第64話 進撃
もうすぐ夜が明ける。
サー・マーキス・ヨーデル・ハイゼンベルグは、結局のところ、まんじりともせずに夜を明かした。マーリヴァーナ要塞線から大隊規模の騎士を率い、現在はゼルガ山脈の連峰を眼前に拝む、小さな村に滞留している。村のすぐ真横を流れる小川は、トドグラード用水路から水を引いてきたもので、それは即ち、アメパダムの決壊があれば、この小さな農村も壊滅的な被害を免れないという事実を示していた。
まったく、なぜ私が、あのような猪騎士の後詰めをせねばならんのだ。
騎士王国の中でも比較的北方に位置するこの地域は、気候が寒冷である。全身が凍え、手足がかじかんだ。こんな時、ディム・カウンテス・サンダルフォンがいれば、『今日は冷えますね。サー・マーキス』などと笑いながら、暖かい茶を淹れてくれるのだが、任地においてはそれすら望むべくもない。シロフォン・サンダルフォンは、爵位こそヨーデルより下であるが騎士階級は彼のひとつ上に位置する千騎士長なのだ。上官である。
まぁ、致し方あるまい。シロフォンは優秀だ。このような下らない任務よりも、もっと似合った仕事があるはずだし、それに一児の母でもある。僻地への遠征任務に寄越す必要はない。シロフォンの茶は、次に要塞線に帰るまでお預けだ。
「騎士様ぁ、今日は冷えますんでぇ、中に入っててくだされよぉ」
滞留している村の長であるという老婆が、小屋の扉を開けてそう言った。
「あったかいスープのありますんでぇ。お身体に、障りますからぁ」
「あ、ああ。うむ……」
巻き癖のある金髪をいじくりながら、ヨーデルは曖昧な返事をする。
ヨーデルが一睡もしなかったのには、理由がある。
この村のベッドというのが、たいそう堅いのだ。まるで石畳に寝ているかのようであった。騎士大隊の責任者としてここにいるヨーデルは、当然、この村における最高の待遇として、村長の家で手厚くもてなされ、寝床も用意してもらった。だが、この村最高の寝心地を誇るベッドというのは、貴族騎士、それも侯爵たるヨーデルが到底我慢できるものではなく、結局、『厚意はありがたくいただくが、私は責任者として眠るわけにはいかないのだ』などと言って、小屋を出た。
昨晩の食事も非常にまずかった。だが、『私は騎士として、常に動きやすいよう、あまり食べないようにしているのだ』と言って、皿の半分くらいを食べたところで、席を立った。結果、ヨーデルは空腹であり、かつ非常に眠い。
要塞線にいたころは良かった。厨房に揃えたコック達の作る料理は、いつでもヨーデルの舌を満足させたし、シロフォンの招きを受けて彼女の手料理を馳走になった時は、まったく他の料理が食えなくなるのではないかと思ったほどだ。シロフォンの夫も、朴訥ながら実直な人柄の貴族騎士で、今後の騎士の在り方について、議論を戦わせるのは楽しかった。
いや、弱音を吐いてどうする。ヨーデルは自らを叱責する。
私はサー・マーキス・ヨーデル・ハイゼンベルグだ。そんなことでは、またキャロル・サザンガルドに舐められる。くじけそうになる心を立てなおし、ヨーデルは再度胸を張る。
あの女はよくやっているだろうか。やっていてもらわなければ困る。ダムが決壊すれば、この村の近くを流れる小川にも大量の土砂が流れ込むだろうし、そんなことになれば、この村の食事はもっと不味くなるに違いないのだ。村長たちだって生活に困るだろう。
「村長、」
「はい、なんでしょ」
「そう言えば、トオン・ノグドラ殿はもともと、この付近の領主だったらしいな」
とりあえず空腹を紛らわすために、適当な話題を振る。
「ああ、はい。そうですよお。若い頃から、とても頭の良い方でしてねぇ」
「うむ。よく聞いている」
トオン・ノグドラは、伝統騎士の中ではヨーデルが尊敬できる、数少ない人物のひとりだった。現在、マーリヴァーナ要塞線で運用される戦術の多くは、ヨーデルとシロフォンがトオンから学び、持ち帰ったものであるからだ。
トオンはもともと、小さな伝統騎士の家に生まれたらしい。だが、父が不祥事を起こしたとかで、家を取り潰された。幼くしてアメパ堰堤要塞にて騎士として務め、そこで実力を発揮して、最終的には騎士提督にまで上り詰めたのだ。名前を今伝わるものに改めたのも、その頃だと聞いている。
「………」
しまった。話題が終わってしまった。
ヨーデルは、ノブレス・オブリージュを実行する者の一人であると自負しているが、農民たちと言葉をかわすための共通の話題を、特に持ち合わせてはいない。
気まずい沈黙を打ち消そうとするかのように、気の利かない腹の虫が、きゅるきゅると鳴った
「……村長、」
「はい、なんでしょ」
「……私にもスープをもらえないだろうか」
「はい、よろこんでぇ」
みんな空腹が悪いのだ。
