第29話 王立騎士団出撃せよ(後編)
ショウタは、アイカのために、なんとか大柄で積載量の多い馬を用意することができた。以前、メイルオを訪れたときには盗賊団の馬を拝借したが、あの時にアリアスフィリーゼ姫騎士殿下がまたがっていたものとほぼ同じ、がっしりとした体躯の頑丈そうな馬である。多くの騎士が使用する騎馬とは少しばかり品種が異なるらしい。騎士将軍アンセム・サザンガルドの愛馬も同じ品種のようだが、アンセムの場合は自分の足で走ったほうが早いので、あまり馬には乗らないと聞いた。
馬屋である。
ショウタの故郷では、移動手段にこうした動物を使用することは稀であった。馬に限らず、そもそも家畜化された大型動物と触れ合う機会が限られていたこともあり、この時馬屋に立ち込めていた獣臭さというのは、そう慣れ親しんだ臭いではない。
ハイゼンベルグ侯爵の小姓である少年は、馬屋の奥から一頭の白馬を連れてきていた。馬具には、嫌味になりすぎない程度に華美な装飾が施されている。これが、彼の主人の馬ということになるらしい。轡を引く仕草も手馴れたものだった。
「ディム・アイカは、そんな大きな馬に乗るのかい?」
「えぇ、まぁ。お嬢様重いんで……」
目を丸くする少年に、ショウタは本人が聞いたら顔を真っ赤にして否定しかねないようなことを、平然と言った。重いのはアイカお嬢様本人ではなく鎧なのだが、馬一頭を平気で潰しかねない重量の鎧について説明をするのも億劫である。
ショウタは、アイカのものとは別に、実に乗りやすそうな小柄な馬を一頭連れていた。こちらは自分が乗るためのものだ。アイカに、ついてきて欲しいと言われたのだし、当然自分の馬が必要になる。
「ショウタくんは、ディム・アイカについて戦場へ出ることはあるの?」
「戦場ってほどじゃないですけど、お嬢様に連れられることは多いので、戦いのお手伝いはよくします」
「羨ましいなぁ。私は、盾持ちすらもなかなか認めてもらえなくてね」
少年ははにかんだような笑みを浮かべ、白い歯を見せた。
ふたりは馬を引いて、馬屋を出る。その間にも、小姓の少年はショウタに様々な話を聞かせてきた。どうしてこうも、にこやかな態度で親密に話しかけてくるのか。ショウタにはまったくもって理解できないのだが。不意に、彼に手を掴まれた時の指先の感触が蘇ってきたので、必死に姫騎士殿下の手の感触を思い出して意識の上書きに努めた。
少年も、将来騎士になるため、剣技の鍛錬は欠かさないらしい。貴族騎士には、戦闘訓練そのものを軽視する傾向があるが、素質のあるものとなれば別だ。
貴族は政争のため、密偵などを走らせる。そうした〝裏の仕事〟をこなすのは、多くの場合、小姓や従騎士といった〝騎士未満〟の少年少女となる。騎士ともなれば容易に嘘をつくことは許されない。自身の虚言が騎士王そのものの品位を貶めることになるからだ。
ともあれそうした事情もあって、貴族騎士が市井から召抱えた小姓や従騎士などで、特に才能に秀でる者は、使いっぱしりの仕事に従事する期間がある。貴族騎士の中で時おり妙に腕の立つ者がいたりするが、過去に密偵としての経験を積んだ者である場合がほとんどだ。
と、いう話を、ショウタは少年から直接されたわけではない。が、どうやら、話の端々から断片的の浮かび上がる情報をつなぎ合わせると、そうなるらしい。貴族騎士の三女でありながら、伝統騎士に匹敵する戦闘能力を持ち合わせるアイカのことも、小姓の少年はそのように分析している様子だった。
同時に、彼女に付き従って、わざわざ故郷メイルオを遠く離れてやってきたショウタのことも、である。
「やはり、ノクターン家からこうしたものを調べてこい、とか、命じられているのかい」
ド直球な質問がくる。ショウタは苦笑いしてかぶりを振った。
「そういうことは、〝言わない〟お約束でしょう?」
