第34話 ブレイク・ザ・フィアー(後編)
ゴンドワナ侯爵領、オウロット大森林付近に設営された討伐本隊の前線基地に、サー・チーフ・ハイヤット・サインが駆け込んだのは、今より少し前のことである。折しも、ヨーデル・ハイゼンベルグの指揮下で、袈裟懸け討伐隊の救援が大規模に編成されているさなかであった。
ヨーデルは、形式上の上官であるシロフォン・サンダルフォン千騎士長と共に作戦本部にこもっていた。
もとよりキャロル・サザンガルドを筆頭とした袈裟懸け討伐隊は、マーリヴァーナ要塞線でも指折りの実力者を中心に構成されてはいるが、オークに対し恐怖心を抱いているキャロルが袈裟懸け討伐を上手に指揮できるとは、ヨーデルも思ってはいなかった。彼女たちの持ち帰った情報をもとに、正式な作戦を立案し、それを下地に攻めることができれば被害は最小限に済む。そう考えていたのである。
伝統騎士憎しを掲げるヨーデルとて、むやみに命が失われていいと考えているわけではない。キャロルの編成した部隊を承認したのは、これだけの実力者が揃えばキャロル隊において死者が出ることはないだろうと踏んでいたからだ。
いささか小煩い部下に戦いの恐怖を教えてやり、その上で情報を元手に功績を上げることができれば、ヨーデル・ハイゼンベルグの掲げる戦術中心の軍事増強計画はさらに賛同者を増す。ひいては、貴族騎士がその威光を、軍事・国防面においても轟かせることが、できるようになる。
もし、何かの間違いでキャロル達が袈裟懸けを討伐するようなことがあれば、多少は癪だがそれでも良い。彼女を討伐隊のリーダーに推薦したのは自分だ。どのみち、要塞線での評価は上がる。
だが、事態は思った以上に深刻な方向へと進んでいるようだった。打ち上げられた信号弾は、既に2名以上の犠牲者が出ていることを示すものだった。戦力差を見誤ったのは、完全にヨーデルの責任である。
「マーキス、顔色が優れないようですが……」
「……ああ、いや。気にするな。サンダルフォン伯爵」
額に汗を浮かべ、ヨーデルは人差し指で自らの前髪を弄びながら、そう答えた。
悔しいが、キャロル以下総勢15名で構成された袈裟懸け討伐隊の実力は、総合的に見ても要塞線ではほぼナンバーワンの実力を発揮できるものであったはずだ。まして、オークの準戦略級特異個体ともなれば、数で責め立てる利点は極めて薄い。非力な人間が束になってかかったところで、蹴散らされるのがオチであるからだ。
無論、ヨーデルはその上でなお精鋭を率い、袈裟懸けの討伐作戦を考案するだけの自信があったが、キャロル達が挑み既に2名の死者が出ているのならば、敵の実力は予想を凌駕している。それに今は何よりも圧倒的に情報が足りない。
そうした中にあっての、ハイヤット・サインの登場であった。
こちらの通達に従って撤退したわけではないという、ハイヤット・サインの報告にはいらだちを募らせたものの、新たなる情報の登場には素直にありがたかった。感謝の言葉はあっさりめにし、ハイヤットから受けた報告の内容を吟味する。
準戦略級特異個体・袈裟懸けは、その圧倒的な腕力で二人の騎士を惨殺したこと。
身体を鍛え上げた伝統騎士の肉体を握りつぶすだけの握力を持つこと。
一時的にでもその動きを封じるのに、ヨーデルの開発した尾鉱綱矢が有効であったこと。
その頭骨は非常に頑健であり、ハイヤット渾身の貫翔爆砕弩をもってしても、貫通せしめることはできなかったこと。
仲間の死体を利用したり、相手の名前を呼ぶなど、高い知能によってこちらを罠にかける様子が見られたこと。
報告にあげられている、獲物に対する異常なまでの執着性は、現在ディム・ルテナント・キャロル・サザンガルドに向けられていること。
そのキャロルの身を囮とした作戦により、袈裟懸けの誘導が行われていること。
「サー・チーフ・ハイヤットクラスの刺突撃でも貫けないとなると、これは相当だな」
「デルナント硬度にして推定約32.5……。一般的な個体のオークと比べて2倍以上です」
