第76話 愛は激流に消ゆ
今、目の前にいる男はなんと言った?
その瞬間、ショウタは自らの身体が周囲とは隔絶された次元に移行したかのような、錯覚を覚えた。すべての音がやけに遠くなり、視界がグレースケールに染まっていく。その中で、ローブを纏う蛇頭の男、アジダだけが、やけにリアルな色彩を伴ってそこにいた。
元の世界に帰りたくないかと、そう言ったのか?
元の世界。元の世界。元の世界だ。ここではない、〝元の世界〟。ショウタの生まれ故郷が存在する、〝元の世界〟。そうだ、ショウタの帰るべき場所は、この世界にはない。ここではない、もっとどこか遠く、〝元の世界〟から、ショウタはやってきた。
〝こちら側〟に来た理由は、ショウタにもよくわかっていない。〝元の世界〟で、師匠と共にある施設の調査を行っていた。世界の垣根を越えてこちらに来てしまったのはその時だ。こちらに飛ばされてすぐ、ショウタは姫騎士殿下と出会い、自らの能力を魔法と偽り、騎士王国へと入り込んだ。元の世界に戻るためだ。
もう3ヶ月前のことになる。
目の前のアジダという男は、会って一瞬で、ショウタの故郷がこの世界ではないことを見抜いた。
〝異世界〟という概念を、こちらの世界の人が理解できるかどうかはわからなかった。だから、殿下に対しては常に〝遠くの国〟という表現を用い、〝違う世界〟という言葉は使わなかったのである。だから、殿下ですら、ショウタの故郷や素性について正しく理解をしていないはずだった。
それでもアジダははっきりと言ったのだ。〝元の世界〟と。
そして『帰りたくないか』とも言った。
それはすなわち、この男が、ショウタが元の世界に帰るための何らかの手段を、有していることを示す。
「疑界平面上に歪みが生じている。冥獣神の活動が徐々に活発化しておるのだ。ヌシさえ首を縦に振れば、この歪みに乗じてヌシを元の世界に送り返すこともできよう。無論、我らに少しばかり協力を仰ぐことにはなるが……」
「嫌です」
アジダに皆まで言わせず、ショウタはきっぱりと断った。その瞬間、世界に色彩が戻り、すべての音との距離感が正常に戻る。まるで世界との周波数がぴたりと一致したかのように、ショウタの居場所が落ち着くような感覚があった。
アジダは意外そうに顔をあげる。
「ほう……」
逡巡があったのは否定しない。だが、決して後悔はなかった。
「帰る手段は自力で探します。余計なお世話です」
帰りたくないなんて、思わない。帰らなければならない約束がある。
だからって、いまここで首を縦に振るなんてありえない。考慮に入れる価値すらない。目の前の男は、メロディの敵であり、アリアスフィリーゼの敵であり、そしてショウタの身の周りの人を危険に巻き込んだ張本人なのだ。何故、唯々諾々と従うことができるのか。
最初から、お断りである。
「ふむ、そうか……」
アジダはあっさりと頷き、しかしその視線をダムの方へと向ける。その目がゲイロンをとらえ、まるで鳥の足のように細い腕を彼へと伸ばした瞬間、ショウタは『まずい』と感じた。
「ならば、当初の目的を完遂するとしようか……」
「………ッ!」
ショウタはすぐさま思考領域にアクセスし、不可視の力を引き出す。アジダの動きを止めるために放った念力だが、彼の空いた左腕から黒いエネルギー球が生成され、引き出した力の大半はガードに割かざるを得なくなる。その間にも、アジダはゲイロンの身体に何か細工を為そうとする。アリアスフィリーゼは気づいていない。ショウタは間に合わない。
