第25話 私が恐れるもの(前編)
部屋に戻ってみると、ショウタの姿はなかった。ただ、暗い室内があるだけだ。彼が戻っていないとすれば、今どこにいるのか。見当もつかない。将校居住区の廊下、アイカの背中からキャロルも一緒に覗き込み、首をかしげていた。
「やっぱり、あの一件がまずかったのでしょうか……」
ぽつりと呟くと、キャロル・サザンガルドは神妙な面持ちで言った。
「私がアイカを押し倒した件か?」
「押し倒されていませんが」
あれを見られていたという自覚は、キャロルにもあったのか。
押し倒されてはいないが、至近距離まで接近を許し、ともすればそれはアイカとキャロルが禁断の恋に目覚めたかのような光景にも見えたかもしれない。というか、実際見えていたことだろう。ショウタは2人に遠慮して出ていってしまった。
ショウタが〝身を引いた〟のであれば、それはえらいことだ。そうすることで、どのような問題が生じるかといえば、まぁ、上手くは言えないが。性愛嗜好で差別をするつもりのないアイカではあるが、自分が誤解されるのは決して好ましい話ではないし、その誤解をしたのがよりによってショウタというのが一番まずい。よくわからないが、ショウタというのが一番まずいのだ。
よくわからないが。
「キャロル、私は少しショウタを探します」
「私も付き合おう」
「けっ、健全な交際関係を保ちましょう!?」
「何を言っているんだおまえは」
とかく、ぽんこつ同士の会話とはこうしたものである。剣友の誓いを交わしても、正常な意思の疎通は難しい。
ともあれ、キャロルの言葉がショウタの捜索を手伝うことだと判明し、礼を言ってお願いすることにした。
とは言っても、要塞線の中は広い。手がかりもないのでは、砂漠に落ちた砂金の一粒を探すようなものだ。夜間は人通りも少なく、施設や商店も最低限のものしか稼働していない。当然、照明器具の類はコストがかかるので、一部の将校居住区を除けばカンテラを持って移動せざるを得ない。そうした中でショウタ一人を探すのは、なかなか骨が折れる。
「あの少年は、アイカの小姓だったか」
横並びに通路を歩きながら、キャロルが呟いた。
「ずいぶん、腕っ節の細そうなやつだったが、あれは騎士になるのか?」
「こうした旅先では身辺の世話をさせていますが、騎士を目指しているというわけではありません」
「ふむ……」
ショウタについて他愛のない雑談をしながら、2人は要塞線内を捜索する。そうした中で、50メーティアほどの要塞線の最上部、すなわち屋上へとたどり着いた。ここでは篝火が焚かれ、夜番の伝統騎士が数人体制で見張りを続けている。
彼らは騎士隊長のキャロルが姿を見せたことで、直立不動の姿勢と騎行敬礼をもって迎えた。アイカも小さく微笑んで、彼らに会釈をする。キャロルはぐるりと周囲を見回し、尋ねた。
「小姓の少年を見ていないか?」
「小姓ですか?」
「ああ、黒髪で背が低い。細身の少年なのだが」
彼らは顔を見合わせてから、首を振る。
「特には見てませんよ」
「そうか……」
アイカは、キャロル達の会話を耳にしながら、要塞線の西側を眺めた。星明かりが青色に染める大地は、どこまでも果てしなく広がっている。騎士王国の西側は、誰も足を踏み入れたことのない人跡未踏の荒野であり、過去何度も、この要塞線は荒野の果てからやってきた〝死の軍勢〟を退けてきた。
すなわち、アイカの立っている今この地点こそが、人類の生活区域の最西端となるのだ。
誰も踏みいったことのない荒野を眺めても、思っていたほどの感慨はない。結局のところアイカは、未知に挑むことよりも既知を守ることに心を燃やせるタイプなのだ。だから、この場に立って感じるのは、この要塞線より背後にある全て、今、彼女が背を向けている全てが、アイカにとって守るべきものだという自覚だった。
屋上のはるか下方、要塞線の根元が何やら騒がしい。夜目を凝らしてみると、豆粒のように小さな集団が、松明を片手に壁を叩いているのがわかる。耳をすませば、ギャアギャアというがなり声が、小さく聞こえてきた。