出されたスープは、やはりたいそう不味かったのだが、我慢して飲んだ。
Episode 63 『進撃』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
三人が目掛けたポイントは、まったく同じだった。獣魔族に対する正しい知識があったからこそ、言葉をほとんど交わさずして、最適解へとたどり着く。小型で非力だが、連携によってその脅威を発揮するゴブリンに対しては、まず頭を潰すのが一番早い。
群がる十数匹のゴブリンを押しのけて、リーダーと思しき個体へとまっすぐに迫った。
「ぬゥン!!」
ここで、トリル・ドランドランの巨体が、その膂力を発揮する。
横薙ぎに振るわれた切っ先から剣圧が奔り、ゴブリン達の矮小な身体をなぎ払った。小型獣魔の肉体が、木っ端のように宙を舞う。開かれた活路を、アイカとキャロルがまっすぐに駆け抜けた。
アイカは、キャロルに目で挨拶する。ゴブリンのリーダーまで、およそ十メーティア。ここは、アイカの放つ斬撃よりも、キャロルの得意とする刺突撃の方が、素早くリーチを確保できる。
キャロルは頷き、床を蹴り立てた。アイカは足を止め、彼女と背中を合わせるようにして、三日月宗近の柄を握り直す。
「貫翔爆砕弩ッ!!」
一方、突き出されたキャロルの同田貫が、真っ直ぐにゴブリンの喉元を射抜く。三人が同時に駆け出してから、ここに至るまでわずか数秒。ゴブリンの集団を統率していたリーダー個体は、キャロルの一撃で真っ先に潰された。
頭を潰されたことで、ゴブリン達がうろたえる。同時に、アイカの三日月宗近が銀閃を放つ。周囲に固まっていたゴブリン達が、まとめて鮮血を散らしていった。
ここまで叩けば、ゴブリンどもはほぼ完全に無力化できている。三人は同時に顔を合わせ、また頷いた。
残る敵はコボルトが数体。突破すること、それ自体は容易いはずだ。だが、死体を処理している時間がない。
獣魔は血の匂いに惹かれる習性を持つ。片づける暇がない以上、この場に散らしたゴブリンどもの斬殺死体をキッカケに、侵入者の存在が発覚するのは時間の問題だ。ダム区画の制圧までを、早急に進める必要があった。
「アイカ殿!」
トリルが鎧を軋ませながら追いかけてくる。
「先を切り開きます! 某に続いて!」
「はい!」
トリルはアイカ同様、月鋼式戦術騎士道を修めた身である。彼が何をせんとしているのか、すぐさま理解した。アイカは、彼に続いて愛剣の柄を脇構えに握る。呼吸を合わせた。
「断界剣!!」
「月穿・真打!!」
同時に振り下ろされた二振りの剣に、渦巻く空気の刃が付随する。二刀は轟音と共に、通路の床を叩き割り、衝撃波を周囲に撒き散らした。瓦礫が飛散し、もうもうと砂塵が舞い上がる。行く手を阻んでいたはずの数体のコボルトは、剣圧に押しつぶされてしまっていた。
「やりすぎだ! ……げほっ」
その向こうから、キャロルの非難がましい声が聞こえる。
「すまんな、キャロル!」
トリルが大声で返した。
確かに、いささかやりすぎだったかもしれない。が、包囲網を突破するには必要な措置だったと、割り切るしかないだろう。アイカは剣についた血を振り払って、鞘に納める。この程度の小型・中型獣魔程度では、足止めにはならない。
敵の戦力がこの程度であるならば、ルカとショウタもそれほど苦戦はしていないだろう。予定より遅れているのが気になると言えば気になるが、もう信じるしかない。
「まぁ良い。片付いたな、行くぞ!」
キャロルも、同田貫を鞘に納めて叫ぶ。アイカとトリルも頷いた。
そのまま通路を駆け抜けていく。目的の区画まであと少し、この戦いの痕跡が敵の中枢に発覚する前に、なんとかして到達しなければならない。三人は、疾風のごとく通路を駆け抜けていった。
扉をぶちあけて、コンチェルト達が地下牢へと流れ込む。当然、ショウタも一緒だ。つい先ほど、通り抜けたはずの地下牢は、そこかしこに瓦礫が散らばり、激しい戦いがあったことを嫌が応にも想起させる。ショウタはすぐに周囲を見回し、ルカの姿を探したが、見つからない。
地下牢には件の貴族騎士と、オウガがいた。ルカの姿を探すのは後回しか。ショウタは、忸怩たる思いを抱きながらも、当座の敵を睨んだ。
地下牢に閉じ込められた騎士達は、鉄格子を掴み、敵意に満ちた視線を貴族の男とオウガへ向けている。先ほどとは打って変わった、勇敢な顔つきだった。ルカの戦いぶりの結果だろうか。彼女の戦いが、騎士達の魂を鼓舞したのだろうか。
ショウタの心の中に、実感の影が落ちる。ひょっとしたら、ルカはもう死んでいるのではないか、とは、常に考えていたつもりだ。だが、本来ここにあってしかるべき影が見当たらないことに、ここではじめて、ショウタは動揺した。
