第54話 不屈の騎士提督
「キャロルーっ!」
「ぶっ……!」
にこにこと笑いながら手を振ってきたアイカを見かけたときは、流石に茶を噴き出した。
アメパ堰堤要塞を眼前に拝むこの小さな集落は、キノオ村という。騎士王国の民間集落としては最北端だ。これより北側には、峻厳な山々が連なるばかりで、人が足を踏み入れることはできないと言って良い。王都デルオダートから早馬を乗り継いで半日。この神速は、力量の等しい伝統騎士が少数で進軍したからこそ成しえる。どんなに練度を積んだ騎士達であったとしても、一個小隊で進もうとすれば三日はかかる距離なのだ。
夕刻になっても、アイカが馬屋姿を見せなかった時は、『仕方がないか』と思ったものだ。彼女と再び肩を並べることができれば、この上なく頼もしい話だが、無理強いをすることはできない。アメパ堰堤要塞には、三人で挑むしかない、と。
そこに出現したアイカである。ルカとトリルも唖然としていた。
キャロル達が滞留しているのは、キノオ村の片隅にある役人のセーフ・ハウスだ。ここで小休止を取ってから、潜入作戦に臨む手筈である。要塞内部の構造とにらめっこし、作戦を練っていたところに、夜更けの訪問者であるから身を固くした。すわ敵襲か、とも思ったものだ。
だが、表に出た役人が連れてきたのは、アイカ・ノクターンとその従者ショウタであった。
「よく追いついたものだなぁ」
ルカが心底驚いたような声で言う。が、それに返答するアイカの声も、やはり弾んでいた。
「ごめんなさい。いろいろと用事に手間取って、馬とショウタの力を使って急いできたんです」
当のショウタはというと、アイカの後ろで苦笑いを浮かべている。やや呼吸は荒いが、疲労の色はさして強くもない。大したものだ。
いまだ、二の句が継げずにいるキャロルを見て、アイカは不安げに首を傾げた。
「……ご迷惑でしたか?」
「い、いや。そんなことはないぞ。来てくれて嬉しいくらいだ」
なんとか声の調子を整えながら、キャロルは頷く。そのまま、ルカとトリルの二名に目配せで確認を取った。このまま話を続けて大丈夫か? という合図だ。トリルは重々しく頷き、ルカは肩をすくめるだけだった。
このタイミング、ともすれば敵側のスパイとも疑われかねない状況ではあるが、ルカもトリルも、そしてこの家の持ち主である役人も、アイカの出自を取り立てて疑う様子は見えなかった。
疑われていないなら、良いか。キャロルはアイカを部屋の中央に招く。
「アイカ、ちょうど潜入作戦の話をしていたところだ。ショウタと一緒に参加してくれるということで良いんだな?」
「はい、微力ながら尽くさせていただきます」
ぐっ、とガントレットの拳を握り、白磁の甲冑を軋ませる。ショウタも特に否定する様子を見せない。
キャロルが視線を送ると、先ほどまで要塞の地図を示しながら説明をしていた役人が、頷いて机の前まで戻ってくる。
机の上に広げられた要塞内部の構造図は、アメパ堰堤要塞の非常に入り組んだ構造を詳細に描き出している。なかば迷宮、ダンジョンのように建造された堰堤要塞は、本来外敵の侵入を防ぐためにそのような形をしているわけだが、今回はそれが完全に裏目に出ている形だ。
「あのう、流れでここまで来ちゃいましたけど」
ショウタが地図を睨みながら言った。
「なんでこんな守りの堅そうな要塞が、あっさり落ちちゃったんですか? この村の人たちも気づいてないんですよね?」
「ああ、それですか……」
役人が難しい顔を作って、キャロルの方へ目配せしてきた。キャロルも頷く。
「おそらくは内通者、それも相当数の者がいたと思われます。その者たちの手引きがあったのでしょう」
「その言い方からすると、クーデターの類ではない? 主犯は外部から入り込んだ人間なのですか?」
疑問を、アイカの唇が引き継いた。どちらも、貴族騎士とその従者とは思えないほどに、鋭い着眼点だ。
「ウッスア宰相の密偵からもたらされた情報です。要塞内部には、自由行動をとる王国の人間と、」
役人は、密偵の侵入・調査ルートを指差しながら、淡々と説明する。だが、そこであえて言葉を区切ったのは、そのあとに続く言葉が、いまだに信憑性に欠くものであったからに他ならない。