現状、もっとも正解に近い答え方となると、こうなるだろうか。少年はすぐにハッとして、頭を下げる。
「そうだったね、申し訳ない。私も迂闊だったよ。ショウタくんは、愛らしい顔にとぼけた表情をしているから、相手を油断させるね」
「それって暗にチョロそうって言ってますね?」
「あえてそう振舞っているんじゃなかったのかい? いやぁ、どちらにしても立派だよ」
なるほど、と、ショウタは考えていた。
アイカ・ノクターンの小姓として振舞う以上は、そのように見られることもある。つまり、自分から何かしらの情報を引き出そうとして接触してくる人物もいるわけだ。この小姓少年との会話は、ショウタがアリアスフィリーゼ姫騎士殿下の傍にぴったりとくっつく上で、考慮しなければならない情報が注ぎ込まれている。
なかなか、勉強になる。
「さて、ここだ」
まだ人影もまばらな、要塞線領の一角に到着する。周囲を柵で囲まれた膨大な広場であり、演習場の一角かと思ったがそうでもないらしい。少し離れた地点には巨大な凱旋門が建っており、広場には等間隔で杭が打ち込まれている。
少年は、実に手馴れた仕草で轡の縄を柵に結びつけた。
どうやら、出撃前に集合するのが、この広場であるらしい。少年は、ハイゼンベルグ侯爵の馬を杭に繋いだあと、ショウタをそこから更に離れた場所に案内した。
「高級将校と一般貴族騎士の待機場所は少し離れているんだ」
「お嬢様、一応将校っていう扱いみたいですよ」
「そうなのかい? 騎士隊長扱いなのかな。じゃあ、こちらだ」
案内された場所に、ショウタはアイカの馬を繋ぐ。そうこうしている間にも、広場には次々と馬に乗った騎士たちが集まりつつあった。馬を引く従者がいるものもいれば、そうでないものもいる。
自分の馬を連れた従者もちらほらおり、そうした彼らは主人の馬の横で、自分の馬の轡を持ったまま待機していた。ショウタも、ここを離れなくてはいけないというわけでは、ないらしい。
「なんか、緊張した空気になってきましたねぇ」
「そうだね」
横に並んだ小姓の少年は、ショウタの手をギュッと握ってきたので、おもわず全身が総毛立つ。
「ショウタくんも出撃するのかな」
「た、たぶんそうなるかと……」
「そうか、気をつけてくれ。戦いは、何があるか、わからないからね」
にこやかな微笑みと共に白い歯を見せ、少年が笑った。その笑顔に、胸の高鳴りを抑えられない自分を、ショウタは無性に許せない。なんなのだこれは。早いところ姫騎士殿下で上書きしたい。
「ええと、あの、その。手を離してもらっても……」
と、ショウタが言いかけた時、杭に繋いだばかりのアイカの馬が盛大にいなないた。
「ひゃあっ」
「あっ」
ショウタはおもわず飛び上がり、体勢を崩す。よろける勢いで前につんのめり、少年の胸元に顔ごと突っ込んだ。薄い胸板の感触が頬を打つ。薄皮と筋肉を通して伝わるあばらの感触ははっきりとあったが、胸筋は思っていたより柔らかかった。彼の体臭というか、そっと鼻腔に入り込んでくる匂いも、
いや、いや、いや、
「すすすすす、す、すみませんっ」
バネでもどるかのように全身を立たせ、ショウタは平謝りする。ぶつかっただけで、なぜこうも必死に謝るのか。答えは簡単だ。自分の中の動揺を打ち消してしまいたいからである。
「大丈夫だ、気にしてないよ」
それが正常な反応だろう。男同士の接触事故に、ここまで動揺する方がどうかしている。
だが本当に気にしていないなら、なぜ微妙に頬が紅潮しているのか。
考えないことにしよう。
気まずさが、じわじわと心を領空侵犯してくる。それが耐え難いレベルになるより早く、ショウタの後ろから声をかける者がいた。いてくれた。
「あ、見つけました。ショウタ」
「ひゃあっ」
二度目はさすがにない。ショウタは少年の手を振り払って、くるりと振り返り、びしりと騎行敬礼をする。
