第67話 凍れる山の冬将軍(中編)
吹雪が視界と身体の自由を奪う。アイカも、キャロルも、トリルも、雪中行軍の訓練は受けていない。なんとか姿勢を保つが、状況はいささか不利であると言えた。レイシアルはすぐに仕掛けてくる気配がなく、彼の配下である二人の貴族騎士―――ゾルテ、トリッシュと名乗った―――も、やはり動く様子がない。
真っ先にこちらへとびかかってきたのは、彼らの背後に待機していた十数体のコボルト達だった。
「シャアフッ……!」
「くっ……」
蛮刀を片手に迫るコボルト達を、先頭のアイカが迎撃する。鞘に納めた剣が刃を受け止め、激しく火花を散らした。
つい先ほどまで暖まっていた筋肉が収縮してしまっている。身体の動きが、明らかに硬くなっていた。こちらへ攻勢をかけてくるコボルトは当然一体ではなく、次々ととびかかってくる獣魔を捌き切るため、鍔迫り合いを続けていたコボルトの腹に立ち蹴りを浴びせた。二体目の蛮刀をかわし、喉笛を狙って突き込む。三体目の蛮刀は空いた左手でなんとか受け止めた。四体目、首筋を狙う斬撃を回避するため姿勢を逸らすが、刃は白磁の装甲に叩きつけられた。
「……っ!」
残るコボルト達は、アイカの真横をすり抜けて、キャロル、トリルへと殺到する。彼らの身を案じはするものの、救援に回す余力はないも同然だった。
こちらを囲むコボルトは四体。まずはこちらを片づけねば。
「はぁぁああッ!!」
蛮刀を受け止めた左腕に力を込める。なんとか強引に力で押し切ろうとするコボルトに、その愚を悟らせた。膂力の拮抗を撃ち破り、アイカの籠手がやがて蛮刀をへし折る。獣魔の驚愕により生じた一瞬の隙を突くように、左手は拳を握った。そのまま踏み込み、野犬を思わせるその顔面を、横合いから思い切り殴りつける。
みしり。
骨にヒビを入れたような手ごたえがあった。運動エネルギーは相殺されることなくコボルトの全身に渡り、やがてその身体を堰堤要塞の壁へと叩きつける。
「………!」
トリッシュと名乗った女騎士が、小さく息を飲むのがわかった。
しかしこちらに休憩している暇はない。残り三体。
まずアイカにとびかかってきたのは、最初に斬撃を浴びせんとした個体である。アイカは剣を腰に戻した。この寒さでは、素早く剣を振るうことは叶わない。月鋼式戦術騎士道の強みは活かせないのだ。であれば、徒手、組手にて敵をねじ伏せるよりほかはない。
アイカは拳を握る。が、拳と蛮刀では、リーチに明らかな差がある。カウンターを決めるには、腕に長さが足りなかった。すなわち、こちらの有効打を叩き込むためにはまず、拳撃を打ち込めるだけの射程内まで、敵の攻撃を許さねばならない。
一体目の攻撃を冷静に見据え、アイカは迎撃態勢に入った。
右の前腕部で、コボルトの斬撃を受け止める。骨まで響く衝撃はあったが、それだけでは怯まない。一瞬、強く息を吸い込んで、コボルトの鳩尾めがけ、正拳突きを叩き込んだ。
「せェいッ!!」
「ギャブォッ……」
拳の勢いに、籠手の重量が上乗せされる。一切の容赦を排斥した拳撃は、相手がコボルト程度であればその肋骨すらも叩き折る。砕いた骨で内臓を引き裂く。人間相手には決して撃たない一撃だが、ここは容赦をするべき場ではない。
「シャオウッ!!」
「ケシャアッ!!」
残る二体は、ほぼ同時に仕掛けてきた。アイカは迎撃を、右手側に絞った。剣筋を見切り、その蛮刀が振り下ろされる直線のラインをめがけて、拳を叩きつける。拳はまたも蛮刀の刃を叩き割り、鉄槌めいて獣魔の頭部を撃つ。コボルトがやや前傾姿勢になったところで、顎をめがけての膝、そのまま足を延ばし、後頭部にきびすを叩き落とした。
流れるような三連続攻撃を受け、三体目が沈黙する。アイカの背中に、最後の一体が斬撃を打ち込んできたのはほぼ同時だった。鎧によって裂傷は避けるが、鈍い衝撃が全身に伝わる。
「てェあァッ!!」
鈍痛をおくびにも出さず、アイカの裏拳がコボルトの鼻っ柱をとらえた。次いで、振り向きざまの一撃を加えようとするが、その瞬間、全身の自由を奪われる感覚があった。
「ッ!?」
まずは腕、次に両足。触れているものがないのに、羽交い絞めにされたように動かない。辛うじて動く首を、レイシアル達の方へ向けると、彼の部下である二人の貴族騎士が、こちらに手のひらを向けていた。その周囲には、光の軌跡で描かれた見慣れない紋章が紡がれている。
魔術だ。ショウタが使ってくるものとは、根本的に違う。アイカの背面に、二人の貴族騎士が描いたものとまったく同じ紋章が展開され、彼女の身体を磔にする。
