第66話 凍れる山の冬将軍(前編)
『あの男がしくじったらしいぞ』
その報告を受けた時も、サー・カウント・ヘルマティオ・レイシアルは冷静そのものだった。
あの男というのは、ヒルベルト・ゲイロンのことだろう。この堰堤要塞に残った貴族騎士の中で、しくじって困るようなポジションにつけ、なおかつしくじる可能性があったのは彼だけだ。采配を行ったのは自分である。このような可能性は、当然考慮に入れていた。
レイシアルの味方として動いた貴族騎士は100名超。その内、幽閉した騎士の監視という職務に適した、ある種の几帳面さを有していたのは、彼の見る限りはゲイロンだけだった。生き残った伝統騎士60名近くを命じた理由は、そこにある。だが当然、その性格の問題性についてもレイシアルは承知しており、何かしらの原因で〝しくじる〟可能性は、大いにあった。
報告にきたのは、ローブを目深にかぶった例の男だ。いつの間にか、レイシアルの座る執務机の後ろに立っており、耳障りの悪いしわがれた声で告げた。ちょうどその時、レイシアルは部下である数名の貴族騎士と言葉をかわしていたばかりであり、ローブ姿の男を認めるなり、部下たちはいっせいに警戒する。
レイシアルは静かに、片手でそれをおしとどめた。
ローブ姿の男は、ちろちろと蛇のような舌を出しながら笑う。
『相変わらず嫌われているようだ』
「無駄口は良い。しくじったと言うのは、ゲイロン男爵のことだな」
『ああ。要塞内に使い魔をまわしていたのだがな……』
鱗がびっしり張り付いた手を掲げると、その手のひらの上に球状の窓が開く。これはレイシアルの知らない魔術だった。帝国の通信魔法士が使う幻想投影魔法によく似ている。
浮かび上がるのは必死で逃げるゲイロンの姿。数秒してそれが切り替わり、一切隊列の乱れなく歩く数名の伝統騎士が映し出された。黙り込んだままの部下たちに緊張が走るのがわかる。しくじったというのはつまり、脱走を許したということか。
すぐさま数名の騎士と獣魔を向かわせようとするが、どうやらローブの男はまだ伝えようとしていることがあるらしい。
窓に映し出された光景が、またも切り替わる。そこには、この要塞の騎士ではない三人の騎士が、映し出されていた。部下たちにさらなる緊張が走る。彼らはちょうど、2階から3階へ向かう階段を昇っているところであった。
「侵入者か。ゴブリンやコボルトの警備隊はどうした?」
『あっという間に蹴散らされたさ。見るかね』
窓の中に、今度は累々と重なる獣魔達の屍が浮かび上がった。石床が大きく砕け、そこかしこに瓦礫が転がっているのが確認できる。これだけの被害を、あの三人だけで引き起こしたと理解した時、レイシアルを含めたその場の一同は、まったく同じ言葉を思い浮かべる。
「戦術級騎士……!」
一部の伝統騎士が到達する、人外じみた戦闘能力を称してそのように呼ぶ。
当然、この要塞にも何人かの戦術級騎士がいた。彼らは、要塞制圧の際、真っ先の障害になるとしてすぐさま処分されたはずである。こちら側にも多大な被害を出したものの、オウガやオークといった大型獣魔を十数体動員し、押さえ込むことにはなんとか成功した。連中の戦いぶりはまさしく鬼のようであり、目の当たりにした貴族騎士の何人かは、完全にトラウマになってしまっている。
腕が千切れ、骨が砕け、内臓が飛び散っても、息絶える瞬間まで剣をふるうことをやめなかった。生け捕りにした何人かは、ゲイロンによって隠し牢に連れていかれたはずだが、おそらくコンチェルトへの見せしめとして無残に殺されたことだろう。まぁ、そのあたりに興味はない。
今問題なのは、あの厄介な戦術級騎士が新たに三名、この要塞内に進入しているということだった。
「……いや、三名ではないな」
『そうだな。あの男がしくじったということは、他に何人か、この要塞内に侵入している』
ゲイロンには既にオウガを2体、補充戦力として手配してある。申請書類にはあとオークを5体ほどよこすよう書いてあったが、こちらはまだ準備ができていない。地下牢の騎士を管理するにはオウガ2体だけでも十分だとは思っていた。しかし、ゲイロンが必死に逃げている様子を見るに、オウガ2体は既に倒されてしまっていると見て良い。
オウガ1体を撃破するのに必要とされる戦術級騎士の数は、ざっと3人から5人。1体ごと的確に撃破されたとしても、すなわちこれだけの騎士が動いていることになる。