アイカ・ノクターン。正しくはアリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオである。
金髪は高く登り始めた日差しを照り返しきらきらと輝き、翠玉色の眼差しが穏やかにショウタを見つめていた。白磁の甲冑と白い肌の統一感が、持って生まれた気品をなおさら触れ難いものにまとめあげている。貧乏貴族の三女にしては、いささか纏う風が違っていた。
やはり、アイカ・ノクターン。正しくはアリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオである。
ショウタは一瞬ほっとし、一連のやり取りを見られていたのなら、どう弁解しようか考え、その後に、ようやくもって弁解する必要が何一つないことに気づけるだけの、冷静さを取り戻した。
「お、お疲れ様です。お嬢様」
「はい、ご苦労様です。ショウタ」
にこりと微笑んで、アイカ答えた。その笑顔の中に、微かな迷いのような感情が潜んでいるのを、ショウタは読み取った。
「お嬢様?」
「袈裟懸けが出たそうです」
その名前を聞き、ショウタは表情を引き締める。
「村を襲った獣魔族の中にいる、ってことですか?」
「はい。キャロルの討伐隊が、予定を早めて向かうそうですが……」
「心配ですね」
「やはり、そうでしょうか……」
アイカは表情を憂いなものへ変え、わずかに視線を落とした。
「私も討伐隊に志願したのですが、聞き入れてはもらえませんでした。私の身柄を案じてのことだとは思いますし、おそらくそれは、ひとつの正しい判断だとは思うのですが……」
「はい」
「どうすれば良いのか、私にはわかりません。『信じること』は、ひとつの手段であるとは思います」
これよりアイカもまた、他の騎士達に混じり獣魔族の討伐に赴く。アイカ・ノクターンという立場に与えられた任務である以上、彼女には従う義務が生じた。それを振り切って、キャロルを助けに行くのは是か非か。悩みとはそれだろう。
ショウタはアンセムとの会話を思い出す。
騎士将軍アンセム・サザンガルドは、強い力が単騎で戦うことの危険性を指摘していた。
同時に、オークに恐怖を抱くキャロルが無事袈裟懸けを討伐できるかという問題を懸念していた。
彼との会話を念頭においたとき、正しいと言える選択肢はなんなのだろうか。キャロルやアイカが一人で袈裟懸けと対峙し、済む話ではない。明らかなのはそれだけだ。
あくまでキャロルは前に立たず、後方からの指揮を中心として動くべきなのか。
アイカとキャロルが力を合わせて前線を築き、他の騎士たちと連携よく袈裟掛けを倒すべきなのか。
考えても、答えは出ない。
答えは出ないので、こう答えた。
「まぁ、なんであれ、最終的にお嬢様が出した結論には従いますよ」
そう言うと、アイカは顔をあげて首をかしげる。
「でも、私に無茶はさせたくないのでしょう?」
「させたくはないですけど、するんだったら仕方がないです」
その言葉を受けて、アイカはしばらく黙り込んでいたが、言葉を反芻した後、最後にはしっかり頷いた。
「わかりました。ありがとう、ショウタ」
「いえいえ。あ、こちら、お嬢様の馬になります」
「最近、ショウタの言葉には考えさせられてばかりな気がします」
アイカはそのように言って、杭に繋がれた馬の背に飛び乗る。超重量の甲冑をまとった上で、これほどひらりと動くのだから常識を馬鹿にした話だ。
だがそれよりもショウタは、アイカの言葉に意識を奪われていた。
「そ、そんなに意味深なことばっか言ってます?」
「意味は深くなくとも、ショウタが私のことを考えて何かを言ってくれているのは感じ取れますので、私はそれを正しく汲み取らねばならない、と思います」
正面を真っ直ぐに見据えて言うアイカの言葉に、ショウタはなにやら急に気恥ずかしさを覚えた。同時に、背後にいた一人の少年の存在を思い出し、話題を切り替える。
