【CHAPTER:03】 第36話 王都地下水道のひみつ
「だーかーら! 怪物だっつてんだろうが、おっさんよー!」
苛立ちも顕に、不良少女がテーブルをバンバン叩く。この道10年のベテラン警邏騎士、サー・チーフ・ファルロ・バーレンは、少女の振る舞いに対して露骨に顔をしかめた。
雨の降りしきる王都。警邏騎士隊の詰め所である。彼の前にいる3人の少年少女は、水の滴る髪を乾いた布で拭きつつ、ファルロに詰め寄っていた。
悪ガキ3人の面倒を見ろと言われた際は流石に辟易としたファルロだが、騎士王陛下直々の命令ともあれば無下にもできない。ありがたく拝命し、数ヶ月に渡り市民に迷惑をかけまくった少年窃盗団〝グラスイーグル〟の労役刑を、監督する任を負った。
のだが、
「お前達はまたそんなでまかせを言って。俺はな。もう騙されんぞ。大人を舐めるなよ、サウン」
「ばっ、ちっげーよ! 今度はマジモンのマジなんだって! おっさん、嘘にはコロッと騙される癖に、ホントのことはしんじられねぇって、ちょっとこの仕事向いてないんじゃないの!」
とにかくこの任務についてから、ファルロはグラスイーグルのリーダー、サウン・ブラウンを筆頭に、彼らから大いに煮え湯を飲まされてきたのだ。悪ガキどもは、新たな労役に就いては、適当な嘘でサボろうと画策し、ファルロはその嘘に大真面目に付き合ってきた。
やれ、瓦礫の撤去作業中にお宝を掘り当てただの。やれ、作物の収穫中に魔獣が出ただの。ひとつひとつ真面目に付き合っていたファルロは、しまいには彼らの言葉を真に受け王立騎士団の出撃要請まで出してしまった。この一週間で書いた始末書の量は、それまでの10年で書いたものより遥かに多い。
サウンは机の上に身を乗り出し、猫を思わせるような灰色の瞳を、ファルロにぐいと近づけた。
「信じてくれよファルロのおっさん! このアタシの目が信じられねーってか!?」
「3日前、生理だから休ませてくれと言ったときと同じ目に見えるぞ!」
「いやいや、アレはホント! マジで辛かったし!」
「その後、元気に野っ原を駆け回るおまえの姿が確認されてるんだよ!」
顔を突き合わせ、両者の議論はしばしの間平行線を辿る。だが、これでは埓もあかないと思ったのだろう。ファルロは『ふぅっ!』と大げさに息をついて、椅子に深く腰掛け直した。そんな鬼の小隊長がおかしくて仕方がないのか、彼の部下たちは笑いをこらえながら、後ろから見守っている。
「わかった、わかったよサウン」
「ホントか!?」
やけに野生動物じみた、サウンの顔がぱっと明るくなった。
「ああ、俺も取り調べのプロだ。詳しく事情聴取をして、その上で真偽をはかろう」
「はぁ!? なんだよそれ!」
が、すぐさま少女は不機嫌に戻る。表情の忙しい娘だった。ファルロ・バーレンは後ろの部下達に命じて調書の準備をさせつつ、サウンに向き直る。
「良いか、嘘ってのはな。すぐバレるんだぞ。こうやってきちんと調書を取ればだな。矛盾が浮かび上がって、すぐに綻ぶ。作り話ってのはそういうもんなんだ」
「じゃあ最初からそうしてろよ……」
サウンの突っ込みは実にもっともなものではあったのだが、それで信じてもらえるなら、と、おとなしく向かいの椅子に座り込む。それまでの間、サウンの背後についてきた2人の少年は終始無言であった。
