第62話 さざなみコンチェルト(後編)
「助けに来た……。君が……?」
「はい」
「そうか……」
騎士提督コンチェルト・ノグドラは、ぼんやりとそう呟いた。
抑揚の薄いコンチェルトの声は、霧の如く捉えどころがない。ただ、監禁状態の末意識が朦朧としているわけでないことは、闇の中にギラつく海色の隻眼がはっきりと示していた。彼女は脱出を諦めたわけではなく、むしろ臥龍の如く好機を狙っている。
両手両足を鎖に繋がれ、着衣を引き裂かれ、生傷と古傷に埋め尽くされた痛ましい身体を晒した上でなお、コンチェルトの一ツ目から闘志は失われていないのである。あるいはその瞳は、逆境の中においてこそ激しく燃え盛る、叛逆の炎であるのかもしれない。
たった3秒、囚われた騎士提督と顔を合わせただけで、ショウタはその人となりを察した。
不屈の騎士提督。まさしくその異名が示す通りの人間であるのだろう。
だが、ひとつだけ解せないことがある。騎士提督コンチェルト・ノグドラ。話によれば、あの騎士将軍アンセム・サザンガルド同様、戦略級騎士に数えられる一人である。たかだか鎖に繋がれた程度で、動きを封じられるということが、どうも理解できない。
「時間がないので簡潔に話そう。君は……?」
「あ、はい。ショウタ・ホウリン。宮廷魔法士です」
「ああ、君が……」
コンチェルトは合点がいったように頷き、遠い目を作った。
「私は君の言う通り、コンチェルトだ。不覚を取り、この北方アメパ堰堤要塞の主導権を奪われてしまった。謀反の首謀者はレイシアル。魔法推進派の中枢に位置する伯爵で、私は彼に特殊な術式をかけられている」
今まで監禁され、鎖でつながれているとは思えないほど、はきはきとした言葉である。ショウタは一語一句逃すまいと聞いた。
「特殊な術式ですか」
「対象者の身体能力を著しく低下させる。100分の1だか、1000分の1だか」
騎士提督はあっさりと種明かしをした。大人しく地下牢に幽閉されているのは、それが理由なのか。
「ショウタ、重要なのはここからだ」
「あ、はい」
思わず思案にふけりそうになったところ、すぐに意識を引っ張り戻す。
「この術式自体は非常にリスキーなものだ。術者はその魔力の大半を、術の制御に割かねばならないらしい。また、被術者が死亡した場合、魔力が逆流して暴発するため、連中は私を殺せない」
「はい」
「ここまで話せばわかるとおり、私を縛っているのは術者だ。術者を殺せば、私を縛る術式への魔力供給は途絶える。私は十全に力を振るえるようになる。要塞の奪還も首尾よく進む」
やはり、そうなるのだな、とショウタは思った。術者、すなわちレイシアル伯爵を殺す。騎士提督コンチェルトの本来の力を解放するには、それしかない。
覚悟ができていない、なんて言うのはナシだ。ショウタは、つい先ほど別れたばかりの、ルカ・ファイアロードの顔を思い出す。彼女は単身でオウガに立ち向かい、ショウタを先へ行かせた。騎士ひとりがオウガに立ち向かうことは、自殺行為であるという。ショウタは、あの場をルカに任せて先行した時点で、既に一人殺したようなものなのだ。
「さて、ショウタ、」
そんな彼の心中を知ってか知らずか、コンチェルトは言った。
「この戦いに、勝ち目はあるだろうか。私は、チャンスは一度しかないと思っている。確実にレイシアルを殺し、この要塞を奪還しなければならない。その一度を待つために、私は部下たちが死ぬ瞬間すらも、じっと眺めて耐えてきた」
淡々と語る言葉。平易な表情に感情は一切にじまない。だが、一言一言を口にするたび、海色の瞳に宿る激情の炎が、その灯りを増していくのが見て取れた。
「ショウタ、君は私を助けにきてくれた。勝算は、どれほどある?」
一瞬、答えに窮した。
コンチェルトは、今まさにこの瞬間まで、雌伏の時を過ごして来たのだという。ただ一度のチャンスをつかむため、あらゆる屈辱に耐え、部下も見殺しにしてきたという。彼らの死を無駄にしないためにも、そのただ一度のチャンスをものにしなければならないと言う。
