第32話 ブレイク・ザ・フィアー(前編)
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曇天に乾いた音が響く。見上げれば、遥か南西の空に複数色の混じりあう、発煙弾の煙が上がっていた。王都の警邏騎士隊で使用されていたもののはずだが、なぜ南の空に上がっているのか。アイカは首をかしげる。
疑問を抱いていたのはショウタも同じようだが、馬上のサー・マーキス・ヨーデル・ハイゼンベルグだけは、何かを察したかのように、その目を細めて空を眺めていた。
荒野では薪が積まれ、焚かれた火の中にオークの死体が投げ込まれている。脂の多いオークの肉はよく燃えるが、体表を覆う粘液自体は不燃性であるために焼却処分には難儀する。いまようやく、ふたつ目の死体が炭に返ったところだ。この分だと、すべて焼き払うにはだいぶ時間を要することだろう。
焼却処分自体は少数の騎士で事足りる。血に惹かれてくる獣魔がいる以上見張りを残すとしても、この場に残るのは10人もいれば十分だ。それ以外の騎士たちは、既に前線基地へ帰投する準備を始めていた。
「あっちって、南の方角ですよねぇ」
「はい……」
ショウタがそのように問いかけてきたので、アイカは頷く。
この周辺一帯は獣魔族討伐戦のために立ち入りが禁止されている。素直に考えるならば、あれは何処か遠くで戦闘中の騎士たちによる信号のひとつだろう。ただ、アイカや他の騎士たちはその信号の正体には心当たりがなかった。ミーティングでも説明は受けていない。ただ、ヨーデルだけが理解を示しているように見えたのが、気になった。
基本、作戦中の連絡は早馬を飛ばして行われる。信号弾を使うようなことがあれば、それは相当状況が切羽詰っているということだろう。すなわち、なんらかの窮地に陥っていることを示す。
こちらより南側に展開している部隊はいくらかあったはずだが。
形のいい顎に手を当てて思案していたアイカだが、ふと脳裏に電流が走る。顔をあげ、ヨーデル・ハイゼンベルグに振り返ると、彼はちょうど手綱を握り、帰投準備を整える騎士たちに指示を下すところだった。
「5分後には総員準備を整えろ。本陣に戻り、カウンテス・サンダルフォンに報告を行う」
「サー・マーキス・ハイゼンベルグ」
アイカが声をかけると、ヨーデルは馬上にてゆっくりと彼女を振り返った。
「何かね、ディム・アイカ」
「先ほどの信号弾。マーキスは何かご存知なのですか?」
おそらくその場の騎士の多くが疑問に思っているであろうことを、アイカは口にする。
「ふむ?」
「あれは本来王立騎士団で使用されている信号弾ではないはずです。状況如何で、特殊な信号弾によって合図を行うことが、ありえないとは言いませんが」
「不自然かね?」
「本陣に早馬を飛ばせないほどに、逼迫した状況にある、ということなのでありましょう?」
アイカからすれば、それを確認した上で一度本陣に戻ると口にしたり、焦る様子を見せないヨーデルへの不信感は拭いがたい。ましてや彼は明らかに信号弾の意味するところを知っている。こちらの質問に対し、あえてのらりくらりとした態度を見せるところも、また不自然ではあった。
アイカは更に、自身の脳内に叩き込んだ地図と現在の位置関係などを思い返しながら、先ほど自身の中に打ち立てられたひとつの仮説を口にする。
「あの信号弾が打ち出されたのは、ディム・ルテナント・キャロル・サザンガルドが、袈裟懸けの討伐に赴いたエリアとほぼ合致するように思います」
真横に立つショウタの雰囲気が変わるのがわかった。それだけではない。緊張と衝撃が、微かにその場の騎士達の間に伝播していく。その様子を目で追って、ヨーデル・ハイゼンベルグは小さく舌打ちをした。
キャロル率いる袈裟懸け討伐隊は、ヨーデルらの打ち出した袈裟懸けの予想徘徊ルートを辿り、当該モンスターを撃滅する任務を負っていた。タイムテーブル上では、現在は最初に襲われた廃村か、あるいは次の村に向けて進軍を行う途中であったはずだ。正しい距離までは把握できないが、あの信号弾が打ち上げられた方角は、その最初の村のあった方角とほぼ合致する。
「まったく、なぜ貴公は、こうした余計なことにばかり頭の回転が早いのか……」
その〝貴公〟が、建前上はアイカ・ノクターンを指しながらも、その実、貴族達の間で〝ぽんこつ〟と揶揄されるアリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオのことを言っているのは、もはや明らかである。
「だが、」
馬上から、アイカを見下ろすヨーデル・ハイゼンベルグの瞳は妙に冷たかった。
「やはり、あまり周囲に気を配ることはできないようだな。指揮官としての資質に欠けている。その言葉が、どれほどこの隊の任務に支障をきたすと思っている?」
