ。どうしました?」
「いえ、別に! ただ、あの場にずっといるのは良くないなと思ったので!!」
「お姉ちゃーん、ありがとー!」
呆然とした空気の中で、助けられた子供だけが手を振っている。アリアスフィリーゼはショウタに引っ張られながら、やはり笑顔で手を振り返していた。
「すいません、ショウタ……。せっかく買ってもらった服を汚してしまいました……」
「破けてないなら大丈夫です。汚れは洗えば落ちますよ」
公園の水場で、頭からダラダラと流れてくる血を洗ってやる。あれだけ地面をバウンドしながら、腕や足にかすり傷がないのはさすがだった。この頭の傷は、どうやら全力で追突してきた10トントラックによるものであるらしい。
「あの車の力はなかなかのものでした……。袈裟懸けと良い勝負ですね」
「袈裟懸けのパンチって10トントラックと同じくらいなんだ……」
冷静に考えれば、あのあとの表参道は大変なことになっているはずである。飛び出したのがアリアスフィリーゼで、トラックの運転手には過失が一切なかったとしても、人を一人撥ね飛ばしたともなればその罪悪感は相当なものだろう。その後の交通にも大きな影響を及ぼしたはずだ。
が、まぁ、アリアスフィリーゼは悪いことをしたわけではない。むしろ良いことをしたのだ。ただ、それは普通の人間にできることではないし、真似をする良い子が増えてしまっては困るようなことでもあるのだが。
「あの車がトラックと言うのですね」
「あれ、知ってるんですか?」
「ヒカルに教えてもらいました。トラックに轢かれると異世界に行けることがあるのだと」
「師匠……」
純粋無垢な異世界人に余計なサブカルチャーを植え付けるのはやめてもらいたい。
「私は帰れませんでしたが……」
「アリアさん、それはね、過失致死が発生した場合に神さまが憐れんで転生させてくれる奴なんで、多分轢かれても死なないアリアさんでは無理なんです」
「そ、そうなんですか!?」
「もちろんフィクションの話ですが。この国では50年前から、業務上過失致死の償いに新しい命を与える作品が横行しているんですよ」
そういえば、師匠はメガネに連絡をとって、アリアスフィリーゼが元の世界に帰れる方法を探ると言っていたか。まさか10トントラックをたくさん用意して死ぬまでぶつけるという方法ではあるまいが。そもそもそんな方法で異世界に行けるのであれば、騎士王国はもっと日本人であふれていても良い。
「ショウタ、これからどうしますか?」
血を拭い終わると、彼女の額の傷は既にふさがりかけていた。伝統騎士、王族騎士の新陳代謝能力は相変わらずぶっ壊れている。
「スーパーで食材買って帰ります」
「すーぱー」
「市場みたいなもんです」
正直、ラーメン三郎でガッツリ食ってしまうと、あれは胃袋に長時間滞留するので、晩飯など食べなくても良いのではないかという気分になってしまうのだが。まぁ、アリアスフィリーゼはそうでもないだろう。あれは脂肪と炭水化物の塊であるからして、彼女が荒川沿いをしばらく全力疾走していれば、すべて消費しきれてしまうに違いない。
ただ、夕食はもう、あっさりしたのが良い。健康的な和食メニューだ。アリアスフィリーゼに、醤油と味噌の偉大さを教えてやらねばならない。
そう考えていたショウタのもとに、電話の着信がある。
「師匠からだ」
「あ、例の遠くに居てもお話しできる機能ですね!?」
「え、ええ。まあそうです」
やや興奮気味の視線を向けてくるアリアスフィリーゼに、妙な居心地の悪さを感じながら、ショウタは通話ボタンを押す。
「はい、どうも」
『もしもし、ショウ年。デートはどうッスか?』
「ぼちぼちです」
どうせからかわれるだろう、と思っていたので、慌てるような可愛げはショウタにはない。
「師匠、急ぎの電話ですか?」
『と、ゆーわけでもないんスけど。おまえ達、今夜は帰ってきますよね? 外泊とかしないッスね?』
「さすがに帰りますよ」
アリアスフィリーゼは顔を近づけながら、師匠の声を聞きとろうと耳をそばだてている。彼女の吐息が頬から首筋にかけてをくすぐってきた。ただ、いつものような良い匂いではなく、ミントタブレットの爽やかな香りと、拭ったばかりの血の匂いが入り混じった複雑な芳香が漂ってくる。
『じゃあ、詳しい話は今夜の食卓でしましょう。メガネと連絡がつきました。明日、予定が取れるそうなんで、神田のサ店でプリンセスとお話ししたいそうッスよ』
「いつものお店ですね。多分、大丈夫だとは思いますけど、まぁ、どの道お話は晩御飯食べながらですねー」
『結構結構。じゃ、わたしお腹すかせて待ってるんで』
それだけ言って、電話は一方的に切れた。
「明日、そのメガネさんからお話しなんですね」
私は大丈夫です、と拳を握るアリアスフィリーゼ。しっかり聞いていたらしい。
「きちんと元の世界に帰る方法、見つかると良いですねぇ」
「そうですね……。騎士王国では、そろそろ五日、経っているでしょうから……」
そう呟く姫騎士殿下の顔は、ちょっぴり暗い。やはり元の世界のことを考えると、そうなってしまうか。
「まぁ、難しい話はまた明日考えましょう。今日は、美味しい晩御飯のことを考えていてください」
「はい。期待していますね」
アリアスフィリーゼはすぐに笑顔に戻り、二人は、赤羽の家に戻るため渋谷駅へと向かった。




