第46話 迷宮デッドオアアライブ(中編)
「せぇあァッ!」
三日月宗近の剣筋が唸り、立ちはだかるゴブリンの群れを両断する。地下水道に血飛沫が舞って、数頭のゴブリンがまとめて切り裂かれた。鎧下に使用されている上等な布地が、返り血をかぶる。周囲を顧みないアリアスフィリーゼの戦いぶりは、まさしく鬼神の如くであった。
王族騎士とはいえ、常に美麗な戦い方を義務付けられているわけではない。無論、その立場を鑑みた振る舞いが求められ、騎士の名を穢すような卑劣な戦い方は決して許されない。が、それは決して、剣を握った際の上品さについてまで言及するものではない。
アリアスフィリーゼが使う月鋼式戦術騎士道も、対戦術級・戦略級規模の敵を想定した戦術騎士道であり、本来優雅さとは無縁のものだ。
だが、こうも力に任せた鬼のごとき戦いぶりを見せることは、姫騎士アリアスフィリーゼにしては頓に珍しい話である。
地下水道にはびこるゴブリンの正確な数は依然として不明だ。血の臭いに惹かれる獣魔族の習性を考えれば、いたずらに血液を飛び散らすような真似はするべきではない。だが彼女は、あえてこのゴブリンどもに対して、切り捨て御免の姿勢をとった。
一人の警邏騎士が、重傷を負って彷徨っている。彼が血を流している限り、ゴブリン達は執拗に手負いの彼を狙うだろう。そしてもし、その警邏騎士が、ショウタやサウン達と行動を共にしている場合、被害は更に拡大する。
アリアスフィリーゼは、通路で出くわしたゴブリンどもを片端から切り捨てることで血の臭いを散布し、少しでも他の群れの注意を分散させようとしていた。
これが、数十分後に展開される騎士団の作戦にとって、著しい障害となることは承知の上だ。だが、アリアスフィリーゼは、そうした。ショウタをはじめとした誰かに危機が迫っているとなれば、それを放置することは彼女にはできない。
目先の窮地を優先し大局を見据えられないのは、姫騎士アリアスフィリーゼの悪癖である。
果たして彼女の目論見は成功の兆しを見せていた。撒き散らされた血の臭いに惹かれて、ゴブリンどもは少しずつ数を増している。この程度の数であれば、アリアスフィリーゼと三日月宗近の敵ではない。みっちゃんと潜った時のように、周囲に配慮するならば、また別となるのだが。
環境を顧みず、ただ鬼神として剣を振るうならば、姫騎士と言えど悪鬼羅刹がごとく振る舞う。正面から血を被ってなお、その闘志が萎える様子はない。
「キィッ!」
「ギギィッ!!」
ゴブリン達が甲高い鳴き声をあげながら、飛びかかってくる。姫騎士は三日月宗近を脇構えに握り、翠玉色の瞳で真っ直ぐに見据えた。
踏み込みとともに剣を振り抜き、腹の底から気勢を走らせる。
「とぁぁああああああぁぁぁぁァァァ―――――――――――――――――――――ッ!!」
鞘を捨て、柄を両手で握ることで初めて可能とする、月鋼式戦術騎士道の奥伝・断界剣。いま放たれたのはそのひとつ。すなわち、月穿の真打である。
剣圧を伴って放たれた刃は、半円状の軌道をそのままに地下水道のじめついた空気をそのまま両断し、不可視の刃を石畳に叩きつける。より広範囲の敵を殲滅するために練り上げられた、月鋼式戦術騎士道でも稀有な奥義のひとつがこれだ。