「……どうしました?」
「いえ、説明しましょう。自由行動をとる王国の人間と、それに付き従う獣魔族が発見されました」
アイカとショウタが、息を飲むのがわかった。
獣魔族。ゴブリンやコボルト、オークなどに代表される凶暴な亜人種族の総称だ。原則、意志疎通が不可能な魔獣の類として扱われる。彼らが人間に付き従うなどといった事例は、帝国方面の戦史をひも解いても、見られるものではない。
なぜ、人間がそれら獣魔を付き従えることが可能なのか。騎士王国で最近頻発している、獣魔族の異常発生と何か関係があるのか。疑問は尽きないはずだったが、アイカはひとまずそれを横に置き、本質からずれない疑問をぶつけてきた。
「王国の人間が主犯ではないという根拠は? 何かしらの手段で、彼らが獣魔を従える術を発見し、王都へ反旗を翻した可能性もあります。そうではないという根拠は?」
「王国の人間同士の会話で、獣魔族を彼らに貸与した人物の存在が語られていたためです」
「主犯はその人物であると?」
「はい」
アイカは口元を押さえて考え込んだ。
アメパ堰堤要塞も、騎士王国四大要塞の一角である以上、そこで暮らしている人間はすべて〝騎士〟であるはずだ。が、役人もアイカも、当然キャロル達も、〝王国の人間〟という呼び方を徹底した。叛意の有無はともかくとして、本来の任務を放棄して堰堤要塞を占拠する人間は、すでに騎士ではないからだ。
アイカが考え込んでいる間、ショウタが片手をあげる。
「質問、いいです?」
「どうぞ」
役人は、小姓であるはずのショウタにも丁寧な対応をした。
「ええっと、騎士提督……コンチェルトさんでしたっけ。その人は?」
「姿を確認できていません。が、おそらく死んでいるか、幽閉されているかのどちらかです」
「戦略級騎士なのに!?」
ショウタが素っ頓狂な声を挙げる。
「はい」
「アンセムさんと同じなんでしょ!?」
「はい」
彼の疑問ももっともだ。ディム・キャプテン・コンチェルト・ノグドラ。アイカやキャロルとそう変わらない年齢であり、かつ騎士王国の出身ではない、帝国の奴隷市場という今の地位とほど遠い出自を持ちながら、アンセム・サザンガルドやゼンガー・クレセドランに匹敵するほどの実力を身につけた、騎士王国指折りの戦略級騎士である。
先代騎士提督トオンにその才覚を見初められ、奴隷の娘という最底辺の立場からわずか十年余りで地方領主の座を勝ち取ったサクセスストーリーは、すべてコンチェルトの実力によるものであり、多くの騎士たちが目標とする姿のひとつでもある。
そのような彼女が、内通者や獣魔族ごときにあっさりと屈服したり、殺害されたりするというのはどうにも解せない。コンチェルトが先頭に立って反乱を指揮したというほうが、まだ説得力はあるだろう。
「ですが、現在要塞内部で確認できる王国の人間は、いずれも貴族騎士出身で、提督閣下とは折り合いの悪かったグループです」
「判断要素はそれだけですか?」
「無論、これだけでそう判断するのは危険ですが、貴族騎士の中でも提督閣下に悪感情を持っていなかったグループや、伝統騎士の多くは幽閉されていたり、殺害されていたりするのが確認されています」
アイカが疑問を口にし、役人はそれに対してよどみなく答える。彼の指先は、要塞内部の第一地下牢区画を指差していた。
「キャプテン・コンチェルトと折り合いの悪かった貴族騎士といえば、レイシアル伯爵ですか……」
「えぇ、ゴンドワナ侯爵のシンパ……、いわゆる魔法推進派とよばれるグループの中核にあたりますね」
アイカの言葉に役人が答え、ショウタもまた、難しい顔をする。
このあたりは、キャロル達は初めて聞く情報になる。ゴンドワナ侯爵は、先の会議の席で、アンセム・サザンガルドと言い争いをした有力貴族騎士の筆頭だ。アイカ達の話が事実であるとすれば、あの時のゴンドワナ侯爵の発言は、途端に胡散臭いものとなる。
魔法推進派は、武力・軍事面における伝統騎士の台頭を快く思わない貴族騎士の派閥だ。中枢にはゴンドワナ侯爵の息がかかった多くの貴族騎士が名を連ねているが、〝一枚かんでいる〟というレベルになればその範囲はもっと広くなる。先日、不祥事を暴かれ更迭されたイャミル・フラクターゼ伯爵、キャロルとは馴染みの深いヨーデル・ハイゼンベルグ侯爵、シロフォン・サンダルフォン伯爵なども、魔法推進派の方針には賛同の意を示していた。
