第35話 乗り越えた先にあるもの
ヨーデル・ハイゼンベルグの指揮で、すぐさま薪が組まれる。残ったザイルを馬の力で牽引し、袈裟懸けの巨体を窪地から上にまで引き上げた。流れ出る血液は通常の個体のものよりはるかにドス黒く、放たれる異臭は凄まじい。全身から分泌されている不燃性の体液も、その量は多かった。引きずるごとに、混じりあった液体が地面に軌跡を残していく。
全身から溢れ出るのは何も液体のみではない。先程から袈裟懸けの巨体から溢れ出す黒い霧のようなものは、まだ僅かにではあるが残っていた。ヨーデルはくれぐれも慎重に扱うよう、指示を下す。
アイカとキャロルが、ゆっくりと坂を上ってくる。
ショウタは、討伐隊の他のメンバーと共に、2人を出迎えた。戦いが終われば、2人は自らが満身創痍であるのを思い出したかのように、互いに肩を貸し支えあっている。
「お疲れ様です、騎士隊長」
副隊長格のハイヤットがそう言いながら、キャロルに騎士外套を手渡した。鎧が砕け、ところどころ鎧下が破けた彼女は、外套を受け取り、袖を通す。ようやく一息がつけた様子だった。
「あー、でん……じゃなくってお嬢様。申し訳ありません。着せて差し上げるものがないです……」
ショウタは所在なさげに視線をさまよわせると、彼女はきょとんとした表情を作り、すぐに微笑んで見せた。
「ご心配なさらず、ショウタ。私は気にしておりませんよ」
「そこは気にしましょう?」
鎧下の損傷具合で言えば、アイカの方ははるかに激しい。プールボワンを意識して作られ、ビロードや金銀糸織などで装飾された美麗な鎧下は、袈裟懸けの無粋なひと裂きによって無残にも引きちぎられている。結果として、彼女の肩から、腰元のきわどい位置にかけては、それこそ白磁を思わせるようなきめ細やかな表皮を、肌着という薄布一枚で隔てている状況だった。
アイカの肢体のうち、もっとも艶かしくメリハリの効いた部分が浮き彫りになっている。手の届く位置に、たわわに実った果実が二つほどぶら下がっているのは、たいそう心臓によろしくはなかった。周囲の騎士達の視線が、ちらちらと向けられている環境を含めてそれは極めて下品だったが、アイカの清廉で潔癖な精神性との解離性が、なおさら倒錯的な色気を醸し出しているように見えた。
つまり、何が言いたいのかというと、その、
ショウタがもじもじしていると、キャロルはフッと笑って自らのサーコートをアイカに差し出した。
「これを着ろ、アイカ」
「はい? しかし、キャロル……」
「いいから着ろ。この少年は、アイカ・ノクターンの裸を周りの男に見られることがたまらなく悔しいのだ」
故郷の文学作品を思わせる物言いは、ちょっとばかり過剰な気もしたが、まぁ当たらずとも遠からずなのでショウタは頷いておく。
「えぇ、まぁ。そんなところです」
「そうですか。では着ましょう」
アイカはあっさりと頷いて、サーコートに袖を通す。彼女がキュッと前を閉めると、危険な領域が視界から完全にシャットアウトされ、ショウタはようやく落ち着いて彼女と話すことができるようになる。周囲の騎士達の名残惜しそうな視線が、アイカの胸元に突き刺さっていた。
「アイカ、おまえと共に戦うことができて良かった。感謝している」
キャロルがこほんと咳払いをした後に、そのようなことを言う。
「こちらこそ。キャロル、あなたのような剣友を持てて誇りに思います」
アイカはそのように答えた。両者はどちらかともなく手を差し出し、がっちりとした握手を交わす。
「ショウタもな。恐怖を踏み越えて、勇気を絞り出すことの尊さを教えてくれた」
「まぁその、オークに勝てて良かったです」
「……お前も知っているのか?」
キャロルが途端に怪訝そうな顔を見せたので、ショウタは首をかしげた。