「抜け出すこと自体は、難しくないかもしれない。君の助力があれば、なおさらだろう。だが、私の脱走が発覚し、ダムが破壊され下流がすべて押し流されるようでは、お話しにならない。わかるかな。私はここを抜け出す以上、必ずレイシアルを殺し、要塞の奪還を成し遂げなければならない」
コンチェルトの一語一句を、かみしめるようにショウタは吟味する。
当初、キャロルはこの作戦の成功の見込みは、決して高くないと言っていた。達成が不可能なら撤退するべきであると。後続の部隊に要塞の破壊を任せるべきであると。それを伝えれば、おそらくコンチェルトは納得するだろう。この場に残り、王都の決定を承諾し、要塞が破壊されるその瞬間まで無気力な虜囚を演じただろう。
どうするべきなのだろう。ショウタは思った。
自分の行いが徒労に終わるくらいならば、どうってことはない。だが、自分はあまりにも、状況に深入りしすぎてしまった。もはや撤退も叶わないほどに。撤退が不可能であるならば、成功させるしかないのだ。ましてや、今の自分は、ルカを犠牲にした上でここにいる。
姫騎士殿下ならば、
あの人ならば、1も2もなく頷いただろうか。それが愚直な首肯であったとしても、少なくとも今のショウタには羨ましい。自信が欲しかった。
最終的にショウタは、
「やれます。やりましょう」
と、頷いた。元より、ここでコンチェルトを連れ出さない選択肢など存在しない。
「…………」
海色の隻眼が、じっとショウタを眺める。しばしの沈黙の後、コンチェルト・ノグドラは唇を開いた。
「自信がなさそうだ」
「うっ……」
どうやら見透かされたらしい。気まずさから視線を逸らす。コンチェルトは目を閉じ、しばらく考え込んだ。
「ただ、君がここまで来てしまった以上、私もあまり我儘を言えないのは事実かもしれない」
「は、はい……」
「やらざるを得ないか。レイシアルを殺すところまでは、協力してもらう。別働隊はいるの?」
心変わりというわけではないのだろう。ショウタが姿を見せた時点で、ある程度このままではいられないという意識が、コンチェルトにはあったのかもしれない。
ショウタは作戦の内容について細かく説明する。コンチェルトはしばらく目を閉じ、静かに話を聞いていたが、最後にこのようなことを言った。
「あまり美しい作戦ではないなぁ……」
「あ、やっぱそう思います?」
「まぁ、私は要塞を奪われてしまったから、あまり偉そうなことを言う資格はないね」
そういえば、コンチェルトの先代提督であるトオン・ノグドラは、騎士王国に初めて〝戦術〟の概念を持ち込んだと聞いている。戦闘ならゼンガー・クレセドラン、戦術ならコンチェルト・ノグドラ、戦略ならエコー・リコールというのが、グランデルドオ騎士王国の鉄板である、らしい。戦術家として、コンチェルトにはいろいろと思うところがあるのか。
「まぁ、おおよそ理解したよ。アンセム将軍が勝算のない作戦を立案するとは考えにくい。伝統騎士の運用術は、私の父が伝えた戦術とはまた思想や理念が異なってくるからね」
「はぁ……」
「仕方がない。では、雌伏の時は終わりだ」
コンチェルトの、海色の隻眼がぎらりと輝いた。直後、彼女は両腕を勢いよく引っ張る。ばきゃん、という音がして、騎士提督の両手を拘束している鎖が、いともたやすく引きちぎられた。両足の鎖もまた同様に、あっさりと破壊される。ショウタが絶句する目の前で、コンチェルトは、ボロ布のようになった衣服の破片を、すべて放り棄てた。薄闇の中、ほのかの灯るトーチが、全身の古傷と生傷を浮かび上がらせる。
「えっと、力を封じられているんじゃないでしたっけ?」