刃に巻き込まれたゴブリン達の肉体が、風に巻かれて引きちぎれていく。風の刃は石畳を砕き周囲に礫を撒き散らす。立ちはだかったゴブリン達はひき肉のようになって残骸にこびりついた。相手が肉体の脆弱なゴブリンであるからこその惨状とも言えるが、仮にこれがコボルトや、あるいは人間であったとしても、彼女が全力で振り抜いた剣圧を受け止め切れる者は稀有であろう。
鍔鳴りと共に、刃にこびりついた血を飛ばす。眼前に敵がいなくなったとて、油断はしない。アリアスフィリーゼはその時点で、背後より迫る大きな敵意には気づいていた。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
甲高い咆哮が、地下水道を揺るがす。アリアスフィリーゼは振り向きざま、まさにこちらを薙ぎ払わんとする長腕を打ち払う。刃はゴブリン特異個体の皮膚を裂き肉を断つが、骨をわずかに抉っただけでその動きは止められた。
「!!」
剣をひこうとした瞬間、そのゴブリンはもう一本の手を伸ばし彼女の腕を掴んだ。極めて至近で、動きに制限をかけられる。
骨の過剰なまでの硬質化。そこまで袈裟懸けと同じとは。アリアスフィリーゼの腕を掴むゴブリン特異個体の力は存外に強く、強引にねじり上げ、こちらの動きを完全に掌握しようとする。
それでも所詮はゴブリンだ。アリアスフィリーゼは、力技には力技で対抗した。握りこぶしを固め、掴まれた腕で勢いよく殴り抜ける。拳はゴブリン特異個体の頬を捉え、怪物は鈍痛に握る手を放した。姫騎士の追撃は収まらない。殴り抜けた拳を開き、今度は首元を掴むと、そのまま通路の反対方向に向けて投げ飛ばす。
「せぇあッ!」
悲鳴をあげて、ゴブリン特異個体は石畳の上に投げ出された。アリアスフィリーゼは再度両手で柄を握り、脇に構えて敵を睥睨する。
ゴブリン特異個体に目立った外傷はない。が、これが袈裟懸けと同様の変異体であるならば、あの時に負わせた手傷など快癒して然りだろう。つまり、これが先ほど、みっちゃんと地下水道に潜った時に遭遇した個体であるのかは、定かではない。
「………ッ!!」
ゴブリン特異個体は、アリアスフィリーゼを睨みつけたまま、じりじりと後退する。アリアスフィリーゼは同じ歩調を保ちながら、合わせるように前進した。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
突如、ゴブリン特異個体が吠えた。咆哮に合わせ、隠れていたゴブリンの群れが、アリアスフィリーゼに向けて一斉に飛びかかる。彼女は再び剣を振り抜き、力任せに剣圧を叩きつけた。轟音が響き、石畳が砕け、もうもうと舞い上がる粉塵の中に血の臭いが増す。
彼女が刃で粉塵を払えば、薄暗い通路の中に、既にゴブリン特異個体の姿は確認できなかった。
「逃がしましたか……!」
忸怩たる思いを声ににじませ、アリアスフィリーゼが呟く。周囲には累々と屍が積み上げられていた。人類の天敵たる獣魔族と言えど、当然いい気分にはならない。が、気持ちを萎えさせている余裕は、今はなかった。
あの特異個体を逃がしたということは、あれがショウタ達のもとに向かう可能性もあるということだ。先を急がねばならない。
アリアスフィリーゼは、血の臭いに惹かれて際限なくやってくるゴブリンの群れを蹴散らしながら、通路の直進を再開した。
妙だな、とショウタは思う。こちらに向かってくるゴブリンの数が、予想以上に少ないのだ。暗闇に閉ざされた通路の向こう側では、無数の小鬼どもがひしめいているように思えた。事実、水路に飛び込む直前に出くわした群れは、数え切れない程に多かった。