ショウタが知っているのは、キャロル・サザンガルドがオークに対するトラウマを持っているということだけだ。確かに、公言していいことではなかったかもしれないが、これまでの戦いっぷりを見れば自然とわかることでもある。キャロルがなんとか苦手のひとつを乗り越えることができて良かったと、そう言ったのだが、何か間違っていただろうか。
「いや、知らないならいいんだ……」
周囲の騎士たちが神妙な顔をして頷いているので、ショウタはそれ以上追求しないことにした。トラウマにはいろいろな種類があるのだろうし。
「ところで、ショウタ」
話を切り替えるようにして、アイカが一歩、こちらに歩み寄った。ショウタは少しどきりとしながら、彼女の顔を見上げる。
「は、はい。なんでしょう」
「ショウタの腕ですが」
と言って、アイカはだらんと下がった彼の手を取った。瞬間、彼の腕に鈍い痛みが走る。口を突きそうになる情けない声をなんとか噛み殺し、顔をしかめる。アイカがショウタの袖をまくると、青紫色に腫れた二の腕が姿を見せる。
『うわぁ、グロっ』というのは、自分自身の腕に対する感想なのだから世話がない。袈裟懸けに殴り飛ばされ、そのまま地面に叩きつけられた時に骨折したものだ。思考領域から絞り出した〝力〟で、極力ダメージは減衰させたつもりだったが、それでも右腕はポッキリいってしまった。
「まったく、こんな無茶をして……!」
アイカは声に憤慨をにじませてそう言った。心配されていることを嬉しく思いつつ、少しだけ、申し訳なくも思う。結局のところ、ショウタはほとんどアイカの手助けにはなっていなかった。今までだって足手まといにはなっていなかったつもりだが、彼女を心配させてしまっては差し引きややマイナスだ。
生まれ故郷で、師匠との訓練をサボってきたツケがここに回ってくる。腕の一本で済んだのは、おそらく本当に幸運だった。場所が場所なので、アイカはまだキリリとしているが、状況次第ではもしかしたら、彼女を泣かせていたかもしれない。
「ふむ。しかしその程度なら、2、3日くらいで治りそうだな」
「ショウタは私たちとは身体の作りが違います。特殊な鍛え方をしていないので、骨折もそう簡単には快癒しません」
さらりと恐ろしい会話を交わしているような気もしたが、やはり追求はしない。
「とにかく、あとで衛生騎士に診てもらって、絶対安静です。良いですね?」
「は、はぁ……。なんかすいません……」
出てくる言葉は曖昧だが、ショウタもこれで、割と真面目に落ち込んでいたりするのだ。あからさまな力不足を痛感している。個人が強ければ良いわけではない、という、アンセムやヨーデルの主張も理解できないわけではないが、それでも、姫騎士殿下と行動を共にする以上は、もっと強くなければならないな、と思う。
周囲はようやく落ち着きを取り戻し、騎士たちは帰投の準備を始めていた。彼らの話を聞くに、既にエリア内における獣魔族の群れはほぼ討伐が完了しているらしい。その多くが、〝王無し〟のゴブリンの群れであったり、若い個体しか見られないオークの群れであったり、統率者の不在から討伐は容易であったということだ。
他の群れを呼び寄せないため、これから袈裟懸けの死体も火葬が行われる。薪組みももう終わっているだろう、と思われたとき、困惑した悲鳴のようなものが、背中側から聞こえてきた。
「お、おい。なんだこれは!」
周囲は一瞬で緊迫した空気を取り戻す。振り向けば、3メーティアを超える袈裟懸けの骸に、明確な変化が起きていた。アイカ達が駆け寄り、ショウタもすぐにそれを追いかける。
袈裟懸けの死体からは、黒い煙が勢いを増して立ち上っていた。同時にこれまでにないほどの異臭が立ち込め、シュウシュウという音を立てながら、その肉が溶け落ちていく。死してなお、こちらの精神に訴えかけるような醜悪な光景に、見守る一同は嫌悪感を顕にしていた。やがて黒ずんだ骨格だけがその場に残され、キャロルやアイカの剣をもってしても貫通、切断が難しいとされたその堅牢な骨は、外気にさらされた瞬間、いとも容易く砕け散る。