「じゃあ、コンチェルトさんは魔法に負けちゃったんですか?」
「どうでしょう。単純な力比べなら、そんじょそこらの魔法士に後れをとるとは思えませんが……」
ショウタが疑問を口にし、アイカは考え込む。
キャロルはそんな二人の様子を見ながら、腰に手を当てた。
「どのみち、キャプテン・コンチェルトの力をもってしても内通者たちを抑えきれなかったとあれば、これは非常に大きな問題だ。私たちだけで要塞を制圧できるとは到底思えない。それはわかるな?」
その言葉に、アイカ達は大きく頷く。
「私たちがするべきは、まずはダムの安全を確保すること。ここを見てくれ」
キャロルが、要塞内部の一区画を指差した。アイカとショウタが覗き込んでくる。
堰堤要塞のほぼ上部、ダムの放水口にもっとも近い区画だ。当然、堰堤要塞の生命線であるために、非常に守りの堅いブロックとなっている。
「ここをなんとかして陥落させる必要がある。明日の朝には、要塞に突入するための装備を整えた後詰めの騎士大隊が到着する予定だ」
「そんなにたくさんの騎士たちが到着するのに、3日かかるんじゃないでしたっけ?」
「それは王都から出発した場合だな。後詰めの部隊はすでにマーリヴァーナ要塞線を発っている。指揮を執るメイジャー・ヨーデルも、早馬を乗り継いで合流する手はずだ」
とにかく、騎士大隊が要塞に突入するまでに、キャロルが指差した区画を制圧すべしということだ。たった4人の騎士、まぁ魔法が使える小姓も1人いるのだが、たった4人の騎士でそれを行わなければならない。いささかハードな作戦であるのは事実だ。
もしも区画の制圧が不可能であるとした場合は、非常に遺憾ながらアメパ堰堤要塞の奪還を放棄するというのが、会議の決定であるとキャロルは告げた。アイカとショウタは表情を曇らせる。もしそうなれば、敵は容赦なくダムを決壊させるだろうし、このキノオ村をはじめとした用水路沿いの集落が土砂流に流されるだろうことは、想像に難くないからだ。
王都の安全を確保するため、現在用水路の拡張工事が行われているはずだが、この工事には王都の巻き添えをくらって消滅する数々の集落のことは、計算に入れられていない。
「奪還作戦が失敗に終わった場合、アンセム将軍、エコー参謀、ゼンガー剣聖の三名が直接この地に赴き、外部から堰堤要塞を完全に破壊することになる。要塞内部に幽閉された騎士たちも巻き添えだ」
キャロルが淡々と告げる中、アイカはわずかに表情を曇らせ、しかしかろうじてこう言った。
「……賢明な判断でしょう」
そう、賢明な判断だ。敵を一網打尽にすることができる。悪賊に対する報復措置としては、極めて妥当だ。
だが、それは奪還作戦が失敗に終わり、ダムの破壊が実行されたという最悪の事態を迎えた場合の想定である。それを防ぐために、これより要塞内部への潜入を行うのだ。アイカが表情を引き締めるのがわかった。事態の重大性を、改めて認識したというところか。
敵がダムをいまだに決壊させていないところを見ると、あるいは三人の戦略級騎士による〝報復措置〟を恐れているのかもしれない。王都の喉元に刃を突き付けておくことで、こちらが繊細な行動をとらざるを得ないようにしているのだ。
「そうならないように、私たちは行動する。密偵の調べた敵の戦力は、魔法推進派の貴族を中心として、獣魔族が大半だ。オークやオウガといった大型個体は確認されていない。が、先ほども言った通り、キャプテン・コンチェルトが不覚を取った相手の存在も考慮して、単純な力押しは避けた方が無難だろう」
「キャロル、私たちが戦ったような特異個体は?」
「それも確認されていない。が、出現する可能性はある。連日の大雨のさなか、王都地下水道にもゴブリンの特異個体が出現したらしいからな。私の直感だが、無関係とは思えん」
「私もそう思います」
オーク特異個体〝袈裟掛け〟との戦闘経験は、思い出すだけで身震いが止まらなくなるような思い出だ。無論、同様の特異個体を前にして足がすくむなどという無様は二度と晒す気がないが、あのような相手が出てくる可能性は、十分に考慮しなければならない。