「ああ、ゴブリンだな」
アイカの後ろから、キャロルが言った。
「深夜あたりになると、この付近に姿を見せる。連中は、ヒトの気配のある場所に、都合のいい食べ物や道具などがあることを知っているからだ。が、当然、連中の非力さでは、要塞線の壁を突き崩すことはできない」
そう言って、キャロルは見張りの騎士達に片手を差し出した。騎士達はすぐに彼女の意図を察し、その場に置いてあった複合弓と矢を手渡す。
キャロルは要塞線の縁に足をかけると、弓に矢をつがえ、その矢尻を西側の壁に群がるゴブリン達に向けた。星あかりの下で、獲物を見据えた金色の瞳が、猛禽の眼光を宿す。きり、きり、という音と共に弦を引き絞る姿は、彼女が必殺の一突きを見せる前の予備動作によく似ていた。
張力はやがて限界域を迎え、キャロルは引き絞った手を放す。
果たして放たれた矢は真っ直ぐに大地を目指し、ゴブリン達の群れの真ん中に突きたった。断末魔の悲鳴は響かない。ただ、ゴブリンの群れに混乱が伝播していく様子が、彼らの耳やかましい声で察することができた。キャロルは容赦なく第二射をつがえ、放つ。群がった獣魔の群れは、いよいよもって退散を始めた。
「当ててはいない」
キャロルは弓を見張りの騎士たちに返しながら、言った。
「死体が残ると、血の匂いがまた別の群れを呼ぶ可能性がある。ゴブリンに限った習性ではないので、獣魔族を倒す際は慎重に処理する必要がある」
「オークやコボルトもですか?」
「うむ……」
キャロルは少し険しい顔になって頷く。
「血の匂いが風で拡散する前に、死体を焼却処分するのが獣魔族退治の定石だ。だが、これのおかげで、死体の解剖ができず生態研究がまったく進まない。獣魔族の身体につく脂肪分は燃焼性が強く、あっという間に燃えてしまってな。だいたい、胃袋の中身も焦げカスばかりだから、食性もはっきりしていないんだ」
獣魔族の生態についてスラスラ語れるのは、さすがにマーリヴァーナ要塞線の騎士たちといったところか。
「ここにショウタはいない。戻るか、アイカ」
「はい……」
本当に、彼はどこに行ってしまったのだろうか。彼はああ見えてかなりしっかりした子である。要塞線の中だし、そうそう危ない目に合うことはないだろうから、心配はあまりしていないのだが、少し寂しい。アイカはキャロルと共に階段を降りる。その傍ら、心の隅に生じた寂しさを紛らわすため、アイカは初めてできた剣友にいろいろ尋ねてみることにした。
「そういえば、キャロルは近々、袈裟懸けの討伐に赴くのでしたね」
先をゆく背中に尋ねると、キャロルはぴたりと足を止めた。
近頃、要塞線付近を騒がせているというオークの特異個体だ。アンセムの話では戦術級規模、ないし準戦略級規模に匹敵するという。それだけの個体の討伐隊を任せられるということは、キャロルもアンセムからそれなりに信頼されているという証拠なのだろう。
アンセム・サザンガルドは父娘の情を現場に持ち出すような性格ではない。彼女の実力が客観的に評価されているということであり、喜ぶべきことである。
だが、何やらキャロルの様子がおかしい。アイカは首をかしげ、彼女に尋ねた。
「どうしたのですか? キャロル……」
「アイカ」
キャロルは振り返り、思いつめた表情でアイカを見る。カンテラの薄明かりが、暗闇の中にぼうっと彼女の端正な顔立ちを浮かび上がらせていた。
「な、なんでしょう」
「これは、おまえが剣友だから、恥を忍んで語ることだ。どうか、笑わないで欲しい」
剣友を持ち出されては、アイカも佇まいを直さざるを得ない。キャロルの言葉に対し、アイカは真剣に頷いて見せた。
「笑いません。キャロル、いったい何でしょうか」
「実は……」
そう口にするキャロルの顔は、暗闇の中で判然としなかったが、少し赤らんでいるようにも見える。
ディム・ルテナント・キャロル・サザンガルドは、やがてためらいがちに、その言葉を口にした。
「私は、オークが怖いんだ」