この隊のほぼ全容を占める伝統騎士たちの間に、にわかにざわめきが広がっていた。キャロル・サザンガルドは、彼らにとっては象徴的な存在だ。騎士将軍アンセム・サザンガルドの娘にして、要塞線でも指折りの実力者。厳しく、気高く、正しく。伝統騎士の規範をそのまま人の形に押し込めたようなキャロルである。当然、マーリヴァーナ騎士達の間でもその影響力は根強い。
そのキャロルが窮地に陥っているというのであれば、彼らも浮き足立つ。冷静さを欠き始めた伝統騎士たちのざわめきが、生ぬるい風にのってアイカ達の耳朶を揺すり始めた。
アイカは拳を握り、便宜上の上官であるヨーデル・ハイゼンベルグに上申する。
「ディム・キャロルの加勢に向かわせてください」
「それは認められない」
「なぜ……ッ!」
アイカの端整な顔立ちに、感情の色が強く滲んだ。
「なぜですか、マーキス! キャロルがどういった状況にあるか、貴公はご存知なのでしょう! 袈裟懸けがどれほど恐ろしい存在か、ご存知なのでしょう! このままでは、キャロル以下15名の討伐隊は!」
「では貴公が向かえば状況は好転するのかね!」
サー・マーキス・ヨーデル・ハイゼンベルグは、これまでにないほど大きな声をあげて叫び返す。開けた荒野に響くほどの声に、その場の一同が静まり返った。
「これだから貴公や伝統騎士は好きになれんのだ! 目先の感情で物事を判断する! 良いか、向かえば死ぬのは貴公かもしれんのだぞ! 〝死ぬこと〟のリスクとリターンを正しく理解しろ! もっと〝死〟を恐れろ! 貴公らは強くなりすぎたのだ!」
その叫びは、貴族騎士ヨーデル・ハイゼンベルグとしての魂を吐露する慟哭であった。憤りを宿した彼の表情は、現実の理不尽に幾度となく唇を噛んだ、貴族騎士達の思いをまざまざと映し出す。伝統騎士との圧倒的な実力差を前に、拳を握り締めた過去と、ただひたすらに戦術を学び、戦略を学び、力の効率的な運用法を習得しようとした彼の熱意を映し出す。
「人間とはもっと弱く、脆いものであったはずだ! 貴公らは、それを悠々と超えてしまった! 死を恐れず、強敵に立ち向かう貴公らの姿を人々は賞賛するだろう。だが、ついてはいけん!」
その言葉は、アイカの胸に深く突き刺さった。それは、力を持つ者と持たざる者の差異を、決定的に際立たせる一言である。人間の弱さと脆さを理解し、そうであるからこそ、力を持つ者が彼らを守るべきだというアイカの思想と、根本的に異なるものである。
だが、と、アイカは握りこぶしを更に固めた。
溝を自覚した上でも、この思いをかき消すことはできない。手の差し伸べられる位置に、助けを欲している誰かがいるのならば、その場で足踏みを続けることなど我慢できない。剣に誓ったのだ。いついかなる時でも、キャロルの魂の模範となることを。自分たちが探し求める騎士の理想像は、立ち止まれば立ち止まるほどに、どこかへ遠ざかっていく。
ヨーデル・ハイゼンベルグがアイカを向かわせられないのは、袈裟懸けとの戦力差が未だに未知数であるからだ。ある程度健闘するかと思われたキャロルの討伐隊が早々に救援信号を出しているならば、確かにアイカ一人が向かったところで状況が好転するとは思えない。本陣に戻り、正式な救援部隊を整え、大人数を率いて向かうのが、おそらくもっとも効率的で、かつ、被害を抑えることができる、という算段なのだろう。
それでは遅すぎるかもしれない。キャロル達は全滅してしまうかもしれない。
ヨーデルは、死ぬことのリスクとリターンと言っていた。戦場では『命を秤にかけることなどできない』という綺麗事は通用しない。命を秤にかけ、正しい数字を選択するのが、指揮官のあるべき姿なのだろう。
で、あるならば、なるほど。自分は確かに、指揮官としての資質に欠けている。
「ディム・アイカ」
ヨーデルは馬上より告げた。
「馬車を引いてきた馬の一頭は、貴公の鎧にも耐え切れる。荷台には馬具がひとつだけあるはずだ」
「………?」
アイカは一瞬、彼が何を言っているのか理解できずに、顔をあげる。ヨーデル・ハイゼンベルグは、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
「討伐隊の編成メンバーを決定したのはディム・ルテナント・キャロルだが、承認したのは私だ。袈裟懸けの戦力を甘く見ていたのは私も同様だ。加勢は認められんが、救援なら許可する。私が本陣で増援を整えるまでの間、もっとも素早く現地に急行でき、かつある程度戦力として期待できるのは貴公だけだ。極めて不本意かつ屈辱の極みだが、ディム・ルテナント・キャロル以下、生き残りと合流して、速やかに撤収せよ」
