第33話 ブレイク・ザ・フィアー(中編)
「キャロル!」
馬から降りたアイカ・ノクターンは、まっすぐに走ってきてキャロルに抱きついた。思いもよらぬ彼女の行動に、キャロルは困惑する。アイカはその両腕でキャロルをぎゅっとしたまま、耳朶を甘噛みするような声音で、そっと呟く。
「無事で良かったです……!」
「アイカ、その、痛い……」
「あっ、すす、すみません!」
篭手と胸当てに押しつぶされそうなところで、アイカはようやくキャロルを開放してくれた。
ところで救援に来たのは単騎ではあるが、一人ではなかった。馬の後ろにちょこんと乗っていたのが、小姓の少年であるショウタ・ホウリンだ。彼は副隊長サー・チーフ・ハイヤットをはじめとした討伐隊のメンバーに、丁寧に頭を下げて回っている。貴族騎士の小姓という立場ながら腰の低い彼と、討伐隊の仲間はすぐに打ち解けている様子だった。
「キャロル、その格好を見るに、だいぶ激しい戦いであったようですが……」
「格好の件は突っ込まないでくれ……。それと、あまり見るな」
アイカの翠玉色の瞳にまじまじと見つめられ、キャロルはまたもその肌を朱に染めた。
元々軽装気味ではあるが、ポイントアーマーが砕かれ鎧下も引き裂かれた状態にあっては、もはや騎士と言えるような出で立ちではない。激しい戦いであった、ことは、否定はしないが、この格好が勇猛果敢に戦った結果ではなく、袈裟懸けの拳ひとつをまともに食らった末のものであったり、その後散々に泣き叫んで、命乞い寸前までいったことなどは、恥ずかしくて死んでも口に出せない。
「ところで、いらっしゃったのはふたりだけで?」
ひとまず互いの生存をしっかり確認した後である。ハイヤットが当然の疑問を口にした。アイカは表情を引き締め、一同を見回して頷いた。
「現在、本陣でサー・マーキス・ハイゼンベルグによる増援部隊が編成中です。私とショウタはその報告と、一時撤退を促すためにここに来ました」
「一時撤退……?」
討伐隊のメンバーは一様に顔をしかめる。そこには、わずかな反発の色合いが浮かんでいた。だが、アイカはその態度も想定済みのものであったか、毅然とした様子を崩さない。
一時撤退の報告を受けたとき、キャロルの心にはわずかな安堵が浮かんだ。これ以上、袈裟懸けと顔を合わせる心配はない。そうした自分の意識を自覚した瞬間、彼女はかぶりを振った。今、自分は何を思ったのか。仲間を2人も殺されて、それでなお、戦わずに済むことに安堵するとは、どういうことか。
「アイカ・ノクターン子爵公女閣下、我々は既に同僚を2人失っています」
ハイヤットは努めて冷静に、しかし納得のできない通達への憤りを顕にしながら言った。
「その状況で、敵に背を向けろとおっしゃるのでしょうか?」
「………」
アイカは口元をわずかに緩めた。微笑を浮かべたのである。眉がわずかに外側に下がり、それは困ったような笑顔になった。やや理解の追いつかない表情の変化だ。一同は黙ってそれを見つめる。
横で、ショウタが小さく『あっちゃあ……』と言うのを、キャロルは確かに聞いた。
アイカは口を開く。
「私は先ほど、サー・マーキス・ヨーデル・ハイゼンベルグと、似たようなやり取りを行ってきました」
この場でキャロル・サザンガルドの直属の上司の名前が挙がるのは2度目だ。貴族主義の凝り固まったような男の名を、にわかには受け入れがたい空気が広がる。
「私も彼の思想には賛同できません。したくないのかもしれません。ですが、彼が弱く臆病な存在だからこそ、私たちには見えないものが見えているのだとも、思いました。逃げることが恥なのではありません。戦わぬことが恥なのです」