Episode 25 『私が恐れるもの』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「それは、今から8年前。私が10歳になる日のことだった」
キャロル・サザンガルドは再度『笑うなよ』と念を押した後、とうとうと語りだした。要塞線内の暗い廊下を、カンテラだけの灯りを頼りに進んでいく。アイカもまた、『決して笑いません』と言って剣を抜きそうになり、『いや、剣にまでは誓わなくていい』と慌てて押さえつけられた。
ともあれ、キャロルの昔話である。
グランデルドオ騎士王国はその国柄、騎士を主役とした英雄譚が数多く紡がれ、書籍として流通している。当然、印刷技術は高尚なものであり、多くは一般家庭に普及しないものの、要塞線内にある図書館には、騎士を目指す子供たちのためにも、そうした本が大量に蔵書されていた。
キャロル・サザンガルドもまた、騎士英雄譚に心を躍らせ、自らもまた父のような立派な騎士になるのだと、息巻いていた少女である。周囲の男子達は、女騎士のことを馬鹿にした様子だったが、その時点でキャロルはそうした少年達を黙らせられるくらいの実力を、身につけていた。
女だって立派な騎士になれるのだ。現に、要塞線にも当時から将校を勤める女騎士は多くいた。
だが、キャロルにとって不満なのは、そうした女騎士があくまでも物語の中では見られないことだ。騎士英雄譚の主役はいつも男の騎士であり、女の役割というのは大抵、いいところで騎士とラブロマンスを演じる貴婦人に過ぎない。
たまには剣を片手に、魔物を蹴散らす女騎士の姿があっても良い。
キャロルはそうした感情を胸に抱き、図書館によく通っていた。本棚を片端から探していく中で、ついにキャロルはその本を見つけた。
それは間違いなく、彼女が待ち望んだ一冊であるように、幼いキャロルには思えた。
美しくも気高い女騎士が、魔物に挑む騎士英雄譚。
『女騎士フェルナ オークの巣穴に散った花』
キャロル・サザンガルドにとって、忌まわしき一冊との出会いである。
作中には美麗な挿絵と共に、女騎士フェルナの活躍が描かれていた。時折、戦闘とは関係ないちょっとお色気の含むシーンなどが頻繁に見られ、潔癖であったキャロル10歳は顔を赤らめつつも憤慨したものだが、そのへんは読み飛ばしながらページをめくっていった。
いよいよ、女騎士フェルナがオークに挑む名場面である。フェルナはその華麗な剣技で、獣魔どもを蹴散らしていく。だが、敵の数は多く、撒き散らされた血の匂いが更なるオークを呼び寄せる。キャロルは手に汗を握った。
この窮地を、女騎士フェルナはいかなる手段をもって打開するのか。期待と興奮を胸に、キャロルはページをめくる。
フェルナは負けた。
群がるオークを前に、とうとう刃は折れ、鎧を砕かれ、大地に組み伏せられた美しく気高い女騎士は、その鎧下まで引き裂かれて、白い肌を外気に晒した。めくられたページの中に、女騎士フェルナの悲鳴が虚しく響いていた。彼女の細腕は、醜いオークの身体を叩くが、獣魔どもはびくともしない。
そしてやがて、女騎士フェルナは、
「オークどもに、身も心も、屈服してしまったんだ……ッ!」
キャロル・サザンガルドは、頭を抱えながら言った。
「その場で辱められただけではない。オークの巣穴に連れ去られ、何故かオスしかいないオークどもに代わる代わる陵辱され、最初は気高い意思を示していたフェルナも、いずれは快楽に溺れて、最後はオークの子供まで……」
「あのう、それ、あの、騎士英雄譚じゃないですよね……?」
「官能小説だよ! 私は知らなかったんだ!!」
キャロルの叫びが、要塞線の静かなろうかに響き渡る。
「キャロル、最後まで読んだんですか?」
「読んでしまったんだ。逆転するかもしれないと思って……」
だが、女騎士フェルナはとうとう最後まで、その気高い誇りを取り戻すことはなかった。快楽に溺れ、オークどもの体液にまみれ、その子まで孕んでしまったフェルナの末路は、詳しく記載されていなかったという。だが、『オークの巣穴に散った花』という副題があるのだから、つまりまあ、そういうことなのだろう。