「あ、お嬢様あの! 紹介しようと思います!」
「はい?」
「僕の新しい友達のですね……」
そういえば、名前を聞いていなかった。ショウタは勢い振り返り、極力自然に彼の名前を引き出そうとする。が、上体をそちらへ向けたとき、ちょっと前までそこにいたはずの彼は、いつの間にか姿を消していた。
「あ、あれ……?」
「?」
ショウタはきょろきょろと周囲に視線を巡らせる。が、やはり、見当たらない。
ハイゼンベルグ侯爵のところへ戻ったのだろうか? と思いそちらを見てみるが、既に広場には馬に乗った騎士たちが多く集まっており、視界を遮られてしまう。かろうじて、馬上に座すヨーデル・ハイゼンベルグの姿だけは見ることができた。
途中から彼を無視して話を進めてしまったのは事実だが、最後に何か言ってくれても良かったのに。
そう思った後、ショウタの胸中には別種の気まずさが立ち込めてくる。
「あのう、お嬢様……」
「あ、はい。なんでしょう?」
紹介されるはずの人間が見当たらないことに困惑していたアイカが、頭にクエスチョンマークを浮かべまくっていた。
「なんかその……ごめんなさい」
「な、なんで謝るんですか!?」
「わからないですけど……」
なんとなく、アイカに対して不義理を働いたような気持ちになってしまったのだ。
あらゆる方面から考えて、ぶっちゃけあり得る筈のない感情ではあったが、そんな気持ちになってしまったのだから、仕方がない。
本来、騎士の出撃には〝出征の儀〟と呼ばれる儀式が存在するらしいのだが、今回は大幅に簡略化された。それだけ事態が急を要すということでもあるらしい。状況の概略説明と、隊分け、後に今回の作戦の総指揮官であるシロフォン・サンダルフォン千騎士長からの訓示。
短い激励の後、『貴公らの勝利を祈る』という言葉でしめられて、出征の儀は完了する。
話を聞いてようやく、ショウタも状況を掴んだ。獣魔族の同時多発災害。そこに袈裟懸けまで混じったというのであれば、なるほど、ただ事ではない。ショウタ、というよりも、アイカの組み込まれる隊はシロフォン・サンダルフォン千騎士長が率いる〝本隊〟、その中でも、全体の中心となって臨機応変に殲滅作戦にあたる〝本遊撃隊〟となり、隊長はヨーデル・ハイゼンベルグ百騎士長が務める。
移動や負担も大きいが、その分、隊の規模は大きく安全だ。ヨーデル百騎士長、シロフォン千騎士長が共に侯爵、伯爵であれば、アイカの正体は知っていることになるし、そうした采配は妥当である。
本隊は伝統騎士、貴族騎士の割合が6:4程度で構成されていた。マーリヴァーナ要塞線における両者の比率が7:3から8:2であることを考えると、いささか貴族騎士の比率が多く感じる。
さすがに、一瞬の判断が生死を分ける獣魔族戦を前にして、両者にいがみ合う空気はない。ただ、ひたすらにピリピリした空気が、立ち込める雰囲気を焦がしていた。
本隊は荒れ果てた街道を東進する。ショウタはあずかり知らぬことだが、行軍スピードは他国の精鋭部隊と比しても遜色ないほどであり、貴族騎士が半数近くを占める本隊であっても、練度は相当なものに達していると言える。その分、ショウタは自らの馬を追いつかせるのが精一杯だった。
アイカが時おり心配そうにこちらを見てくるのが、かえってショウタを発奮させた。おかげさまで、なんとか遅れはとっていない。馬が素直なのにもだいぶ助けられている。
マーリヴァーナ要塞線領には、荒涼とした平野が広がっている。見晴らしだけはよく、背後には要塞線、左手には北方王国ゼルガ山脈の峻厳な峰が、右手には雄大な独立峰であるヴァンガブ山の威容が確認できた。
キャロル達の袈裟懸け討伐隊はだいぶ前に要塞線を発ち、いまとなってはこの荒野のどこにいるかわからない。
「そろそろ獣魔族の活動エリアに入る! 総員、気を引き締めろ!」