その言葉が、キャロルの身体をびくりと震わせる。
「逃走が戦いであると、そうおっしゃるのですか」
ハイヤットのまっすぐな視線を、アイカは見つめ返す。
「それが、勝利を目指して行われるものであれば、戦いでありましょう」
アイカの台詞を受けて、サー・チーフ・ハイヤット・サインがキャロルを振り返る。
「どうしますか、騎士隊長」
その上でなお、キャロルを上官として指示を仰ごうとするハイヤットに対し、キャロルは申し訳ない気持ちを抱いた。同時に恨めしくも思う。あくまでも、自分の弱さを、臆病さを、開示せざるを得ない状況に追い込まれる。キャロルはこれ以上、勇猛果敢な騎士を演じることはできないのだ。それを、知っていながら。
「私は……」
キャロルは、震える声で口にした。
「正直、アイカの通達を聞いたときは安心さえした。袈裟懸けや、直面した死への恐怖を、ぬぐい去ることができないんだ。アイカの言うとおり、逃げることではなく、戦わないことが恥であると言うならば、私は……」
「キャロル……」
剣友の優しげな声が、なおさらにキャロルの心を抉り取る。アイカはそっと、彼女の頬を撫で、目尻に浮かぶ涙を拭った。
「弱さも怯えも死への恐怖も、きっと必要なものなのです。死への恐怖を常に抱いたまま、戦場に立つことは、きっと死を恐れず戦場に立つよりも、たくさんの勇気を必要とすることでしょう。ですが私は、あえてあなたにお願いします」
アイカの翠玉色の瞳が、キャロルの金色の瞳を、正面から射抜く。
「私と共に、戦ってください。あなたの誓いの通りに」
キャロルもまた、アイカの瞳を見つめ返した。アイカはなおも続ける。
「あなた一人が戦っているのではありません。あなた一人を、戦わせはしません」
キャロル・サザンガルドは、貴公の剣友となること、道を共にし、背を預け、心を託し、いついかなる時も決して貴公を裏切らず、欺かず、例え命果てようと、常にその魂は貴公と共にあらんことを、この剣に誓う。
互いに交わした誓いの全文を思い出す。
ずるいな、これは。キャロルはわずかに苦笑した。そんなものを引き出されては、頷かざるを得ない。
「サー・チーフ・ハイヤット」
キャロルは、最も信頼する部下の一人に振り向いた。
「一時本陣の方へと後退し、百騎士長の援軍と合流する。袈裟懸けの情報を掴んでいるのは私達だけだ。あの男に頼るのは癪だが、情報を持ち帰れば良い作戦のひとつでも考えてくれるだろう」
「同感です」
そうと決まれば、後退の準備だ。部下達に準備を急がせる。村の表に停めた騎馬達のもとへ向かい、北の本陣を目指して出発する。話がようやくまとまり、一同が足をそちらへ向けたとき、正面に建つ石造家屋が轟音と共に倒壊した。びくり、と身体が震える。
「るで……なん、どぉ……!」
おぞましい響きに、全身が総毛立つ。ぱらぱらと舞い散る破片、もうもうと巻き上がる砂塵の中に、3メーティアを上回る巨体が立っていた。予想よりも、早い。縄を引きちぎった後、この決して狭くはない村落の中を、まっすぐこちらへ進まなければ、これほどに早く追いつかれるなどということはありえない。
キャロルの視線が、袈裟懸けの視線と交わる。その瞬間、怪物の豚面が、にやりといやらしい笑みを浮かべたように、見えた。
直後、キャロルの脳裏に、化物の鼻先が全身をまさぐる、あのおぞましい感触が蘇る。はっとした。あの怪物は、キャロルの匂いを完全に覚えていたのだ。袈裟懸けの、獲物に対する執着心は報告の通りだろう。あれは、〝お気に入り〟であるキャロルの匂いを頼りに、どこまでも追いかけてくるに違いない。