ファルロは羽ペンを片手にもっともらしく咳払いをして、〝取調べ〟を開始する。
ひとまず事情の経緯を簡潔に説明するならば、こうだ。
サウン・ブラウンを筆頭にしたグラスイーグルの少年少女3名は、この連日の雨を受け、王都地下水道の外郭放水路に連なる調圧水槽を開くよう、ファルロから命令を受けた。彼らは当然渋ったものの、これも労役刑の一環である。最終的にはカンテラと地下水道の地図をもらって、文句を垂れつつも地下へ潜った。
彼らに割り当てられたのは、地下水道内でも比較的水かさが少なく安全な地域だ。すぐに終わるはずの仕事ではあったが、サウン達はそれを投げ出してこの詰め所へ駆け込んだ。そしていわくのが、『怪物が出た』の一点張りである。
「よーし、じゃあ聞くぞ。怪物ってのは、どんなだった?」
「どんなって……」
いきなり言葉に詰まるサウンであった。少女の瞳は、所在なさげにせわしなく動く。
「暗くて、なんつーか、はっきりわかんなかったし……」
「ほー」
半眼を作って笑うファルロだ。明らかに疑ってかかられているとなれば、やはり、良い気分ではない。サウン・ブラウンは、決してそう古いわけではない記憶を必死に掘り起こしながら、なんとか言葉を搾り出した。
「えーっと、人型でさ……。目が赤くて、爬虫類みたいな肌の……。背はそんなに高くなかった。なんつったかな。ほら、イメージとしちゃ、アレだよ。アレ。あの……」
サウンがまたしてもしどろもどろになると、背後の少年であるイーノがそれを繋いだ。
「ゴブリンな」
「そう、ゴブリンだ!」
ぽん、と手を叩いて、サウンがうなずく。対照的に、ファルロが怪訝そうな顔を作った。
「ゴブリンだぁ?」
「そう、ゴブリンだよ! 何回か絵は見たことあるけどさ、あんな感じだったぜ!」
どうやらそれは確信に近いイメージだったのだろう。サウンはいきなり元気を取り戻し、胸を張って言う。だがやはり、ファルロはまだ信じていない。羽ペンの先を舐めてから、それを調書の上に走らせてこうたずねる。
「それで、大きさは? 背はそんなに高くなかったんだろ?」
「んー、だいたい、130セルチくらい……かなぁ」
「ふっ」
とたん、ファルロは小さく息を漏らすようにして笑った。
「な、なんだよ……」
「語るに落ちたな、サウン・ブラウン。ゴブリンっていうのはな、どんなに大きいものでも1メーティアを超えることは絶対にない。中途半端な知識で嘘をつくから、そういうことになるんだ」
「はぁーっ!?」
サウンは椅子を蹴り立てるようにして立ち上がり、またもファルロに食って掛かる。
「おい待てよ、ファルロのおっさん! じゃあその、ゴブリンじゃなかったかもしれねーし!」
「さっきまではあんなに自信満々だったのに。嘘なのか?」
「うっ……。そ、それは……」
思わずしどろもどろになり、サウンはファルロから目をそらしてしまった。
嘘ではない。嘘ではないのだ。サウン達は確かに怪物を見た。あれが、ゴブリンっぽいと言われれば確かにそう思ったのも事実だ。だが、実際に詳しく確かめたわけではないし、そんな余裕なんて当然なかった。
手っ取り早く信じてもらうために、適当なでまかせを口にしてしまったのである。それでもいつものファルロなら、疑いながらも調べてくれたりしただろうが、少しばかり、今まで悪ふざけをやりすぎた。
どうすればいい。どうすれば信じてもらえる?