前方から、将校の声がとんだ。
エリア内にある複数の村は現在壊滅状態で、獣魔族はそこに漂う血の匂いに反応してエリア内を徘徊しているのだという。あまりぞっとしない話だな、とショウタは思っていた。
やがて、本隊はマーリヴァーナ要塞線領から、隣接するゴンドワナ侯爵領ロスワールに進入する。鬱蒼としたオウロット大森林が領地の大半を占めるロスワール地方は、かねてより深刻な獣魔族災害に悩まされていたが、今回の件は中でもかなり逸脱した部類に入る。
「ショウタ、大丈夫ですか?」
「え、そ、そんな必死に見えます……?」
アイカの言葉に、ショウタは息を切らせながら答えた。
「騎士ではないなら、あまり無理はするなよ」
近くにいた伝統騎士の一人が、むすっとした声で割り込んでくる。あからさまに不機嫌な言葉は、こちらが貴族騎士とその小姓だからであるのか。だが、その言葉自体は、こちらを気にかけてくるものだった。
「あ、あの。大丈夫ですっ……」
「お前が一人前ではないとしても、戦場で最後に自分を守るのは自分だ。それを忘れるなよ」
「せ、戦場……」
今までの自分の生活とは遠くかけ離れた言葉は、いまだに現実感を伴わない。例えばメイルオで盗賊とやりあったときのように、戦いの結果、生死が左右されかねない状況に陥ることは、ないではなかった。が、最初から命のやり取りをするのは、ショウタにとってはほぼほぼ初めての経験となる。ましてや相手は、言葉の通じない怪物。らしい。
「ご心配なく。ショウタは私が守ります」
伝統騎士の言葉に対し表情を引き締めたショウタだが、彼に対してはアイカがそう微笑みかけた。
ああ、これかな、とショウタは思う。
アンセム・サザンガルドが言っていたことだ。姫騎士殿下は自分自身が力を持ち、またその身分から誰かを守ることを当然だと思っている。彼女がそう思っている分にはいいが、それに決して甘えてはいけないのは、ショウタだ。
「では、お嬢様は僕が守ります」
「はい、ありがとうございます」
ショウタの言葉に対し、アイカが笑顔で頷く。あまり期待されていないのかもしれない。
二人のやり取りを見て、名も知らぬ伝統騎士は『何なんだよこいつら……』とぼやいていた。
やがて本隊は、壊滅したひとつの村に到着した。
キャロル・サザンガルド率いる討伐隊は、街道をはずれ荒野を直進した。
ゴンドワナ侯爵領ロスワール。その南西にある小さな農村が、昨晩最初に袈裟懸けのターゲットとされた村だ。要塞線領とのほぼ境界部に位置し、オウロット大森林の不気味な黒い影を目前に見ることができる。
ゴンドワナ侯爵の騎士団が村に駆けつけた時、既に村は壊滅していた。生存者は、騎士団に助けを求めに行った若い男が一人だけ。彼は崩れ落ちた家と、無残に散らばる妻や娘の死体を前に泣き崩れたという。
村人の亡骸を回収し、あるいは弔っている時間はなく、このまま野ざらしにはできないと反抗する男を無理やり引き剥がす形で、騎士団は撤収している。すなわち、村の形は襲われた当時ほぼそのままだ。
キャロル達は、ヨーデル百騎士長の分析による、袈裟掛けの移動予想ルートに従ってこの村を目指した。袈裟掛けは、自らの獲物に対して異様な執着を見せる傾向があり、これは他のオークでは見られない特徴。死体をいたぶるなど、残虐性を強調する報告もあり、濃厚な血の匂いが残る以上、壊滅から半日も経過していないこの村に舞い戻る可能性は高いとされた。
「あまり、愉快な話じゃありませんね……」
討伐隊の一人が、移動中そのように口にする。
「そうだな……」
キャロルは頷く。袈裟懸けに対する恐怖は拭いがたいが、同時に吐き気を催す嫌悪感と、わずかな義憤が鎌首をもたげているのは事実だ。理屈としても感情としても、これ以上あの怪物を放置できないというのは、討伐隊に共通して存在する認識である。