その直後、要塞全体を轟音が揺るがし、屋上の床の一部が吹き飛ぶ。それが要塞内部から弾丸のように飛び出してきた、一人の人間の手によるものだと理解するには、しばし時間を要した。
「コンチェルトさん……!?」
三階層からか、二階層からか、あるいは一階層からか。床と天井をぶち抜き、天高くへ跳躍するそのシルエットは、間違いなく騎士提督コンチェルト・ノグドラのものである。くすんだ鋼色の髪は宙へたなびき、海色の隻眼はまっすぐにアジダを見据えている。
戦略級騎士コンチェルト・ノグドラは、一本の剣を構え、空中を蹴りたてて一気にアジダへと肉薄した。
Episode 76 『愛は激流に消ゆ』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「せェぇいッ!!」
騎士提督コンチェルトのすれ違いざまの一斬が、アジダの肩から腰にかけてを袈裟に切り裂く。蛇頭の魔導師は、その身体を真っ二つに断たれ、ごろりと要塞の屋上へ転がった。一瞬の早業を前に、ショウタは助けられたことも忘れしばし唖然とする。
「あ、お、お強いんですね……」
かろうじてそう言うのが精一杯であった。
「うん……。本調子っていうのは、良いもんだね……」
そうだった。この人、いま本調子を取り戻したばかりだったのだ。さすがに、あの騎士将軍アンセム・サザンガルドと並び称されるだけのことはあって、本来の実力を発揮したコンチェルトの実力は、控えめに言ったところで怪物である。
ショウタは視線をアリアスフィリーゼ達の方へ向けた。コボルトはすべて片付き、残るはゲイロンのみだ。このまま彼を捕縛すれば、すべてカタがつく。アジダをあっさり倒されてしまったのは、ショウタとしてもいささか拍子抜けではあるところだが……、
「ふ、ハ、ハハハハハハ……!」
足元からそのような笑い声が聞こえ、ショウタは思わずぎょっとする。コンチェルトも振り返り、屋上に転がるアジダの上半身を見やった。鋭利な切断面からは、ドス黒い血がとめどなく流れ出て良き、血は気化して黒い靄となっていく。
アジダは笑った。
「いや、見事……。これでは実験などできぬな……」
ショウタは拳を握る。実験。やはりそうか。おそらくレイシアルにそうしたように、ゲイロンの身体を使って冥瘴気の実験をするつもりだったに違いない。冥獣化か、それとももっと恐ろしい何かであったのか、そこまではわからないが、
「だが、残った魔力でもこれくらいのことは……!!」
「!!」
言いかけたその瞬間、コンチェルトは容赦なくアジダの頭部に剣を突きたてる。直後、大きな震動が、アメパ堰堤要塞全体を揺るがす。最後っ屁でダムを破壊するつもりであったのか。だが、コンチェルトの迅速な対処により、アジダが断末魔に放った最後の魔力は、渓谷に大きな震動を呼ぶだけに終わった。
揺れの幅は立っていられないほどのものだったが、ショウタの意識はダムの上へと向く。
「殿下!!」
まさしくダムの上では、アリアスフィリーゼが震動に耐えているところだった。しかしゲイロンの方は、当然のように揺れに耐え切れず、激流へと落下していく。男のみっともない悲鳴が、アメパ堰堤要塞に響き渡った。
「たっ、助けてくれええぇっ!」
「っ……!」
その悲鳴を聞いた瞬間、姫騎士殿下は視線をダムの下に向けた。まさか、と思い、ショウタは叫ぶ。
「殿下!?」
何を考えてるんです、あなたは!