ちらり、と、コンチェルトがショウタを見、その上で、正面に立つ男へと視線を投げる。
「やぁ、ヒルベルト・ゲイロン。元気そうで何より」
「コンチェルト……!」
ゲイロンと呼ばれた男が、掠れた声で辛うじて叫ぶ。
コンチェルトの口調は相変わらず平坦なものだったが、かつて部下だったはずの男を、一切の敬称・階級をつけず呼んだことに、徹底的な敵対の意志がにじんでいた。海色の隻眼には、怒りの炎が燃えている。
「な、なんだ! 復讐か!? 俺を殺しに来たとでも言うのか!?」
ゲイロンは動揺していた。目の前に立つすべてのものが受け入れられないといった表情だ。事実、コンチェルトがそこにいることも、ショウタが無事であることも、一度寝返ったはずの騎士達が再度敵に回っていることも、そしてそこにいるべきオウガがいないことも、すべてが受け入れられないに違いない。
だが、隻眼に怒りを宿しながらも、コンチェルトの言葉は冷静なものだった。
「いや、私は君をさほど脅威とは感じていないよ。君が道を譲るなら見逃してやってもいい」
「ッ……!!」
挑発のつもりだったのか、それとも本気で言っているのか、そのあたりは判然としない。
だが、その言葉は事実として、ゲイロンの感情を逆撫でした。ゲイロンはオウガに振り返り、命じる。
「奴を殺せ……!」
果たして、これが目的だったのかもしれない。コンチェルトは二振りの剣を両手に構えて、迎撃の姿勢を取る。彼女の背後に連なる騎士達も同様だ。ショウタもまた、遅れて準備を整えようとした。
が、
「……いや、」
ゲイロンは、唐突に下卑た笑みを浮かべて手をおろした。オウガもその動きをぴたりと止める。
あの大型獣魔が、ゲイロンの指示に逐一従っているのは不可解である。が、ショウタの脳裏に浮かんだ考えは、その直後の雲散霧消した。ゲイロンはオウガに指示を下し、それにしたがってオウガは、瓦礫の中から〝それ〟を掴み上げた。
「………!」
ショウタの目が見開かれる。
その様子を素早く察知したコンチェルトが、騎士の一人に目配せする。ショウタが駆けだしさんとする瞬間と、その騎士がショウタを羽交い絞めにする瞬間はまったく同じだった。動きを止められて、ショウタは叫ぶ。
「ルカさんっ……!」
オウガがつかみ上げたそれは、間違いなくルカ・ファイアロードである。全身から大量の血を流し、ぐったりとしているその姿は、生死すらも判然としない。だが、ルカ本人であった。
取り乱すショウタの姿を見て、ゲイロンは笑う。
「こいつを握りつぶされたくなければ、こちらの言うことを聞いてもらおうか……!」
陳腐で使い古された言い回しだが、少なくともショウタにとって、その効果は絶大であった。完全に動きを硬直させるショウタを見て、しかしコンチェルトは冷静に、こう尋ねる。
「その前に、彼女は生きているのかな」
「えっ……」
ショウタが顔をあげる。ゲイロンの表情も変わった。
「こちらの動きを止めるために、死体を弄ぶというのであれば、それは許されない行為だ。ゲイロン、私は君の非道を、許すわけにはいかなくなる」
それは実のところゲイロンの出方をうかがうためのブラフであったのだが、ショウタはその意図には気づけない。目の前で掴まれているルカが、既にその生命活動を停止させているという可能性について、その意味することについて、必死に考えを巡らせていたのだ。
ショウタは、だらんと両手を放ったルカの身体を観察する。全身から流れ出すおびただしい血液は、確かに致死量に達していると言っても不思議ではない。だが、これまでに散々見てきた戦術級騎士の人間離れした能力への信頼が、ショウタの得心を邪魔する。
だが、もし、ルカが本当に死んでいるのだとしたら。
ショウタの心が、言いようもない恐怖に支配される。あれほどの戦闘能力を持つ騎士が、こうもあっさりと死ぬという事実。恐ろしくて仕方がない。
「君、大丈夫か……?」
ショウタの姿を押さえ込む騎士が、耳元でそっと尋ねる。ショウタは、全身にびっしりと汗をかきながらも、なんとか頷いてみせた。
「は、はい……。なんとか……」
その時、顔をあげたショウタは、ふと目にする。
ぴくり、と、ルカの指先が動く。思わず声が出そうになるところを、慌てて飲み込んだ。
生きている? いや、まだそう判断するのは早計だろうか。目の錯覚、あるいは、死後起こり得る筋肉の痙攣。その可能性はある。だが、その時ショウタは切実に願った。〝生きていてほしい〟と。
そして、もし彼女の生存が事実であった時、自分が何ができるのかを考える。
コンチェルトはまだ、気づいた様子を見せない。ゲイロンも同様だ。おそらくどちらも、ルカが死んでいると思って対峙している。ならば、彼女を助けられるのは、
ショウタはひそかに、拳を握りしめた。