討伐隊の編成人数は15人。部隊としては小規模だが、いずれも折り紙の実力者で構成され、少人数ゆえに行軍スピードは速い。やがては、壊滅した農村へと到着した。
むせ返るような血の匂いに、馬たちがおびえているのがわかる。それでも恐る恐る足を運ぶ愛馬の首筋を、キャロルは小さく笑いながら撫でた。怖いのは自分だけではなく、彼らも同じなのだ。馬が怯えながらも前に進むというのなら、主人がそれを見習わないわけにはいかない。
「ここで馬を降りる。みな、油断はするなよ!」
『はっ!』
キャロルの言葉に従い、14人の部下たちは武器を携えて下馬する。刺突剣、バックラー、それにコンポジットボウという黒龍式戦術剣技の〝三種の神器〟を持ち、一同は村に足を踏み入れる。
「うっ……!」
まだ若い一人の騎士が、小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。キャロルも顔をしかめる。
立ち込める悪臭からおおよそ想像はついていたが、村の惨状は筆舌に尽くしがたい有様だった。老若男女関係なしに、無残に引きちぎられ、あるいは叩き潰された死体があちこちに放置されている。原型をとどめたものなど何ひとつとしてなく、ただ血と肉の塊が転がっているだけの状況だ。
「こいつは酷い……」
ベテランの騎士もそう呟くのが精一杯といった様子だった。キャロルは手足の震えをなんとか押さえ込み、命令を発する。
「袈裟懸けがここに舞い戻った痕跡がないか、まずそれを確認する。村の各地にある死体の損傷具合を調べろ。ここ数時間以内に、改めて死体が荒らされた形跡があるかどうかだ」
「は、はい……」
「了解です」
大丈夫だ。まだ、心が恐怖にくじけていたりはしない。虚勢を張れている状況である。
それでも、村の探索を始めようかというとき、物陰で何かが動く音には、身体を飛び跳ねさせそうになった。胆力を絞り出して、怯える心を無理やりねじ伏せ、キャロルはそちらを振り向く。他の騎士たちも倣った。
音の大きさからしてオークではない。だが、生存者がいるとは思えない。となると、物音の主はだいたい絞られてくる。
キャロルは同時に、周辺を取り囲む気配を察知した。小さな何かの群れが、この村の中に潜んでいる。そしてそれは、明らかな殺意と敵意を、こちらに向けていた。
キャロルがスッと片手を上げると、騎士たちはそれぞれ得物を構え、3人1組のチームを作る。それぞれが背中を合わせ、刺突剣を構えた。この状況では、弓はあまり役にたたないか。
「キャロル騎士隊長……」
「ああ、わかっている。ゴブリンだ」
血の匂いに惹かれるのは、何もオーク、袈裟懸けだけではない。獣魔族全般の特徴である以上、他の村を襲ったゴブリンの群れが、こちらにも出現するのはある程度予想できた話だ。視線の数を見る限り、群れ自体の規模は決して大きいものではない。
「けきゃァッ!!」
直後、奇声を挙げながら、物陰から小さな獣魔族どもが飛び出してくる。彼らの手には剣鉈をはじめとした、無骨で野蛮な武器の数々。一番小柄なキャロルを、真っ先に狙ってくるのは、まさしくずる賢いゴブリンの習性そのものだ。
だが、キャロルは臆することなく、素早い右腕の動きでそれを迎撃した。彼女専用の刺突型騎士剣が、ひらめき、飛びかかってきたゴブリンを串刺しにする。
「ごヒャァッ!」
汚らしい断末魔をあげたゴブリンを、腕のひと払いで刺突剣から抜き捨てる。
先鋒の死を見て、次々に姿を見せたゴブリンを前に、キャロルは高らかに指示をくだした。
「これより村のゴブリンを掃討する。判断は各自に任せるが、3人1組を崩すな。年長者が指揮に当たれ」
『了解!』
その時、廃村に近づきつつある巨大な影。
悪臭と黒い瘴気をまき散らしながら、ゆったりと歩く〝それ〟の存在には、まだ誰ひとりとして気づいていなかった。
次回『獣魔族総進撃』




