第48話 雨が降って、
我ながら、たまげた。
無事に転移を成功させ、サウン達の待つ通路に舞い戻ったショウタが真っ先に思ったのは、そんなことであった。火事場の爆発力を期待して自らを追い込んだと言っても、ここまで疲労が蓄積した状態であれほどのパフォーマンスを発揮できるとは、自分でも思わなかった。汗がどっと吹き出して、荒い呼吸のまま膝をつく。左腕に抱きしめていた殿下の身体を、そっと石畳の上に横たえた。彼女も無事である。
見れば、通路にはさらにゴブリンの死体が、何匹か増えていた。特異個体が引き連れていた内、水路に飛び込まなかった連中だろう。王による統率が失われた状態では、ファルロ達にあっさりやられてしまうのも、やむなしといったところか。
突如として出現したショウタ達に目をひん剥きつつも、サウン達はどこか安堵したような表情を見せる。
「てめー、無事だっ……!?」
その言葉のさなか、内部から閉じられた調圧水槽の水門弁が、耳をつんざく爆裂音とともに吹き飛んだ。サウンはショウタに駆け寄ろうとした姿勢のまま硬直し、背後のファルロ、イーノ、ヒューイらとともに、ゆっくりと水門弁の方を眺める。
水路の水は再び勢いを増し、轟々と調圧水槽の中に流れ込んでいたが、そのわずかな隙間を縫うようにして、蒸気が吹き出してきていた。薄暗い通路に、白い水蒸気と悪臭がもうもうと広がった。
まぁ、調圧水槽そのものを圧力釜にしたのだ。当然といえば当然だろう。ショウタはわずかに咳込みながらも、充満する水蒸気を手ではらう。
「てっ、てめー……。なんだこれ、なにしたんだよ」
「ポトフを作ってきました。どうです?」
ショウタは親指で水槽の方を指し示す。おそらく、ゴブリンどもは煮崩れを起こすこともなく、水槽内で綺麗なポトフとなっていることだろう。サウンは、やはりショウタと同じように露骨に顔をしかめながら、水蒸気を払った。
「いらねーよ。食わねーよ。まぁ、てめーの作るポトフはそこそこ美味かったけどよ」
加熱と加圧によって瞬時に煮物を作るのは、ショウタがポトフを作るときに実験的に試みた手法だ。当然、加圧によって膨れ上がった負荷は、内側から鍋を圧迫するので、最終的には蓋に穴を開けその逃げ道を作ってやらねばならなかった。
圧力釜は、ショウタの故郷では普及しつつある調理器具のひとつだが、使い道を誤ると破裂して死傷事故に繋がるというが、まぁ例えば今回水門弁が吹き飛んだような感じだろう。あれが当たれば人間はミンチだ。
ともあれ、この攻撃手段はそう何度も使えるものではない。やり方として覚えておくにしても、もう少し改良は必要だな、と、ショウタは思った。
「魔法士殿、姫騎士殿下は……」
「ええ、無事ですよ」
ファルロの言葉に頷いて、ショウタは脇に寝かせた殿下の髪を梳いた。濡れた毛先が、指に絡まる感触がある。まだ意識はないが、彼女は無事だ。ただ、水を飲んでしまった可能性がある。暗闇と水蒸気の中で判然としないが、ふと、イーノとヒューイが、下衆な笑みを浮かべたような気がした。
「ショウタ、応急処置はしなくていいのか!」
「ああ、心パイ蘇生だな!」
「ちょっと」
卑猥な手つきで指先を動かしにじり寄る2人を、ショウタはキツく睨みつける。姫騎士殿下のお胸様をなんだと思っているのか。無論、ファルロはこの不埒な発想をした二人の首根っこを掴み、ぐいと押しとどめた。
サウンも、ショウタの真横にしゃがみこんで姫騎士殿下の顔を眺めながら、意外にもというか、少しばかり不安そうな声を漏らす。
「でも、なんかやったほうがよくね? 水飲んでるかもしんねぇんだろ?」
「えっ?」
なんか、とは、なんのことか。まさかサウンからもうそうした提案が出るとは思わず、ショウタは若干狼狽する。
「肺から空気を押し出すんだっけ? 腕が折れてて押せねーんなら、アタシやるし」
「えっ、いや、でもあの、」
言うまでもない。心パイ蘇生、ではなく、心肺蘇生のことだ。イーノやヒューイのようにやましさから来るものではない、サウンの純粋な提案である。ショウタはちらりと、未だに意識を回復させないアリアスフィリーゼ姫騎士殿下のご尊顔を、眺めた。
