第44話 コンセントレイト・ドライブ(後編)
今日は! 短め!!
ごうごうと流れる激流に、意識を手放してしまいそうになる。ショウタはそれをなんとか押さえつけて、目を見開いた。全身を苛む激痛やら、骨折で吊るした右腕やら、そうしたあれこれのおかげで、水中でろくに身動きも取れないショウタだったが、ヒューイに抱え込んでもらったおかげで、まだ何とかなっている。サウンも同様だ。本来泳げないところを、まぁずいぶんかわいそうな目に合わせてしまっているが、それでも死ぬよりはマシだろう。ちらりと、イーノの腕の中でぐったりしているのだけは確認できた。
もっとも、これだけの激流の中にあっては、泳げる、泳げないといった次元の話ではない。ただでさえ衣服が水を吸って重くなるのだ。イーノもヒューイも、溺れないようにするので手一杯といったところだろう。彼らの体力を考えても、これ以上負担をかけるわけにはいかない。
現在、地下水道では幾つかの場所に同時設置された水門弁が開かれ、調圧水槽に大量の水が流れ込んでいる。調圧水槽からは、さらに王都外郭放水路へと水が流れ、最終的には騎士王国を流れる幾つかの川に向けての排水がなされる。
調圧水槽にまで流れ落ちてしまったら、戻るのは至難の業だ。外郭放水路は人間が通ることを意識して設計はされておらず、そこまで押し流されれば、おそらくは助からない。
「……ぷはっ!」
ショウタは水面からなんとか顔を出して、呼吸を確保した。左手で自らの腰元をまさぐり、一本の金属棒を掴む。水中で振り抜けば、金属棒の先端部から鞭蛇が飛び出し、数メートル先を流れるイーノとサウンの身体に巻き付いた。
「おい、どうすんだ! このままじゃ……」
耳元でヒューイが怒鳴る。ショウタも歯を食いしばって怒鳴り返した。
「わかってますよ! わかってますから、静かにしてください!」
この状態で呼吸を整え、意識を集中させるには多大な苦労を要した。高速集中思考。先ほど確かに自覚し、身体に染みこませたその感覚を、再現しようと努力する。死を目前にしながら、あらゆる雑念と焦燥を排除して、ショウタの意識は誰しもに平等に流れるはずの時間の流れを、置き去りにする。
世界が停止した。目まぐるしく変化していく目の前の景色が、ぴたりとその動きを止める。
都合、彼にとっては3度目となるその状態は、ごくごく自然に訪れた。だが、それを自分の精神で固定し、維持するのは極めて難しい。途切れそうになる集中力を、ショウタは無理やりにでも縛り付ける。五感を刺激するあらゆる事象が引き伸ばされ、激流が地下水道に響かせる轟音は、やや間の抜けたものへと変化していく。ショウタ達を押し流す水の流れは、相対的な慣性の増大と共にその粘度を増し、まるで泥濘のようにショウタ達の身体に絡みついた。
水の重さは、空気の比ではない。力をひねり出したところで、この高速思考に追いつかせるように手足を動かすのは不可能に近かった。それでも、この動きを止めた激流からは脱出せねばならない。ショウタは今一度、思考領域にアクセスし、自分とヒューイの身体を水の中から引きずり出そうとした。身体に絡みつく重たい水を、強引に引き剥がすようにして、気が遠くなるような遅々とした動きで、少しずつ、浮上させていく。
それでも、思考加速をさせていない状態でみれば、かなりの高速であったことだろう。ショウタの体感では100秒以上かけて行う鈍重な動作であったとしても、現実の時間においては0.1秒にも満たぬ刹那の時間に過ぎない。
その刹那の高速思考を維持するのに、ショウタは自らの精神力を急激にすり減らす。おそらく、体感にして、あと30秒も持たせることはできまい。ショウタとヒューイの身体は、もう腰近くまで、激流の中から引き抜かれていた。
高速集中思考における、高効率の思考パフォーマンス。そこから引き出される〝力〟の変換率は通常時の比ではなかったが、それでも彼らの身体を激流から引き上げるには、多大なる労力と時間を要するものであった。
残り20秒。上半身が、通路の縁に届く。
残り10秒。膝上のあたりまで、水中から引きずり出す。
残り5秒。足首まで引きずり出す。
残り3秒。つま先を水から引き抜き、全身が完全に宙に浮かぶ。
残り1秒。ショウタは歯噛みした。全身が、まだ通路に届かない。
時間切れだ!