「自壊した……?」
キャロルの怪訝そうな声は、その不可思議な現象に前例がないことを示している。周囲の騎士たちにも、ざわめきが伝播していった。
溶け落ちた肉や骨は、そのまま黒い霧と蒸発し、霧は薄れるようにして消えていく。やがて、そこに袈裟懸けが存在したという痕跡は、完全に消滅してしまった。
「未知の病原菌によるものか、あるいはまた別の外的要因か……」
馬上のヨーデル・ハイゼンベルグはぽつりとそう言った。
「念のため、体液の残る部分は焼却処分を行え。ディム・ルテナント・キャロル、並びにディム・アイカは、帰投後消毒を受けろ。作戦はまだ進行中だ。無駄口を叩いている時ではないぞ」
あれが悪いものである可能性は、当然ある。アイカとキャロルは顔を見合わせていた。ショウタとしても、こんなもので未知の病気を発症されたりすると、ちょっとイヤだ。特にキャロルは、袈裟懸けの喀血を頭からかぶってしまっている。
周囲の騎士たちは、そそくさと帰投の準備を再開した。アイカ達もそれに混じる。馬上で険しい顔を作るヨーデル・ハイゼンベルグは、自ら『無駄口を叩いている時ではない』としながらも、アイカ達の方へとゆっくり近寄ってくる。キャロルは敵愾心も顕に身をこわばらせていた。
「ディム・ルテナント・キャロル、戦いとは恐ろしいものだったろう」
「………」
冷たく見下ろすヨーデルの視線と、複雑に混ざり合った感情を宿して見上げるキャロルの視線がぶつかる。穏やかではない様子に、アイカははらはらした様子だ。が、ショウタが『どうどう』と言いながら背中を撫でると落ち着いた。思い出したが、彼女はじゃじゃ馬であった。
「これで貴公も少しはおとなしくなれば良いのだがな」
「それが無駄口ではないとでも言うのか? サー・メイジャー・ヨーデル」
「大事な部下を労うのは無駄口だとは思わんな」
これで労っているつもりらしい。まさか本気ではないだろうが。またも隣のアイカがはらはらし始めたので、ショウタは自ら割り込んで話題の方向性を逸らすことにした。
「あー、あの。ハイゼンベルグ侯爵さん」
「む……。なにかね?」
いきなりこちらから話しかけられるとは思わなかったのだろう。ヨーデルは少し驚いた様子を見せてから、人差し指で金髪ワカメヘアーをいじくりまわしながら答えた。
割り込んだはいいが特に話すこともないな、と思った矢先に、ひとつ思い出す。
「えぇっとあの、うっかり名前を聞き忘れたんですが、ハイゼンベルグ侯爵さんのところの小姓さん」
思い出すと同時に、彼のほのかに暖かい指先の感触や、整った顔立ちではにかむ仕草なども浮かび上がってきそうになるところを、強固な意志力で半ば強引にねじ伏せる。
侯爵は何やら怪訝そうな顔を作るが、ショウタはひとまず続けた。
「あの、僕たちもうすぐ帰っちゃうし、会えないかもしれないんで、よろしくってお伝えして欲しいんですけど……」
「何を言っているのかわからんのだが……」
ヨーデル・ハイゼンベルグは眉にしわを寄せたままそう言う。それは、アイカやキャロルにしても同様の様子であった。ショウタの言葉の意味を理解しきれていない、といった様子だ。そういえば、彼女たちはショウタと件の小姓少年が親交を深めた事実を知らないのであったか? と思った時、ヨーデルはさらにこのように続ける。
「私は小姓を召し抱えたことなど、いままで一度もないぞ」
「えっ……?」
その一言で、ショウタの、へらへらとした笑顔が硬直した。
Episode 35 『乗り越えた先にあるもの』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そのようなやり取りがあった、さらにしばらく後。