「それ以来、私はオークのことがトラウマになってしまってな……」
「なるかもしれませんね……」
遠い目をして呟くキャロルに、アイカは神妙な顔で頷く。
「女騎士は、決してオークのチンポには勝てない生き物なのだと、刷り込まれてしまったのだ……」
「は、はい」
「袈裟懸けと戦えば、私の部隊は瞬く間に蹴散らされ、鎧と服を剥かれて、私の腕ほどもある雄々しくそそり立ったイチモツを突っ込まれて、『んほおおおお』だの『しゅごいいいい』だのしか言えないカラダにされてしまう……。そう思えてならないのだ」
「何故そこまで写実的に……その、アレの描写をなさるのでありましょうか」
アイカも思わず想像してしまって(実物を見たことはない)顔を赤らめる。
「私だって勉強はしたんだ! オークは決してオスしかいない種族でもなければ、決して積極的に人間の女を狙うわけではない! オークの社会はクイーンを頂点としたもので、メスの数が極端に少ないから、繁殖期にそうした行動に走ることはあるらしいが! 今は別に繁殖期ではないし! そもそもオークと人間の間に子供はできない! できないんだよ! 妊娠オチなんてないんだよ!」
キャロルはさらに叫んだ。おそらく彼女にとっては相当深刻な悩みなのだろう。当然、笑える話ではない。
「でもダメなんだ! オークとの実戦を考えただけで足がすくむんだ! 群がるオークに代わる代わる犯されて、最後は豚の子を孕んでしまう自分の姿を想像してしまう。考えたことはあるか!?」
アイカはかぶりを振った。むしろ積極的に想像したくない展開だ。
あの気丈な女騎士キャロル・サザンガルドがこれほどの悩みを抱えていたとは。というか、彼女がこうもオークに怯えるということは、今までオークとの実戦を行ったことはなかったのだろうか。
アイカがそのように尋ねると、キャロルは『一度だけある』と答えた。
「その時は、私はその……馬上から指示を出すだけだった。まだ小隊長に上がりたての頃でな。獣魔族の生態に詳しい、百騎士長が補佐についてくれたおかげで、的確に連中を殲滅できた。いけ好かない男だが」
あとは、ゴブリンやコボルトの討伐で戦功を重ねてきたのだという。オークの戦闘に出くわさなかったのは幸運だったが、そのツケが今ここで一気に回ってきた形だ。
準戦略級特異個体・袈裟懸け。オーク恐怖症のキャロルにとっては、通常以上の脅威となることだろう。正直にそれを話し、断ることもできるはずだが、キャロルはそれをしなかった。理由は、なんとなくわかる。
「お父さんを、失望させたくないんだ……」
彼女がぽつりと漏らしたその言葉は、おそらく魂から絞り出した本音であったことだろう。
「ここ最近、私と父は、もう騎士隊長と騎士将軍としてしか会話をしていない。キャロル・サザンガルドがアンセム・サザンガルドの期待に答えるには、もう与えられた命令をこなしていくしかない。だから、袈裟懸けは私が倒さなければならない」
キャロルの気持ちは、アイカも痛いほどわかる。
きっとキャロルにもまた、時々自身がしでかす不祥事で、父の手を煩わせているという自覚があるはずだ。ほかならぬアイカ、アリアスフィリーゼがそうであるように。自分の致命的なドジで、父の期待を損ねているのであるとすれば、それはきっとオークの存在以上に恐ろしいものであるに違いない。
「済まない、アイカ。長々と変な話をしてしまった」
「いえ……」
キャロルの謝罪に対し、アイカは首を横に振った。
「それであの、大丈夫なのですか?」
「袈裟懸けのことか?」
「はい」
これほどまでに、喚き散らしたキャロルだ。近々控えているという袈裟懸けの討伐は、その心を押しつぶしそうな不安で溢れているに違いない。正直なところ、あのような精神状態で討伐に挑むこと自体が、アイカにとっては無謀であるように思える。
キャロルは、アイカの問いには答えなかった。考え込む仕草の後『どうだろうな』とだけ言って、すべてはうやむやになる。剣友の誓いを交わしたからこそ、キャロルはアイカに『大丈夫だ』とは言えなかったのではないか。