サウンが考え込んでいると、ファルロはすでに調書を片付け、別の書類にペンを走らせていた。
「お、おいおっさん。なんだよそれ……」
「騎士王陛下への上申書だよ」
ファルロは少しばかり不機嫌な声で答える。
「おまえらは、嘘をついて労役刑をサボろうとする傾向があるからな。ちょっと刑期を延ばしてもらわねばならん」
「はぁーっ!?」
本日何度目かになるその感嘆句が、サウンの口から漏れた。
「ジョーダンじゃねーよ、おっさん! ただでさえ1日8時間半年なんて、辛くて辛くてやってらんねーのに!」
「当然のツケだろうが! 大人をからかうからだ! 悪ガキども!」
サウンが机をバンと叩き、顔を突き出すと、ファルロも同様の仕草と共に椅子をけりたて、果たして20歳差近くある2人は、勢いよく額を付き合わせた。この至近距離で、互いの唾が飛び交うのも気にせずに激論をぶつけ合う。売り言葉に買い言葉だ。どちらも最安値で机の上に叩きつけられていた。
「だいたい親御さんの気持ちを考えたことがあるのか、おまえらは!」
「オヤジもオフクロも、今は関係ねーだろーが!」
「おまえ達の素行の話をしているんだ! それでどれだけの人が迷惑すると思ってる!」
「うるせー! 人の気持ちも知らねークセに!!」
サウン・ブラウンが、一番嫌いな文句のひとつが『人の気持ちも知らない癖に』である。正直、甘ったれんなと思う。これを口にするのは、突きつけられた正論を否定できず、持て余した自分の感情を正当化したい、甘ったれたクソ野郎どもだけだ。
なので、その言葉をサウン自らが口にした瞬間、彼女は敗れたようなものだった。自分は間違っていない。間違ったことを言っていない、という気持ちが、心の底に澱む。自分自身の女々しさに吐き気さえした。
「クソッ、おっさんに話したアタシがバカだったぜ!」
捨て台詞と共に、サウンは机にひと蹴り入れて背を向ける。そのまま彼女は、詰め所を飛び出した。王都に降り注ぐ豪雨の中、雨具ひとつも持たずに駆けて行く。背後から2人の仲間、すなわちイーノとヒューイの声が聞こえたのだが、ファルロの静止だけは届いてこなかった。あのくそったれオヤジめ。こちらが珍しく下手に出てやったかと思えば。
大粒の雨が、髪を濡らし頬を叩く。痛みや冷たさよりも、心の底からふつふつと湧き上がる苛立ちのほうがはるかに強かった。理はファルロのほうにあると頭では理解しているが、それでも納得まではできない。嘘をついていないのは事実なのだ。地下水道で、サウン達は間違いなく怪物を見た。
だが、所詮は犯罪を起こした自分達のことを信じてくれる大人など、いやしないのではないか。両親の視線だって、いつからか冷たくなった。ファルロ・バーレンはその中で、自分達の言葉を真に受けてくれる唯一の例外だったが、とうとう彼からも不信を買う結果となってしまった。
ああ、クソ。
サウンは大通りに出て立ち止まり、空に浮かぶ分厚い雨雲を見つめた。この豪雨が止む気配は、しばらくない。もう10日以上、雨は降り続いている。雨季に入るまではもう少しあったはずなのだが、今年の天気はなんだか変だ。
大通りといえど、これほどの雨が降りしきる中であれば、人の行き来はほとんどない。こうした中でも自由に外出できるのは、傘や馬車などを有する一部の富裕層だけだ。今このときも、雨に打たれて、再びとぼとぼと歩き出すサウンの前のほうから、貴族の馬車が走ってくるところだった。
車輪が水を撥ね、サウンにかかる。彼女は小さく舌打ちをした。普段の彼女であれば、貴族の馬車の後ろから罵声を浴びせるところであったが、今はそんな気力もない。
イーノやヒューイも追いかけてこねぇし。いや別に追いかけてほしかったわけじゃねぇけど。アタシはそんなにメンドくせぇ女じゃねーけど。
などと、心の中で愚痴と言い訳を繰り返しながら、大通りを歩く。
「お嬢さん、ちょっとお待ちくださいまし」
ちょうど背後から、そんな声が聞こえた。振り向けば、先ほどすれ違った馬車が停車し、ひとりの貴婦人が顔をのぞかせている。従者が傘を片手に馬車の扉を開けると、貴婦人はドレスの裾をつかんだまま降りて、こちらのほうへ歩み寄ってきた。
「あら、あら、まぁ、まぁ、まぁ」
どこかで見た顔だな、と思いつつも、サウンは思い出せない。
