第61話 さざなみコンチェルト(前編)
「そろそろ時間か」
キャロルは、滴る水の音を確かめながらつぶやいた。当然、こちらの3人が行動を起こす時間のことである。作戦の進行が滞りなく進んでいるのであれば、ショウタとルカは現在地下牢に突入し、幽閉された騎士達の解放を行っているはずだ。もし、作戦が失敗していた場合であっても、要塞内部では警戒が強くなり、その気配がこちらにも察せられるはずである。今のところ、騒ぎは起きていない。正直なところ、判断はしかねる部分があった。
ショウタもルカも愚かではない。無理をして作戦をおじゃんにするようなヘマは、そうそう働かないだろう。結局のところは、彼らを信頼して動くよりほかはないのだ。
見れば、アイカとトリルは両者ともに意識を集中させ、精神的なコンディションを整えている様子だった。ふたりは月鋼式戦術騎士道の使い手である。単対単の戦闘に特化したこの流派の使い手が、戦闘前の精神統一に重きを置くことは、キャロルもよく知っていた。
「はい、いつでも行けます」
アイカは目を開き、言った。
「ショウタ達の頑張りを無にしないためにも、必ず成功させましょう」
勝算の薄い作戦の中で、アイカの言葉は明るいものである。
時々、ショウタに身を案じているそぶりは見せるものの、やはり彼に対する信頼の度合いが大きいようで、危うさのようなものは一切残していない。以前共に戦った時の、頼りないショウタから、一体どれほど成長したというのだろうか。それほど日がたっていないだけに、キャロルには不思議である。
「……アイカ殿、」
次に、ゆっくりと目を開けたトリルが、アイカに声をかけた。
「あ、はい。なんでしょう」
「あのショウタ殿のことですが……。彼は一体、何者なのでしょう」
「何者……とは?」
キャロルには、トリルの質問の意図がよくわからなかい。当然、アイカも首を傾げていた。
「アイカ殿と共に何度か死線を潜り抜けてきたのでしょう。相当肝が据わっておられるようです。が、あまりこのあたりでは見ない目鼻立ちをしております。ショウタという名前の響きも、某には珍しいものと感じられるのですが……」
言われてみれば、そうかもしれない。キャロルは深く気にしたことは、あまりなかった。ショウタの本名は確か、ショウタ・ホウリンといっただろうか。少なくとも、キャロルの暮らすマーリヴァーナ要塞線ではあまり見聞きしない名前の響きではあるし、あの黒い髪にやや平たい目鼻立ちも、見かけたことはない。
アイカは、トリルの言葉を聞くにつれ、徐々に表情をこわばらせる。何を話すのだろう、と思いきや、結局アイカはこう言った。
「実は私にも、よくわかりません」
あっさりとした返答。同時にアイカは、やや緊張した表情を一気に緩ませた。
「どこか遠いところから来たのだということは、わかっています。不思議な力を使えるということだったので、私の家で召し抱えることにしたのです。生まれ故郷の話はよく聞かされますが、詳しいことは、よくわかりません。ショウタはショウタ。それで良いと思っています」
その目つきの中には、些事をまるで気にしないおおらかさの中に、一抹の寂しさが宿っている。
「ただいつか……彼は帰ってしまうのだろうなと。私に言えるのは、そのくらいでしょうか」
「帰ってしまう? ショウタがか?」
アイカの言葉の意味を理解できず、キャロルが尋ね返した。
「ショウタは、おまえの家に仕えているんだろう?」
「成り行き上はそうなっています。ですが、ショウタはいつか、私の手の届かないようなところへ帰ってしまう。そんな気がしているんです」
あんなに仲が良さそうなのに。アイカの言葉を聞き、キャロルは少しだけ複雑な表情になる。アイカは、その事実を納得ずくなのだろうか。彼女の中に、割り切れない感情というのは、一切ないのだろうか。そんなはずはないだろう、と思うのだが、アイカはそれ以上語らない。
「突入前に、妙な話をしてしまい、申し訳ありません」
最終的に彼女は小さく微笑んで、謝罪した。
「いえ……。質問したのは某です。妙なことを聞いてしまった」