アイカ・ノクターンは、剣友キャロル・サザンガルドに対して何ができるだろう。
廊下を歩くキャロルの背中を眺めながら、アイカはそのことを考えていた。
「楽にしてください」
執務室に入るなり、アンセム・サザンガルドはそう言った。突然の敬語モードに、少し調子が狂う。
ここはアンセムが許可しない限り誰も立ち入れないような空間であり、また防音環境もしっかり整った、いわばプライベートルームのような場所であるらしい。この場においてショウタは本来の、すなわち宮廷魔法士ショウタ・ホウリンとしての立場で振舞うことができる。
とは言え、別にいつもと何か変わることがあるかといえば、そんなことはない。ショウタはアンセムのことをよく知らないし、誰に対してもまぁ敬語だし、立場を振りかざして偉そうな真似をしたこともない。
そもそも、騎士王国における宮廷魔法士というのは立場が曖昧だ。宰相や騎士将軍よりエラいとはとうてい思えないのだが、彼らはショウタに対して敬語を使ってくる。なので、実は妙な居心地の悪さが、あるにはあった。
「お茶を淹れましょう。大して良い茶葉はありませんが」
「アッ、ハイ。あの、別に違いとかわからないんで大丈夫です」
「そうですか」
腰掛けた椅子は思ったよりゴワゴワしていた。見渡してみると、インテリアの類は少なく、こざっぱりとした部屋だ。部屋の壁には、鎧や武器がかけられているが、いずれもアンセム専用に作られたものなのか、異様なサイズをしている。とにかくデカいのだ。槍だか剣だかわからないものに、盾。そして弓もあった。
「こうした武器の類は、珍しいですか」
ティーカップを二つ持ってきて、アンセムは言う。
「いや、珍しいっていうか、あの」
「やはり魔法などを極めていらっしゃると、こうしたものに頼る機会もなくなるでしょう」
ごめんなさい、特に極めてないんです。という思いが沸き上がってくる。このあたりの話は、深く突っ込まれると危険な領域だ。ショウタはなるべく自然に話題をシフトするべく、その話をアンセムに押し返した。
「アンセム将軍も、魔法をお使いになるんですよね?」
「少しかじった程度です。伝統騎士は魔力総量が少ないですし、まともに使いこなせるものではありません」
そう言って、アンセムは人差し指を宙に踊らせた。軌跡が魔法陣を描き、『ぼうっ』と炎が上がる。
思わず感嘆の声を漏らしそうになり、ショウタはこらえる。今の自分は宮廷魔法士。この程度、珍しくもない技術であるはずだ。
「この程度、魔法士殿には児戯のようなものでしょう」
そう言って、アンセムは自らのティーカップを手に取る。
「ワガハイが扱えるのは、夜間の灯りに苦労しないように修得した閃光・火炎系の照明魔法と、対アストラル生命体のモンスターを想定した武器強化魔法程度です。どちらも、紋章魔法からすれば初歩の初歩でしょう」
「あれ、でも、空飛ぶ騎士将軍なんですよね?」
「はい」
ショウタもカップを手にとって、不思議そうに首をかしげる。アンセムは静かに頷いた。
「あのその、飛行魔法とかは?」
「空くらい、魔法を使わなくとも飛べますが」
「えっ?」
「何か」
「アッ、ゴメンナサイ。なんでもないです」
彼らを常識で縛ることのバカバカしさは、姫騎士殿下を見て知っていたはずだ。目の前の将軍は姫騎士殿下よりはるかに強いらしいのだから、そりゃあまあ、空くらい飛べるのだろう。強い男が空を飛ぶのに理屈はないはずだ。
「意地汚いようですが、その砂糖菓子をあけてもよろしいですか?」
「あー、はいはい。どうぞどうぞ」
ショウタが言うと、アンセムの野太い腕がすっと伸び、机の上に置かれた小袋を掴む。腕の太さだけで、ショウタの腰周りほどもあった。まさしく巨人である。
「甘いもの、お好きなんですか?」
「お恥ずかしながら」
ちっとも恥ずかしがっていない声で、アンセムは言った。
「マーリヴァーナに美味いもの無しとはよく言わますが、この砂糖菓子は絶品です。毎晩、買い求めに行くのですが、最近はこれの良さにほかの騎士も気づいたようでして」