「これはこれは、お久しぶりザマス。可愛い泥棒さん」
「あン?」
サウンが眉に皺を寄せて聞き返す。
「あら、ワタクシのこと覚えていらっしゃらないザマス? ちょっと前のバザーで、カッコイイ石ころをお盗みになったザマしょ?」
「ああ、あの時の……」
思えば、逮捕のきっかけになった事件だ。あれ以来、サウンの人生にはケチがつくようになった気がするのだが、迷惑をかけたのはこちら側なのでそんなこと到底口に出来ない。名前は忘れたが、この女性は、どこかの伯爵夫人であったように記憶している。
貴族サマがわざわざお礼参り、というわけでもあるまい。雨に濡れる無様な不良娘を笑いに来た、という雰囲気でもなさそうだった。サウンが怪訝そうな顔をすると、伯爵夫人はわきに立って傘を差す従者を見た。従者は頷き、サウンに対して馬車へ入るよう手で促す。
どういうつもりだ? と、困惑を露にするサウンに対し、伯爵夫人は言った。
「ご遠慮なさらないで。ワタクシ、アナタみたいなみすぼらしい子が雨に濡れて更にみすぼらしい姿をさらしているのは、我慢できませんザマスのよ」
貴族特有の嫌みったらしい言い回しには、余計なお世話だと叫びたくなるところだったが、
「……へきしっ!」
代わりに出てきたのは、くしゃみである。
「それに、カッコイイ石ころが好きな方に悪い方はいないザマス。一人で雨の中歩いていらっしゃるからには、よほどの理由があるのザマしょ? このワタクシがお話を聞いてさしあげるザマス」
別に、カッコイイ石ころが好きだから盗もうとしたわけではない。正直、あのころはスリルが欲しかっただけなのだ。それゆえに、そんなことを言われると、少しばかり後ろめたさがある。
優しくされた途端、今までの自分が幼稚に思えてくる、そんな自分自身の単純さがサウンは嫌だ。突っ張るなら突っ張るで、もうちょっと長続きさせればいいのに。どうにも中途半端な悪ガキだな、と、自分でも思う。
「庶民が困ってたら力になるザマス。ノブレス・オブリージュ。それが貴族のタシナミザマス」
そんなこと言って、この貴婦人は、果たして自分の言うことを信じてくれるのだろうか。
まぁ、いいや。
サウンは思う。どうせ信用なんて最初からないような身だし。
心が落ち着けば、雨粒の痛さと冷たさが染みるようになる。このまま家に帰る気にもなれないし、雨宿りさせてもらえるなら、喜んで好意に甘えよう。
そうして、サウン・ブラウンは、フェイルアラニン伯爵夫人の馬車に乗り込んだのである。
Episode 36 『王都地下水道のひみつ』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
フェイルアラニン伯爵といえば、一部界隈では伯爵本人よりもその夫人のほうが有名である。
マダム・フェイルアラニンは幼少時から絵画や文学に並々ならぬ関心を注ぐ文化人であり、伯爵家に嫁いでからは、社交界の婦人たちを集めた文化交流の場である〝サロン〟を開設した。今では王都で当たり前のように見られる大衆食堂の普及に全力を注いだのも、このマダム・フェイルアラニンだ。
サロンでは、それぞれが自慢の文化人を持ち寄って、例えば絵画を描かせたり、料理を作らせたりすることがたびたびある。この日、ショウタ・ホウリンは、サロンの誘いを受けたアリアスフィリーゼ姫騎士殿下と共に〝宮廷魔法士 兼 料理人〟として、このサロンに招かれていた。
青いドレスを身に纏った殿下は小さく咳払いをして、貴婦人方に挨拶をする。
「このたびは、この素敵な集まりにお招きいただいて、ありがとうございます」
にこりと笑って頭を下げる仕草も、堂に入ったものである。貴婦人がたも満面の笑みで、こちらを出迎えてくれた。
「こちらこそ、プリンセスと魔法士様にお越しいただけるなんて光栄ザマス!」
「この雨の中、わざわざご足労いただけるなんて恐縮ザマス!」
いい人たちなのだろうとは思うが、彼女達の独特のテンションは、ちょっと耐え難い。
「それであの、主催者のフェイルアラニン伯爵夫人は、どちらに?」
「大変申し訳ないザマスけど、少し遅れてくるって言っていたザマス」
「そうですか。彼女は大衆食堂や画廊のオーナーも兼ねておりますから、お忙しいのでしょうね」