騎士将軍アンセム・サザンガルドは、マーリヴァーナ要塞線における自らの執務室で、すべての討伐作戦が終了したという報せを受けた。シロフォン・サンダルフォン率いる騎士達が要塞線へと帰投する。これだけ大規模な討伐任務でありながら、死者2名、やや深刻な負傷者が9名で済んだのは、さすがに指揮官の腕といったところだろう。
同時に、自身が出ていれば、これらの犠牲も抑えられたのだろうなという確信が、忸怩たる思いを掻き立てる。結局のところ、自分が力添えをするのは果たしてどのラインからであるべきなのか、アンセムは未だに見定めることができてはいない。
「そなたにもだいぶ尽力してもらったな」
報告に来た騎士を部屋から帰し、アンセムがそう言うと、天井にこっそり張り付いていた人影が着地し、机の上に開けられた砂糖菓子をひとつつまんだ。
「いえ、仕事でありますので」
「タマゲッタラにはよろしく伝えておいてほしい。以前王宮を訪れた時にも思ったが、あいつはさらに髪が薄くなったな」
「宰相閣下の頭髪に関する事項は、トップシークレットであります。お話することはできません」
律儀にそう語るのが、王国宰相ウッスア・タマゲッタラ公爵子飼いの密偵である。小姓風のプールボワンに袖を通し、テーブルの上の砂糖菓子をさらに口へと運ぶ彼女は、アリアスフィリーゼ姫騎士殿下の余所行きを心配したウッスアによって、こっそりこのマーリヴァーナ要塞線にも派遣されていたのだ。
と、言っても、貴族間の根回しは既に済んだようなものだ。ヨーデル・ハイゼンベルグやシロフォン・サンダルフォンの気遣いによって、姫騎士殿下は快適とは言えないまでも、基本的には爵位を有する騎士将校や、あるいは騎士将軍の目からそう離れることはなかったので、どちらかといえば孤立気味である宮廷魔法士ショウタ・ホウリンについてもらうことになったのだが。
今の彼女は丹精で中性的な顔立ちをした、少年のような出で立ちをしている。密偵の素顔をまったく知らぬアンセムとしては『男にも化けられるのだな』と感嘆を顕にしたが、彼女としてはやや心外気味に、『ボーイッシュな少女のつもりでありましたが?』と答えた。そう言えば20年近く前、先代ハイゼンベルグ侯爵の家で小姓として抱えられていたシロフォン・サンダルフォンが、このような装いであったような気がする。
「魔法士殿は、そなたから見てどうであったか?」
アンセムは話題を変えた。姫騎士殿下が身分を偽る際、ショウタが小姓に扮するという話はよく聞いていた。密偵には、殿下が訓練やミーティングなどでショウタと離れる際、彼に小姓としての振る舞いや、貴族騎士と伝統騎士の対立構造などを改めて説明しておくよう伝えておいた。
わざわざ高級将校居住区の豪華な食堂を使わせるよう要求してきたりして、密偵がいったい何に扮して彼の護衛と説明役を遂行していたかといえば、
「私は、若き日のサンダルフォン伯爵になりきって演じておりましたので、侯爵への信奉っぷりにはいささかヒいておられるようでありました」
「若き日のディム・シロフォンを知っているのか?」
「噂ではまぁ、いろいろと。私自身はそんなに歳いってないであります」
ぽりぽりと砂糖菓子をかじり続ける密偵を見ながら、アンセムは少しばかり過去を懐かしむ。今は亡き先代ハイゼンベルグ侯爵は、現当主であるヨーデルを上回るほどの熱心な貴族主義者であった。当時はまだ若輩であり、騎士将軍に就任したてのアンセムとは、衝突が絶えなかったのを思い出す。
先代ハイゼンベルグ侯爵は、アンセムが前線に立ち、多くのマーリヴァーナ要塞騎士の間で騎士将軍に頼り切る風潮が生まれた中でも、頑なに戦意を維持し続けたうちの一人である。剣よりもペンに長け、戦争よりも政争に長け、行き過ぎた貴族主義と既得権益に固執する、お世辞にも尊敬のできない男ではあったが、その一点においては今でも彼を評価できる。