恐怖に縛られそうになる身体をなんとか突き動かそうとするが、そのキャロルを守るようにして、スッと白甲冑の女騎士が前に立った。
「アイカ……!」
「ここは私が食い止めます。皆さんは馬の準備を!」
頷くのには、わずかな躊躇を要する。だがキャロルは、ハイヤット達と顔を合わせ、走りだした。正面出口への最短距離は封鎖されている。迂回路を辿るしかなかった。袈裟懸けの視線が動き、殺意の宿る双眸が、キャロルの無防備な背中に突き刺さる。
大地を揺するような足音が、近づいてくるのがわかった。
「るで、なんどぉ!」
「待ちなさいっ!」
振り向く余裕などありはしない。それでも、キャロルは後ろを見てしまった。こちらへ駆ける袈裟懸けの進路上に、アイカが回り込む。袈裟懸けの野太い拳が、アイカの身体をなぎ払う。全身甲冑に包まれた彼女の身体が、いとも容易く跳ねた。
声にならない悲鳴が、彼女の口から漏れる。
「アイカっ!」
「お嬢様!」
キャロルと同時に彼女の名前を呼んだのは、小姓のショウタであった。
アイカの身体は先ほどのキャロル同様、空を跳ねて石造家屋に激突し、瓦礫の山に埋もれていく。なおも袈裟懸けの巨躯がこちらへと迫る。突如、その動きが鈍ったのはその直後だ。ショウタの華奢な身体が、袈裟懸けとキャロルの間に立ちふさがる。彼が手を掲げると、袈裟懸けの肉体が不可視の壁に遮られたかのように、その勢いを減衰させた。
逃げるのも忘れ、叫び声をあげたのはハイヤットである。
「少年、無理だ!」
「無茶は承知ですが無理ではないです!」
目の前で展開されているのは、キャロル達が見たこともない物理現象だ。ショウタが自らの意思で、袈裟懸けの巨躯を押さえ込んでいるのは間違いなかった。魔術妖術の類であるのか。探る術はない。
だが、力は決して均衡状態にはなかった。拮抗が容易く打ち砕かれ、袈裟懸けの豪腕はとうとうショウタにまで襲いかかる。宙へと跳ねたショウタの身体に対し、袈裟懸けは拳を鉄槌のように振り下ろした。少年の身体が地面をバウンドする。
圧倒的な力による蹂躙。立ちふさがった2人が、袈裟懸けを前にして蹴散らされるまでの時間は、わずか20秒にも満たない。
いや、
アイカが埋もれた瓦礫の山に変化がある。残骸を吹き飛ばすようにして、彼女は再び立ち上がった。額が割れ、赤い血を流してはいたが、その瞳に宿る闘志は先ほどよりも勢いを増している。白磁の甲冑は、一切欠けてはいなかったが、彼女はあえてそれを解除した。
胸当てが、前垂れが、篭手が、脛当てが、外されて落ちるたび、その重量で瓦礫が叩き割られる。もうもうと立ち上る砂塵の中に、鎧下に包まれた、豊かな肉体のラインが浮かび上がった。
彼女は、今まであんなに重い鎧をつけて戦っていたのか。
先日の模擬戦、あるいは騎士将軍との訓練を思い出し、キャロルの頬を汗が滑り落ちる。
「はぁッ!」
アイカが瓦礫を蹴りたて、砲弾のような速度で袈裟懸けに肉薄する。
「神掌牙ッ!」
袈裟懸けの目前で膝を折り、それを伸ばす反動をバネとして掌底を、肉付きのよい顎に叩きつける。脂肪の壁を浸透し、衝撃は怪物の頭蓋を強く揺らした。仰け反った袈裟懸けに対し、アイカは空中から手刀を振り下ろす。
「轟断閃ッ!」
果たしてその一撃は、袈裟懸けの口元から覗く、捻くれた一本の牙を叩き折る。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
怪物のおぞましい悲鳴が轟いた。アイカは着地し、こちらに向けて振り返る。
「キャロル、ショウタを頼みます!」