姫騎士殿下が貴婦人方と会話しているさなか、ショウタはきょろきょろと視線をさまよわせる。内装はなかなかにオシャレだ。豪奢な棚には、おそらくフェイルアラニン伯爵夫人のコレクションと思われるカッコイイ石ころがズラリと並び、壁には様々な絵画が飾られ、壁際のテーブルには幾らかの本が置かれていた。
よく見れば、絵画や本の半数近くは、このサロンに招いた文化人の指導を受けて貴婦人達が作ったものだとわかる。どうやら、このサロンに集う婦人方は、相当にバイタリティあふれる同人クリエイター集団であるらしかった。文化が育つのは国が豊かな証拠で、まぁ、結構なことだとは思う。
さて、ショウタ達がこのサロンに呼ばれたのには、当然理由がある。先ほど述べたとおり、ショウタは〝宮廷魔法士 兼 料理人〟として招かれた身だ。彼にとって料理とは完全に趣味の領域ではあったが、『魔法士様はどうやら料理も嗜まれるらしい』という噂が王宮を駆け巡ると、それを聞いた社交界のマダム達は黙っていなかった。
ショウタはこの数日、豪雨のため外に出ることもままならず、王宮内の厨房で時間を潰すことが多かったのも、そうした噂の伝播に一役買っていたことだろう。先日のオーク討伐合宿でポキッとやってしまった右腕の骨は折れたままで、包丁ひとつ握るのにも相当難儀したわけではあるが、それならばいっそ握らねば良いと、最近では手を一切使わずに料理をする。
別にショウタが使う〝力〟は魔法でもなんでもないのだが、調理器具がまるで意思を持つかのように飛び交い、見る見るうちに料理が作られていく過程というのは、それなりに見るものを楽しませる効果があったらしい。徐々に徐々に観客が増えて、とうとうサロンにお呼ばれ、というわけだ。
ショウタとしては、手を使わずに料理をするのは訓練の一環であって見世物ではない。オーク討伐合宿の一件で、いささかばかり無力さを痛感した身であるからして、もう少し効率的にモノを動かせるようになりたい、と思ったのがキッカケだ。
『ショウ年はパワーはあるけど大雑把すぎる』というのが、故郷で受けた師匠からの評価であった。確かに、今までやってきたことと言えば〝力〟で壁を張ったり、何かを投げ飛ばしたりする程度だ。料理ができるくらいになれば、力の汎用性だって相当上がる。
ま、それでも誰かが自分の作ったものを食べたいとあれば、無下にはできないものだ。招待に預かったとき、ショウタは二つ返事でオーケーを出した。
「ではショウタ。マダムが到着するまでに、お昼を作ってしまいましょうか?」
まだ少し落ち着かないショウタに対して、アリアスフィリーゼ姫騎士殿下は振り向いて、そのように言った。
「あ、良いんですか? 先に作っちゃってて」
「はい。貴婦人方は、ショウタの〝力〟より料理のほうに興味がおありのようです」
「あー、それは嬉しい話ですねぇ」
すでに材料は厨房に用意されているということで、ショウタはそちらに向かうことにした。
添え木と共に吊った腕への違和感はなく、もうだいぶ慣れた。少しばかり不便をすることはあるが、まぁそれも訓練である。ただ、何かにつけて手を貸したがる殿下を断るのだけには、やたらと難儀した。あまり適当に断ると、泣くのだ。
「ショウタ、何かお手伝いは要りますか!?」
「んー、じゃあ、その時になったらお願いするので、後ろから見ててもらっていいですか?」
「はい!」
なので、最近はこのような形で落ち着いている。
厨房は、王宮のものと比べても遜色ないほどに整っていた。様々な種類のかまどがあって、そのうちの大体は王宮の調理人から使い道を聞いたものの、まだどのように扱えばいいのかわからないものもある。ま、ショウタはフライパンと鍋を火にくべられればあとは何でも良い。
「今日は何を作るんですか?」
「えっと、卵焼きと、あと肉じゃがみたいな奴を……」
「ああ、あのポトフですね?」
「はい」
アリアスフィリーゼはウキウキした様子で、ショウタを背後から見守っている。サロンのほうからは、貴婦人達の楽しげな談笑が聞こえていた。
「なんで、〝みたいなもの〟なんですか?」
「この国には、僕の国にあった調味料がないからです」
ショウタは竈にヒョイヒョイと薪を置いてから、そっとその手をかざした。自身で料理を作るようになる上で、一番難儀したのがここだ。元から、火打石の使い方なんていうのもよく知らなかったから、火をおこすのだけは、最優先でなんとかしなければならなかった。