通常の個体と比して、骨の組成が変化したり、異様に硬質化したりといった事例は、これまでにほとんど報告されていない。〝特異個体〟という言葉の定義に照らし合わせれば無意味な推論ではあるが、袈裟懸けは、これまでに出現した特異個体と比べても、非常に異質な存在なのではないだろうか。
いや、この程度の考察ならばあとでもできるか。
骨のデルナント硬度が30を上回るともなれば、現状の戦力で貫通を狙うのは極めて難しい。目元、あるいは肋骨の隙間を縫う形で、内臓を破壊するより手段はない。問題は、戦闘中それだけ精緻な狙いを定めた矢を射るのが、極めて困難なことであり、最終的には伝統騎士による接近戦を挑まざるを得ない。
オーク戦のセオリーに乗っ取るならば、尾鉱綱矢で動きを止めた後に、その分厚い肉壁を貫けるほどの剣技を持つものによって貫かせるのが鉄則だ。オークの持つ不燃体液と、全身に溜め込んだ獣脂はその粘性が極めて高く、生半可な刺突では止められてしまう。念を押すならば、ハイヤットやキャロルクラスの実力者数名に掛からせるのが良い。
「ヴァイカウント」
ヨーデルは、部下の子爵を呼びつけて、テーブルに袈裟懸けの想像図を広げた。ハイヤットの報告により、この図画が極めて実物に近いものであることははっきりしている。
「率直に聞く。報告を受けた限り、この怪物を制御するのにはどれほどの馬が必要だ?」
「ふむ……」
医学知識の豊富な壮年の子爵は、顎に手をやって考え込んだ。広げられた想像図の、袈裟懸けの筋肉の盛り上がりをそっと撫でる。
「オークは皮下脂肪が多く、外見から正確な数は出せませんな。ですが、この腕のサイズで、人ひとりをゆうに握りつぶせるほどの筋質です。それが全身を支えているのであるとすれば……」
子爵の指先は、図面上の腰周りや大腿部などを確認するように撫で、しばし考え込んだ後こう言った。
「騎馬30頭。それだけは必要になるでしょう。尾鉱綱矢がちぎれないよう、力を分散させる必要がありますから、確実を期すならばもう少し欲しいところです」
「了解した」
ヨーデルは振り返り、シロフォンに告げる。
「サンダルフォン伯爵、60騎ばかり借りていくが、構わないか」
「60騎、ですか」
泣きぼくろが印象的な妙齢の女伯爵は、少しだけ困ったような笑みを浮かべる。
「本陣守護の半数以上、に、なりますね」
「現在、この本陣周辺に獣魔族の群れは観測されていない。予定では20分で北方の群れを討伐した部隊がこちらに合流するはずだ。東へ出た部隊も再合流すれば、備えは万全だろう」
千騎士長シロフォン・サンダルフォンは、くすりと笑った。
「仕方がありませんね。マーキスのおっしゃる通りにしましょう。私がお父様にお仕えしていた頃から、あなたは頑固でしたから」
「感謝する」
ヨーデル・ハイゼンベルグは、すぐさまテーブルの上に部隊表を広げ、マルで囲った騎士に出撃準備を整えさせるよう、子爵へと命じた。
姫騎士殿下と宮廷魔法士はなおも戦闘中だ。被害を抑えるため、彼女たちに頼らざるを得ないのはまさしく屈辱的であった。実力的にも。立場的にもだ。ヨーデルは貴族騎士としてノブレス・オブリージュを信奉しているが、生死の関わる状況に一人の王族騎士を放り込むことなど、王国に仕える者としてまずあってはならなかった。
それでも、そのようにしたのは、これ以上犠牲者を出すことにヨーデル自身耐え切れなかったからである。彼女が単騎で向かえばもっとも速く、かつもっとも生存が見込める。だからそうした。
だが、彼女たちの力で袈裟懸けを倒せるかといえば、それはまた別の話だ。戦いとは一人で行うものであってはならない。その果てに掴むのは個人の勝利でしかない。勝つのは我々、〝王立騎士団〟でなければならないのだ。
ヨーデルは、かつて師事した家の騎士の言葉を思い出し、拳を強く握った。
「はあぁッ!」