アリアスフィリーゼは、滝のように降り注ぐ放流を見据え、ダムの壁面を一気に駆け下りていく。ゲイロンを助けるつもりなのだ、と思ったとき、ショウタは頭を掻きむしりたくなった。同時に思い出すのは、つい数十分前、レイシアルと戦う前に、わずかに交わした会話である。
―――すいません、お嬢様。何人かは、殺さざるを得ませんでした。
―――ショウタが謝ることではありませんよ。私の力不足です。
あれは、ショウタを慰めるための方便などではなく、つまるところ、そのままの意味だったのだろう。
アリアスフィリーゼは、そのまま滝壺に飲まれそうだったゲイロンの腕をつかみ、ダムの上に向けて放り投げる。気づいたコンチェルトが飛び出し、ダムの上からゲイロンを受け止めた。殿下はそのまま、ダムの壁面を駆けあがろうとするが、再び大きな揺れが、アメパ堰堤要塞全体を襲う。
「くそッ!」
ショウタも飛び出した。力を捻り出し、殿下の身体を救い上げようとするが、間に合わない。揺れによってバランスを崩したアリアスフィリーゼの身体は、壁面から足を滑らせた。
「殿下、姫騎士殿下ァッ!」
滝壺に落ちていく殿下を眺めながら、ショウタが起こした次の行動は、後を追うかのような飛び込みだった。
「ショウタ、無茶はよせ! 私が……!」
コンチェルトの呼ぶ声は、もはやショウタの耳には届かない。よしんば、届いていたとしても止まらない。コンチェルトがゲイロンの身体を安全な場所まで運び、更に飛び込んで殿下を追う。それだけの時間を、待っていられないのだ。
―――なまじ、別れというものは、唐突に訪れるものだ。
―――それが、死別ということもある。
嫌だ。
そんなものは嫌だ。
殿下は、落下しながらこちらを見上げた。ショウタを見、驚くように目を見開くが、彼女はすぐに嬉しそうに微笑むと、その右手をショウタへ向けて伸ばす。まったく、この状況で何を笑ってるんです。ショウタは自由落下の加速度に、不可視の力を加えて更に落下速度を上げていく。
あと少し。もう少し。届け。届いてくれ。
だが、そのあと少しが、もう少しが、ほんのわずかな距離が、足りなかった。その瞬間、殿下の表情が、少し変わる。笑みの中に、諦念と謝罪を織り交ぜたような、哀しい顔だった。
アリアスフィリーゼの身体が、滝壺へと飲まれる。激流へと消える。
何故、どうして、なんで届かないのか。届かせることができないのか。ショウタもまた、失意のうちに着水する。激流の中でもがこうにも、意識が朦朧として手足がぴくりとも動かない。その時、ショウタはようやく、自分が短時間のうちに能力を酷使しすぎたことに気付いた。
あれだけの重量の鎧を纏う殿下の身体が、勢いよく流されていくのがわかる。
結局のところ、後悔しかない。ショウタの心に、コンチェルトの言葉が重くのしかかる。もしこのような思いをするとわかっていたら、自分は、もっと……。
やがてショウタは激流の中に意識も手放していった。
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「……はっ!?」
目が覚めると同時に、ショウタはがばっと上体を起こす。布団を跳ねのけ、周囲をきょろきょろと見回せば、そこは何やら、懐かしい匂いのする部屋だった。
六畳の畳部屋。ふすまのある押入れ。たんすにちゃぶ台。ちゃぶ台の上にはデジタル式の目覚まし時計が置かれていて、現在の時刻、16時過ぎを示している。もう夕方だ。しばらく呆けていたショウタだったが、すぐに頭を振り、立ち上がる。締め切られた部屋のカーテンを開くと、ガラス扉の向こうにはベランダ、そして、地上7階から東京都北区を見下ろす、いつもの赤茶けた景色が広がっていた。
「……夢、だったのか?」
一時的な記憶の混濁を、そのひとことで強引に処理しようとする。が、ショウタはすぐにかぶりを振った。夢というのはあまりにも、記憶が鮮明すぎる。それにちゃぶ台の上、目覚まし時計の隣に置かれているのは……、
「トウビョウ……」
無知の先端部についた蛇の頭が、ショウタに気付いてチロチロと舌を出す。その仕草を見て、ショウタはすぐにアジダのことを思い出した。元の世界に帰りたくないか、と言っていた。元の世界。ショウタの生まれ故郷がある、元の世界だ。
東京都北区赤羽。荒川の河川敷にほど近いこのマンションの一室は、宝林晶太の部屋だった。
帰ってきたのだ、という高揚や感動は、一切なかった。
帰ってきてしまったのだ、という後悔や失望の方が、大きかった。