トリル・ドランドランも小さく目を伏せ、頷く。それからしばらく、沈黙が続いた。
「まあ、その、なんだ。詳しいことはわからんが」
結局その言葉の通り、キャロルはアイカの話を半分も理解できていない。が、キャロルとアイカは剣友の誓いを交わした仲である。彼女が寂しそうな顔をしている以上は、慰めねばならないと感じていた。
「ショウタが帰るにしても、帰らないにしても、おまえのことが大事なのは、間違いないと思うぞ。だから五体満足で帰ってやれ。先のことをくよくよ考えて、怪我をするようでは世話ないぞ」
言ってから、しまったなと思う。慰めるにしても、もっと言い様みたいなものは、あったのではないだろうか。まったく、人を慰めるのは、苦手だなと思う。
だが、アイカはしばらくきょとんとしていたが、直後に小さく微笑んで、こう返した。
「あなたの言う通りです。ありがとう、キャロル」
素直な謝礼である。暗闇の中において、アイカのまぶしいほどの笑顔を見ては、キャロルもいささか気恥ずかしい。
「ああ、いや、何。これも剣友の務めだな」
思わず目をそらしてしまい、そう言う。
「ええ、あなたのような剣友を持てて、私は幸福です」
どうしてこう臆面もなく、そんな気恥ずかしい台詞を吐けるのだ。この貴族騎士は。
いささか調子を狂わされながら、キャロルは鼻っ柱を掻く。なんだかショウタの気持ちもわかったような気がする。こうも無防備に笑顔を向けられては、彼のような少年は溜まらないだろう。同性のキャロルでさえ何やらこそばゆい気持ちになってしまうのだ。
ゆえに、あの少年は相当に幸せだと思うのだが。故郷に帰ってしまうかもしれないという話は、本当なのだろうか? というか、あの少年の故郷とは、結局一体どこなのか? キャロルは疑問を持て余したが、当のショウタ本人がここにいない以上、すべての疑問に対する答えは、推測の域を出ないのであった。
Episode 61 『さざなみコンチェルト(前編)』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
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オウガは2体いたはずだ。ショウタは考える。内1体は、牢屋から出された騎士達と共に、隠し牢にいるコンチェルトのもとへと送られた。そこまでが、ショウタが透視によって得た情報である。コンチェルトのいる隠し牢とは、すなわちショウタが向かうこの先だ。
オウガの戦闘能力については、今更問いただすまでもない。拳ひとつで伝統騎士一人を肉塊へと変える膂力。正面からぶつかって勝ち目がないのは明らかだ。だが、なんとかして、この先にいる一体のオウガを突破し、コンチェルトのもとへたどり着かねばならない。
あの怪物が、地下にいる2体だけであるとは到底考えにくい。みっちゃんからもたらされた情報にはなかったことだが、敵は既に、戦力としてオウガやオークといった大型獣魔を従えるに至ったのだろう。
姫騎士殿下が、あの怪物と矛を交えるという事態だって、発生しうる。
ショウタは最悪のケースを想像し、しかしすぐにかぶりを振った。そうはさせない。そうなってはいけない。そうならないためにこそ、ルカは自分を行かせたのではないのか。
ショウタは現在、思考領域から引き出せる力をフルに活用して、滑るように宙を翔けていた。手足を使わずに滑空する様は、見た目以上に体力を消耗するが、四の五の言っている余裕はない。ルカの命だって、果たして何秒持つことか。
急げ、急げ、急げ。
ショウタは歯を食いしばりながら滑空する。
やがて、暗闇の中に、ぼうっと数人の人影が浮かび上がった。騎士達だ。正確には、敵側へと寝返った、騎士達だ。自らの命を盾に脅され、本分を見失った騎士達だ。ショウタは、彼らのあり方の是非について論ずるつもりは、一切ない。
いま重要なのは、如何にして彼らを突破するか。
考える時間は必要だったが、速度を緩める余裕もない。ショウタは、脳のマルチタスクを実行するために、その演算容量をさらに食いつぶす。研ぎ澄ませた感覚は、相対時間を一気に引き延ばした。
高速集中思考!