神速域の踏み込みと共に、三日月宗近が閃く。冷涼な刃の輝きは、まっすぐに伸びて袈裟懸けの分厚い肉にのめり込んだ。
月鋼式戦術騎士道における剣技では、その速度から放たれる斬撃こそを何よりも重視する。超重量の鎧と鞘を捨て、完全に抜き身となったアリアスフィリーゼと三日月宗近は、理論上において彼女最速の切断撃を、怪物に対してえぐりこませる。
右腰から左肩にかけて、切断撃は逆袈裟に奔る。鋭利な裂傷面から、数拍遅れてドス黒い血が吹き出した。その名の由来となった袈裟懸けの古傷と交差する形で、怪物の身体に新しい痕が刻まれる。
だが、まだ、浅い。
刃の美しさが鋭い斬撃を生む大業物、三日月宗近。天下五剣の中でももっとも美麗なこのひと振りは、切断面の鋭さゆえに、その一斬が必ずしも致命とならないことがある。この場合はまさしくそうであった。
切断面の分子構造が崩れておらず、袈裟懸けの持つ驚異的な治癒能力は、すぐさま傷痕を癒着させた。ぐじゅぐじゅという不気味な音と共に体液が泡立ち、流れ出る血液が止まる。あっけにとられるのは一瞬だ。袈裟懸けの豪腕は鉄槌のように振り下ろされ、邪魔なアリアスフィリーゼの身体をたたきつぶそうとする。
大地を蹴っての回避行動。あらゆる重量から解き放たれた彼女のそれは、跳ぶというよりは跳ねる、あるいは弾けるとすら表現できるような、空を切り裂くような挙動でさらに踏み込み、拳を掠めながらそれを足場と蹴り立てる。一瞬で背後へと回り込んだ。
「ひっ……」
袈裟懸けとキャロルの間に一切の障害物が消滅する。彼女の小さく息を呑む声が聞こえた。
「るでなんどぉっ……!」
怪物は、声音に興奮をにじませながら、キャロル・サザンガルドに向けて飛びかかる。それでいてなお、アリアスフィリーゼの方が速い。両手で三日月宗近の柄を抑え、右足を引き、体を右斜めに向け、剣を右脇に取った。いわゆる脇構えから、ジャキンと刃の角度を整える。この動作を取るまでにわずかに1秒足らず。
大地を蹴りたて、怪物の背中に追いすがる。右の脇腹に深く刃をえぐりこませ、手首のスナップで傷口を広げた。
「せぃあッ!」
先ほどより深く切り込んだ剣は、肋骨の隙間を縫うようにして肉を突き抜ける。
袈裟懸けが一瞬、ぴたりと足を止めた。その僅かな隙に、キャロル・サザンガルドはありったけの勇気を捻出する。
「で、でぇあああッ!」
大地を蹴っての、素早い突き込み。まるで弩弓のように放たれた豪快な刺突撃が、袈裟懸けを射抜かんとする。だいが怪物は、その豪腕を自らの盾として致命の一撃を防ぎ切った。皮膚を貫き、分厚い筋肉の壁をもぶち抜いた切っ先は、意図したかのように配置された橈骨に進撃を阻まれる。
空いた片腕が、無防備を晒したキャロルを狙うのはほぼ間違いないだろう。アリアスフィリーゼは三日月宗近を逆手に持ち、その跳躍から袈裟懸けの肩に手をついて、まるで軽業師のように怪物の正面へ回り込んだ。キャロルの体温を感じられるほどに近づいた後、なぎ払うようにして迫る怪物の腕を睨む。
剣を構え直し、刃を立てて迎え撃つ。
「……っく!」
剣が腕に食い込むことを、怪物は躊躇しなかった。重なり合った筋繊維が生み出す運動エネルギーを、アリアスフィリーゼの身体は相殺しきれない。両足を大地に踏み縛り、なんとかその一撃がキャロルに届かないよう押しとどめる。三日月宗近の鋭利な刃を持ってしてなお、骨を削り取る感触しか得られなかった。
キャロルは袈裟懸けの腕から刺突剣を引き抜いた後、飛び退く。彼女の安全を確認した後、アリアスフィリーゼも同様の位置へと着地した。
「キャロル、まだ戦えますか」
「当然だ」
震える声ながら、キャロル・サザンガルドは毅然と言い放つ。
「これ以上、醜態を晒すつもりはない。それに、」
「それに?」
「今はその、おまえが一緒に戦ってくれるからな」
やや照れくさそうに言い放つキャロルに、アリアスフィリーゼはにこりと微笑んだ。
「結構。私であなたを支えられるならば」