ヨーデルの瞳には、〝力ある者〟に対する嫉妬と憎悪の入り混じった感情がこもっている。自らが長年、力を御すための手段として学んできた〝戦術〟の限界。この一瞬だけは、突出した〝超人〟に頼らねばならない屈辱が、そこにはある。アイカは初めて、貴族騎士と伝統騎士の間にある溝の根幹を、その目に見たような気がした。
だが今は、その判断に感謝する。アイカはぴしりと騎行敬礼を行い、馬のもとへと向かう。その後ろを、ひょこひょことショウタがついてきた。彼も連れて行くべきか、一瞬迷う。袈裟懸けの戦力は未知数。だが、アイカとほぼ同等の実力を持つキャロルが、圧倒的に苦戦しているのは事実なのだ。戦場で彼を守りきれる自信がない。
「危険ですよ。ショウタ」
「やだなぁ。何があってもついていくって、言ったじゃないですか」
へらへらした彼の表情は、状況を正しく認識しているのか不安にさせる。だが、いつもと変わらない彼の態度は、少しだけアイカの緊張を解いた。
周囲には聞こえないくらいの小さな声で、アイカはぼそっと尋ねる。
「マーキスの話、ショウタはどのように思いますか」
「よくわかんないですけど、」
と、ショウタは前置きしてから、このように告げた。
「殿下一人が戦ってるんじゃないし、殿下一人が戦えば済む話でもありません。とりあえず、それを忘れていただかないためにも、僕は一緒に行きますよ」
どこかで聞いた言葉だ、と思いながら、アイカはわずかに口元を緩めてこう言う。
「今は、殿下じゃありません」
背後では、ヨーデル・ハイゼンベルグが、一部の騎士達に帰投を命じる声が響いていた。
Episode 32 『ブレイク・ザ・フィアー』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
全身を苛む激痛に身をよじりながら、キャロル・サザンガルドは目を覚ました。ごつごつとした瓦礫の感触がある。どうやら、自分は石造家屋の残骸の山に埋もれているようだった。意識が朦朧とし、視界がぼやける。身体を無理やり動かし、覆いかぶさる瓦礫をなんとか押しのけようとするが、力が入らない。
今、自分はどうしているのだ。
疑問の直後、脳裏に蘇ったのは、あの悪夢のような光景だった。サー・ジャック・リンドが死に、次にサー・カイン・ケーニスが死んだ。キャロルの命により放たれた矢の雨にも臆することなく、怪物はまっすぐとキャロルを目指した。不気味な豚面に浮かび上がる、殺意の双眸。全身が震え上がる。
袈裟懸け。あの怪物の名前だ。
あれほど恐ろしいものだとは思っていなかった。認識の甘さは言い訳にはならない。だが、そうだとしても、袈裟懸けの持つ恐ろしさとおぞましさは、それまでキャロルが幼い頃に刻み込まれたオークの持つそれとは、まったく種を別にするものである。
あえて生前の姿かたちを意識して組み立てられたジャックの死体は、間違いなく自分たちをおびき寄せるための〝罠〟だった。成熟したオークの個体が、時おりそうした知能的な策謀を巡らせることは、これまでの研究報告などで明らかになっている。だが、あの一切の知性が感じられない化物と、罠を仕掛けるという行為の解離性が、余計に袈裟懸けの恐ろしさを際立たせる。
袈裟懸けは、真っ先にキャロルを殴り飛ばした。彼女の身体は軽々と弾き飛ばされ、石造りの家屋に激突する。衝撃で家屋は粉砕され、意識は瓦礫の中に埋もれた。命があるのは幸いだが、これほどまでに傷を受けた身体で、どれほど戦えるのかは定かでない。
瓦礫を押し上げようとする腕に、力が入らない。重たい家屋の残骸は、キャロルの視界を依然として阻んだままだ。早く戦線に復帰しなければ、という思いと、復帰してどうなる、という思い、そして、『復帰したくない』という、一番強い思いが、心の中でぶつかり合っている。
なんという、情けない話だろう。
キャロルは、震える身体を抱え込みながら自嘲した。自分めがけて、まっすぐ突っ込んでくるあの巨体を思うだけで、心が凍りつく。汗が噴き出し、全身が震え、暑いのか寒いのかわからなくなり、呼吸すらもできなくなる。
じわり、と、金色の瞳には涙すら浮かんだ。もう、何がなんだかわからない。
何が騎士の誇りだ。しょせん鎧は、心の弱さまでを覆い隠してはくれない。自分は騎士などではない。ただ薄っぺらい言葉を並べ立て、必死に恐怖をごまかしていただけの、ただの女に過ぎなかったのではないか。
他のみんなは、どうなってしまったのだろう。やはり、自分と同様、軽々と蹴散らされ、あるいは袈裟懸けの餌食となってしまったのか。
瓦礫越しに聞こえる怒号や争いの音はなく、ただ空虚で生ぬるい風が、むせ返るような血の匂いと共に隙間から運ばれてくる。他の討伐隊のメンバーや、あるいは袈裟懸けは、果たして〝そこ〟にいるのか……?