引き延ばされた時間の中で、空気は途端に粘性を帯び、全身へとまとわりつくような不快感があった。時間を加速させるとは、すなわちこういうことだ、自らを覆い尽くす空気の一切が重い。思考能力を加速させても、実際の身体能力までもが向上するわけではないのだ。
遅々とした速度で、自らの身体が空中を潜り抜けていく。そのさなか、徐々に前方を進む集団の全容が、明らかになってきた。
騎士の集団、男が2人、女が4人。そこにオウガ1体を加えた7人が敵だ。騎士6人がみな伝統騎士であることを考えると、ショウタ一人で処理するには重すぎる相手だ。どのみち、まともに相手をするだけの時間はないのだから、切り抜けることだけを考えなければならない。
直後、
後ろの騎士2名は、ゆっくりとこちらを振り向くのが確認できた。いや、ゆっくりとは言うが、引き延ばされた体感時間の中であの速度は、かなり素早い。振り向くのと同時に、彼らが腰元の騎士剣に手をかけ、引き抜かんとしている。
気づかれたのだ。当然か。もはやゆっくりと穏形しているだけの余裕はない。これほど雑な進軍であれば、伝統騎士の感知網には引っかかる。重要なのは、気づかれないことではなく、いかにここを、素早く切り抜けるか。
「―――――――――――!!」
伝統騎士の2人が口を開き、間延びしたような声で何かを叫んでいる。この体感時間の中では、誰かがしゃべった言葉を音として理解することは、ほぼできない。だが、それはおそらく警戒の言葉だったのだろう。その言葉を皮切りに、残る4人の騎士とオウガも、一斉にこちらを振り返った。
騎士達が一斉に掲げる騎士剣。あの刃の森を、なんとかして突破する。高速集中思考のもつ内にだ。
押し通る!
ショウタは心の中で叫んだ。自らの身体を加速させる力を強め、全身に纏わりつく空気の壁を突き破る。不自然な身体の重さは、通常時ではありえないほどの負荷が、全身に生じているためだ。骨と筋の軋むような感覚。せっかくサウンのもってきた疑似霊薬で骨折が治ったというのに、これではまた、どこか痛めてしまいそうだ。
だが、それでも、速度を落とすわけにはいかない!
骨が砕け、筋繊維を断裂させるほどの負荷をかけて初めて、ショウタの肉体は伝統騎士の反応を上回るほどの速度で宙を翔けることができるのだ。飛翔するショウタの身体を迎撃せんと、二刀の騎士剣が振りかざされる。
「………ッ!」
声にならない気勢が漏れた。
「――――――――!!」
「―――――――――――――!!」
「――――――――――!!」
間延びして聞こえる騎士達の気合。それらが不協和音となって、ショウタの耳に届く。ひどい雑音だったが、集中力を乱すわけにはいかない。一瞬でも気を抜いたら、その場でミンチだ。
飛翔するショウタの肉体は、刃が振られる速度よりも辛うじて早い。ただ闇雲に宙を飛ぶのではなく、細やかな動きで、振られる刃の隙間を縫うようにして、ショウタは動いた。だが、現実においては超高速で振られる騎士の剣は、真空の刃をまとわせる。刃を避けたつもりでも、そこに生じる風の牙が、ショウタの全身に食らいつく。
鋭敏化した神経に、激痛が走った。
引き延ばした時間の中で、鋭い痛みは持続する。血は飛び散らず、長い間、飛沫は滞空した。飛び散った自らの血が顔にぶつかり、痛い。この引き延ばされた時間の中では、血飛沫さえも礫のようなものなのだ。
まだだ、まだ!
最後の瞬間、刃が脛にあたり、肉の一部が削がれるような感覚がある。が、最終的にショウタは、そこを突破した。騎士6人、計12本の刃を見事潜り抜け、対岸へと到達する。
しかし、安堵は束の間すらも与えられなかった。
目の前に、オウガの巨躯が立ちはだかる。振り上げた拳はショウタへと向けられた。
オウガの拳は、騎士の刃が振られる速度よりもはるかに速い。ショウタが飛翔するスピードすらも上回っていた。拳が身体に到達するよりも早く、その圧倒的質量に押しのけられた空気の波が、ショウタの身体を飲み込んでいく。身動きが完全に封じられた。
まずい、と思った。
最初に考えたのは、不可視の力場を作り出し、オウガの攻撃を相殺することだ。だがその提案は、自身の中ですぐに却下される。この怪物相手に、そんな悠長な手段は通じまい。
オウガの恐ろしさを改めて知る。この怪物の存在を、なんとかして殿下に伝えなければならない。そのためにも、ここでは死ねない。生きて殿下に会わねばならないのだ。