三日月宗近の剣身は、血と獣脂、そしてオークの体液でぬらぬらと穢れている。いずれも粘性が高く、切断力を著しく低下させていた。たった2、3回の斬撃でこれだ。加えてあの堅牢な橈骨や肋骨を思えば、本来、剣で相手をするには難儀をする敵だということがわかる。
アリアスフィリーゼは、強引にそれらを振り払うと、再び剣を脇に構えた。月鋼式戦術騎士道は、ひとつの斬撃に重きを置いた流派であり、それゆえに精神統一を必要とする場面が多く存在する。そのさなか、正面から敵対した相手に、極力刃の長さを悟らせないように発展したのが、この脇構えであった。また脇構えを始め、この流派には下段の構えが非常に多い。
キャロルもまた、剣身についた血液や獣脂を振り払うと、切っ先を突き出して身体を斜めにする黒竜式戦術剣技特有の構えを見せる。得物を構えた2人の女騎士と、袈裟懸けの悪魔が曇天のもとで相対した。
大型獣魔族に接近戦を挑むのは禁物だ。だが、この短い戦闘において、この狡猾な悪魔は決して一筋縄ではいかないこちらの実力を悟ったことだろう。攻めあぐねるほどではないにせよ、怪物にはそこで初めて、僅かな躊躇が浮かんだ。傷口を広げながら脇腹をえぐりとった斬撃は、まだしばし、快癒には時間がかかる。
ほんのしばしの間訪れた静寂は、アリアスフィリーゼにキャロルの震えを伝えた。荒い呼吸と、激しい拍動を伝えた。その状態でなお、恐怖の根源を見据え、戦意を絞り出さんとする健気な彼女の姿を見て、アリアスフィリーゼはその手を握ってやりたくなる。
だが、緊迫した状況がそれを許さない。共に戦う自身の存在こそが、キャロルの心を支えているのだという、その言葉を信じるよりほかはない。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
袈裟懸けの咆哮が曇天を貫き、意識は再び戦場へ戻る。豪腕を振りかざしながら突進する袈裟懸けの背中に、勾配の上より数本の矢が降り注いだ。
討伐隊メンバーの支援射撃である。返しのついた矢が肉に深く突き刺さり、伸びたザイルが怪物の動きを止める。袈裟懸けは苛立ちも顕に身体を震わせた。これまでには見られなかった仕草が、怪物の置かれた状況や精神状態を如実に示している。袈裟懸けが背中から生えたザイルを掴みそれを引っ張れば、騎士たちは馬上より引き摺り下ろされて勾配を転がった。
「サー・シダン! サー・ゴウキ!」
キャロルが仲間たちの名前を叫ぶ。怒り狂った怪物は、窪地に転がり落ちてきた騎士たちの身体を、その足で踏みつけようとした。
「よせェッ!」
キャロルが叫び、刺突剣を突き出しながら突撃する。その後、袈裟懸けは視線を彼女に戻し、にやりと笑った。
あるいは、その直前に見せた苛立ちと怒りすらも、演技であったのだろうか。
獲物に対する異様なまでの執着性と、その知性的な狩りの手段は解離性が激しい。人間を容易に騙しうるほどの知能を持ちながら、それを活かす目的が、人間であるアリアスフィリーゼ達にとってまったく理解できないというのは、極めて異常な事態であるように感じた。
アリアスフィリーゼはキャロルを追う。袈裟懸けは、迫り来るキャロルの刺突撃を受け止めては、彼女の身体を小突くように軽く蹴飛ばした。
「うぐっ……ぉっ……!」
目を向き、キャロルの身体が跳ねる。だが、腕ごと剣を抑えられている状態ゆえに、彼女が遠くまで吹き飛ばされることはなかった。代わりに2発目の蹴撃は、容赦なく彼女の腹を穿つ。
「ぐっ……ぇ……ぇえっ……!」
「キャロルッ!」
その光景を目にし、冷静さを欠いたのは明らかな失策であった。キャロルを救出することに躍起になり、アリアスフィリーゼは視覚外から襲いかかる袈裟懸けの拳の洗礼を受ける。直撃を受け、彼女の身体もまた、大地を擦るようにして転がった。三日月宗近を杖代わりにし、なんとか立つ。