水に濡れたまま目を閉じたその顔は、不健康さや淫らさなどとは無縁のものだ。無垢で清純な、まるで寝顔のようですらある。ただその中にあって、唇の艶めかしさだけが妙に目を引いた。もし陽圧を用いて人工換気を行うのであれば、あの唇を通じて、空気を送り込むことになる。そう思えばこそ、ショウタの疲労した脳は、やたらと動揺し、彼の心臓を跳ね上げる。
いやいや、いやいやいや。いやいや、でも、しかし。
ショウタはなんとか頭を振って、サウンに笑顔で答える。
「きちんと自発呼吸ができていますし、脈拍も正常ですから。無理に人工換気をする必要は……」
「でも呼吸止まったぞ」
「えぇっ!?」
その言葉に、ショウタは思わず身体を跳ねさせた。慌てて姫騎士殿下を見やり、近づき、その口元に耳を近づける。確かに、あの調圧水槽で聞こえていたはずの彼女の呼吸の音が、今この時は聞こえていない。ショウタは焦った。
確かに呼吸が正常でないならば、早急な人工呼吸が必要となる。下心のないサウンが手伝ってくれるというのなら、是非もないだろう。一刻も早く着手するべきだ。殿下の胸元にこんもりとそびえる双丘も、やはり肺の膨縮による上下運動を見せてはいない。
ショウタの心臓が、早鐘を打つ。勢い、本日通算4度目となる高速思考集中を発動せんとするほどであった。そうだ。急ごう。やろう。やらねばならない。やるというのは、もちろんその、えっと、あれだ。その。
人工呼吸だ。
焦ったところで手順を間違えてはいけない。仰向けになった殿下の、形の整った顎に手をあてがい、やや上向きにさせて気道を確保する。ショウタは目を見開いて、その顎から数セルチほども離れていない場所にある、しっとりと濡れた薄桃色の唇を眺める。
アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオ姫騎士殿下の唇である。
人工換気を行うには、この唇に自身の唇をあてがって、気道を通して肺に空気を送り込まねばならない。そう、あてがうのだ。当然、両者の唇は接触する。それ自体が目的ではないにしても、ともすれば、唾液の交換までありえる。人命救助のためであればやむなしだろう。
ショウタは今まで、そのように割り切ってきた。あの小麦色の肌が似合うサーファーの兄ちゃんも、今隣で怪訝そうな顔を作る不良少女のサウン・ブラウンも、分け隔てなくだ。ほんのわずかな躊躇があったとしても、その結果彼らが命を落とすよりも遥かによろしい。
だがこれは、アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオ姫騎士殿下の唇なのである。
いや、それがどうした。そう、これは姫騎士殿下だ。呼吸が止まっている。このまま放置すれば、彼女は死ぬかもしれない。そんなのは絶対に本意ではない。あってはならないことなのだ。彼女を助けるためにも、人工呼吸は必要なわけで。その。
だが、きっと彼女も初めてなんだろうし。唇と唇を接触させるアレが、その、こうしたカタチであって、果たしていいものなのだろうか。
「てめー、人命救助はノーカンとか言ってなかったっけか?」
サウンはその三白眼で半目を作り、ショウタを冷たく睨みつけた。
「え、ええ。ノーカンです。ノーカンですよ。だからその、えっと」
「アタシが代わりにやってやろーか」
「それは、だめです」
「ほー」
サウンはとうとううすら笑いまで作って言った。ショウタの肩に肘を置いて、サウン・ブラウンのうすら笑いはまるで肉食獣が牙を剥くような印象がある。その胸中にいかなる感情を宿しているのか、ショウタに悟らせもしないまま、彼女はこう続けた。
「じゃあヤッちまえよ。ほら、ぶちゅっとさ。躊躇ってる状況じゃあ、ねーだろ?」
「魔法士殿、この件は我々の胸に秘めておきますので、どうか!」
「おう、ショウタぁ。サウンにできて姫様にできないのか? 姫様はノーカンじゃないのか? おお?」
「それは平等じゃねぇなぁショウタぁ。オトコじゃねぇなぁ」
サウンの言葉を皮切りに、切迫したファルロの声と、イーノ、ヒューイの下品な野次が飛んでくる。やがて彼らは両手を叩きながら、その野次をコールに変えた。
「「「ほら、キース! キース! キース!」」」
「キスじゃないですけど! 小学生か!」