アンセム・サザンガルドが自らの行いを省み、前線を退くようになってからは、ハイゼンベルグ家を中心として貴族騎士と伝統騎士の対立が激化、あるいは表面化した。アンセムという強固な力によって押さえつけられていたものが、一気に噴出したのである。今日まで続くそれは、多くの場合非常に見苦しい諍いに発展したが、その中でヨーデル・ハイゼンベルグとシロフォン・サンダルフォンの成長には、目を見張るものがあった。
先代ハイゼンベルグ侯爵の意思は、嫡男であるヨーデルと、娘同然に育てられたシロフォンに受け継がれている。軍事面における貴族騎士の台頭は、彼らの悲願であるようなものだ。魔法推進派の中核であるゴンドワナ侯爵らと結託し、着実に勢力を増している。
「伝統騎士にも、少し頑張ってもらわねばな」
アンセムは、偽らざる本音を、ぽつりと口にした。
「それは、ご息女のことでありますか?」
「キャロルのことも、無論ある。あいつは、どうなのであろうな。今回の戦いで、何かを掴んだであろうか」
恐怖を乗り越え、袈裟懸けの討伐を成したというのは聞いた。娘の無事と成長には、ひとまず安堵だ。
「ヨーデルやシロフォンは、少なくとも指揮官としては優秀だ。ヨーデルなどはまだ青臭い部分はあるが、色眼鏡をかけずに戦力分析と采配を下せる点については、多くの伝統騎士も無意識下で賞賛しているはずだ。あいつにも、そうなってもらわねば困る」
いつになるかは知らないが、いずれは自分も騎士将軍の地位を彼女へ譲ることになるだろう。今のままのキャロルでいてもらっては困る。貴族騎士への偏見を拭ってもらう必要がある。そうした意味で、姫騎士殿下の来訪は、予想外ではあるがひとつの契機になったことだろう。
それは姫騎士殿下にとっても同じであるはずだ。いままで話に聞き、王宮内でもそれなりに目にしてきたであろう、貴族騎士と伝統騎士の対立。それをもっと激しい形で目にし、ヨーデルやキャロル達の生の意見を聞いた殿下にも、何かしらの意識の変化があれば良い。
言葉の途切れ目である。密偵が、砂糖菓子をぽりぽりとかじる音だけが、執務室に響いた。
「引き止めてすまなかったな。夕刻には、殿下と魔法士殿を馬車でお送りする。そなたも、王都へ戻りたまえ」
「はっ」
密偵は立ち上がり、ぴしりと騎行敬礼を行ってそれに答える。
騎士将軍アンセム・サザンガルドは咳払いをし、テーブルの上をちらりと見やると、厳かな声で、密偵に最後の質問をした。
「ところで、ワガハイの分の砂糖菓子は」
「もうないであります」
結局のところ、あの小姓の正体は謎に包まれたままである。ショウタは、少しばかりモヤモヤした気持ちを抱えたまま、王都へと帰還した。利き腕を骨折したおかげでその後も相当難儀し、添え木と共に固定された腕をもどかしく思いながらも、夕食時には『食べさせてあげます!』などと、やおらテンションをあげてくるアリアスフィリーゼ姫騎士殿下のご好意を、甘んじて受けたりもした。
本陣で応急処置を受けたあと、要塞線でしっかりギプス固定してもらった。ついでに袈裟懸けの体液を頭から浴びたキャロル達の診断も行われたが、とりたてて異常は見られなかったとのことである。お互い、胸をなでおろしたものだ。
まぁ、いろいろあって、王宮である。
まだマーリヴァーナ要塞線での合宿から1週間と経ってはいないが、姫騎士殿下はキャロルの様子が非常に気になるようで、使者が訪れるたびに探りを入れていた。昨日は、ヨーデル・ハイゼンベルグとシロフォン・サンダルフォンが貴族議会に出席するため王都を訪れたばかりで、彼らの話を聞くに、まぁ、相変わらずであるらしい。オークに対するトラウマも含めて。
まぁ、恐怖なんてそう簡単に克服できるものではないのだろうな、と、ショウタは半ば他人事のように考える。問題は、そこをいかにして乗り越えるかどうかだ。その点、キャロルはきちんと乗り越えることができた。トラウマは今後も幾度となく壁として立ちはだかるだろうが、一度越えることができたのだ。2度目3度目だって、決して難しくはない。