「サー・チーフ・ハイヤット……! サー・シダン! サー・ゴウキ!」
瓦礫の下から、小さく彼らの名前を呼ぶ。返事はない。だが、微かに周囲の瓦礫の上で、何かが動く音がした。心臓の音が跳ね上がる。仲間か、袈裟懸けか、どちらかわからない。キャロルはなんとか身をよじり、腰元の鞘から刺突剣の柄を握った。全身がガチガチと震えだす。
「騎士隊長……!」
キャロルを呼ぶ声が聞こえた。ほっ、と、心の中に安堵が流れ込む。瓦礫越しのせいか声はややくぐもっていて、誰のものかはわからない。だが、そこにいるのは確かに討伐隊のメンバーだ。
「騎士隊長……!」
「私だ! ここにいる!」
瓦礫の下から、かすれた声をあげる。気配がゆっくりと近づいてくるのがわかった。瓦礫を踏みしめる音が聞こえてくる。
キャロルが両手で押しても持ち上がらなかった瓦礫の蓋が、軽々と外された。暗闇に慣れきった彼女の瞳に、微かな光が突き刺さる。思わず目を覆い、なんとか網膜の痛みを抑えてから、キャロルは救出者の顔を見た。
涎を垂らした赤褐色の豚面が、目前にあった。
「………!?」
キャロルは思わず息を飲む。安堵と希望はすぐさまに打ち砕かれ、混乱と絶望が濁流のように押し寄せる。急転直下のフリーフォール。理解できない状況を、なんとか把握しようと懸命に脳が働くが、十数セルチメーティアにまで近づいた袈裟懸けの生臭い吐息が、彼女の思考を完全に麻痺させた。
袈裟懸けの口元は更にゆったりと動き、信じられない音を紡いだ。
「るで、なん、どぉ……」
「な……、こ……!?」
このオークは間違いなく、彼女のことを呼んだのである。それまで瓦礫の上で、キャロルに答えていたのも、信頼できる仲間などではない。この怪物であった。袈裟懸けの口元がゆっくりと釣り上がる。笑ったのだ。
絶望が、心を打ち砕く音がする。
「い、いや……」
キャロルの口元からは、自分でも信じられないほどにか細い声があがった。
「るで、なん、どぉ……!」
「いや、やだ……! いやだ……! やめて……ッ!」
豚の鼻先が、キャロルの身体に押し付けられる。袈裟懸けは、お気に入りの獲物である〝るでなんど〟の匂いを記憶に刻み付けるためか、やたらと周到にその鼻先を全身に這わせた。オークの分泌する不燃性の体液が、キャロルの身体に軌跡を描く。キャロルはその時ようやく、自らの鎧が無残に砕かれ、鎧下もところどころ破けて、肌色を晒していることを知った。
「いやっ……いやっ……!」
全身をよじっても、瓦礫の山から抜け出すことはできない。左右に伸びる捻くれた牙も瓦礫に突き立てられ、キャロルの退路を完全に遮断している。
袈裟懸けは、匂いを嗅ぐことに満足したのか、その口を大きく開いた。まるで人間の腕ほどもある、形状はヒルによくにた舌が、ぬちゃりという音をたてて覗いた。直後、ざらざらとした不快感が腹の上を這う。
「いやああああああああああッ!」
キャロルが悲鳴をあげたとき、文字通りの横槍が入った。
「貫翔爆砕弩ァァ――――ッ!!」
真横からまっすぐに伸びた刺突撃が、袈裟懸けの即頭部に突き立てられる。竜鱗すら突き破ると言われる必殺の一撃は、しかし頑丈な頭蓋に阻まれ勢いを失った。が、その衝撃は確かにオークの巨体を揺るがして、その身体を大地へと横転させる。
「騎士隊長! 無事ですか!」
「サー・チーフ・ハイヤット……」
副隊長格のはっきりとした声を、キャロルは呆然と聞いた。横転した袈裟懸けからキャロルを庇うようにして数人の騎士が立ち、サー・ハイヤットはその手をキャロルへと差し伸べる。手を掴んで立ち上がろうとするキャロルは完全に腰が抜けており、サー・ハイヤットは最終的に肩を貸してくれた。