いつもは大雑把に動かしている〝力〟の対象を、分子のひとつひとつに絞り込む。分子運動を高めれば温度があがるのはわかっていた。発火の詳しいメカニズムは、師匠から教わっていたはずだが、当然覚えているわけがない。いちいち思い出すために、周囲には〝魔法の手鏡〟と説明している例のアレを、久々に起動させなければならなかった。大体の化学現象は、この中にメモしてある。
やがて燃料は引火点を越え、ようやく発火した。さっさとここまでの流れをスムーズに行えるように、なりたいものである。アリアスフィリーゼはぱちぱちと手を叩いた。
「なんだかショウタ、本当の魔法使いになったみたいですね」
「いやぁ、この程度じゃまだまだですよ」
褒められるのには慣れていないので、むず痒い。これが師匠なら、調子に乗らないよう釘を刺されるところだ。
ボールの上に卵を割って溶き始める。アリアスフィリーゼがうずうずしていたので、砂糖と牛乳を持ってきて欲しい旨を伝えると、彼女は満面の笑みでそれを運んできた。一国の姫が、完全に助手に甘んじている。ちょっぴり恐れ多い。
「相変わらず、甘い卵焼きなんですね……?」
溶いた卵に、砂糖と牛乳をどばどば入れていくショウタを見て、プリンセスはそう言った。
「殿下、お嫌いなんでしたっけ?」
「嫌いではないのですが、ショウタの作る卵焼きは、ちょっと甘すぎます……」
眉に皺を寄せる彼女を見て、なら少し量を抑えようかな、とも思う。空中で、砂糖の袋がぴたりと停止した。
「僕の師匠が甘いものが好きだったから、そのせいかもしんないですね」
ぽつり、と思い出したようにつぶやく。アリアスフィリーゼは、当然のように食いついた。
「ショウタのお師匠さんですか?」
「はい」
「魔法の?」
「魔法じゃないですけど、はい」
彼女はとにかく味覚がぶっ壊れていた。紅茶に入れる砂糖は溶けなくなってからが本番であると豪語し、カップの表面が白い粒で覆われたことなどザラである。そんな彼女の横暴なる要求と、ショウタの味覚の限界妥協点が、すなわちこの卵焼きの味であった。師匠は不満を言いつつも平らげたものだが、ぶっちゃけ、姫騎士殿下を始めた多くの第三者に〝甘すぎる〟と言われるのを見れば、ショウタの味覚もだいぶ彼女側に寄っていたのがわかる。
師匠は守銭奴であった。人間的にはまるで尊敬していないが、彼女のおかげで真人間に戻れたのは確かであって、その辺は感謝している。故郷を離れてだいぶたつが、元気にしているだろうか、とは思わなかった。どうせ元気にしているに決まっているのだ。
「どんな人でしたか?」
あ、聞かれるな、と思った矢先に、アリアスフィリーゼは聞いてきた。微妙に困る質問だ。
師匠を形容する言葉なら色々あるのだが、どれも彼女の人柄を正しく言い表すとは考えにくい。しばらく考え込んだ後、ショウタの口から飛び出したのは、これであった。
「胸の大きな人でしたかね……」
失言であった。
がしゃん、と、背後で姫騎士殿下が食器を取り落とす。振り向けば、顔面蒼白であった。
「あ、で、殿下……?」
「えっ、あの……女性、なんですか?」
ショウタからすれば冗談で言ったようなものだったが、どうやら冗談にはなっていなかったらしい。アリアスフィリーゼはなぜか(なぜか、ということもないだろう!)顔を真っ青にし、目を潤ませ、ぷるぷると震えだした。
あ、まずい。これは、泣く。
ショウタはしどろもどろになりながら、なんとか失言を取り繕おうと努力した。
「はいあの、確かに女性ですが。殿下? そんな、殿下の気にするようなことでは……」
「でも胸の大きな女性なのでしょう!?」
「そうです! たいそうおおきかったと記憶しております!」
「私よりですか!?」
「測ったことがないのでわかりません!」
大声の応酬である。いつの間にか、サロン側から聞こえてくる貴婦人達の笑い声がぴたりと止んでいるのが恐ろしかった。
姫騎士殿下は、真っ青になった顔を今度は真っ赤に染めて、恐る恐るこんなことを口にする。
「そ、その事実は……ショウタの、その、異性観というか……女性の好みに、深刻な影響を与えましたか……!?」
「何を聞いているんですか!?」
「胸の大きい女性は好きか、と聞いているんです!」