まるで玩具のように弄ばれるキャロルの目つきは、明らかに焦点が定まらない。が、その一瞬、猛烈な決意の炎を宿したのを、アリアスフィリーゼは見た。金色の瞳が燃え、キャロル・サザンガルドは袈裟懸けの身体の、ある一点を見据える。
三度目、あるいは四度目になる蹴りが、キャロルの下腹部をえぐる。今度は悲鳴を漏らさなかった。キャロルは力なく、その身体を宙に放り出しながらも、その右腕を袈裟懸けに掴まれながらも、身体をねじるようにして姿勢を変え、その顔面にお返しの蹴撃を見舞った。単なる蹴りではない。自身の肉体を得物に見立てた、つま先による刺突撃は、血の色を思わせる瞳の片方に、まっすぐと突き立てられた。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
おぞましい悲鳴が上がり、袈裟懸けはキャロルを手放した。彼女は完全に自由を手にし、片目を潰したそのつま先を、さらに奥へえぐりこませる。その後、片足で肥大化した頭部を蹴り、彼女はなんとか宙へと逃れた。
「アイカ、大丈夫か!」
「はい。私は……、問題ありません」
袈裟懸けは片目を押さえ込み、ジタバタと暴れている。これが本気で痛がっているのか、あるいは、またこちらの油断を誘うための演技なのか、それは明白ではない。だが、悪魔の狡猾さも、見透かされれば滑稽さでしかない。2人は白い視線を、のたうち回る袈裟懸けに向けていた。
この時、アリアスフィリーゼとキャロルの耳には、袈裟懸けの悲鳴とはまた異なる、別の音がこちらに近づきつつあるのを気づいていた。大地を揺るがすような蹄鉄の音。迫り来る騎馬の軍勢の音。2人はハッとする。
「騎士隊長! 援軍です!」
勾配の上から、一人の騎士がそう叫んだ。そう、ついに来たのだ。
サー・マーキス・ヨーデル・ハイゼンベルグに率いられた、総勢60名近くの騎馬隊が到着する。彼らは勾配の上を円周上に囲みながら、ヨーデル百騎士長の指示のもと、その弓に矢をつがえた。矢尻が袈裟懸けに向けられているのを確認し、アイカとキャロルは勾配を駆け上がる。途中、転がった2人の騎士を抱え上げ、安全圏へと離脱した。
20名近い騎士が、一斉に矢を放ち、そのザイルを引くようにして後退する。続く第二陣、第三陣が矢を射り、怪物の身体からは、総勢60本近い矢とザイルが生える。鞭を入れられた騎馬は四方へと分散し、袈裟懸けの肉体を完全に固定する。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
それまでとは、まったく種を別にする悲鳴が、怪物の口から発せられた。
「2人とも、良い格好だな」
とりたててニヤつくでもなく、極めて冷淡な声でヨーデル・ハイゼンベルグはそう告げる。その時、アリアスフィリーゼは自らが鎧下を引き裂かれた、ほぼ肌着姿同然のものであったことや、キャロルもまたそれと大差ない格好であったことを思い出す。
隣の女騎士は羞恥に顔を赤らめたが、アリアスフィリーゼは顔色ひとつ変えずに、ハイゼンベルグ侯爵に尋ねた。
「マーキス、このあとは」
「貴公らがとどめをさせ。やり方は教えたはずだ」
馬上で、その貴族騎士はちらりと怪物を見る。もはや袈裟懸けには、演技をする余裕すらないようだった。やたらと耳障りな叫び声をあげ、全身から生えたザイルをつかもうとし、だがその腕もまたザイルに引っ張られて動きを完全に固定されている。
「貴公らも同じようなものとは言え、あの化物を相手によくここまで耐えたものだ。だがもうひと働きしてもらう」
「言われずとも……!」
キャロルが対抗心も顕にそう口にした、その時。
ザイルを引いていた騎馬の一頭が、勢いよく転倒した。馬上から騎士が放り出され、騎馬は悲鳴をあげながら、窪地のそこで雁字搦めにされたはずの袈裟懸けのもとへ、引きずり込まれていく。
「どうした!」
ヨーデルが叫ぶと、60騎あまりの騎士のうちの1人が逼迫した声で叫んだ。
「わ、わずかですが引っ張られています!」
「ちっ、60騎でもまだ足りんか」