その言葉にはっとし、キャロルはハイヤットと顔を合わせ、頷きあった。地面に転がる少年の元に駆け寄り、その身体を起こす。気を失ってはいるが、息はまだあるようだった。ただ、全身打撲による骨折の様子が見られる。キャロルはその身体を、胸元にぐっと抱き寄せた。
ちょうどその頃、先に迂回路をたどっていた討伐隊の仲間たちが、馬を引いて戻ってくる。キャロルの馬もあった。これでこの場より後退できる。
だが、
「アイカ!」
「わかっています! 私もすぐに……ッ!」
そう言うアイカの身体は再び宙を舞い、片足を高く天に掲げていた。長い滞空時間の中で、振り上げた踵を、袈裟懸けの脳天めがけて叩きつける。
「砦崩天つ……」
瞬間、ぎらり、と袈裟懸けの瞳が光る。怪物はまさしく振り下ろされた鉄槌のようなアイカの脚を、その豪腕でもって受け止めた。彼女のしなやかな足を左右それぞれ両手で握り、ぐっと力を込める。強引に開脚させようとする袈裟懸けの蛮行に、アイカは唇を噛んで抵抗する。
袈裟懸けが本気を出せば、そのままアイカを真っ二つに引き裂くことも可能であったかもしれない。が、怪物は気が変わったかのように、その両足を握り締めたまま、勢いよく大地に叩きつけた。
「っは……!!」
もうもうと舞い上がる砂塵。轟音の中に、苦悶が混じる。
キャロルは思わず駆け出そうとしたが、両足は完全に言うことを聞かなかった。討伐隊の仲間たちは、武器に手を伸ばすもの、彼女を見捨てての後退を促すもの、それぞれの意見に沿った行動を取ろうとするが、キャロルの脳にはそのいずれもが届かない。
袈裟懸けの巨躯が、アイカへと覆いかぶさった。怪物は、獲物の反応を楽しむかのようにいたぶる。相手がどうすれば恐怖を感じるか、悲痛に身をよじるか。何十何百と仕留めてきた人間の数が、そのまま袈裟懸けの経験則となっていたのだろうか。怪物のおぞましさは、あまりにも人心に訴えるものが多すぎた。
とうとう袈裟懸けの腕が、アイカの鎧下に伸び、それを強引に引き裂く。肌着に覆われた白い肌が曇天にさらされる。その上でなお、アイカは闘志を失ってはいなかったが、覆いかぶさる袈裟懸けの巨躯を叩く彼女の拳はあまりにも無力だ。
それはまるで、キャロル・サザンガルドが幾度となく見た悪夢を、第三者視点から見せつけられているかのような光景だった。まとわりつく恐怖に、息ができない。
袈裟懸けは口を開き、舌をのぞかせた。さすがにアイカの表情がこわばる。闘志と嫌悪感を綯交ぜにした表情。美しい顔をしかめ、身をよじるが、ヒルのような怪物の舌先がアイカの頬へと伸びる。ぬちゃりとした唾液が滴る。
だがその舌先も唾液も、アイカの肌を穢すことはなかった。不可視の壁が到達を阻む。キャロルの腕の中で、少年がもぞもぞと動いた。
「ショウ……」
意識を取り戻した彼は、折れているはずの腕をぐっと掲げ、その手のひらを怪物に向ける。袈裟懸けの醜悪な行いを、彼女に触れさせはしまいと、その表情は必死であった。アイカの視線がこちらを向く。正確には、キャロルの腕の中の、ショウタを向く。
アイカは頷き、ショウタもまた頷いた。
アイカはその片腕で、袈裟懸けの折れていない牙を掴み、もう片方の腕を、不燃性の粘液が滴る顎へと回した。袈裟懸けの豪腕は無防備となったアイカの身体へ伸びようとするが、ショウタの放つ力がそれを妨げている。アイカは気勢を込めた。
「は、あ、あ……あ、あ、ああああああああああ……」
徐々に、徐々に。
袈裟懸けの巨体が、宙へと持ち上がっていく。やがてアイカは立ち上がり、その両腕で完全に袈裟懸けを支え、掲げた。空中で必死にもがく怪物の巨躯は、滑稽ですらあった。3メーティアを超えるオークの特異個体を、アイカは逆さまに抱え込んでいる。