「コンチェルトが脱走しているとなると厄介だな」
レイシアルは、少し考え込む。
「残りの大型獣魔をすべて動かした方が良いかもしれん。ひとまず、脱走した騎士どもをすべて抑える。お前たちは、私と共に三階の戦術級騎士達を止める」
最後の言葉は、目の前の部下たちに向けた言葉だ。レイシアルがもっとも信頼を寄せる一組の男女、どちらも魔術の基礎をきちんと教え込んである。戦術級騎士を相手どるにはまだいささか力不足ではあるのだが、地の利と数の利はこちらにある。絡め手と獣魔の軍勢を上手く使って、追い込むのがベストだろう。
できることならば、大型獣魔はこちらにも回したかったが、今すぐに動かせる数はそう多くない。
『私も動いた方が良いか?』
くっくっ、としわがれた笑い声と共に、ローブ姿の男が言った。
「おまえは頼んでも動くまい」
レイシアルは冷たい声でそう答える。ローブの男は、やはり耳障りな声で笑うだけだった。
この男のことは、最初から信頼していない。スタンスはあくまでも〝協力者〟だ。その関係だっていつまで続くかわからない。レイシアルは理想と目的をもって動いてはいるが、このローブ姿の男は単なる破滅の尖兵でしかない。いつか決裂するときは来るのだろうと、そう思っている。
レイシアルは立ち上がり、目の前に立つ二人の騎士に目で合図した。彼らは頷き、騎行敬礼をとる。
「では、行こう」
そう言って、彼は執務机のわきに用意しておいた二本の剣を取る。アメパ堰堤要塞の様式に従い、得物は二本の剣とするレイシアルであるが、これらは正しくは剣ではない。帝国方面より取り寄せた魔杖に近いものである。
勝手しったるその魔剣の性能を検めるように、レイシアルはそれらを鞘から抜き放った。目を閉じ、魔力を込めれば、剣身に覆いかぶさるようにして氷の刃が形成される。同時に室内の気温が一気に低下し、壁には霜が降りた。
これだけの芸当ができるならば十分か。
白い息を吐き出しながら、レイシアルは頷いた。魔力をコンチェルトの制御術式にだいぶ持っていかれている現在、自身もかなりの弱体化されていることを自覚せねばならないが。
彼はその表情に、一切の感情をにじませない。冬季には極寒を擁するゼルガ山脈の峻厳な連峰は、ヘルマティオ・レイシアルの人格をそのように形成せしめた。冷静、冷徹、冷血、冷酷。かつて上官であるコンチェルトから、酒宴の席で『君は氷みたいな人だね』と言われたレイシアル伯爵を、いつしか人はこう呼ぶようになった。
すなわち、
Episode 66 『凍れる山の冬将軍』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「レイシアルさんって、どんな人なんですか……?」
これから殺しに行く相手のことを尋ねるなど、通常考えられない話ではある。が、ショウタは尋ねた。
どうやらこの質問はコンチェルトもあまり想像していなかったようで、不思議そうに首を傾げる。彼女は短く『そうだね』と言った後、こう答えた。
「自他に厳しく、公正な男だったよ……。いや、今もそうである、と、私は思うんだけど……」
「評価してるんですね」
「まぁ、そうだね……。彼は……立派な男だと思うよ」
平坦な声だが、心の底からそう言っているのであろうことは、察しがつく。ショウタに肩を貸している騎士や、ルカを背負って移動する騎士などは、少しばかり、複雑そうな顔をしていた。
「ただ、プライドは高い男だったと思う。良くも悪くも……、貴族騎士的な部分が、彼にはあった……かな」
「それが、えっと。クーデターの原因ですか?」
「うん」
遠慮がちな質問にも、コンチェルトはあっさり頷く。
「たぶん、そう」
ヨーデル・ハイゼンベルグのような人なのだろうか。ショウタは思う。彼にとって、貴族騎士の典型と言えば、まさしくあの男だった。
その後も、コンチェルトのレイシアルに関する話は続いた。レイシアル伯爵家は、アメパ堰堤要塞に代々務める珍しい貴族騎士の家系だった。四大要塞の中でも過酷な環境を誇るアメパには、先祖の代から仕える騎士というものが少ない。配属されている騎士も300人と少なく、その多くが独身だ。子供を育てるにはあまりにも劣悪であるため、子供ができると他の村へ異動になる者が多いのだ。他の騎士要塞には、あまり見られない傾向である。