ファルロの血の臭いに惹かれてやってくるゴブリンの群れである。あれほどの規模のものが、雲霞のごとく押し寄せてくるものだと、ショウタは予想していた。
だが、通路の向こうからこちらに向けて迫るゴブリンの数は、まだ十数匹程度に留まり、また統率も取れていない。暗闇の向こうに感じたざわめきの元は、果たしてどこへ行ってしまったのだろうか。ファルロの血の臭いよりも、魅力的なものが他にあったのだろうか。
わからないが、チャンスはチャンスだ。敵がこの量であるならば、おそらくは、いける。
もっとも前に立つのは、やはりファルロであった。手負いの彼に無理はさせたくなかったが、客観的に一番物理的な戦闘能力に長けているのが彼である以上、是非はないようなものだ。何より、彼が騎士として、前線を他に譲ることを納得しなかっただろう。
実際のところ、傷の状態にも関わらずファルロの動きは良かった。マーリヴァーナ要塞戦の伝統騎士達には当然及ばないが、サウン達を守るという意味では十分その責務を果たしている。
ファルロの少し後ろに、鉄の棒を得物としたイーノとヒューイが立ち、彼の撃ち漏らしたゴブリンを突っついたり叩いたりして押しとどめる。戦闘訓練を受けていないとは言っても、健康的な少年二人が金属の棒を全力で叩きつければ、2、3回の打撃でゴブリン達も沈黙する。
その後ろに、サウンとショウタが立つ。実質、一番ひ弱なこの2人が最終防衛ラインのようなものだ。
ショウタは、オーク討伐戦におけるヨーデル・ハイゼンベルグ侯爵の言葉を思い出していた。オークは本能的に、群れの一番弱いところを狙うのだという。今回のゴブリン達もそうであった。ずる賢い彼らは、この5人という小さな群れの中で、一番弱いであろうサウンを標的と定め、進軍してくる傾向にある。
それでも、統率者がいないだけに、基本突撃行為には無駄が多い。てんでバラバラに動いているだけあって、ファルロも冷静な対処が間に合い、そこを抜けてきたゴブリン達も大抵はイーノとヒューイで迎撃ができていた。
「へっ、楽勝じゃねぇか!」
鞭蛇を弄びながら、サウンが鼻で笑う。
まぁ、確かに楽勝だ。今のところは。ショウタの役割は、本来であればサウンに飛びかかってくるゴブリン達の迎撃であったが、現在は前を固める男3人のリカバリーに終始している。時折、血の臭いの源であるファルロ本人にかぶりついてくる活きの良い個体がいたりして、ショウタは思考領域からひねり出した力を駆使して、それを引き剥がすなどをしていた。
「油断はするな! 数がこれだけとは思えん!」
ファルロは支給型の騎士剣で、飛びかかってくるゴブリン達を切り捨てていく。左腕にもった円盾も上手く活かし、危なげのない迎撃を続けていた。
「そうは言ってもよ、おっさん! もう数あんまいねーぞ!」
ちょうどファルロの脇をすり抜けた一匹の個体をイーノとヒューイが追い詰め、金属の棒で叩きのめす。潰れたカエルのような悲鳴が響いて、ゴブリンはその頭蓋を陥没させ、脳挫傷を起こして沈黙した。
確かにサウンの言葉通り、最初十数匹しかいなかったゴブリン達は、後からさらに少しずつ増援を得つつも、今は残り数匹にまで数を減らしている。ここにいるゴブリンどもを全滅させることができたならば、さっさと出口を探して動くべきだろうか? それとも、ファルロの血の臭いに惹かれたゴブリン達が挟撃を仕掛ける可能性を考えて、ここで迎え撃つべきだろうか?