アイカは持ち上げた勢いを利用し、高く抱え上げた袈裟懸けの巨体を、脳天から後方へ叩きつける。アイカの腰から腹にかけてのラインがブリッジを描いた。腹筋と背筋の勢いに自らの体重が上乗せされ、途方もない衝撃が、袈裟懸けの身体に収束する。
「……ああああああああッ!!」
ブレーンバスターである。
かくて、アイカは窮地を脱した。倒れ込んだ袈裟懸けの肉体に向き直り、油断なく構えを取る。キャロルは腕の中で荒い呼吸を繰り返す、逆転の功労者をみやり、震える声で言った。
「ショウタとか言ったな。なんて無茶を……!」
「ええと、その……痛ぅっ……!」
折れた腕をだらりと下げながら、ショウタは苦悶の声を漏らす。
騎士でもなく、ろくに身体を鍛えているとも思えない彼が、袈裟懸けに立ち向かったのだ。そんなもので済めば御の字である。彼の肉体が、衝撃の勢いでひき肉になっていても、おかしくはなかった。
「ほら、その……誰かを守りたいと思ったとき、敵わない相手にも身体ひとつで立ち向かうんですよ」
「何を……」
「人はそんな気持ちのこと、〝勇気〟って呼ぶそうです」
まるでショウタは、お気に入りのフレーズを口ずさむように、やや照れくさそうな表情を作る。
「でもキャロルさん、そう考えると、本当の勇気って、弱い人にしか出せないんだと思いませんか。勇気を振り絞るのは、僕たちみたいな弱い人の、特権だとは思いませんか」
その言葉は、キャロルの心を拘束していた、最後の鎖を打ち砕いた。
最初は部下たちに、次はアイカに、そして最後はショウタに、キャロル・サザンガルドは目覚めさせられる。まさしく瞠目していた。身体の震えはまだ収まらない。だが、その震えを抱いてなお、戦場へ立つことの尊さを、彼らは教えてくれたのではないのか。
恐れることが恥なのではない。恐れて、戦わなくなることが恥なのだ。
部下たちも、アイカも、そしてこの名前しか知らぬ少年も、キャロルの中の弱さと臆病さを肯定してくれる。
ならば、自分にできる〝戦い〟とはなんだ。
勇気を振り絞り、口にする。
「サー・ハイヤット、本陣に戻り、サー・メイジャー・ヨーデルに状況と情報を伝えろ」
ハイヤット・サインは身をはねさせ、だがすぐさま尋ね返す。
「騎士隊長は?」
「私は……」
問答のさなか、袈裟懸けがゆったりとその身体を起こした。アイカ渾身の投げ技も、致命打には至らない。怪物はまさしくぴんぴんしており、その赤い双眸をキャロルへと向ける。ひときわ恐怖が増大するのを、はっきりと自覚した。
「袈裟懸けの狙いは私だ。やつを、一番都合の良い場所に誘導できるのは、私だ」
そう言って、キャロルは震える手で腰の刺突剣を抜いた。
その行いが、彼女がいままで散々臆病と罵ってきたヨーデル・ハイゼンベルグとまさしく同じものであることを、キャロルは知らない。キャロルはショウタを他の部下へと預け、一歩、また一歩と踏み出した。
しばしの逡巡の後、ハイヤットは頷き、自らの馬へと飛び乗る。蹄鉄の音が遠ざかっていくのがわかった。
「残りのメンバーは、私とアイカを補佐しろ。付近の川縁まで、やつを誘導する」
討伐隊の部下たちにはそれだけ命じ、キャロルは駆け出した。アイカの真横に立ち、袈裟懸けを見上げる。未だに震えが止まらない左手を、隣に立つアイカがそっと握り締めてきた。身体の震えは収まらない。だが、この震えを共有してくれる剣友の存在は、何よりも心強かった。
「共に戦ってくれ、アイカ」
「はい、喜んで。キャロル」