中から出てきたのはカラフルな、いずれも小粒の砂糖菓子だった。この国で流通している貨幣通貨よりも、もう少し小さい。アンセムがその巨大な手のひらの上に乗せると、まるで錠剤のようだ。アンセムはそれを口に放り込み、味わう。
いや、おそらく味わっているのだろうが、なにぶん表情が変わらないのでわからないのだ。
「なんか、意外ですね。アンセム将軍が甘いもの好きなんて」
「よく言われます」
アンセムはティーカップに口をつけて言った。
「ワガハイも昔はそこまで好きではなかったのですが、デュエトリーゼ姫殿下が、よくワガハイの為に甘いお菓子を焼いてくれたものですから」
初めて聞く名前に、ショウタはふと手を止める。
「あの、それって、姫騎士殿下のお姉さんですか? 亡くなったっていう」
時折、アリアスフィリーゼから聞かされる名前に〝デュオ姉さま〟というものがあったのを思い出す。
「はい。身体は弱いが、聡明な方でいらっしゃいました。ワガハイのもとで黒竜式戦術剣技を学んだのですが、デュエトリーゼ殿下に合ってるとはワガハイはどうも思えず、魔法を学ばれてはどうかと提案したのです」
「魔法を?」
「騎士王陛下に進言し、デュエトリーゼ姫殿下は帝国の魔法都市へ留学に向かわれました。亡くなったのはその1年後です。魔法実験に巻き込まれてのことと伺いました」
アンセム・サザンガルドが魔法を学んだのは、それが切っ掛けであったという。デュエトリーゼの死亡原因を詳細に究明するべく、騎士団を率いて現地に向かったアンセムは、亡くなった彼女のことを思い魔法の勉強にも着手した。彼女が生きた証を、自分の身にも刻みたかったのだという。
結局のところ、事故原因はデュエトリーゼ自身の過失であるという向きが濃厚になり、デュエトリーゼ姫の死亡に関して国際的な問題に発展することはなかった。が、この時のショックが原因で后殿下は体調を崩され、そのまま亡くなられた。数年後、騎士王セプテトール陛下もまた、病床に伏すことが増えたという。
「幼かったワガハイの娘ともよく遊んでくださったのですが、キャロルの奴めは、当時のことは覚えていないでしょう」
金色の瞳は、過去を見ていた。昔を懐かしむ双眸に、猛禽の眼光はない。この人もずいぶん優しい表情をできるんだ、と、ショウタは思った。
「そういえばその、娘さんのことなんですが」
「ふむ?」
ショウタは、先ほど医務室で見た一件のことを、伝えるべきか迷った。とても、ひょっとして娘さんは同性愛者なのではないですか、などとは、いかにアンセム将軍の仏の側面を知ったとはいえ、とうてい言えることではない。
「え、えっと。その、お強いんですね」
「ああ……」
先ほどの演習場の一件を思い出し口にすると、アンセムは険しい顔を作った。
「確かにキャロルは、強いです。ですが、その強さは危険なものだと、ワガハイは思っています」
「ど、どういうことです?」
「人によって、恐ろしいモノ、恐れるモノというのは、いくらでもあるものでしょう。そうしたものを前にしたとき、足がすくむというのもよくある話です」
まさしくアンセム・サザンガルド自体が、姫騎士殿下にとっては一番恐ろしいものであるらしいが、その件をここで口にしようとは思わなかった。
騎士将軍は続ける。
「だが、真に恐ろしいものとは、そうした外的要因ではないと、ワガハイは思っています」
「アンセム将軍にも怖いものってあるんですか?」
「はい」
意外なほど素直に、サー・ジェネラル・アンセム・サザンガルドは頷いてみせる。
「ワガハイが一番恐れているもの。それは〝強さ〟なのです」
「な、なんか深いコトバですね……!?」
「〝力は身を滅ぼす〟などという言葉はありますが、滅びるのが我が身のみであればまだ良いのです。もっと取り返しのつかないことになるときもある。魔法士殿、これは姫騎士殿下にも言えることですので、よく覚えておいていただきたい」
金色の瞳に、猛禽の眼光が宿る。騎士将軍としての言葉だ。ショウタは姿勢を正す。
アンセムは口を開き、言葉を紡いだ。
「少し、昔話をさせてもらいます」