どちらにしても、今が攻め時であるのは変わらない。ファルロは剣を振りかざし、残りのゴブリン達に向けて切り込んだ。この小さな獣魔族どもは、予想外に粘る手負いの騎士に対しわずかに狼狽を見せるが、それでも最終的には彼に向けて飛びかかる。
「ぬあああああっ!」
ファルロは円盾で小鬼の攻撃を受け止めつつ、勢いよく騎士剣を叩きつける。返す剣でもう一頭。続けざまに二匹のゴブリンが、石畳の上に沈んでいく。
残りは四頭。ゴブリンどもは、ファルロの隙を作ろうとさらに飛びかかるが、空中でその動きを止められる。ショウタは左腕を掲げ、力で小鬼達を宙に固定していた。その間に、ファルロの体勢の立て直しが間に合う。
「魔法士殿、感謝します!」
ファルロはそう叫び、空中で身動きの取れないゴブリンをさらに逆袈裟に叩き切る。
連中の抵抗は大したものではなかったが、なにぶんショウタの疲労は激しかった。ある程度は回復してきているものの、この後に控える戦闘を考えれば、余力を残しておきたくもある。あまり長時間の拘束はできない。
追撃を仕掛けたのは、イーノとヒューイだった。金属の棒を振りかざし、それぞれ1頭ずつに向けて叩きつけていく。
「うおおおりゃっ!」
「くらいやがれっ!」
まるで街のチンピラのような、いや、実際のところ街の不良である彼らだが、まるで街のチンピラのような無鉄砲な連続殴打。最終的にそのゴブリン2頭も、ものの数秒で沈黙し石畳の上に転がった。残り、1匹。
ショウタが拘束を解除すると、最後のゴブリンはさすがに不利を感じてか、こちらに背を向けて逃走を開始した。
「待てコラァ!」
サウンもまたチンピラのような罵声を浴びせる。ショウタは膝をつき、呼吸を整えながらその背中を見送った。追いかけようとするイーノとヒューイを、ファルロが押しとどめる。
「なんだよ、おっさん!」
「逃がしていいのか!?」
2人の抗議には応えず、制止の姿勢をとったまま、ファルロはショウタに振り向いた。
「どうしますか、魔法士殿」
「少し待ちましょう。ファルロさん、今のうちに、血を洗い流しておいてください。このまま追加のゴブリンが来ないようであれば、出口を目指して動こうと思います」
「わかりました」
ファルロは頷き、自らの制服の袖を破り捨てて水路の水に浸した。剣と盾にこびりついた血を拭き、また凝固しかけた自らの傷口にも布を当てて、極力血の跡を拭き取っていく。
サウン達は、床に転がったゴブリン達の死体を、嫌悪感丸出しの表情で眺めている。
「ヒトに近いカタチをしてるっつーの、やっぱ悪趣味だよな」
サウンがぽつりと言う。ショウタも以前、コボルトを仕留めた時に思ったことであるので、短めの同意をした。
「まぁ、そうですね」
ショウタは深呼吸を繰り返し、石壁に背をあずけて体力の消耗を抑える。脳に糖分が足りない感覚は依然として戻る気配はないが、それでもだいぶ落ち着いた思考ができるようになっている。このまま、必要以上に力を消費することがなければ、
と、そう思ったときだ。
通路の向こうから、身の毛もよだつような甲高い悲鳴が聞こえる。瞬間、一同に緊張が走り、それが先ほど逃がしたゴブリンの断末魔だと察したときには、緊張は別の懸念を伴った。そして懸念はやがて、現実のものとなる。
「――■■■―■――――■■■■―■■――ッ!!!」
ノイズが入り混じった、甲高い咆哮。ショウタ達は確かに聞き覚えがあった。やがて、通路の暗闇の奥から、ぺたり、ぺたりという、柔らかい足音が響いてくる。しばらくしてそれは、血の海を踏むような水音に変わり、カンテラの灯りのもとに、その姿を表す。
「お、おい……アレって……」
サウンの震えるような声が、ショウタに届いた。
口元から捻くれた牙と、黒い霧のような吐息が漏れる、小柄な異形である。真紅に滾る双眸は片目が潰され、白濁化していた。歩き方のバランスがおかしいのは、脳の一部を損傷しているせいだろうか。床にまで長く垂れる腕には、本来仲間であるはずのゴブリンの死体が握りつぶされていた。