不要な戦闘は極力避ける。潜入任務の鉄則だ。アンセム達も、要塞内の敵をすべて掃討する目的でキャロル達を送り込んだのではない。
「もっとも困難になると思われるのは、当然このダム周辺区画の再制圧だ。敵の守りも堅いであろうことに加え、制圧後、味方の後詰めが来るまで持ちこたえる必要がある」
「制圧はともかく、持ちこたえるのには人数が足りなくはありませんか?」
「そこで、途中二手に別ける」
キャロルはそこでまた、ルカとトリルに目をやった。彼らにはすでに通達済みの内容だ。
「このダム周辺区画は、第一地下牢区画からそう離れていない。地下牢に幽閉された騎士たちを解放できれば……」
「異常を察知して、敵がダムを決壊させる可能性は?」
「敵はまだ、〝私たちが要塞の異常事態に気づいている〟ということには、気づいていない。幽閉した騎士達が脱走した程度では、ダムを決壊させる判断には結びつかないはずだ」
逆に、騎士たちが脱走し、情報が王国に漏れることを恐れるのならば、彼らの制圧にそう多くない戦力を傾けると思われる。その隙にダムの周辺区画を再制圧し、その後、脱走した騎士たちと合流するというのが作戦の全容だ。
当初の予定では、キャロルとトリルが再制圧、ルカが騎士の解放に向かう予定だった。さらにアイカとショウタが加わるわけだが、単純な身体能力・戦闘技能の高いアイカを再制圧組に回し、魔法によるトリッキーなアシストが可能となるショウタを解放組に回す提案をする。
アイカとショウタはしばし互いに顔を見合わせていたが、すぐに頷いた。
「と、なると、ボクのバディはキミになるわけだ」
話が終わるまでじっと待っていたルカ・ファイアロードが、ようやくこちらに歩み寄ってきて、ショウタに片手を差し出す。ショウタはおずおずとその手を握り返した。
「ああいえ、どうも。えっと……サー・ルカ・ファイアロード?」
「ディムだ。ディム・ルカ・ファイアロード。ヨロシク、少年」
「あっ、ごめんなさい」
一方、トリル・ドランドランもまた、アイカの方へ片手を差し出す。
「一度、挨拶の方は済ませましたが……。よろしくお願いいたす。ディム・アイカ・ノクターン」
「こちらこそ。サー・トリル・ドランドラン」
アイカもまた、満面の笑顔をもってトリルの手を握り返す。がちゃり、と金属同士の触れ合う重厚な音がした。
では、とキャロルは仕切りなおす意味で咳払いをする。アイカ、ショウタ、ルカ、トリル、そして役人は、それを合図に誰からともなく姿勢をただし、〝作戦指揮官〟たるキャロルへと視線を移した。騎行敬礼をとる彼らを前に、キャロルは背筋をぴんと伸ばし、勇ましき定型句を口にした。
「勝利を掴むぞ!」
「おらっ、起きろよ! 何寝てやがる!」
うす暗闇の中で、ガサツな声がする。ディム・キャプテン・コンチェルト・ノグドラは、意識を泥濘の中から抱え上げるように、ゆっくりと目を覚ました。なんだ、寝てしまっていたのか、と自分でも思った。どうやら、思っている以上に疲労がたまっているらしい。
あれから、どれくらい経ったろうか。時間の経過を示すものといえば、定期的に天井から滴り落ちる水滴くらいのものだ。最初は律儀に数えていたが、10万回を越えたあたりで面倒くさくなってしまった。
「あぁん? 起きたか? 起きたなら挨拶くらいできねぇのか?」
がっ、と頭髪を掴まれた。疲れるのでうつむき気味にしていた顔を、無理やりひっぱりあげられる。
かつて部下だった男の、とうてい貴族騎士とは思えない粗野な顔が視界に入った。
「……やめてくれないかな。枝毛が増える」
喋るのも億劫だが、ひとまずそう言った。直後、横っつらを張られる。
「てめぇ、そういうこと言える立場かよ。あぁん?」
定型句だな、とコンチェルトは思った。じゃらり、と両手両足をつなぐ鎖の感覚と合わせて、何やら十年前に戻った気分だ。あの頃は、奴隷商人に毎晩毎晩こんな扱いを受けていた。よくよく見れば、目の前の男はあの商人そっくりの豚面だ。こうして自分の立場を冷静に見てみると、自分は当時からまったく変わっていないのだなぁと思う。増えたのは年かさと、身体中の傷くらいなものだ。