世界は正常な時間の流れを取り戻す。ショウタとヒューイの身体は、完全に空中へと放り出された。あわや、再び水の中かと思った瞬間、ヒューイがその右腕で縁の突起を掴む。自分たちの身体に何が起こっていたかも、理解できなかったであろうに。咄嗟の判断力はすさまじい。
だが、右腕だけでショウタの身体と、さらに彼が左腕のトウビョウで結びつけたイーノとサウンを支えきるのは難しい。ショウタは一瞬の躊躇の後、自らの右腕を吊る布と包帯を〝力〟で引きちぎり、自由になった右腕でさらに突起を掴んだ。骨折は完全に治癒していない。激痛に意識が飛びそうになり、全身から脂汗がにじむ。ショウタはさらに思考領域へのアクセスを続け、ひねり出した力で突起を掴む右腕を固定した。
脳の疲労がだいぶ溜まっている。力の確保もいつまでもつかわからない。だがそれでも、ショウタはヒューイを見て言った。
「早く上がってください!」
ヒューイは頷き、ショウタの腰に回した左腕を放す。がくん、と全身にかかる負担が増大したが、なんとかこらえた。ヒューイは両腕を縁につき、身体を持ち上げてなんとか通路へ戻る。
ショウタが力で固定しなければならないのは、突起を掴む右腕だけではない。彼の貧弱な握力では、激流に押し出されそうになるサウンとイーノの重量を、左腕だけで握り締めておくことは難しい。こちらもまた、力で強引な固定を行った。
通路にあがったヒューイは、右腕だけで縁に掴む。ショウタの身体を抱きすくめるようにすると、その身体を勢いよく引き上げる。ショウタの身体は勢い余って通路の上に飛び出して、ヒューイの身体ともつれ合った。ごつごつした少年の身体ともつれ合ったところで、何も嬉しくはないのだが。
ヒューイはさらに、ショウタが左腕で握っていたトウビョウに手を回し、綱引きの要領で激流の中から、イーノとサウンの身体を引っ張り上げた。伝統騎士ほどであるとまでは言わないが、大した膂力だ。おかげで、助けられた。
「おい、イーノ! サウン!」
全身ずぶ濡れなのは4人とも一緒だが、この二人は通路に転がされた後もぐったりとしている。ヒューイがイーノの身体を揺すると、こちらは水を吐き出しながらもなんとか意識を取り戻した。
「ああ、ヒューイ……。俺たち、助かったの?」
「どうだろうな。こいつのおかげで、まだなんとか生きてるよ」
ヒューイが親指でこちらを指してきたので、ショウタは頭を掻く。高速集中思考に力の連続使用で、脳の疲労は激しい。甘いものが猛烈に食べたい気分だった。やや、意識がぼうっとしてしまう。
「サウン、しっかりしろ、サウン!」
イーノとヒューイは、細身の少女の肩を揺すっていた。おそらく、大量に水を飲んでしまったと思しい少女の身体は、依然ぐったりとしたままだ。溺水による窒息症状。おそらくは気道に水が入り込んで、肺水腫を引き起こしている。ショウタは朦朧とした頭の中で、それだけの思考と判断ができることにひとまず安堵し、サウンの身体に近寄った。
むやみに彼女を揺する二人の手を止め、仰向けに寝かせた彼女の顎を上向きに固定して気道を確保する。見れば、サウンの薄い胸は呼吸による上下を見せていない。
「あれです。心肺蘇生をやります」
「ちょっと待て」
人差し指を立ててそう言うショウタの肩を、イーノが掴んだ。
「人工呼吸か……?」
「はぁ、いちおうは……。大丈夫です。学校で習っているので」
「でもそれって基本的に口移しでやるんだろ?」
「えぇーっと……」
ショウタは朦朧とする頭でなんとか思考する。
要するに陽圧をかけて肺に空気を送り込めば良いわけで、必ずしもマウストゥマウスが必須というわけではない。器具も何もない状態で、一般的な人間ができる人工換気法がつまりは口移し式というだけであって、ショウタの場合は〝力〟を使えば普通に陽圧換気はできる。
だが、この朦朧とした思考状態で、正確な陽圧がかけられるかというと、難しいのかもしれない。で、あれば、普通に学校で習ったように、口移し式の人工呼吸をやった方が、確実なのか……?