「封じられている。きっと一人では、そう長くは戦えない。だから君や……作戦に参加している騎士の協力がいる。アンセム将軍のご息女や、お忍びで姫騎士殿下もいらしているというのならば、心強い。ただ、あまり彼女たちに無理はさせられないね」
先ほどまでの、靄がかかったような口調とは裏腹に、騎士提督は饒舌に喋りはじめた。ただ、相変わらず声音は平坦だ。
コンチェルトは、床に転がっている騎士達の亡骸を前に、そっと目を閉じると、彼らの衣服を丁寧にはぎ取って、それを身に着けた。物言わぬ部下たちの凄惨な亡骸を、最後に形だけはきちっと整えて、小さく『すまない』とだけ呟く。
「行こう。ショウタ」
「ええとあの、良いんですか?」
「埋葬はあとでもできる。今は急がなければいけないよ。彼らの魂もそれを望んでいるだろう」
到底、自分には理解できない考え方だと、ショウタは思う。ルカのそれとも異なるが、常識の埒外にある死生観という意味では同様だ。自分は、こういった騎士達と根本的に異なる生物であるのだと、自覚させられてしまう。
だが、ショウタはその考えを強引に振り払う。そうだ。死者にかまけている時間はないのだ。
今急げば、ルカの戦いにも間に合うかもしれない。今急がなければ、殿下やキャロルに致命的な危機が及ぶかもしれない。
力を封じられていると聞いたときは不安だったが、鎖を平気で引きちぎれるほどの膂力を残していれば、十分だろう。少なくとも、並の戦術級騎士――殿下やキャロル、ルカなどと同等の実力は残っている。
ただ、問題があるとすれば、
扉の向こうに、複数の足音が聞こえ、ショウタは顔をあげた。
「どうかした?」
コンチェルトが訝しげに眉をひそめる。
「いえ……忘れていたわけじゃないんですが……」
寝返った騎士達と、一体のオウガだ。こちらへと向かっていた。それを短く伝えると、コンチェルトはわずかに目を細める。
「なるほど。恐怖で支配したのか。ゲイロンらしいやり方だ」
「えっと、どうします?」
「迎え撃とう」
やけにあっさりと、コンチェルトは言った。腰に手を当てたまま、ぐるりと室内を見渡す。
「武器になりそうなものはない、かな……」
「あ、じゃあ、これお貸しします」
貴族騎士に変装するとき、腰に下げた二本の剣だ。自分では使いようもないので、コンチェルトに差し出す。
「ありがとう」
彼女はそう言って、二本のサーベルをしっかりと構えた。
一体どれほどの間幽閉されていたのかは知らないが、ロクに食事を与えられた形跡もない。それでいてなお、コンチェルトの立ち姿に危うさはなく、双刃を構える仕草には頼もしさすら感じられる。これがすなわち、戦略級騎士なのだ。
足を引っ張っては申し訳が立たない。ショウタは自らもトウビョウを構え、鉄の扉を睨む。
扉がはじけ飛ぶ。数名の影が室内へとなだれ込んできた。
先頭にオウガ、その後ろに、敵側へと寝返った騎士達の姿が続く。彼らは、鎖を外し、自由の身となったコンチェルトの姿を見て、わずかに動揺を見せる。だが、それでも何人かは、複雑な表情を作って剣を抜いた。こちらとやりあうつもりなのだ。
正直言って、分は悪い。ショウタも、大型獣魔の恐ろしさはよく知っている。オウガより一回り劣ると言われるオークですら、相対した時の恐ろしさは筆舌の尽くしがたいものがあった。
戦術級騎士すらも、圧倒的に凌駕する身体能力。まともにやりあえば、ショウタなどものの数秒で肉塊だろう。
「………」
それでもコンチェルトは、まったく臆した様子もなしに、一歩、前に出た。
彼女一人に戦わせるわけにはいかない。長い獄中生活で弱っているだけでなく、全体に弱体化の術式をかけられている。まぁ、鎖を引きちぎるくらいの元気は残っていたのだが、それで、どこまであのオウガと渡り合えるか。ショウタも、横に並ぶ。
「無理はしないでくださいね」
とりあえず本心から、そう告げた。コンチェルトは笑う。
「君もね」
直後、弾けるようにして、コンチェルトの身体が跳ねた。
「が……っは……!」