他の騎士達は、一部の貴族騎士によって開発された特製矢、縄と返しがついたそれを袈裟懸けの身体に撃ち込み、縄をそれぞれ別の場所につなぎ止めてから撤退する。サー・ハイヤットとキャロルは、その他数名の騎士に連れられて、なんとかその場を脱した。
「サー・ジャックと、サー・カイン。犠牲者はその2名です」
逃げ込んだ先の中央広場で、サー・チーフ・ハイヤット・サインはそう告げた。あれ以降、まだ一人も欠けてはいないらしい。
サー・チーフ・ハイヤット以下12名は、キャロルが瓦礫の下に埋もれた後、即座にその場を撤退したという。その時、特製矢による拘束手段が一時的には効果のあることを確認したという。ただし、2、3分も経過しないうちに引きちぎられてしまうが。
その後、キャロルの安否を確認するため、先ほどの現場に戻ったところ、あの光景に出くわした。ということだ。
キャロルは羞恥と申し訳なさで、顔を伏せることしかできなかった。まともに指揮を下せず、あんな情けない悲鳴をあげて。これでは彼らの信頼に答えられたとは到底言い難い。身体の鎧だけではなく、心の鎧まで剥がされてしまったのだ。正直に、告白するしかないだろう。
「みんな、すまない……」
キャロルは、部下たちが持ってきた井戸水で、袈裟懸けの体液を洗い流しながら、そう告げた。
「あんな醜態を晒すようではな。みんなを失望させてしまった。今だから言うが、私は……」
「オークが怖いんでしょ?」
「は?」
サー・シダンがあまりにもあっさりと言ったので、キャロルは聞き返してしまう。
「みんな知ってますよ。キャロル騎士隊長はオークにトラウマがあるって」
「なんでも幼少期に読んだエロ本が原因だとかで」
「興奮するエピソードですね」
「俺はこれ聞いてずっと騎士隊長についていくって決めましたよ」
果たしてキャロル・サザンガルドは、口をあんぐりと開けた間抜け面のまま、真横に座るハイヤットを見た。彼は肩を竦める。
「ちなみに死んだ二人も知ってました。喜んで同じ本を読みに行ったと聞いています」
「あ、あいつら……!」
キャロルの顔は、今度は別の感情によって赤く染まった。羞恥と、怒りである。
「次に会ったらただではおかん!」
「地獄ではあいつらの方が先輩だから、あまり大きい顔はできませんね」
サー・ハイヤット・サインは苦笑いを浮かべて、しかし直後にすぐ引き締めた。
「お説教は構いませんが、早くとも50年後くらいにして欲しいものです。騎士隊長」
「あ、ああ……。だが……」
だが、どうすればいい。今はこうして勇んでいる自分だが、また袈裟懸けを前にして同じだけの余裕を保てるかというと怪しいところだ。未だ完全にオークへの恐怖、そして新たに芽生えた死への恐怖を、克服できてはいない。こんな自分が指揮を取ったところで、足手まといになるだけでは、ないのだろうか。
袈裟懸けの習性、戦闘能力。これらを把握しているのは自分たちだけだ。吟味をすれば、結論も出る。だがその結論通りに行動できるのだろうか。恐怖に足がすくめば、きっと動けなくなる。
「騎士隊長!」
「なんだ」
見張り中の部下が声をあげたので、キャロルはそちらを振り向く。
「馬が近づいてきています!」
「なに……?」
キャロルは、見張りが乗っている石造家屋の屋根の上に、石段や塀のとっかかりを利用して軽々と飛び乗った。部下が指差す方向を見れば、なるほど、確かに一頭の大柄な馬に、騎士がまたがっている。キャロルが驚いたのは、その騎士が見知った顔であったということだが、ひとつ解せないのは、
「きゅ、救援でしょうか……」
「ああ。だが、一人でか……?」
満面の笑みで手を振っている剣友を、キャロルは首をかしげながら眺めていた。