「絶対に助けられるんだな?」
ヒューイが感情を押し殺した声で言った。ショウタも、人心の機微に疎いわけでは決してない。なので、その辺でだいたい察した。まぁ、女の子1人に男の子2人のグループであれば、だいたいそんなところではあるのだろうが。
ちょっぴり罪悪感を覚えつつも、ショウタは頷く。
「大丈夫です。任せてください」
ショウタは横たわったサウンを見る。水に濡れた短めの銀髪は、この薄暗い水道内においてもはっきりとわかるほどに綺麗だった。閉じられた瞼に連なる睫毛は、思ったよりも長い。目鼻立ちは整っている。有り体に言えば美少女だ。しっとりとした唇には色気もある。
ドキドキしないかといえば、そんなことはないが。
それでもこれは人命救助だ。経験だってないわけではない。はじめて実施した相手は、まぁ、男だったが。あの時だって、力の行使による陽圧換気ができずにやむなくであったのだ。
ひとまずショウタは、自分でも驚く程冷静に、学校で習ったとおりの心肺蘇生法を実行した。
「はっ……!?」
アリアスフィリーゼは再び地下水道に足を踏み入れながら、思わず顔をあげた。何やら世界のどこかで、非常に恐ろしいことが行われているような気がする。それが何かまではわからないが、それはおそらく、知らずにいれば幸せに過ごせるであろうことに思えてならなかった。どのみち、漠然とした予感であるために、それ以上詮索する術はないのだが。
まぁ、まぁ、まぁ、まぁいい。自分はショウタを助けるために来たのだ。ショウタが死ぬ、あるいはショウタがいなくなるより恐ろしいことは、おそらくこの世にはないはずなので、この予感だって詮無いものである。
地下水道の入口はすべて封鎖されていた。彼女が再び地下水道に足を踏み入れるには、封鎖中の騎士達をなんとか押しのける必要があった。無論、力づくではないが、天剣護紋を掲げた以上は同じようなものだ。その件に関する後悔や内省、是非を問うなどといったことは、あとにしなければならない。
地下水道は相変わらずじめじめとして薄暗い。カンテラを掲げ、通路を進んでいく中、アリアスフィリーゼは石畳に転々と連なる、奇妙な赤色に気づいた。
「………?」
訝しげに思い、しゃがみこむ。よく見ればそれは、血痕のようであった。指で触れてみれば、それもまだ、完全に乾ききっていない。湿度の高いこの空間であれば血の乾きも遅くなるが、それを鑑みても、まだ1時間も経過してはいない。
獣魔族の血というものは、脂分が多く粘性が強い。触れるだけでベタつき、糸を引くことすらあるのが通常だが、こちらの血はそうでもなかった。おそらくは人間の流したものだ。そう思うと、アリアスフィリーゼの心胆も冷える。
これが果たしてショウタのものであるのか、否か。通路を進む歩調もわずかに強まる。
進んでいけば、その疑念はさらに混迷を深めた。通路の上に、ゴブリンの亡骸が散見されるようになったのだ。いずれも、鋭利な裂傷が致命傷となっており、おそらく刃渡りにして数十センチ以上の刃物で切りつけられたことにより、絶命している。すなわち剣だ。ショウタの得物はあくまでも鞭であり、彼は剣の扱いに長じてはいなかった。
サウンという少女にしてもそうだろう。となれば、この地下水道には、自分とショウタ達以外にも、誰か、それも剣を持った誰かが、うろついているということになる。それが果たして〝誰〟であるかまではわからないが、しばらく歩いていくうち、アリアスフィリーゼは〝何者〟であるかについて、予測を立てることができた。
床に落ちている布の切れ端。血の染み付いたそれには、王都警邏騎士隊の紋章が掲げられていたのである。