ヨーデルに、例の小姓の件をもう一度尋ねてみたが、彼は知らぬ存ぜぬの一点張りだった。嘘をついているとも思えない。モヤモヤは残るままだ。胸中に持て余しておくのも気分が悪いので、せめて最後に挨拶くらいはしたかったんですけどねぇ、などと、廊下を掃除していたメイドに話しかけると、彼女は『そうでありますか』などと言って、なぜかやたら上機嫌なスキップでどこかへ行ってしまった。
「なんなんだいったい……」
王都は、出発した時と変わらず、分厚い雨雲に覆われている。王宮の壁を叩く強い雨音が、モヤモヤした気分を加速させた。
「腕が折れると、だいぶできることが減るなぁ……」
本を読むにも一苦労だ。姫騎士殿下は、やたら嬉しそうに世話を焼いてくれるのだが、この怪我の要因はひとえに自分の未熟さであって、そこを考えるとちょっぴり男として情けない。強くならなきゃなあ、と、思う。
ぴしゃん、と、雨雲を引き裂く稲光が王宮内を奔り、直後、耳をつんざくような雷鳴が轟いた。
「ひゃーあーあーあーあーあああああああああっ!!」
聴き慣れているようで聴き慣れていない、ぽんこつな悲鳴も轟いた。殿下は平常運転に戻っている様子だ。
「殿下ぁー、だいじょぶですかぁー?」
ひとまず、悲鳴が聞こえたのでアリアスフィリーゼを探すことにする。また、どこかに頭を突っ込んで、お尻を突き出して震えているのだろうか。
「おへそ隠さないと取られちゃいますよー。おなかがもっとツルツルになっちゃいますよー。殿下ぁー……。あ、いた」
てっきり、隅っこでガタガタとうずくまっているのかと思えば、彼女は大廊下の大きな窓ガラス前に立ち、ぷるぷると震えながら鬼の形相で外を眺めていた。彼女がアイカ・ノクターンとして過ごし、白磁の甲冑をまとっていたのはほんの2日だが、青を主体とした殿下のドレス姿を見るのは、何やら久しぶりな気がする。頭には、鉢金状のティアラがついていた。きっとあれもすごく重いのだろう。
ともあれ、アリアスフィリーゼ姫騎士殿下は窓側に立っていた。雷に怯えていた彼女であるから、意外と言えば意外である。
また、稲光と雷鳴が王宮を揺るがした。
「きゃあああああああああっ!」
殿下が跳ねた。いよいよもって目を閉じ、その端には涙さえにじませながらカーテンをギュッと掴んで震えている。が、その場を離れる気はないようだった。
「う、うう……。ぐすっ……」
しかもマジ泣きである。
「あの、殿下……。なにやってるんですか……?」
ショウタは困惑を顕にそう言った。アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオ姫騎士殿下は、涙をいっぱいに溜め込んだ翠玉色の瞳を、キッと彼に向け、このように叫ぶ。
「見ればわかるでしょう! 恐怖に立ち向かっているんです!」
「ぴしゃーん。ごろごろ」
「ああああああああっ! あーあーあーあーあーああああああああっ!」
ショウタが平坦な声音で雷鳴を演出すると、姫騎士殿下は途端にパニックを起こし、カーテンに包まった。赤いカーテンの、殿下の顔があるあたりに、じわっと水が滲んでいく。鼻をすする音も聞こえた。
「えーっと、恐怖に立ち向かっているんですね?」
「たちむかっているんです……!」
カーテンからぴょこんと顔を覗かせて、目元を真っ赤に晴らしたアリアスフィリーゼが大真面目に頷く。
「キャロルはオークのトラウマを乗り越え、勇気を出して私と戦ってくれました。私も彼女の剣友として、ひとつの恐怖を乗り越えなければならないのです」
「立派なお志です。姫騎士殿下」