「おっさん、あれだ! あれがアタシ達が見た怪物だ!」
「ゴブリン特異個体! こいつが……!」
ファルロは緊張も顕に剣を構える。
ショウタは息を飲んだ。先ほど出くわしたばかりの特異個体だ。もう追ってきたのである。だが、驚愕するべきはそこではなく。異形の不気味なまでの生命力だ。ショウタが脳の一部を煮やしてなお、その生命活動にはなんら支障が見られない。
部下のゴブリンを引き連れていないところを見るに、もはや統率能力は皆無に等しい。先程まで戦っていたゴブリン達の動きが乱れていたのもそのためだろう。ショウタとの戦闘の影響だ。そしておそらく、逃げたゴブリンを握りつぶしたのも。
「気をつけてください。こいつ、何をしてくるかわかりません」
ショウタははっきりとそう告げた。
ショウタが脳の一部を煮やし、破壊したことで、ゴブリン特異個体の行動には明らかな変化が出ている。それが有利に働くか不利に働くか、まだわからない部分があった。おそらく、この特異個体は知性や理性といった部分を喪失している。ほぼ完全に、一頭の獣だ。
「イーノ、ヒューイ、退いていろ」
ファルロが剣と盾を構えて、2人の前に立つ。少年たちはまたも抗議を顕にした。
「おいおっさん、無理すんなよ!」
「そうだぜ! 一人で良いカッコ……」
「いいから退いていろッ!」
警邏騎士ファルロ・バーレンは、地下水道に響き渡るような一喝で、ふたりを黙らせる。
「魔法士殿、援護は頼みましたぞ!」
「はい!」
ショウタの声を受け、ファルロは通路を駆けて異形へと突撃した。イーノとヒューイはファルロの一喝受けて黙り込み、互いに顔を合わせてから、わずかにこちら側へと後退してくる。それでいい。イーノとヒューイが戦力にならないとは言わないが、防御術を覚えていない彼らを前線に出すのは、ともすればファルロの負担になりかねない。彼らを守りながら戦うだけの余裕は、ないだろう。
ショウタも前に一歩踏み出し、援護の姿勢に入る。腕を掲げ、思考領域にアクセスして不可視の力場を生み出した。
壁を作り上げても、特異個体との力比べではわずかに負けていた。ファルロの守りとするには、若干力不足が否めない。高速集中思考をかければその限りではないが、あれの効果時間は実時間にして1秒にも満たない。疲労した今の脳でどれほど持続できるかも、定かではない。選択肢には、入れられない。
ショウタの生み出した力場は、ファルロが特異個体の攻撃を盾で受ける間、異形の頭部を圧迫するようにして攻撃を仕掛ける。異様な反発があった。頭骨が硬い。袈裟懸けと、同じだ。
「ファルロさん!」
ショウタは叫んだ。
「骨が硬質化している可能性があります! 攻めるなら、肋骨の隙間を縫って心臓を!」
「難しいが、やってみます!」
ファルロの剣術は、見たところ月鋼式とも黒竜式とも異なる。おそらく、王立騎士学校などで教えている、極めてオーソドックスなスタイルなのだろう。突き込みに特化したキャロルのものとは違い、どれほど正確に心臓を射抜けるかはわからない。
心臓とは身体の中心。すなわち当然のように両腕の攻撃可能圏内だ。ファルロには、特異個体の懐に飛び込むという極めて危険な突撃を強いることになる。が、やってもらうしか、ない。
「―■―■■――――■■―■■■―――■―ッ!!!」
ノイズ混じりの咆哮と共に、異形は腕を振り回した。ファルロが盾を構え、ショウタも力場を発動させてその上に重ねる。ファルロの身体が大きく仰け反り、強い衝撃のノックバックが、ショウタにもあった。威力は、先ほどの戦いの比ではない。
「(脳を削ったおかげでリミッターが外れた……?)」