「っく……!」
「ディム・ノクターン……!」
トリッシュ・シャイアタンが感情を押し殺した声で叫んだ。
「先ほどの、サー・カウント・レイシアルへの無礼な発言……。詫びさせてあげるわ!」
レイシアルの狂信的な部下か。名乗りをあげたとき、森師の子と言っていた。レイシアル家に小姓、従騎士として仕えていたのだろう。ゾルテ・シャイアタンも言葉こそ発さなかったが、射抜くような鋭い視線をアイカに向けていた。
先ほどのやり取りで、相当恨まれてしまったらしい。自身の言動に間違いがあったと、アイカは思わない。いかなる理由であれ、騎士王に弓引くものを成敗する大義は、こちらにあるのだ。だが、身動きが取れなかった。身体の自由が一切効かない、このようなことは初めてだった。
「……っ、くうっ……!」
苦悶の声を漏らし、全身に力を込めようとしても、一切が無駄だ。その間にも、先ほど殴りつけたばかりのコボルトが再度こちらに狙いを定める。籠手の裏拳が効いたか、頭蓋骨の一部が陥没しているように見えたが、双眸に宿る殺意の光に変化はない。
身動きが取れないこのままでは良い的だ。わずかに焦燥を覚えた。こちらの頭を叩き割られるか、首を撥ねられるか。獣魔はアイカの正面に回り、蛮刀を再度振りかぶる。が、
「アイカァッ!」
真横から、素早い刺突撃が伸び、コボルトの頭蓋を横から刺し貫いた。紅い甲冑に身を包んだ女騎士が、鳶色の髪を揺らしてアイカの真横に立つ。風と共に吹き付ける雪が、彼女の装いと強いコントラストを彩る。
「キャロル!」
キャロル・サザンガルドは、同田貫の刃についた血を払い、二人の騎士と相対した。どうやら、背後に回ったコボルト達はすべて片付いたらしい。トリル・ドランドランも無言のまま前に出る。
だが、敵戦力はこれで打ち止めではない。彼らの背後から、さらに数体のコボルトが押し寄せてきた。キャロルの舌打ちが、アイカには聞こえる。もどかしいのはアイカも同様だ。ショウタの使う不可視の力場とは異なり、どれだけ力を込めても手ごたえが得られない。
「父上から聞いた。こういったものに物理法則は通用しない」
コボルトの群れをアイカに近づけないようにしながら、キャロルが言う。
「私たちが行使する物理的な力とは違う法則で発生する現象が、魔法だ。ショウタから聞いていないか?」
「え、えぇと……。はい」
「現象の源を断つ。寒いと思うが、待っていろ」
動きを止められたアイカの身体は、どんどん体温を奪われていく。そうした彼女の様子を慮ってか、キャロルは短くそう言った。次々と押し寄せるコボルトの群れを、刺突撃で的確に迎撃していく。だが、やはり寒さのためか動きがいつもよりも鈍い。
レイシアルはここに至るまで終始無言だった。こうしている間にも、吹雪は止む気配がない。あるいは、この吹雪の制御に、集中力の大半を傾けているのかもしれなかった。
「トリル、コボルトは任せた!」
キャロルは唐突にそう叫び、押し寄せる群れの中をまっすぐに突き抜けていく。トリルは一瞬呆気にとられたものの、すぐに『承知!』と叫ぶと、剣を横なぎにふるってコボルト達を蹴散らした。
さすがにベテランといったところで、この吹雪の中であってもトリルの動きはさほど鈍る気配がない。パワーファイター然とした重装騎士ではあるが、月鋼式戦術騎士道を修めるだけあって剣筋の速度はアイカ達にも十分匹敵するものだ。トリルは、剣をあえて大振りにすることで攻撃範囲を広げ、コボルト達の進軍を防ぐ。
「貫く! どけぇェッ!!」
キャロルの怒号が、凍てつく空気をつんざいた。同田貫の切っ先は、まっすぐに敵の女騎士、すなわちトリッシュ・シャイアタンを狙う。まさかコボルトの群れを貫いて、こちらまで抜けてくるとは思っていなかったのだろうか。トリッシュは驚愕に目を見開き、小さな悲鳴を漏らした。
「ひっ……」
手元に展開した紋章が崩れる。トリッシュは咄嗟に身体を逸らし、キャロルの刺突撃をかわした。キャロルも、当てることを目的とした一撃ではなかったのだろう。その瞬間、アイカを拘束していた魔法術式の一端が、確かに緩む。
「はぁぁぁッ!!」
同時展開されていた拘束術式の片方が崩れ、紋章の力が大きく弱体化する。アイカは両腕に大きく力を込めた。それまでぴくりともしなかった腕には確かな手ごたえがあり、そのまま強引に術式を引きちぎる。
「ディム・アイカ!」