サー・カウント・ヘルマティオ・レイシアルは、そうした中にあって、幼少期からアメパ堰堤要塞で生まれ育ったことに強い誇りを抱いていた節があるという。コンチェルトの養父、トオン・ノグドラはもとは要塞外部の人間であり、レイシアルやその父はトオンが騎士提督の座に就くことに、強い反発心を抱いていた。
「この国はね……、結局のところ、戦闘能力の高い騎士を厚遇する傾向があると思うよ」
コンチェルトは、自らの言葉をかみしめるようにつぶやく。
「私は……その傾向を変えるべきだと思うし、アンセム将軍もそうだね……。そういう動きは確かにあったんだろうけど……ヘルマティオは、それを我慢できなかったのかな……」
最後、コンチェルトはレイシアルのことをファーストネームで呼んだ。
「あの、でも……殺す……んですよね」
「ああ、殺すよ。私の感傷とは一切関係ない……。クーデターを起こしてしまった以上、彼は殺されるべきだし、私にかけられた術式を解除する手段も、それしかないからね……」
そこまで言った時、コンチェルトは足を止めた。一同は1階層、居住区画の近くにいる。先ほど、ショウタやルカが侵入し、鎧下制服や武器をぶんどったばかりの貴族騎士の部屋は、すぐそこにあった。
既に要塞内の各地で、騎士達が戦闘を開始していることだろう。急いだ方が良いと思うのだが。
「確か、伝統騎士の居住区に……三階に向かう隠し通路があったね……。それを使おう」
「え、そんなの初耳です」
「この要塞の隠し通路をすべて把握している人は、多分もういないよ」
ショウタが、そうなんですか? と尋ねんばかりに他の騎士に目をやると、彼らは小さく肩をすくめていた。そうらしい。
「こちらは怪我人を抱えているから、戦闘は避けたい……。私も着替えたいしね……」
「提督のお部屋ですか……!」
何やら感慨深い声を漏らしながら、ショウタに肩を貸す騎士が言う。
「うん……。申し訳ないけど、期待に沿えるものはないよ。あと、ゆっくりする時間もないからね……」
コンチェルトはそれだけ言って、伝統騎士のための居住区画へと足を向けた。
アイカ達は、三階部分へと到達する。既に何度か獣魔族との交戦はあったが、特に問題もなく切り抜けられた。目的の区画までは、あと少し。三人に疲労の色はない。
駆けながら、下の階層がやや騒がしくなりつつあるのがわかった。異変に気付いた敵が動き始めたのかとも思ったが、どうやらそれだけではない。響く怒号や、剣戟の音。おそらくは既に戦闘が始まっている。ショウタ達の解放作戦が成功したのだ。
すなわち、彼らは無事ということでもある。ほっと安堵する反面、急がなければと感じた。敵の戦力が、脱走兵の制圧に動いている内に、こちらの目的を成功させなければならない。アイカ達が、ダム区画を制圧するべく動いていることが敵に露呈すれば、だいぶ動きにくくなってしまう。
「ルカ達は成功したようだな」
アイカがちょうど思っていたことを、キャロルもつぶやく。
「まだ安心はできませんね」
自分の心への戒めも含め、アイカはそう言った。
三階に到達してから、まだ敵の姿は見かけていない。本来であれば、ダム区画のあるこの階層は警備が厚くて然りなのだが、やはりどうにも、敵の動きが見えないのが気になる。もちろん、足を止める理由にもならないのだが。
しばらく通路を駆けていた三人だが、ふとした違和感に顔を見合わせた。
「なんだか、妙に寒くないか?」
最初に口にしたのはキャロルである。彼女の唇から、白い吐息が漏れた。
「あ、キャロルもですか? 実は私もなんですが……」
「気のせいではないな」
アイカとトリルも口ぐちに頷き、やはり白い息を吐いた。
季節は夏期。如何に気候の寒冷なゼルガ山脈と言えど、室内がこれほど冷え込むことは、通常では考えにくい。だが、三人を包み込む冷気は、違和感と共に徐々に強くなっていく。やがて、凍てつく風さえも吹き始めたとき、一同は同時に足を止めた。違和感というレベルでは済まされない。いくらなんでも、おかしい。
見れば、周囲の壁には霜が降り始めている。吹きすさぶ風には、雪が混じり始めていた。雪はあっという間に通路に積もり、やがて視界すらも覆い始めた。
敵だ、ということは、もはや疑いようもなかった。これが自然現象であるはずがない。おそらくは魔術。
魔法推進派に属する一部の貴族騎士がクーデターを引き起こしたという見立てが、キャロルの父アンセムにはあった。この異常な現象は、それが正しかったと何よりも証明している。敵は、魔法を使える貴族騎士だ。