そのタイミングで、またしても雷鳴と轟音。先ほどのものよりかなり小規模だが、アリアスフィリーゼはびくりと肩を震わせた。ショウタは、自分より少し高い位置にある姫騎士殿下の頭にそっと手を伸ばし、彼女の流れるような金髪をそっと撫で付ける。上等な布地を触るような手触りがあった。
「ショウタ……」
「でもね殿下、言ったでしょう。殿下一人が戦ってるんじゃないですし、殿下一人が戦えば済む話でもないんです。怖いものは誰にでもありますけど、それに一人で挑み続けたら、心が壊れちゃいますよ?」
「………」
ショウタの言葉を聞き、アリアスフィリーゼは黙り込む。ショウタはさらに、追撃を重ねた。
「共に戦うものとして、僕では力不足でしょうか?」
「いえ……」
カーテンの隙間から飛び出した姫騎士殿下の首が、ぷるぷると左右に振られる。やがて、赤いカーテンの隙間から、やや躊躇いがちな殿下の手が、そっと差し出された。
「ショウタ、私と一緒に戦ってくれますか……?」
「はい、喜んで」
ショウタはにこりと微笑んで、自由に動く左手で彼女の手を握る。アリアスフィリーゼの、しっとりと柔らかい手触りは、ショウタの手を懸命に握り返してきた。直後、ひときわ大きな雷光と雷鳴が王宮を襲うが、姫騎士殿下は悲鳴を噛み殺し、必死で耐えた。
それからしばらくの間、ショウタとアリアスフィリーゼは、ふたり並んで霹靂の鑑賞会を続けたわけである。通りがかった近衛騎士の一人が、仲睦まじく雷を眺める彼らの背中を見て、こんなことを呟いた。
「なんなんだあいつら……」
Episode 19-35 『騎士将軍の楽しいオーク討伐合宿 ~乗り越えた先にあるもの~』 <完>
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ここ数日、王都を襲う集中豪雨は、トドグラード用水路を増水させていた。堤防の高水敷を広く取っている用水路の水が氾濫することはまずありえないが、これらは王都の地下水道に生活用水として流れ込むため、これ以上豪雨が続くと地下水道から水が溢れ出す可能性がある。
その、地下水道での話である。
「ったく、ファルロのおっさんも人使いが荒ぇんだよ!」
はすっぱな口を尖らせて、カンテラを持った銀髪の少女が毒づく。
「こういうキケンな仕事って、フツー警邏騎士にやらせるもんだろ!?」
「そういう仕事を俺たちに回すのが、要するに罰なんだろ……」
「危なそうだったら戻っていいって言われたし、別に良いじゃん」
少女の後ろからついてくるふたりの少年は、気楽そうに答えた。少女は立ち止まり、振り返り、噛み付かんばかりの勢いでふたりに食ってかかる。
「てめーらそれても王都を震え上がらせた少年窃盗団、グラスイーグルの一員か!? そもそも男か!? 女に先頭なんか歩かせやがって! いっそチンコ切り取って地下水道に捨ててやろうか!?」
「やめろよ、俺たちのチンコが井戸水から出てきたら大事件だよ……」
「そもそも王都を震え上がらせてなんかいねーよ」
彼らは、震え上がらせてこそいないものの、王都の市民にそこそこの迷惑をかけた窃盗グループ〝グラスイーグル〟のメンバーである。構成員はこの3人だけだ。数週間ほど前、商会ギルドのバザー会場にて、とある貴族の婦人からカッコイイ石ころを盗んだ彼らは、警邏騎士隊とアリアスフィリーゼ姫騎士殿下の手によって、とうとう御用となった。
少年とはいえ、犯罪者には相応の裁きがくだされる。騎士王セプテトールが書類とにらめっこし、気が進まないながらも下した判決は、1日8時間拘束、合計半年にわたる労役刑である。主な役割は、王都警邏騎士隊の雑用であり、その詳細な内容は数ヶ月に渡り彼らと追いかけっこをしてきた警邏騎士隊の小隊長、サー・ファルロ・バーレンに委ねられた。
今回、彼らは地下水道にいくつかある調圧水槽のうちひとつに赴き、その門を開くという任務を与えられた。キケン、キケンと愚痴を垂れるリーダーの少女サウン・ブラウンではあるものの、地下水道の水かさにはまだいささかの余裕があり、通路は浸水していない。