恐れはあれど、心細くはない。誓いを繋いだ友がいるから。
恐怖を乗り越えて、勇気を振り絞る。
手をつなぎあったまま、村落の中を激走する。キャロルの瞬足は、鎧を脱ぎ捨てたアイカの足にも、容易についてくるものであった。心強く思う反面、恐ろしいのはそれにまで匹敵する袈裟懸けの全力疾走である。直線距離においては、アイカとキャロルの足をもってしても、その速度を安全域たらしめない。
準戦略級個体の名は伊達ではない、ということか。
アンセム・サザンガルドとの特訓を思い出す。戦略級規模の実力を有する騎士将軍には、自分たちではまるで歯が立たなかった。ではこの袈裟懸けにはどうか。
やはり同様だ。個々の力ではなすすべもなく蹂躙されるだけだろう。勇気を振り絞り、戦う覚悟を決めたキャロルをその暴力から守ることが、ひとまずはアイカの役目だ。アイカは一人で戦っているわけではない。キャロルもまた然りである。
音を振り切って、光の次元を切り開く。視界に映る景色が溶けていく中で、併走するキャロル・サザンガルドの姿だけを、はっきりと認識する。
「もう大丈夫だ、アイカ。手を離してくれ」
キャロルの声がはっきりとそう告げた。まだいささか震えは残るものの、触れれば崩れるような危うさはない。アイカは頷き、手を離した。
「キャロル、袈裟懸けの誘導先は」
「村の北西部に小川が流れている。わずかだが比較的急な勾配があって、その窪地にやつを誘い込む」
「わかりました」
アイカとキャロルは並んで、石造家屋の壁を駆け上がり、屋根上を蹴りたて、村落の外へと躍り出た。ここからは嫌がおうでも直線となる。後方からは、家屋と石壁を突き崩すようにして、袈裟懸けの巨体が追ってきた。
広い荒野に出れば、騎馬を駆る討伐隊のメンバーが左側から追ってくる。ショウタはその中のひとつに乗せられていた。彼らの馬よりも、アイカとキャロルの全力疾走の方がわずかに早い。スタミナを考えれば、これほどの速度でいつまでも走り続けられるものかは怪しいところだ。が、立ち止まるわけにはいかない。
騎士たちは、一斉にリヴァーナ式合成弓に矢をつがえ、放つ。返しのついた特製矢が、縄の尾を引いて袈裟懸けへと降り注いだ。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
矢は次々と分厚い肉の壁に突き刺さる。長く伸びたロープを、騎士たちは馬上から引いた。縄がぴんと張る。
騎馬達の足は、袈裟懸けのものとほぼ同じだ。縄で繋がった両者は完全に並走する形となる。討伐隊の中でも比較的年長の男が、腕の動きだけで指示を下す。総勢11名の騎馬隊が大きく2つに別れ、その馬力で袈裟懸けを、進路とは真逆の方向へと引く。
マーリヴァーナ要塞線で育てられる騎馬は頑健で粘り強い。力が拮抗する中、呼吸を荒くしながらも精一杯の力で牽引する。アイカは背中に遠ざかる光景を見つめながら、キャロルと共に足をわずかに緩めた。ペースダウンして、スタミナを保つ。
力自体はほぼ均衡を保ってはいたが、それでもまだ袈裟懸けの方が強い。おそらく一番先に根を上げるのは、袈裟懸けでも騎馬達でもなく、両者を繋ぐ縄だろう。魔鉱繊維を編み込んで強化した特殊なザイルではあるが、それはすでに引きちぎれる寸前だった。年長者の指揮で、騎士達は縄を掴む手を一斉に放した。
果たして袈裟懸けの巨体は、慣性の法則が導くままにその巨体を大地へと放った。地響きと共に倒れこみ、アイカとキャロルのペースに若干の猶予を与えた。騎士たちは即座に鞭を入れ、先頭をひた走る二人を左右に散開しつつも取り囲む陣形を取った。
「騎士隊長、大丈夫ですか!」