見れば、窪地の底では、袈裟懸けの肉体からはくすぶった煙のような黒い霧が、もうもうと噴出していた。隻眼となった赤い瞳が、その中で爛々と輝いている。口元からは泡を吹きながら、袈裟懸けはその膂力を徐々に増しているようにすら見えた、1本、また1本と、ザイルが引きちぎられていく。
猶予はない。アリアスフィリーゼとキャロルは、再びその勾配を駆け下りた。
沸き立つ黒煙は異臭を放ち、視覚と嗅覚を遮断する。だが、その中でも発せられる明確な殺意だけは、誤魔化しようがない。目の前で起きている異変の正体は不明だが、一刻も速くとどめを刺さねば、何か取り返しのつかなくなるような予感がしていた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!」
袈裟懸けは、さらに数本のザイルを引きちぎった。怪物は依然、固定されているが、その右腕が完全に自由になる。
2人はまっすぐに駆ける。その中で、アリアスフィリーゼは叫んだ。
「キャロル、あなたは心臓を!」
「わかった!」
あの粘液と脂肪の塊を貫いて、さらに骨と骨の間を貫通して致命打を叩き込むには、彼女の必殺の刺突撃に頼るより他はない。幸いにして、その動きは固定されている。狙いを定めるには今しかないだろう。アイカは脇構えに携えた三日月宗近の柄を、強く強く握り締め、その意識を整えた。
「るで■ン■ォォォッ!!」
キャロルを呼ぶ叫び声すら、ノイズ混じりで完全に聞き取ることができない。袈裟懸けの、完全に自由になった右腕が、黒煙を引き裂いてキャロルに伸びる。だが、彼女は立ち止まらなかった。躊躇しなかった。守りの構えすらも、取らなかった。
恐怖を乗り越え、踏み抜けて、彼女はただ愚直に、一点を目指す。このままでは、刺突撃が心臓に到達するよりも、袈裟懸けの掌がキャロルをひき肉に変える方が早いだろう。だが、そうならないと、彼女は間違いなく信じていた。
騎士将軍との演習を思い出す。あの時とまったく同じ状況に、自分たちはあった。
信じられているのは、自分だ。いま彼女を守るのは、自分だ。
アリアスフィリーゼは、集中した意識を、今まさしく解き放つ。普段は鞘があればこそ、片腕でしか撃つことのできない必殺の一撃を、両腕に、ありったけの思いを乗せて―――、
「断界剣ッ――――!」
三日月宗近の剣刃は、黒煙を振り払って冷涼に輝く。
「天崩、真打!」
その一撃は、袈裟懸けのなぎ払うような豪腕の勢いを、その威力に上乗せした。双方向から衝突した力を、刃の先へと集約し、皮を、脂を、肉を裂き、そしてついには、誰も穿つことのできなかった袈裟懸けの骨を、真っ向から両断する。
怪物の右腕が、軽々と宙を舞った。
キャロルの刺突撃が、ついに袈裟懸けの表皮へとめり込む。弓なりに構えられた剣より放たれた、本命の一矢。マーリヴァーナ要塞騎士の目指すべき、ひとつの到達点。黒竜式戦術剣技の奥義が一。それはまさしく、金色の瞳とともに、怪物の中枢を穿ち、貫かんとする。
「貫翔爆砕弩ァァァァァァァッ!!」
突きこまれた一撃は、わずかな抵抗に刹那だけ止まったかのように見られたが、直後、まっすぐに伸びて、深く、深くその胸部へとのめり込んだ。切っ先はついに、肋骨の隙間を縫うようにして袈裟懸けの背中より飛び出す。肉厚な袈裟懸けの胸部を貫くために、キャロルはその腕の付け根までを、怪物の胸元へ飲み込ませていた。
「■■■■―――――ァァァァ……!」
怪物の口元から、ドス黒い体液が吐き出され、キャロルはそれを正面からかぶる。その上でなお、えぐりこませた刺突剣をねじり、それから彼女はようやく剣を引き抜いた。こびりついた獣脂と血糊を振り払うようにして、キャロルは袈裟懸けに背を向ける。悪魔は、ゆっくりと膝を折り、地響きと共に、大地へと倒れ伏す。
大型獣魔族オーク種準戦略級特異個体・袈裟懸け。
これまで12にも及ぶ村落を壊滅させ、のべ300名以上にも及ぶ犠牲者を出した、怪物の最期であった。