見れば、力任せに叩きつけられたゴブリン特異個体の腕は、皮が引き裂かれ肉が弾けていた。ショウタが焼いた脳が、知性や理性を司る部分であったとすれば、自らの肉体を傷つけないよう、自然に働くであろうリミッターも、削り取ってしまったことになるのだろうか。躊躇がなくなり、力が増している。
無論、ここで相手の自滅を待つほどの余力は、こちらにはない。先ほどよりも強化されたゴブリン特異個体の猛攻をかいくぐり、懐に剣を突き立ててねばならないのだ。
ショウタが額に汗をかきつつ、力の制御に集中しているときである。
「お、おい!」
サウンが怯えた声でショウタの裾を引っ張った。苛立ち半ば、なんですか、と問うよりも早く、サウンの人差し指が通路の奥を指す。その意味するところを、ショウタも知った。
暗闇の向こう側から、さらに十数匹のゴブリンが、こちらを目指して進軍してくる。やはり、あれだけではなかったのだ。それでも数はだいぶ少ないように思うが、ショウタが驚愕したのはその点だけではない。
そのゴブリンどもを率い、ゆっくりとこちらに歩を進めてくるのは、自分たちが今必死に倒そうとしているモノと、同じ姿をした異形であった。
「ゴブリン特異個体……っ」
ショウタはかすれた声で呟く。
「どういうことだよ! あれは一匹じゃなかったってのか!?」
「そうみたいですね、どういうことかは知りませんが!」
彼我の距離はわずかに20メーティアほど。連中が走り出せば、あっという間に詰められる距離だ。ショウタは、群れを率いるゴブリン特異個体に口元が、わずかに釣り上がるのを見た。ここで一気呵成に攻め立てられれば、当然、勝ち筋はない。
それはすぐさま現実のものとなる。特異個体の甲高い咆哮と共にゴブリンの群れは突撃を開始した。ファルロは当然、先に現れた一方の対処で身動きが取れない。サウンの身体がこわばる。イーノとヒューイが、迎撃せんと鉄の棒を構えた。が、先ほどまでならともかく、明確な統率者のいるゴブリンの群れを、この2人が対処できるとは思えない。
ショウタは心胆を冷やす。絶体絶命か、と思われたとき、闖入者はそれだけではなかった。
「はぁぁぁぁあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
地下水道内に気勢を響かせて、一人の騎士が駆ける。相対的に立ちはだかる大気の壁をぶち破り、神速域に到達した肉体は、ところどころを血に染めた金髪をきらびやかになびかせていた。脇構えに握られた剣は、天下五剣がひとつ三日月宗近。夜空の月を思わせる冷涼な刃は、カンテラのわずかな光をも照り返し、映える。
その騎士は、勢い壁を駆け上がり、そのまま突撃してくるゴブリンの群れの前へと立ちはだかった。未だに切り結ぶファルロと一体の異形には背を向けたまま、愛剣を振り抜く。
「せぇいッ!!」
剣圧と共に、刃が石畳へと叩きつけられる。衝撃の余波が、ゴブリンどもを高く弾き飛ばした。騎士は振り返らず、まだ息のある群れと、一方の特異個体を睨みつけながら、緊張感のある声で叫んだ。
「無事ですか、ショウタ!」
「姫騎士殿下!」
滲む喜色を押さえ込むのには、相当な苦労を要した。ファルロもまた、驚愕に目を見開く。
「で、殿下!? なぜここに……うおっ!!」
その隙を突かれ、対峙していた異形に体勢を崩されるも、ショウタのリカバリーもあり大事には至らない。再び盾を構える防御の姿勢で、ファルロは異形とにらみ合った。
驚いているのは彼らだけではない。サウン達グラスイーグルのメンバーも、自分たちを単身で追いかけ、引っ捕えたこの女騎士には、当然見覚えがあった。『姫騎士殿下?』『マジで?』『あれが?』などと、頭を突き合わせてヒソヒソとささやきあっている。
「無事の再会を喜びたいところなのですが……、」
アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオ姫騎士殿下は、その身体ひとつで威圧感を発し、突撃を再開しようとしたゴブリンの群れを押さえ込む。
「ショウタ、サー・チーフ・ファルロ、そちらはお任せします。私はこちらの敵を」
「お願いします!」
ショウタは大声で返事をし、ファルロと目を合わせて頷きあった。姫騎士殿下だ。来てくれたのだ。彼女がいる以上、ここで無様は見せられまい。目の前の一匹は、確実に仕留める。萎えかけた闘志が、急激に再起していくのを実感した。
隣ではサウンが『急に元気になってキモい』とつぶやいていたが、まったく気にならない。
姫騎士殿下は、剣を脇に構えて通路を駆け出す。ショウタはそれ以上、彼女に視線をやれない。目の前の敵に集中だ。
ファルロは盾を構え、必死に耐えてはいるが、当然劣勢である。なんとか、覆さねばならない。
「イーノさん、ヒューイさん!」
「おう!」
「なんだ?」
ショウタは左手の人差し指を特異個体に向け、指示をくだす。
「その鉄の棒、ブン投げちゃってください!」
その発言の意図するところを、当然理解できたわけではないだろう。が、2人はすなおに従ってくれた。2人並んで大きく振りかぶり、やり投げの要領で棒切れを投げ飛ばす。
ショウタはすぐさま思考領域へのアクセスを開始した。2人が投げた鉄棒の勢いはそのままに、軌道を細かに修正する。果たして2本の鉄の棒は、やや複雑な軌道を描いてゴブリン特異個体の小さな身体へと突き刺さった。
「――■■■―■――――■■■■―■■――ッ!!!」
耳障りな悲鳴。知性と理性が欠如しても、痛覚は残っているらしい。一本は偶然にも肋骨の隙間を縫うようにして突きたっていたが、心臓へは到達していないようだった。だが、この際関係はない。
ゴブリン特異個体がひるんだ瞬間を狙い、サー・チーフ・ファルロ・バーレンは、盾をかなぐり捨てて特攻した。騎士剣の柄を両手で握り、心臓のあるであろう場所を目指して一直線に突き込んでいく。無防備となったファルロを狙い、ゴブリンの鋭い爪が振り上げられた。ショウタは思考領域からあらん限りの力をひねり出し、振り上げられた両腕の動きを押さえ込む。
「ファルロさん!」
「おっさん!」
ショウタとサウンの声が重なった。
「ぬおおおあああああああッ!!」
ファルロは腹の底から唸り声をあげて、ゴブリン特異個体の胸元に騎士剣を突き立てる。びくん、と、異形の背がのけぞった。ファルロは念を押すように、何度も何度も剣をえぐりこませる。
やがて特異個体の痙攣は止まり、がくりと力なくうなだれる。
「やったか!?」
うかつなことを口走るサウンを咎める余裕は、ショウタにはなかった。
実際、〝やった〟のだとわかったのは、その特異個体の全身から黒い煙と異臭が立ち込め始めた時だ。ショウタはこれを知っている。袈裟懸けの最期と同様、やはりこの特異個体もまた、シュウシュウという音を上げながら、全身の肉が溶け落ち始めたのだ。ファルロは慌てて離れ、サウン達も鼻を覆いながら顔をしかめる。やがて、黒ずんだ骨だけが残り、それもまた砕け散って霧散すると、その特異個体の痕跡は完全に消滅する。
「なんだ、これ……」
サウンがぽつりと言葉を漏らした。現象を知るショウタであっても、その問いへの回答は、持ち合わせてはいない。
「さぁ……」
なので、彼はそのように答えるしかなかった。
この不気味な余韻に浸かっている暇はまだない。姫騎士殿下が交戦中だ。殿下は、と思い、ショウタとファルロが視線を巡らせる。
「てあああぁぁぁぁぁぁッ!」
そのときはまさしく、アリアスフィリーゼ姫騎士殿下が、必殺の一斬をゴブリン特異個体の肉体に叩き込む瞬間であった。ゴブリン特異個体が、鋭い裂傷からドス黒い血を噴出させ、通路の石畳にゆっくりと倒れる。わずかに残っていた通常個体のゴブリン達は、リーダーの敗北を目の当たりにすると、蜘蛛の子を散らすようにして逃げ出した。
「や、やったか……!?」
サウンがまたも余計なことを呟くが、ショウタはあまり突っ込む気になれなかった。そもそも『やったか!?』と言うと、たいてい〝やっていない〟というジンクスは、ショウタの故郷特有のものであって、この騎士王国にはあまり関係がないような気もするし。
まぁ良い。
「ふぅっ……!」
姫騎士殿下は、ひときわ強く息をつくと、剣を鞘に収めてこちらへ振り向いた。ファルロやサウン達が、ちょっとだけ〝ぎょっ〟とするのがわかる。
姫騎士アリアスフィリーゼは、全身が血まみれであったのだ。その大半が、あるいはすべてが、ゴブリンを切り捨てた返り血によるものなのだろう。戦化粧と呼ぶには、いささか凄惨に過ぎる。顔も服も髪も、朱で染まっていた。
彼女自身もそれの気づいたのだろう。にこ、と微笑もうとして、慌てて自分の両腕を見る。その両腕も真っ赤に染まっているのを見て、殿下はその両手を後ろへと回した。
「ま、まぁ!」
何を取り繕うつもりなのか、ひときわ大きい声をあげる。
「無事でその、何よりです! 良かったです!」
「まったくもう」
ショウタは短くそう漏らすと、姫騎士殿下にそっと近づき、自身の服の袖でそっと彼女の顔に張り付いた血を拭き取った。殿下は一瞬驚いたように目を開くが、すぐにそれを閉じて大人しくする。
ショウタは殿下のご尊顔を丁寧に拭きながら、続けた。
「殿下も女の子なんですから、気を使ってください」
「はい、ショウタ」
「なんかてめー、アタシと話す時と声のトーンがあからさまに違わねーか」
満足げな声を漏らす殿下と、不満げに呟くサウンの声音は対照的だ。そんなに違うかな、とショウタは首をかしげるが、まぁ自分のことなので客観視はできない。
「あー、ごほん」
ファルロ・バーレンの気まずそうな咳払い。アリアスフィリーゼは、きょとんと首をかしげた。
「ともあれです。殿下。お手数をおかけいたしました。ひとまず、地上に戻りましょう」
「そうですね。サー・チーフ・ファルロ」
殿下はにこりと笑って頷く。
「待機命令を無視し、地下水道に向かったこと、いかなる処罰でも受ける所存です」
「あなたのおかげでショウタ達は無事で済んだのですから、陛下への口利きくらいはさせていただきますよ」
殿下とファルロの2人が会話をかわしているさなか、またもショウタの袖をサウンが引っ張る。
「なーなー」
また余計なことを言うのではないか、と思いつつも、ショウタは振り返った。
「なんですか?」
「あっちの死体は、消えねーの?」
「えっ?」
サウンの人差し指の先。そこには、先ほど殿下が切り倒したばかりの、ゴブリン特異個体の姿がある。そう、確かに、死体は、残っている。
いや、
その〝死体〟の腕がピクリと動いた瞬間、ショウタは再びその心胆を冷やした。取り急ぎ、警告を発しようと口を開く。だが、がばりと立ち上がったゴブリン特異個体が距離を詰め、まさにアリアスフィリーゼ姫騎士殿下の背に飛びかかるまでは、ほんの刹那に過ぎなかった。
「殿下ッ!」
ショウタが意味のある言葉を発した時点で、しかしそれは、遅い警告であった。特異個体の鋭利な爪が、姫騎士殿下の背中を引き裂く。ショウタは目を見開き、表しようのない感情が膨れ上がるのを自覚した。奇襲を受けた殿下は即座に振り返り、剣の柄に手を伸ばす。ファルロもまた、剣を引き抜く。だが、姫騎士殿下がその意識を臨戦態勢へ運ぶまでのわずかなブランクを、狡猾な怪物は突いた。
ゴブリン特異個体の拳が、姫騎士殿下の鳩尾を捉える。
「―――かはっ」
肺から空気が叩き出される。続けざまにゴブリンが腕を薙ぎ、体幹を失った彼女を、轟々と流れる水路に叩き落とした。余りにもあっけない水音を立てて、姫騎士殿下の身体が激流に沈む。何が起こったのか、理解するよりも早い。あっという間の出来事であった。
「殿下ァッ!!」
ファルロが、サウンが、イーノが、ヒューイが硬直する中、ただ一人、ショウタが駆け出した。