どこかからかうような面持ちで、併走する騎士の一人が声をあげた。
「ちびってませんか、騎士隊長!」
「誰がちびるか!」
キャロルが顔を真っ赤にしながら叫び返す。
「子爵公女閣下、いざとなったら頼みますよ!」
「うちらの隊長、結構可愛い悲鳴をあげるんでね!」
「貴様ら、余計なことを言うなッ!」
討伐隊の軽口は、キャロルの緊張を解いている。少し、羨ましい関係だなと、アイカは思った。口元に小さな微笑を浮かべ、頷く。
「任せてください。キャロル、スピードをあげますよ!」
「お、おいアイカッ」
再び彼女の手をとって、アイカはさらに強く地面を蹴り立てる。周囲からはなぜか感嘆の声があがった。
やがて一同は、キャロルの言った目標地点へと到達する。小川のほとり、やや窪地となったその地点は、ヨーデル・ハイゼンベルグ率いる救援隊との合流地点だ。あと何分で彼らが到着するのかはわからない。それまでの間、キャロルを守るのは、アイカと、討伐隊メンバーの役目だ。彼女のなけなしの勇気を支える。
キャロルとアイカは窪地に立ち、騎士たちはやや高い位置に馬を停める。
やがて、遠くから地鳴りのような足音が響いた。キャロル・サザンガルドが、ごくりと唾を飲むのがわかる。アイカは彼女を背中にし、守るように立った。腰元に唯一残った剣の柄を取る。
「るで、なん、どぉ……っ!」
おぞましい呼び声と共に、とうとう袈裟懸けの巨躯が再び、その姿を現した。窪地の縁に立ち、こちらを見下ろしていやらしく笑う。キャロルはかたかたと震え、荒い呼吸を繰り返しながら、顔中に汗を貼り付けた。
「あ、アイカ……」
「ご心配なく。キャロル」
それでも、アイカはにこりと笑って答える。剣を鞘ごと取り外し、逆手に構える。翠玉色の瞳が、ゆっくりと勾配を下る、袈裟懸けの醜悪な威容を見据えていた。共に戦うと誓った剣友の存在を意識し、アイカは精神を整える。
敵を目前にして目を瞑るなど愚行の極みではあるが、彼女はあえてそうした。暗闇の中で、共に戦うべき者の呼吸を、鼓動を、震えを感じ取り、その恐怖と勇気を理解する。翠玉色の瞳を再び開けば、既に怪物は、彼我の距離を数メーティアまで詰めていた。
鞘の留め具を、解錠す。
逆手に構えた剣から、金属同士のこすれあう音を響かせて、ゆっくりと鞘が落ちていく。曇天に、艶かしくも冷涼な輝きを湛えた刃が、その全容を表した。
姫騎士アリアスフィリーゼが、父セプテトールより授かった剣である。騎士が鞘を捨てることは、まさしくその魂を晒すことと同義であり、王族騎士たる彼女がそれを行えば、その意味ははるかに重い。捨てた鞘を拾うことはできず、彼女は王権の代行者としてその刃を振るう。
目の前にある敵が、王族の意思において敵対者と認められなければ、この刃が抜き放たれることは決してない。
アイカ・ノクターンが、姫騎士として、アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオとして、今まさしく目の前の怪物を討滅すると、その覚悟の証。日の差さぬ分厚い雲の下であっても、決して損なわれない刃の煌きは、彼女の不退転の決意を代弁するものにほかならない。
その真意を正しく理解したのは、その場においてはショウタだけであった。が、その場にいる誰しもが、彼女が捨てた鞘に秘めたる決意を見出していた。
「我が名において、決してキャロルには触れさせません」
その刃の色にも似た凛とした声音が、正面から袈裟懸けを射抜く。
天下に名だたる五剣がひとつ。銘を、三日月宗近。刃を掲げ、姫騎士アリアスフィリーゼが曇天に吼えた。