ショウタは調子に乗った三人を一喝し、覚悟を決めた。これ以上、殿下を放置はできない。どういうわけか、人工呼吸を行うのに異様な躊躇を感じているのは確かだが、それ以上にサウン達にやらせたくないという感情があるのだから、やはり自分でやるしかない。ショウタは手の甲で自分の唇を拭うと、再び殿下の方へと顔を向けた。顎と額を抑え、そっとそのご尊顔を覗き込む。
ぱちり、と、
長い睫毛を瞬かせて、翠玉色の双眸が見開かれた。
「あっ……」
ショウタの口から、思わずそんな声が漏れる。極めて至近で、二人の視線が交錯する。数値にしてわずか十セルチもなく、ほんの少し首を動かせば、唇が互いに届き合う、それほどの距離。殿下の口元から漏れる呼吸は、いつの間にやら正常であった。
それ以上にショウタが身動きを取れずにいた理由はといえば、その殿下の瞳の中に、剣呑な色を感じ取ったからである。不機嫌、というよりは、どこか怒っているような色合いすら感じ取れた。
頬を膨らませたまま、姫騎士殿下はむすっとした声で言った。
「甲斐性なし」
「うぐっ……」
その一言は、その日ショウタが地下水道で負ったどんな傷よりも深く、彼の心を抉り取る。
王立騎士団が、地下水道に残ったゴブリンの群れを掃討しその場に駆けつけたのは、それからしばらくもしない内のことであった。
Episode 48 『雨が降って、』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その後のことは、あまりよく覚えていない。
実のところショウタは満身創痍であって、ファルロも満身創痍であって、殿下も目立った外傷こそはないが一度溺水して弱っていたために、すぐさま騎士団によって地上へと連れ出された。外は相変わらずの悪天候で、いまいち、『ああ、地上に戻ったなぁ!』という気持ちにはさせてくれなかったが、まぁ、王都地下水道での戦いはひとまず終わったことになる。
そのあとはもうトントンだ。
殿下の活躍で地下に潜む大半のゴブリンは掃討されていたし、厄介と目されていた特異個体2体も、ファルロとショウタによって仕留められたのだから、騎士団の仕事は大半が後片付けだ。ベッタリと残る血糊に、硫黄ワサビの粉末を散布して焚き、一部残されたゴブリンの死体を一箇所に集めて、残るゴブリンのすべてをおびき寄せた後、最終的な殲滅作戦も実行された。人知れず訪れた王都地下の脅威は、また人知れずの内に去っていった。
殿下もショウタも、そしてファルロもサウンも、馬車に放り込まれて貴族街の医療施設へ運び込まれる。王宮から駆り出された衛生騎士による診察がなされ、大事なしと判断されるや、殿下、ファルロ、サウンなどは自由になるが、そうはいかないのがショウタであった。
骨折の悪化に加えて、全身の筋線維の断裂。激痛はとにかく後からやってきた。半ば自業自得な側面もあるのだから、ショウタは衛生騎士の荒療治を黙って受け入れる。医療施設内に響き渡るショウタの悲鳴を聞き、サウン達は大爆笑していたという噂を耳にして、ショウタはたいそう機嫌がよろしくなかった。
まぁ、それはいい。
待機命令を無視して地下水道に潜ったファルロであるが、数日の謹慎処分で済むこととなった。騎士王国において、命令違反は常に必ずしも重罪ではないものの、今回の件に関してはもっと重い処罰を言い渡されても文句の言えない立場である。姫騎士殿下の口添えだ。
サウン、イーノ、ヒューイの3人は、監督役が謹慎処分となったことで、しばしの間労役刑から解放され、のびのびとやっている様子だった。グラスイーグルとして犯罪活動を再開しないのであれば、なんでもよろしい。一度会った時は、なんとか王宮に忍び込む手段を探すと言っていたが、それは本気でシャレにならないので必死に止めた。サウンは非常につまらなそうな顔をしていた。
まぁ、それもいい。
マダム・フェイルアラニン達は相変わらず元気にザマザマ言っている。王宮には再びカッコイイ石ころが幾つか献上された。ショウタの提案で漬物石に使われることになった。完成したピクルスは、伯爵夫人が主催するサロンに届けられ、彼女たちの食卓を彩る予定だ。
まぁ、いい。それこそどうでもいい。
ショウタにとって目下、一番の問題があるとするならば、
あるとするならば、
それは、あの事件以来、姫騎士殿下が一度も口を聞いてくれないということであった。
一度もである。ただの一度もである。もっともまだ事件から3日であるから、大した日数ではない。それでも、ショウタとアリアスフィリーゼ姫騎士殿下が、10時間以上言葉を交わさなかったことなど、出会って以来一度として、ない。