周囲のコボルトを蹴散らしながら、トリルがひときわ大きな声をあげる。
「レイシアル伯を!」
「承知しました、サー・トリル!」
アイカもまた、トリルの作った隙を縫うようにして突撃した。コボルトの群れを突き抜けるさなか、何体かがこちらに追撃を加えようとしてくるが、トリルの剣がそれを阻む。アイカはそのまま、レイシアル伯爵のもとへ向け一直線に駆けた。
ゾルテ・シャイアタンが無言のまま紋章を展開する。魔法を使う気だ。紋章はそのまま赤色の輝きを帯び、アイカへと向けられた。
「させんッ!」
キャロルの鋭い刺突撃が、今度はゾルテへと向けられる。ゾルテはそのまま紋章を盾としてキャロルの刺突撃を防いだ。紋章に溜めこまれた、魔力と思しきエネルギーが霧散していく。
なるほど。
アイカはそれを横目に、彼らの扱う魔術のメカニズムをある程度理解した。あの紋章が、すなわち魔法現象を引き起こすために必要な媒体なのだ。術者は、その制御に集中力を傾ける必要がある。紋章に魔力を充填することで、魔法現象の行使が可能になる。
魔法には、様々な理論と流派が存在するらしい。レイシアルが同様のものを使うのかまでは、わからなかった、が、
「サー・カウント・レイシアル!!」
アイカはレイシアル伯爵に向けて迫りながら、叫ぶ。
「御覚悟を!」
ヘルマティオ・レイシアルは目を開き、顔をあげた。瞬間、通路に吹き荒れていた吹雪が収まる。
雪の降り積もった通路で、アイカとレイシアルの視線が交錯した。レイシアルは数歩下がりながら、華美な装飾がなされた二本の剣を振り上げる。空中に紡ぎ出した紋章から氷の刃が出現し、アイカめがけて射出された。
「っ……!!」
アイカは足を止め、両腕で顔を覆う。計四発の氷の刃は、それぞれアイカの両腕と脇腹、右足の付け根にそれぞれ着弾していく。幸いダメージはない。と、思われたのだ、が、
「これは……」
直後、氷の刃の着弾地点が凍結する。アイカの両腕が、そのまま氷の中に閉じ込められてしまった。
いや、腕だけではない。脇腹と右足の付け根も同様だ。氷は予想外に重く、アイカは身体のバランスを崩す。なんとか踏みとどまった瞬間をめがけるようにして、レイシアルは再び氷の刃を放った。
これを顔に受ければ窒息しかねない。四つの刃の内、二つはなんとか両腕で受け止めた。張り付く氷の重量が更に増していく。残る二発のうち、一発をかわし、しかし最後の一発はアイカの右足の接地面を、的確に狙撃した。
「しまっ……!」
着弾した氷の刃が、つま先からくるぶしにかけてを床と接着する。アイカはまたも、身動きを封じられた。
「ふ……」
レイシアルがそこで初めて、笑みのようなものを浮かべる。勝利を確信したものが浮かべる特有の笑みだ。
この男も、このように笑うのか、と、アイカは思った。出会ってからわずか数分、一度たりとも表情を変えたりしなかったヘルマティオ・レイシアルが。氷を体現したかのような印象さえ受けたレイシアル伯爵が。勝利を前にしたその一瞬だけは、冷静に徹せないということか。
彼は、戦闘経験がさほど豊富ではないのではないか、と、アイカは思った。
戦力の逐次投入に加え、獲物をいたぶるような戦い方。幾度となく戦場に立ち、交戦経験が豊富であるものならば、そのような真似はしない。それは一般騎士より優れた自らの力を過信した伝統騎士の新兵が陥りがちな失態だ。
レイシアルの場合は、魔法がそれである。
これが〝戦争〟であれば、このような慢心はしなかったかもしれない。だが、これは〝戦闘〟だった。個人対個人の戦いにおいて、自らの優位を確信した時、人は愉悦をこらえることができない。アイカやキャロルは、そのような心を押さえ込むよう教えられてきたが、おそらくレイシアルはそうではない。
ならば、その慢心にのらせてもらう。
一歩一歩、距離を詰めてくるレイシアルに対して、アイカは決定打を持たないかのように振る舞った。氷の重しでまともに身動きが取れず、座して死を待つより他にないかのような態度をとった。演技は、さほど得意ではない。あまりの大根っぷりに、家中のものに迷惑をかけたことだってある。だが、この時レイシアルの慢心を増長させるには、どうやらそれで十分なようだった。
「私の勝ちだな、ディム・ノクターン……」
敵は、自分だけでないのに。
そのような言葉を吐いてしまうのが、この男の弱さだ。
両手に剣を携えたレイシアルが、間近にまで迫ってきた時、アイカは籠手に纏わりついた氷ごと、彼の顔面めがけて思い切り殴りつけた。