たった一度の衝撃が、肺の中から全ての空気を叩きだす。石壁へと叩きつけられた傷みすら、感じる余裕はなかった。この程度で骨を折るような柔な身体ではないものの、殴りつけられた箇所のダメージは深刻だ。
いや、まったく。
我ながら、よく持った方だと思うが。
ルカ・ファイアロードは、瓦礫の中からゆっくりと身体を起こす。貴族騎士かぶれの伊達な振る舞いとバカにされてきた彼女の有り様は、こんな状況であろうと余裕ぶった態度を崩さない。口元を緩め、にやりと笑ってやる。特に意味はなかった。その方が、カッコイイと思ったからだ。
目の前に立つオウガにも、その後ろに立つ、あの憎たらしい貴族騎士にも、一切のダメージは見られない。歯が立たないとは思っていたが、ここまでのものとは。しかしまぁ、自分自身もここまで死に損なうとも思っていなかったから、イーブンといったところだろうか。
「は、ははは。まだ立つってのか……!」
ゲイロンが震えた声を出す。
「大人しくしていれば、命だけは助けてやったかもしれねぇってのによ!」
命だけ助かっても、なんの意味もないんだ。気遣いを無駄にして、すまないね。
そう、憎まれ口を叩いてやりたかったのだが、どうも顎が動かない。とっくの昔に感覚がなくなっていたから、ひょっとしたらもう、顎そのものがなくなっているのかもしれなかった。ここに鏡がなくて良かったと、心底思う。自分の美貌が崩れゆくさまを、見ずに済んだのだ。
とは言え、見苦しい死体が残るのは、ちょっといただけない。まぁ、贅沢を言える時ではないか。ルカは愛剣を静かに両手で構え、オウガを正面から見据えた。まったく、雅の欠片も見当たらない化け物だ。こんな奴に人生の終止符を打たれるなど、ルカ・ファイアロードの人生において一番の汚点だ。
まぁ、良い。まぁ、良い。
虎は死して皮を留めるという。人は死して名を残すという。ならば、〝騎士〟たる自分は何を遺すべきか。自身の美貌をそのままに留めた亡骸というのも悪くはないが、そんなものは最悪、どっかの貴族のお嬢様にでも任せておけば良い。
騎士である以上、誇りを遺す。ルカはそう教わってきた。戦場は常に地獄。追う者は道徳を失い、追われる者は尊厳を失う。人心が恐怖に支配され、餓鬼や修羅へと堕ちる。ならば騎士は、騎士だけは、誇りを遺していかねばならないのだ。
視線を動かす。両目はまだ生きていた。牢の中にいる騎士達が、檻を掴み、こちらを見ている。
見られている。ルカは思った。醜いところを見られても、カッコ悪いところは見せられない。ルカは常にそうやって生きてきた。これだから姉さんは可愛げがないと、弟に窘められることもあったが。
「(少年は無事に、提督のもとにたどり着いたかなぁ)」
少し、情けないところのある奴だったが。それでも殿下が認めた男だ。まぁ、やってくれるだろう。
一切の憂いはない。
ルカは、両手で剣を構え、一歩一歩、オウガへ向けて歩を進める。顎が動かない以上、気合は心の中で入れるしかない。
「(断界剣―――ッ!)」
死にかけた筋繊維を総動員し、掲げた剣を振り下ろす。
「(天崩・真打―――ッ!!)」
果たして、放たれた一撃は勢いよくオウガへと向かう。薄暗い牢獄の中、わずかな光すらもかき集めて走る刃は、稲光のようであった。伝統騎士の誇りをのせた、最後の気力を振り絞っての一撃が、オウガの心臓部めがけて振り下ろされる。
オウガは更に一歩踏み込み、迎撃するように拳を叩きつけた。刃は正面から折られ、拳はそのままルカの頭蓋を叩く。脳が揺さぶられるような感覚があって、意識が一瞬、真っ白にはじけ飛ぶ。
「(あっちゃあ)」
そんなことを思った。
「(まさか、ここまで歯が立たないとはなぁ)」
走馬灯はまだ見えない。立てるものなら、もう一度立ち上がりたいものだが。
ぴくりとも動かない手足をもどかしく思いながら、ルカはこちらにゆっくりと歩いてくる、オウガの巨体を見上げていた。