そろそろその7倍にも及ぶ時間が経過しようとしているのだから、大した記録である。そして今も、その記録は更新され続けていた。
記録が破られたのは、3日目の午後のことである。
相変わらずの豪雨が王都を濡らし、雨音が王宮の壁を叩き続ける。ショウタは大廊下を歩きながら窓の外を眺め、ああ、雷に怖がる殿下のお尻を眺めたのももう10日以上昔のことだなぁ、などと、懐かしい思い出に浸る始末であった。
窓の外には王宮の庭が見える。今日は王宮にも来客が大量にあるようで、数々の馬車がゆったりと列を成しているのが確認できた。ショウタは家紋に詳しくないから一体どこから来た馬車であるのかまでは、よくわからないが。
雨はやまないし、殿下と仲直りはできないし、気分は暗澹としたままだ。
「あっ……」
大廊下の赤絨毯をだらだら歩いていたショウタが、思わず声を漏らす。ちょうど反対側から、青いドレスに身を包んだ姫騎士殿下が向かってくるところであったのだ。付き人の類はなく、一人だ。気まずさから目をそらそうとしたショウタに、すれ違いざま、殿下がぽつりと呟いた。
「どうして目をそらすのでしょうか?」
「うっ……」
実に70時間ぶりの会話が、これである。ショウタはひりひりと痛む心を抑えながら、辛うじて顔をあげる。
アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオ姫騎士殿下である。相変わらず、殿下は怒っていた。怒っていても綺麗な顔だとショウタは思うが、そんなこと間違っても口には出せない。そんな殿下の顔を見るたびに立ち込める不安は、王都の空に浮かぶ雨雲のようであった。
それでも今の会話を最後に、また3日間口をきかないなんていうのは御免である。ショウタは辛うじて、このように声を絞り出した。
「あの、殿下、仲直りしたいんですけど……」
「私もです」
むすっとした声ながら、姫騎士殿下は言った。
「やっぱりこれ、僕が悪いんです、よ、ね……?」
こんなことを尋ねたら、また殿下は機嫌を悪くするだろうか。などと思いつつ、ショウタはありのまま、思うままに口を開くことにした。取り繕うことには慣れているが、上辺だけの言葉で彼女をなだめても、正直あまり意味がないような気がしたのだ。
意外にも、姫騎士殿下の反応はこうであった。
「実は、私にもよくわからないのです」
振り向く殿下は、金髪をくるりとなびかせて、ショウタに視線を合わせる。翠玉色の瞳には、困惑と不信と不安が綯交ぜにされているように、ショウタには見えた。
大廊下に立つ数人の騎士達は、見つめ合うショウタと殿下の雰囲気が、微妙にいつもと異なることに関して、闊達な議論をかわしているようであった。が、そこはショウタの関知するべきところではないだろう。
「私だって、ショウタとこれ以上お話できないのはイヤです。でも、納得できないことがあるのでそれを解決したいのです。よろしいでしょうか」
「ぼ、僕でお力になれることなら」
いつになく真剣な表情のアリアスフィリーゼ殿下に若干たじろぎながらも、ショウタは頷く。
「はい、では、」
殿下はすぅっと息を吸い込んでから、ショウタに尋ねる。
「なぜ人工呼吸をしてくれなかったのでしょうか」
「ぅぐ……」
ああ、やはり、そこなのか。ショウタは目をそらしたくなる気持ちを必死に押さえ込み、汗を貼りつけ、喉を鳴らしながらも、じっと前から姫騎士殿下を見据えた。
「私が死んでしまってもいいと思っていたわけではないでしょう。どうして、してくれなかったのでしょうか?」
「それは、その……」
「私と唇を重ねたくはなかったですか?」
「そうではなくて!!」
がしゃん、と、
見張り中の騎士達が一斉に武器を手落とし、慌ててそれを拾い上げていた。ショウタと殿下は一瞬そちらを見るが、すぐさま互いに視線を戻す。
「そうではなくて、その……も、もったいなかったというか……」
「サウンにはしたと、伺いましたが」
「人命救助はノーカンですし!」
自分でも何を取り繕っているのかはわからないが、本音を偽らないと決めた上での言葉なのだから、これはおそらく本心なのだろう。自分でも、何を取り繕っているのかは、わからないが!