調圧水槽の門を開けば、地下水道の水が大量に水槽内へ流れ込み、そのまま放水路を経由して複数の河川へと向けられる。騎士王国の優れた治水技術、土木技術を象徴する建造物のひとつが、この王都地下水道と、調圧水槽、そして放水路から成る巨大な地下迷宮だ。
「まぁいいや、サウン。さっさと終わらせて帰ろうぜ」
「言われなくてもわかってンだよ、ヘタレインポ野郎」
サウンはその顔つきに似合わぬ口汚い罵倒語と共に、足を急がせる。
調圧水槽の門が見えてきたとき、その門の前で蠢く人影のようなものを、一同は見た。ぴたり、と足を止める3人である。
「お、おい……。なんだ?」
おびえているというよりも、訝しむような声で、サウンは呟く。
地下水道に浮浪者が住み着くという問題は兼ねてより発生しており、定期的に警邏騎士による巡回が行われている。放水路から調圧水槽にかけては、王都外からの魔物が流れ込む事例もわずかにでは見受けられており、その際はきちんと討伐隊が組まれる。が、その可能性も考慮して水槽の門は頑丈に作られており、王都の地下水道側に侵入してくることは原則としてありえない。
と、言うことは、やはり浮浪者か?
「おい、おっさん! か、どうかは知らねぇけど!」
サウンはカンテラを掲げて叫ぶ。
「悪ィけど、ここの門開けっから! 雨もすげーし、流されると目覚め悪ィからよ! アタシ達と一緒に地上に上がってくんねーかな!」
「…………」
人影は、のそりと動いてこちらに顔を向けた。返事はない。暗闇の中に赤い光がふたつ、爛々と輝いた。
人影の高さは、約1メーティア20セルチほどであろうか。人間にしても比較的小柄だ。それが正しく人間でないことは、カンテラの灯りに照らされることで、ようやくはっきりとする。サウン達は、ぽかんと口を開けた。
耳元まで裂けた大きな口には、不揃いの牙が生える。長い舌を蛇のようにチロチロと出し入れしつつ、その口元からは黒い煙のような吐息が漏れ出ていた。やや爬虫類じみた外見だが、緑色の皮膚に鱗はなくつるりとしている。牙のうちの何本かは、自然では考えられないような、異様な捻くれ方をしていた。
異形は、地下水道に反響するほどの大きな声で吠える。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
『ぎゃ――――――――――――――――――――ッ!!!』
3人の少年少女は異口同音に叫び、かつて王都を震え上がらせた少年窃盗団(自称)グラスイーグルのメンバーは脱兎のごとく逃げ出したのであった。
Next Episode 『王都地下水道のひみつ』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
明日はお休みをいただきまーす。
☆ コラム:ぽんこつ姫まめちしき ☆
第三回:騎士の呼び方の作法
『敬称・階級肩書爵位等・ファーストネーム・ファミリーネーム』が正式。
例)
サー・チーフ・ファルロ・バーレン
ロード・アール・イャミル・フラクターゼ
敬称は、男性がサー、女性がディム、地方を収める領主などはロードとなる。
また、戦闘時など火急の場合は、階級肩書爵位等を省略可。
伝統騎士、一般騎士はファミリーネームを、貴族騎士はファーストネームを省略することがよくある。
例外として王族騎士のみ、敬称が存在しない。
これは、肩書であるマジェスティ、プリンセスなどが敬称を兼ねるため。
また、王族騎士を呼ぶ場合はファミリーネームとミドルネームを省略可である。
例)
マジェスティ・セプテトール・ラゾ・グランデルドオ
プリンセス・アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオ




