第45話 迷宮デッドオアアライブ(前編)
「う、う……げほっ……。げほっ……?」
弱々しい咳き込みと共に、サウン・ブラウンが目を覚ます。銀髪から水を滴らせながら上半身を起こし、口元をぬぐう。元々つり気味だった瞳を細め、周囲を見渡す。薄暗い通路の中で、ショウタと視線を交わらせる瞬間、彼女の双眸はひときわ鋭いものとなった。
サウンはもう一度口元をぬぐい、低い声でうなる。
「……誰がやった?」
「あ、僕です」
何のことです、などと、とぼけるつもりは特に無かった。心肺蘇生は目を覚ますギリギリまで続けたのだから、サウンにだって朦朧とした意識の中、確かに感触はあったのだろう。陽圧による人工換気を行ったのは間違いなくショウタだ。わかりやすく言えば、サウンの肺に空気を送り込む作業を行ったのはショウタだ。もっとわかりやすく言えば、唇と唇の、
いや、やめよう。
とにかくサウンに人工呼吸を施したのはショウタである。感想はあるが、感慨は特に無い。人命救助である。そういうのは、師匠に連れて行かれた海で、溺れたサーファー(男)の心肺蘇生を試みたときから、特に考えないようにしていた。唇と唇を重ねるロマンチックな行為と、人工呼吸はまた別のものだ。そう考えなければ、ショウタのファーストキッスはあの全身パンパンに張り詰めた小麦色の、
いや、やめよう。
さて、ショウタがどのように考えるとしても、サウンの主観からすればそうはいかない。彼女は手の甲で口元をぬぐった姿勢のまま、暗闇の中でもわずかにわかる程度には頬を赤らめてこう言った。
「てめー、こいつは高くつくぜ……」
「人命救助ですし、ノーカンになりませんか……?」
「ならねーよ! ずうずうしいこと言いやがって!」
サウンはおもむろに立ち上がって、そのまま立ち蹴りでショウタをぼてくりこかす。こちらの傷を考慮し手加減しているのか、そんなに痛くはなかった。
「あっ、でもサウンさん! 人工呼吸したのは僕ですけど、心臓マッサージしたのは違いますからね!」
ショウタはなんとか身体をちぢこませてガードしながら、余計なことを口にする。
「あぁ!?」
「だって僕、腕が折れてますから。まぁ、どちらがやったとは言いませんが!」
いくら手加減されているとは言っても、このまま蹴りつづけられたのでは溜まらない。当然、矛先を分散させるためのヘイト誘導である。果たしてサウン・ブラウンはショウタの思惑通り、その形相をオウガの如くに変えて(まぁショウタはオウガの実物なんて見たことないが)、ひたすら黙して語らぬイーノとヒューイをにらみつけた。
まぁ、事実もショウタの言葉通りである。ショウタとしては人工換気を行うのが精一杯であって、彼女の胸元に腕を押し込めるだけの余裕がなかったので、彼女の友人2名に協力を要請した。腕を通して全体重をかける都合上、ショウタ自身が行えば骨折を悪化させる可能性があったのだ。ただでさえ、腕を吊るしていた三角巾を捨てたために患部の固定が不安定になっているのだし。
気絶した少女に男3人が群がって、唇を塞いだり胸元をまさぐったりしていたのだから、絵面は大層よろしくなかっただろう。
「てめーら最低だな! 強姦魔か!」
「命を助けてやったのにその言い草は無いだろ!」
「そうだぞ! 別にやりたくてやったわけじゃねーし!」
「それはそれでムカつくんだよ!」
サウンに食って掛かられたイーノとヒューイが言い返し、喧々囂々となる。とりあえず、みんな元気そうでよかった。一同の無事にほっと胸を撫で下ろし、ショウタは通路に腰を下ろす。
もちろん、状態が好転したといえる状況ではない。一度水路に流されてしまったせいで、現在位置を把握できないのが辛かった。周囲にゴブリンの気配はなく、ひとまず窮地を脱したのだということはわかるが、それだけだ。さっさと出口を見つけて、脱出する必要がある。
ショウタの全身はボロボロだった。筋繊維は酷使によりところどころ断裂し、利き腕は骨折中。力の連続行使によって、脳にも疲労が蓄積している。集中力が散漫になり、思考領域へのアクセスにおけるパフォーマンスが著しく低下していた。高効率の力の捻出はできないし、大脳新皮質を経由して行う透視や遠視などは、使用が厳しい。
目の前で言い争いを続けていた3人は、ようやく落ち着いたか、あるいはぐったりとしたショウタに気づいたか、いつの間にかおとなしくなってこちらのほうを向いた。
「ったく、もういいや。よくねーけど、」
サウンは吐き捨てるように言って、ショウタに手を差し出す。
「とりあえずてめー、歩けんのか? ひでー顔だぜ?」
「生まれつきです」
「そっちじゃねェよ」
彼女の手につかまり、なんとか立たせてもらう。女の子に肩を借りるなんて情けない話だが、ショウタはその辺のプライドを極力捨てられるようになっていた。たとえ女子であろうと、力を貸してもらえるのは素直にありがたい。ショウタは現状、一人では歩行すらままらないのだ。
「まぁ、なんとかこの場を動いたほうがいいな。ここどこかわかるか?」
「さぁ……」
ヒューイの言葉に、イーノが首を傾げる。
「とりあえずテキトーに歩いて出口探すしかねーだろ。心配なのはファルロのおっさんだな」
ショウタに肩を貸したまま、サウンが言った。
警邏騎士隊のファルロ・バーレン小隊長のことだ。サウンのことを心配してこの地下水道に向かったという話が真実ならば、彼もこの広大な迷宮のどこかにいることになる。警邏騎士はその本職が戦闘でないといっても、多くは王立騎士学校を卒業した一般騎士だ。戦闘訓練の基礎は当然身につけているはずだし、得物もあれば簡易式のチェインメイルも支給される。少なくとも、自分達4人よりはよほどまともな戦力と言える。
ゴブリンの数は大量だが、地下通路は横幅が狭く、多勢が無勢を押しつぶすのに適した構造ではない。冷静に対処すれば、一般騎士1人とて安全に切り抜けられるはずだ。無論、無茶をして相手の頭を潰そうとしたり、冷静さを見失って強引に突破しようとしなければの、話だが。
もちろん、このあたりの話は、すべてマーリヴァーナ要塞線で得た机上の知識に過ぎない。現実はもっと複雑だろう。まして今回は、特異個体の姿もある。
結論から言って、ファルロ小隊長が果たして無事であるかどうか。そんなのはわからない、ということだ。ただ、ショウタは希望を持ちたかったし、楽観的観測をしたかった。だからこそ、『冷静に対処すれば大丈夫』と、そのように思考したに過ぎない。
本来であれば、そもそもこの地下通路をさまよって、出会うことができるかどうかすら、わからないのだ。
ショウタ達は、通路を歩いた。水に濡れた衣服が肌に纏わりついて気持ち悪い。水気が体温を奪い、地下通路の冷涼な空気が更に身体を冷やした。肩を貸してくれるサウンの地肌も冷たいが、それはきっとこちらも同じなのだろう。震えからか、彼女がガチガチと歯を打ち鳴らす音は、ショウタの耳にやけに大きく届く。
「サウンさん、今日は2回もずぶ濡れになって、災難でしたねぇ」
「ああ、まったくだぜ。イカくせー男にクチビルは奪われるしな」
「おーおー。憎まれ口を叩けるならまだまだ大丈夫ですかねー」
朦朧とした意識の中でも、憎まれ口には条件反射で憎まれ口を叩いてしまう。どうやらショウタの中に眠る元ヤン魂は、さび付いていない模様だ。
「あ?」
「お?」
がん、と額をぶつけて互いにメンチを切りあう。威嚇は原則、戦いを避けるための示威行動だ。が、時として宣戦布告や敵意の勧告を兼ねる。てめーの言うことは気に食わねー、とばかりに、両者は火花を散らした。
「おい、静かにしろ」
ヒューイが後ろから、潜めた声で警告を飛ばす。2人は黙り、足を止めた。
水路に飛び込んだときにカンテラは落としてしまったから、彼らは通路内に等間隔に埋め込まれた発光石のわずかな光を頼りに進むしかなかった。最小限に確保された視界の中で、ごうごうと流れる激流の音が聴覚による周辺の探索を阻む。
それでも一同は、通路の中を反響する足跡の存在を耳に感じ取った。足音はひとつ、ゴブリンの大群のものでないことは明らかだったが、それでも油断はできない。前方、T字状に分岐した通路の向こうから、足音は徐々にこちらへ近づいてくる。
一同は足を止めた。サウンの震えが、ショウタへ伝わってくる。寒さによるものだけではないな、とショウタは理解した。当然だ。彼だって怖い。もしこれが、ゴブリンの特異個体であったとすれば、今度は彼らを守りきれるかどうか、正直自信がない。
ショウタ達は足を止め、壁際に沿って息を殺した。近づきつつあった足音は、いよいよ間近に迫る。
「………っ!」
足音の主は、曲がり角からぬっと姿を見せると同時に、バランスを崩して倒れこんだ。ショウタは目を細めて、その正体を検める。ゴブリンではない。人だ。その男がまとう青い服にも、ショウタは見覚えがあった。
脳に溜まった疲労のおかげで思い出すのに時間がかかる中、ショウタの耳元で、サウンがやたらと大きな声をあげた。
「おっさん……!? ファルロのおっさんか!?」
ああ、そうか。この人が。ショウタは思い出し、納得して頷く。だが、それとは別にもうひとつ、訝しく思うことがあった。
石畳に倒れこんだファルロの身体は、ゴブリンの爪や牙によるものと思しき傷があちらこちらに見られる。流れる血の量は決して少ないものではなく、否が応でも、つんとした臭いが鼻をついた。
ファルロ・バーレンは、満身創痍であったのだ。
Episode 45 『迷宮デッドオアアライブ』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「おい、ファルロのおっさん! しっかりしろよ!」
サウンがしゃがみこみ、やや大柄なファルロの身体をゆする。ショウタは壁を背に腰を下ろすが、イーノとヒューイもサウンと同じように、ファルロ・バーレンを囲い込む。サウンほどではないが、全身に生々しい傷を負った知人の姿に、動揺を隠せないでいる。
話に出たファルロとの合流ができたことに安堵しながらも、ショウタは同時にもう一つの懸念を抱え込まねばならなかった。それを考えれば、もはやどれほどわずかな力であっても、無駄に消費するわけにはいかないのだ。両目を閉じ、呼吸を整えて疲労を少しでも回復させようと努める。
ファルロ・バーレンは小さく身じろぎをして、なんとか上半身をあげた。
「よう、サウン……。無事だったか、良かった……」
「無事じゃねーのはおっさんだろ! なんだよその怪我!」
サウンは両腕でファルロの肩を押さえ、ぐわんぐわんと揺さぶる。
「ああ、ゴブリンにやられた。おまえの言うとおりだったよ。疑って悪かった……」
「はぁぁぁ!?」
弱々しくうめくファルロに対して、サウンは表情を歪めて聞き返した。
「おっさん、そんなこと言うためにここ来たのかよ! ばっかじゃねぇの!」
「そう言うな……。心配してきてやったんだぞ? バカだというなら、おまえ達だって十分バカだろうが……ぐっ」
顔をしかめて、傷口を押さえるファルロ。全身の傷も真新しいものが多く、その中のいくつかはかなり深い。流れる血は致死量にはまだ遠いであろうが、それでも決して、無視できる量ではなかった。
ファルロの話では、サウンが雨の中に飛び出した後、詰め所に王宮から正式な書簡が届き、突然変異したゴブリンが地下水道に潜伏しているという情報を得たのだという。てっきりサウンが再び地下に潜り、怪物を探しに行ったのだと考えたファルロは、あわてて彼女を追った。その判断は結果としては間違っていなかったものの、途中、多くの通常個体ゴブリンとも遭遇し、交戦を重ねるうちに今のような怪我を負ってしまった。ファルロはサウンを探すのを優先とし、何度と無くゴブリンの群れを振り切ったはずだったが、連中は執拗にファルロを見つけ出しては攻撃を加えてきたのである。
ショウタはそれらの話の中に、いろいろと思うところを見つけた。だがまずは、王宮が動いているという事実にひとまず安堵をする。王立騎士団もゴブリン特異固体の存在を認知しているならば、しばらくもしないうちに討伐隊は組まれることだろう。この地下水道に立てこもったゴブリンどもは、直に一掃されるわけである。
が、
懸念はそれとは別に、もうひとつある。
「まったく、おまえ達が本当のことを言ってるときに限って……信じてやれないなんてな。確かに、この仕事は向いてないかもしれんな」
「こーゆー状況でそんなこと言ったってクセぇんだよ! ったく、立てよおっさん! さっさと帰るぞ! イーノとヒューイはおっさんに肩貸してやれよ!」
リーダーのご命令とあらば、というわけでもないだろうが、2人はサウンの言葉にしたがって、ファルロに肩を貸す。大柄で重量のあるファルロだ。2人で支えるくらいがちょうどいいだろう。サウンは、床でぐったりとうずくまったままのショウタの腕を、再び抱え上げるようにして無理やり立たせた。
「てめーも死んじゃいねェだろうな!」
「はい、おかげさまで」
ショウタは苦笑いを浮かべてそう答えた後、少しばかり疲れの言えた頭で、次に語るべき言葉を模索した。
「ですが、正直状況はあまり良くないです」
「んなこたわかってるンだよ」
「悪くなってるとすら言えます」
ファルロを加えた5人が歩き出したところで、ショウタがそう口を開く。彼の言葉に並ならぬ緊張感を感じ取ったか、サウンは目を細めてショウタを見た。
「……どういうことだよ?」
「あくまでも聞いた話ですけど、」
と、前置きをして、ショウタはサウンを見つめ返す。次に、後ろでイーノとヒューイに肩を支えられたファルロ・バーレン小隊長を眺めた。
「ゴブリンをはじめとした獣魔族は、血の匂いに惹かれる習性を持ちます。ファルロさんが執拗にゴブリン達の襲撃を受けたのは、おそらくそのためです」
これもマーリヴァーナ要塞線での獣魔族討伐で学んだことだ。討伐作戦中、多量の出血を伴う怪我人が出た場合は、硫黄ワサビの粉末を火で焚き、血の匂いを誤魔化すようにして前線基地の医療所へ運ぶべしという説明が、作戦前にあった。幸いにしてショウタは、その鼻がひん曲がるという噂の硫黄ワサビの悪臭を嗅がずには済んだのだが。どのみち、血の匂いに敏感な獣魔族を遠ざけるためには、それくらいやらねば効果は無いということだ。
今回の場合、ファルロの流したおびただしい血の量は、当然ゴブリンを引き寄せる要因としては十分すぎる。増してや地下通路では匂いがこもるし、なかなか消えない。当然ファルロは、というよりも王都警邏騎士隊では、硫黄ワサビの粉末なんて便利なものは常備していなかった。
「ちょっと待てよ」
緊張は、サウンの声帯にも伝播していた。
「じゃあ、おっさんの怪我を狙って、またゴブリン達が来るってのか?」
「まぁ、そうなります」
状況が悪化している、と答えたのはそのためだ。その言葉を受け、ファルロは愕然とした表情を作った。当然だろう。自分の流した血が、今まさに、助けにきたつもりのサウン達を危険に晒しているのだと知れば。
当のファルロが何かを言い出す前に、サウンはショウタをにらみつけた。
「てめー、だからっておっさんを置いていくとは言わねぇよな?」
「本人が言っても、そんな目覚めの悪いことしませんよ」
考えようによっては、これはチャンスだ。ファルロさえいれば、確実にゴブリン達が『こちらへ向かってくる』ことだけはわかるのだ。先述の通り、この狭い通路は多勢が無勢を攻めるには難しい構造だ。挟撃にさえ気をつければ、ゴブリン達を安全に迎え撃つことができる。
無論、危険は大きい。サウン、イーノ、ヒューイはほぼ戦力として数えられないし、戦う術を持つショウタとファルロは満身創痍だ。だが、それでも決して、出来ないことではない。
いや、やるしかないのだ。このまま出口を探してさまよっていれば、必ず血の匂いを辿ってきたゴブリン達に追いつかれる。
しばらく進んでいくうち、ショウタ達は閉じられた水門弁の前にやってきた。この水門の向こうには、王都の周辺地下にいくつか存在する調圧水槽のひとつがある。水門弁は通路の行き止まりにあるため、実質、ここから先へは進めない。
「こうなったら仕方がないです。腹ァくくりましょう」
激流の轟音の中であって、通路のはるか後方に、甲高いざわめきが聞こえてくるのが嫌でもわかった。もう引き返して別の通路を探している余裕はないだろう。この袋小路で、ゴブリンどもを迎え撃つより他はない。
ショウタの言葉の意図するところは、一同にも伝わった。漂う緊張感は、諦念よりも覚悟の色合いが強い。彼らの土壇場で据わった根性は、ショウタにとってはなんともありがたかった。このつかれきった身体でどこまで力を発揮できるかはわからないが、できる限り、やるしかない。
ショウタは首だけで振り返り、ファルロを見る。この警邏騎士小隊長も頷き、自らの得物である騎士剣を両手で握りしめると、両足でまっすぐ立ってみせた。ショウタは、思考領域にアクセスして力を搾り出し、水門弁を開くための大きなレバーを2本、思い切りへし折った。長さにして80センチほど。まぁ得物としては心もとないが、ないよりマシだろう。イーノとヒューイに放り投げてやる。サウンには、自分の腰元にぶら下げたトウビョウを貸してやった。
サウンは金属の棒をびゅんと振り、中から鞭蛇を出す。主人の変化に戸惑うことなく、蛇は彼女の意にしたがってまっすぐ伸びた。が、標的がいないことを確認すると、蛇はにょろにょろと這いながらサウンの足元に戻り、ちろちろと舌を出しながら嬉しそうに巻きついた。サウンは困惑を露にする。
「そういやアタシ、以前もこれに巻きつかれたことある気がすんだけど……」
「気のせいでしょう」
ショウタはすっとぼけたことを言ってやった。