混乱しているのは何もショウタだけではないようで、見張りの騎士たちも頭を突き合わせて必死に何かを話し合っていた。ひそひそ話というよりは、もはや雨音に紛れたざわめきと言うに等しい。
「私の場合も人命救助でしたが」
「ひ、姫騎士殿下の場合は!」
「ノーカンではないのですか? ワンカウントになってしまうのですか?」
「っ……!」
ワンカウント。その言葉を聞いたとき、ショウタの脳裏で何かが弾けるような感触があった。力の濫用後に襲いかかってくる脳の痛みよりも、遥かに強い衝撃である。そもそも、ノーカンというのは何に対するカウントであるのか。それを改めて考慮した時、ショウタはその問いに対する答えを、正確に吟味しなければならなかった。
ほんの数秒の逡巡は、まさしく永遠のようでもある。雨音と騎士達のひそひそ話がやたらと鼓膜を揺する。
「多分その……ノーカンでは、ない、です……」
ショウタが辛うじてその言葉を搾り出すと、アリアスフィリーゼはしばらく、じっと黙り込んだ。ショウタの言葉の意味を、目を閉じて反芻する。ショウタはその間、姫騎士殿下の長い睫毛を、ただただ眺めていた。
「じゃあ」
やはりまた、永遠に感じられるかのような沈黙にも、終わりは来る。姫騎士殿下は、ひときわ大きく息を吸い込むと、そう言った。
「それでいいです」
アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオ姫騎士殿下は、実に3日ぶりとなる満面の笑みを作って、ショウタの言葉を受け入れる。意外なほどあっさりした態度に、ショウタはいささかばかり拍子抜けをする。
「えっ、いいんですか?」
「だって、私の唇はワンカウントなのでしょう?」
「あの、えっと。はい」
「なら、それでいいです。ありがとう、ショウタ」
また騎士たちが武器を取り落とす音が大廊下に響き渡ったが、ショウタも殿下も、今度は見向きもしなかった。
代わりにアリアスフィリーゼは、そっとその手をショウタに向けて差し出す。彼がその手をそっと握ると、殿下は指を絡めるようにして握り返してくる。これまた久方ぶりとなる手のひらの感触に、ショウタはようやく安堵を胸中へと取り戻した。これは仲直りの握手、と思いきや、殿下はその手をぐいと引っ張るようにして、大廊下を歩き出す。
「行きましょう」
「はい」
騎士たちのひそひそ話をちらりと眺めてから、ショウタは殿下に手を引かれ、廊下を進んでいく。
積もる話はいくらでもあった。ファルロの話も、サウンの話も、フェイルアラニン伯爵夫人の話もだ。殿下は、みっちゃんがショウタに化けた話を楽しそうにしてくれた。ショウタが『そんなに似てたんですか?』と尋ねると、姫騎士殿下は満面の笑みで『外見だけですね』と答えた。それが決して、自分にとって愉快な回答でないことはなんとなく察しがついて、ショウタはそれ以上聞かないことにする。
「ショウタの力にも、本当に驚かされました」
やがて王宮の入口付近、大理石でできたエントランスに、二人はやってくる。この雨の中やってきた大量の来客、おそらくは貴族騎士が大半を占めるそれらを横目に眺めながら、ショウタと殿下は会話を続けた。
「いつの間にか、ずいぶん強くなっていたのですね」
「まぁ、袈裟懸けとの戦いとか、ありましたしね。いろいろ」
面と向かって言われると、何やら照れくさい。鼻の頭を掻きながら、ショウタはそう答える。
殿下が一人で戦っているわけではないと、一人で戦えば済む話でもないと、口ではどれだけ言ったところで、ショウタがその隣に立って支えてあげられるかといえば、それはまた別の問題だ。彼女を一人で戦わせないようにするには、ショウタだって強くならなければならない。
そのために、いろんな訓練を、そっと続けてきたつもりだ。正直、完全に実を結んでいるとは言い難いが。ゴブリン特異個体にだって苦戦する始末なのである。
それでも今回、姫騎士殿下の窮地を救い、敵を殲滅したのは間違いなくショウタの力だった。アリアスフィリーゼが言っているのはつまり、そこなのだろう。
「実はみっちゃんとお話をしたんです。今までのショウタだったら、いつか死んでしまうだろうって」
殿下は努めて明るい声で話しているようだったが、その裏側には、どこか不安の色をひた隠しにしているようにも見える。
「あの雷の日に、一緒に戦ってくれるって言ったショウタの気持ちは、すごい嬉しかったんです。でも、私の隣で一緒に戦うということは、やはり危険がつきまとうということですから……」