「深刻な影響は受けましたが、だからって胸の大小は好みに関係しませんよ!」
「じゃあ大きい女性が好きなわけではないんですか!」
「もう止めましょうよこの話!」
ショウタは嘘をついていない。胸ばかり見ていると師匠が心を読んでからかってくるので、どちらかといえば積極的にそこから目をそらす習性がついた。なのでショウタは、姫騎士殿下で言えばそのつるりとしたおなかのラインにトキメキを覚えることがあっ
この話は止めよう。
「いいですか、殿下。僕からすれば、師匠の胸が大きいのと殿下の胸が大きいのはそんなに関係ないですからね?」
「私の胸にお師匠さんの胸を重ねてモーションかけてたわけじゃないんですね?」
「断じて違います。モーションかけてたかどうかは別にして」
ショウタの故郷からすれば、『モーションかける』という慣用句はだいぶ古い言葉だったが、なんとか理解はできた。
殿下はまだどこか納得いかない様子ではあったが、なんとか泣かずに済んだ。ちょっと面倒くさいことを言ってしまったなぁ、と、ショウタも反省しきりである。冷静に考えてみれば、もっとこう、いろいろあった。意地汚い人でした、とか。
「ショウタ、砂糖マシマシで行きましょう」
「良いんですか?」
「はい。なにやらその味から舌を背けるのは、非常に癪な気持ちなのです。理由はよくわかりませんけど」
ぷう、と頬を膨らませる風船殿下は極めてレアリティが高い。ちょっぴり不機嫌そうなのは変わらないので、そこはあえて従うことにした。
卵焼きは、薄い層を何回もロールさせて作る。このやり方は、この国では珍しいようで、出来上がった卵焼きのふんわりとした感触自体は非常に反響が良かった。王宮でも、卵焼きのほかに卵焼きショウタ風というメニューが出来上がっており、恥ずかしいのでそこは厚焼き卵と呼ぶように訂正をお願いしている。
さぁ、ポトフに着手しよう、という時である。
「プリンセス・アリアスフィリーゼ、よろしいザマス?」
サロンのほうから厨房に、マダムの1人がぴょこんと顔をのぞかせた。口元には堪えきれない笑みを浮かべている。先ほどの話題は筒抜けだったのであろう。まぁ、ドン引きされなかっただけマシ、とも思える。
「はい、なんでしょう?」
そこで満面の笑みで応じられる姫騎士殿下が、ちょっぴり羨ましかった。
「王宮から使いの方がいらしてるザマス」
「王宮から?」
「はい、なんでも火急の用事らしいザマス?」
ショウタとアリアスフィリーゼは顔を見合わせた。火急の用事、とは、一体何のことだろう。少しばかり考えても、思い当たる節はない。
「呼んでいるのはウッスアですか?」
「はい、宰相閣下から、お急ぎで、ということザマス」
「でしたら、本当に火急の用なのでしょうね……」
姫騎士殿下は、フライパンの上に置かれた卵焼きを、名残惜しそうに見た。
「わかりました。向かいましょう」
「あ、じゃあ僕も行きます」
殿下の後ろを追ってついていこうとしたときだ。アリアスフィリーゼはくるりと振り向いて、その人差し指をショウタの口元に押し当てた。
「ショウタは、こちらでゆっくりしていてください。せっかく招待されたのですから。私も用を済ませたら戻りますが、お昼過ぎまでに戻れなかったら、同じものを、今晩私に振舞ってくださいね」
「あっ、ハイ……」
殿下にそのように言われては、押し黙るを得ない。まだまだ押しの足りないショウタだ。
「それでは、マダム。呼ばれた身でありながら大変不躾ではありますが、失礼させていただきます。フェイルアラニン伯爵夫人には、よろしくとお伝えください」
「かしこまりましたザマス。プリンセス、お気をつけて」
アリアスフィリーゼは厨房を出る際、一端こちらに振り向いて、笑顔で手を振ってくれた。ショウタも小さく笑って彼女を送り出すが、少しばかり落胆は隠せない。どこまでも金魚の糞のようについていくのはみっともないが、殿下が公務に臨む際も、もう少しアシストできるようになったほうがいいのかな、とは思う。
ま、それはいずれだ。今は、〝力〟を鍛えるほうが先である。本来は時間のかかるポトフをわざわざ後回しにしたのだって、新しい〝力〟を試すためなのだ。
ショウタは、あらかじめ用意してもらうように頼んでおいた魚の出汁を開けて、調理の続きに着手した。