三人の間に、一様に緊張が走る。
「アイカ、トリル、魔法使いとの交戦経験は?」
「ありません」
「某もない」
キャロルは、額に冷や汗をかきながら、小さく笑う。
「私もだ」
緊張の理由とはそれであった。すぐさま、額に張り付いた汗が凍りつく。今通路を覆っているこの猛吹雪が、果たして魔法として上等なものであるのか、初歩中の初歩であるのか、彼女たちにはわからないのだ。
やがて、吹雪の向こうから人影が現れる。
それは、アメパ堰堤要塞の鎧下制服に身を包んだ、貴族騎士の男だった。ぞっとするほど白い肌に、剃り込みとオールバックが印象的な髪型。まるで全身がカミソリであるかのような、鋭利な印象を持つ男だった。両手には装飾の華美な2本の剣を下げている。
貴族騎士に付き従うように、1組の男女と多数のコボルトが姿を見せる。間違いなく、この男は敵だ。アイカ達は身構えた。
「最近の伝統騎士は、賊の真似事までするようになったか」
男の声は冷え込んでいた。挑発ではなく、心の底から嫌悪するような色合いがこもっている。
「賊はどちらだ……?」
王国に反旗を翻しておきながら、あまりにも盗人猛々しい。怒りを込めた声で、キャロルが応じた。今にも切りかからんとする彼女を、アイカは片手で制する。正直、腹に据えかねるのはアイカとて同様ではあるのだが、まずは彼女の〝本来の立場〟として、問いかけねばならない言葉がある。
「サー・カウント、」
彼の制服に縫い付けられた爵位章を確認し、アイカは呼びかけた。
「現在王都では、何者かがアメパ堰堤要塞を占有し、騎士王国へ反旗を翻したのだと見ています。要塞内にいる獣魔の手引きや、伝統騎士の幽閉……ひいては、この堰堤要塞の私物化を行ったのは、伯爵、あなたですか?」
「………」
貴族騎士は答えない。アイカに制されたまま、キャロルが唸り声をあげた。
「やましいことがないなら、答えたらどうだ!」
「………」
その言葉を受け、彼はしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「英霊コキュートスの子、貴族騎士カウント・ヘルマティオ・レイシアル。おまえ達の見立て通り、私がクーデターの首謀者だ。そう答えれば満足かね」
「一体何故このようなことをしたのです」
怒気を発するキャロルとは対照的に、アイカは冷静に尋ねる。
「あなたも騎士王陛下より叙任を賜りし騎士の一人であるはず。先ほどあのように名乗られたということは、騎士としての誇りはまだお持ちでいらっしゃるのでしょう」
「………」
レイシアルは目を細め、しばらくの沈黙の後にこう答えた。
「……空虚だな」
「………」
その言葉の意味を、アイカは測りあぐねる。
「綺麗に飾り立てた言葉を聞くために、私はここに来たのではない。おまえ達を排斥するためだ」
「投降する気はないのですね」
「無論だ」
「わかりました」
アイカは頷き、腰の剣に手をかける。その様子を見て、キャロルとトリルも剣を抜いた。
相手が人間である以上、アイカは剣を抜くことはできない。彼女の愛剣〝三日月宗近〟が人を斬ることは、原則として許されていないという理由がひとつ。そしてもうひとつ、彼女もまた騎士である以上、剣を抜いて虚偽を申告することが、許されないという理由があった。
三人は一様に名乗りをあげる。
「子爵エレジーの子、貴族騎士アイカ・ノクターン」
「将軍アンセムの子、伝統騎士キャロル・サザンガルド」
「英霊ドランの子、伝統騎士トリル・ドランドラン」
それに応じるかのように、レイシアルの左右に待機していた二人の騎士が、また剣を抜いた。
「森師レベスの子、貴族騎士ゾルテ・シャイアタン」
「森師レベスの子、貴族騎士トリッシュ・シャイアタン」
レイシアルの魔術が作り出す猛吹雪の中、6人の騎士が対峙する。だが、アイカ達にとっての敵とはそれだけではない。レイシアルの背後で待機する、多数の中型獣魔達。それを倒した上で、さらに目的の区画へとたどり着かなければならない。
伯爵はまだ、ダムを破壊しようとする気配がない。王都の首元に突き付けた刃として、まだ残しておきたいのだろう。侵入者3人を前にして、まだ自棄を起こしているわけではないのだ。こちらを素早く、かつ確実に処理するだけの自信が、あるのだと思われる。
正直なところ、状況は相当悪いと言えた。