「だから、殿下の足手まといにならないように、僕頑張りますから。死んだりなんか、しないですって」
今回は死にそうだった癖に、まったく元気な口だ。自分でも呆れが隠せない。
だがまぁ本心だ。殿下の不安をにじませた声音を聞けば、いやがおうでもその気持ちは強くなる。ショウタはこんなところで死ぬ気なんかさらさらない。死んでしまったら、故郷にも帰れなくなるのだし。
「でも、」
そのように考えたショウタの思考を、まさか読み取ったわけではないだろう。だが、姫騎士殿下は顔をあげて、じっとショウタをみた。
「いつかショウタは、自分の国に帰ってしまうのですよね?」
「それは……」
そうですけど、などと言うことは、ショウタにはできない。それは、優しさとしてもみっともないものだった。実際ショウタは、今まで漠然と、自分はいつか故郷に帰るものなのだと、そう考えていたのだ。だからこそ、騎士王陛下の要請だって引き受けたし、今もこうしてのんきな態度で構えることができている。
だが、故郷への帰還が内包する様々な意味合いを、果たして一度でも正面から真面目に考えたことがあっただろうか。ショウタの国は遠い。彼が騎士王国にたどり着いたこと自体が、奇跡のようなものだった。一度生まれた国へと帰ってしまえば、もしかしたら二度と、騎士王国の土を踏むことは、ないかもしれない。
姫騎士殿下にも、会えなくなるかもしれない。
少しばかり、胸がざわつく。握ったままの殿下の指先が、不安げにショウタの指に絡んでくる。それでもショウタは、まだ微かに悩んでいるアリアスフィリーゼ姫騎士殿下の指先をきゅっと掴んで、その顔を見上げた。
そこに会話はない。だが、代わりに殿下の震える唇が、このように言葉を紡いだ。
「でもそれは、今では、ないのですよね?」
その言葉を聞いた時、ショウタはようやく理解する。アリアスフィリーゼが何を怖れ、何を不安に思い、そしてこの3日間本当は何を彼に問いかけたかったのかを。ほんの些細な不信感のために、この不安を彼女はずっと、心の中に押しとどめていたのである。
「はい。今ではないです」
「その時までは、ずっと一緒に、いてくれるのですよね」
「はい。ずっと一緒にいます」
「一人で無茶をして、勝手に死んだりとかは、しないですよね」
「それは僕の台詞です」
「それを聞けて、安心しました」
そこでアリアスフィリーゼはまたも、いつもの柔らかい笑顔をショウタに向ける。ようやくの、心の底からの笑顔だと、ショウタは思った。握った手を、どちらからともなく放す。放しても、例えば今回のように、勝手にどこかへいなくなったりはしない。そう約束を交わしたからだ。
「それでは、ショウタ。約束通り、ポトフと卵焼きを作ってください。私のために!」
ぐっ、と拳を握り、姫騎士殿下はいつもの調子で言った。ショウタもぐっと拳を握って答える。
「わっかりました。作りましょう、殿下のために!」
相変わらず外の雨は止む様子がないが、涙は溢れる前に踏みとどまった。かれこれ2週間近く延々と降り注ぐこの豪雨も、そろそろ晴れてくれればいいのだが。ショウタは、久々に殿下と王宮の庭園をのんびり散歩したいと考えながら、その殿下に急かされつつ厨房へと向かった。
果たしてショウタの願いは現実のものとなる。半月にわたって王都へ降り注いだ集中豪雨が止むのは、さらにそれから三日後のことだ。
だが、この雨が降り始めた頃から各地で発生していた複数の事件が、ひとつのつながりを持ってはっきりと浮かび上がるのも、これからもう間もなくのことである。この時まさに王都デルオダートは、喉元に刃を突きつけられたに等しい状況であると、ショウタも殿下も知る由はなかった。
「ショウタ、やっぱりこの卵焼き甘いです……」
「だって、もっと甘いものでも受けて立ちますって、殿下が言うから……」
知る由はなかった。
Next Episode 『大瀑布五秒前!!』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
『アイリッシュ・スナイパー』の短期集中連載を行うため、2週間ほどぽんこつ姫の更新をおやすみいたします。
更新再開後も、おそらくカネの力3巻の執筆作業と時期が重なるため、連日更新は難しくなると思われますが、どうかお待ちになってくださいまし。