やるしかなかった。これは賭けだ。
ショウタは、オウガの拳圧から自らの身を護るようにして、本日何度目かの転移を行った。わずか数メーティアの移動距離ではあるが、果たして転移は成功し、オウガの拳は空振りに終わる。脳が摩耗し、シナプスが焼き切れるような感覚を味わいながらもなお、ショウタはすべてを切り抜ける。
しかし、これで終わりではない。ショウタは高速集中思考をかろうじて維持させながら、残る力をすべて推進へと注ぎ込んだ。空気の重さが加速し、力んだ箇所から血が噴き出す。だが、あとは直進するだけだ。ショウタは音を置き去りにするように、まっすぐその場を後にした。
「っ……あ……! っく……!」
苦悶の声を漏らしながら、ショウタは高速集中思考を解除した。かなりの長い間、維持させていた気はするが、実時間にしてみれば1分かそこらの出来事であっただろう。突入から、階段の最下層へ到達するまでであれば、合計3分もかかってはいないはずだ。
全身に傷がつき、骨が軋み、筋繊維が断裂しそうになったが、五体に関して言えばショウタはなんとか無事だ。生きている。実に、結構なことだ。
しかし猶予はないだろう。あの階段は分岐路などない一本道だ。騎士達やオウガはこちらにまっすぐ向かってくるだろうし、追いつかれたら、今度こそショウタはおしまいだ。
隠し牢。地図には載っていない部屋だった。アメパ堰堤要塞の地下牢から、さらに下へと進んだところにある。王都に知らせず増築した箇所であるのか、あるいは最初からあったものが記載されていなかったのか、それはショウタのあずかり知るところでは、ないが。
その扉が、目の前にある。巨大な錠前がかかっていたが、不可視の力場を生み出して強引にねじ切った。
扉に手をかけた瞬間、ショウタは手を止める。
彼の耳に、不意に飛び込んできたものがあったのだ。歌声である。
それは以前、ショウタが聞いたことのある旋律だった。以前と言っても、騎士王国に来てからの話ではない。それよりもっと前、故郷でのこと。学校でのこと。そう、それは確かに、ショウタの生まれた国に伝統的に伝わる、ふるさとを思って歌う曲だった。
浮かんだ疑問を、即座に振り払う。考えることはいくらでもできる。今は、時間がないのだ。
重い扉を、ゆっくりと押し開ける。こちらの気配に気づいたのか、歌声が止んだ。直後、すえた臭いが、ショウタの鼻孔に突き刺さった。
「………っ!」
思わず、鼻を覆いたくなるような悪臭。これは腐臭だ、と思いつつ、ショウタは隠し牢へと踏み込む。
それは、凄惨な光景であった。
累々と重なる屍は、おおよそ人間としての尊厳が与えられた死にざまではない。一部は叩き潰され、一部はねじ切られ、弔われることすらなく、腐るがままに任された骸。その亡骸は、またおもちゃにされたかのように積み上げられたり、鎖でつながれたりしており、彼らをいたぶった者の趣味の悪さが、あからさまに露呈している。
ショウタは叫んだり、気を失ったりはしなかった。吐き気は催したが、それもなんとかこらえた。
先ほどまでは歌声が聞こえた。こちらの頭が狂ったのでもない限り、生存者がいるはずなのだ。
ショウタは部屋を見渡す中で、唯一、五体を完全に備えた人影があることに気付く。両手両足を鎖に繋がれたその影は、女性のものであるように思えた。着衣は無残にも引き裂かれ、晒された肌には無数の傷跡が確認できる。目を凝らしてわかったが、傷跡の大半は古傷のようだった。それでもその姿は、だいぶ痛々しい。
頭髪は、くすんだ鋼のような色合いをしていた。うなれだれた頭から、長髪が垂れている。その人影は、そこで初めて、ショウタの気配に気づいたか、ゆっくりと顔をあげた。マリンブルーの瞳が、わずかな光を受けてきらりと輝いた。
額から左頬のかけてを縦断する刃傷が、左目を完全に潰してしまっている。顔にある傷と言えばそのくらいだ。加えて存外に若い。姫騎士殿下やキャロルと、そう変わらない歳だろう。ただ、彼女たちに見られるような年齢特有の危うさや落着きのなさといったものは、一切見られない。老成した表情である。
ショウタの姿を認め、彼女はぽつりとつぶやく。
「君は……」
この人が騎士提督だ。ショウタはそれまでに得たいくつかの情報をもとに、そう判断した。
「宮廷魔法士のショウタ・ホウリンです。お迎えにあがりました。ディム・キャプテン・コンチェルト・ノグドラ」