まともな服を着せてもらえなかった当時と、立派な鎧下をボロッボロに引き裂かれた今、どちらがマシかと聞かれると少し難しい。余計な術式に力を縛られていなかった分、当時の方がマシかも、とコンチェルトは思った。
「気分が良いぜ。あのお高くとまった騎士提督サマを、こんな風に好き放題できるなんてよ」
ああ、これは当時は聞けなかったバリエーションだな。逆側の頬を殴られながら思う。
まったく、安っぽいシチュエーションだ。手足に力がまったく入らない。天下の戦略級騎士がこれでは笑ってしまう。アンセム将軍あたりにも、この画期的な魔術方式の存在を教えておいた方が良いだろう。生きて帰れたら、の話になるが。なんでも、戦略級騎士の動きを封じるために作られたものだというから、実にご苦労なことだ。
「……な、なんだよ。その目は」
ぼーっと考え事をしていると、急に目の前の男が、慄いたような声をあげる。
そんなに、怖い顔をしていただろうか。よく言われるのだ。騎士提督のすまし顔は怖いと。年齢相応の、かわいらしい女の子であるつもりはないのだが、そう言われるたびに少しショックを受けている。
「てめぇ、それ以上生意気な顔をすると、残ったもう一方の目ン玉もくり抜いて……」
「それは困る」
趣味の読書ができなくなるから。
「だったらもっと大人しく……」
「サー・バロン・ゲイロン! いらっしゃいますか!」
男の言葉を遮るようにして、一人の貴族騎士が部屋に踏み込んでくる。ゲイロン男爵は小さく舌打ちをして、そちらへ振り返った。
「なんだよ」
「レイシアル伯爵と、アジダ様がお呼びです」
「ん、ああ……。わかった。すぐ行くとお伝えしろ」
あからさまに面倒くさそうに頭をかきつつ、男はそう言った。
アジダ。コンチェルトも知らない名前だ。階級や爵位がついていないところを見るに、レイシアルが手引きした部外者の名前がそれか。何者なのかはわからないが、獣魔族を従えているところを見るにただの人間というわけではないのだろう。おそらく、数週間前から王都を襲った不自然な集中豪雨も、その人物の仕業だ。
なんらかの意図をもって、この堰堤要塞を襲撃してきたのは明らかである。レイシアル達がそれに同調した理由も不明だが、ひとつだけはっきりしているのは、そのアジダが騎士王国に明確な害意を持つ〝敵〟であるということだ。
「おい、」
コンチェルトの思考は、ゲイロンのガサツな声で中断された。
「いいか、今日こそてめぇを屈服させてやる。そのすまし顔がぐちゃぐちゃに歪むところを拝んでやるからな。覚えてろ、〝不屈の騎士提督〟様よ」
そうか、がんばれ。
こちらの顔に唾を吐きかけ、背中を向けて部屋を出ていくゲイロンを、コンチェルトは黙って見送った。
あの男に、自分を屈服させることができるとは思えないが。コンチェルトは部屋の中を見渡す。
意識すれば、すえた臭いが鼻孔に突き刺さる。石畳の床にべっとりとくっついた血糊や内臓は、コンチェルトのものではない。薄暗い石室の中には、既に事切れた彼女の部下たちの亡骸が、無造作に転がされている。
彼らは最期まで悲鳴をあげたりはしなかった。わずかにでも、コンチェルトの心にゆさぶりをかけてしまうことを恐れたのだ。コンチェルトは、獣魔にいたぶられ、苦痛をこらえながら死んでいく側近達の姿を、瞬きせずに見つめていた。
今では心も冷えている。ただ、彼らの死を思えばこそ、心を折るわけにはいかないのだ。冷えた心臓で、虎視眈々とチャンスをうかがう。来るかもしれないチャンスをうかがう。
コンチェルト・ノグドラは、名前のない売り物だったその当時から、ずっとそうやって生きてきたのだ。
「最期に、抱きしめてあげられなくて、ごめんね……」
暗闇の中、紺碧色の隻眼に不屈の炎を宿しながら、コンチェルトは何度目かになる仲間への懺悔を口にした。
Episode 54 『不屈の騎士提督』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
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