いつかはこうなることを望んでいた。ずっと元の世界に帰りたいと願っていた。だが、何故、今、このタイミングでなのか。ショウタはぐっと手を握る。この手は、一番届かせたかった人に、一番届かせたかった時に、届かせることができなかった。何故、あそこでもっと早く飛び込まなかったのか、もっと手を伸ばせなかったのか。
アリアスフィリーゼの手を、掴めなかったのか。
何も言えなかった。言うべきことを、何ひとつ告げることはできなかった。それでも彼女は最後に何も言わず、ただ諦念と謝罪を込めた、小さな微笑みをこちらに向けたのだ。
ショウタが欲しかったのは、そんなものではない。
過ぎた時間は戻らない。失ったものは取り戻せない。ショウタは、深い喪失感を胸に、わずかな嗚咽を漏らした。結局はすべて、自分の中途半端さが招いた結果だ。その咎を受けるのが自分だけであれば、良い。しかし何故、アリアスフィリーゼなのか。彼女でなければならなかったのか。
ショウタはしばらく、ただ一人慟哭した。涙を流し続け、デジタル時計が17時を刻み、それでも気は晴れないが、ようやく他のことを考えるようになる。
「そうだ、せんぱいに……謝らないと……」
よろよろと立ち上がり、ショウタはふすまを開ける。ショウタの部屋のすぐ隣はダイニングだ。そこには、セーラー服で椅子の上に行儀悪く腰かける、ショウタの師匠の姿があった。コーラのペットボトルをラッパ飲みする姿に、変わらないな、と苦笑する。
「ああ、目が覚めたんスね」
彼女はショウタに目をやり、あっさりとそう言う。
「はい、せんぱい。ご迷惑をおかけしました」
「ほんとッスよ。いきなりいなくなるんだからもう。わたしやメガネがどんだけ探したと……まぁ、良いや」
師匠の言葉を聞いていると、本当に帰ってきたんだな、という実感がある。同時に、あのグランデルドオ騎士王国で過ごした3ヶ月が、何やら急に遠くへ行ってしまうような感覚があった。確かに自分はあそこにいた。証拠もある。だがそれは果たして、ここで師匠に話して、納得してもらえるものなんだろうか?
「なんか泣いてたみたいッスね。お風呂、入ります?」
「いえ、良いです……。事情の説明もしたいですし。信じてもらえないかもしれないけど」
「ああ、それね」
師匠は2リットルのペットボトルを一気に飲み干すと、くしゃりと潰してこう言った。
「もうだいたい聞いたんで、わたしはおまえに聞きたいこと、あんま無いんスよね。まー、強いて言うならー。んー……」
「え、へ?」
ショウタは思わず間抜けな声を出した。
「聞いたって? また僕の心覗いたんですか?」
「まぁ覗いたっちゃ覗きましたが、それより……」
「ヒカルー。ねぇヒカル、ちょっと良いですかー?」
いきなり、自分のものでも師匠のものでもない第三者の声が聞こえたので、ショウタはびっくりする。ぺたぺたと廊下を歩く音が、こちらに近づいてきた。何やら聞き覚えのある声のような気がして、ショウタは混乱する。この声は、いや待て、しかし、そんなはずは。
がちゃり、
廊下とダイニングを繋ぐ扉が開き、見慣れた顔がひょっこり顔を覗かせる。
「ヒカル、あなたの服、確かに胸囲はぴったり合うのですが、胴の丈が足りません。あとスカートも、短すぎます」
「ぶっ!!」
師匠のものと同じセーラー服に身を包んだ彼女の姿を見て、ショウタは噴き出してしまった。
「でッ、でででッ、殿下!? 姫騎士殿下!?」
「あっ、ショウタ。おはようございます。目を覚まされたんですね」
そう言ってにこりと笑う彼女は、確かに、ここにいるべきはずのない彼女であった。アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオ姫騎士殿下であったのである。目を白黒させるショウタを横目に、師匠はこう続けた。
「でもブラはぴったりだったでしょ。プリンセス」
「このコルセットですか? ちょうどですね。これは良いものです。激しく動いても胸がずれませんし」
何故、姫騎士殿下がここにいるのか。何故、セーラー服などを着てちょっと嬉しそうな顔をしているのか。何故、師匠は平然と彼女と話をしているのか。何故、師匠とブラのカップサイズがまったく同じなのか。
流れ込んでくる情報量が多すぎて、ショウタは処理しきれない。だが、それに追い打ちをかけるように、ショウタの師匠直輝は、このように告げたのである。
「じゃあ、せっかくなんでショウ年。1ヶ月も音沙汰なかった上に、女連れで帰ってきた今の感想でも、聞いておきましょうか」
「なんですかそれは」
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