第17話 今響くココロの声
ただ、カッコつけてみたかっただけである。
勇ましいことをいったところで、ショウタに王立騎士団と正面切って戦う甲斐性などあるはずもない。ただ、自分の腕の中で、あれほど甘えてきた小さい少女が、不安を抱えたまま戦いに駆り出されるなどというのが、どうもショウタとしては納得できなかった。
できることなら、彼女がきちんと戦う理由を見つけられればいいと、そう思っている。幼い子供に世界の命運を託す是非については、難しすぎてよくわからないのが本音だ。ただ、メロディが勇者として巨悪に立ち向かうのであれば、それは自分の意思であるべきだと思った。誰から押し付けられたわけでもない。宿命などという、うんこのようなモノに背負わされたわけでもない、彼女の心の中から生じた、彼女自身の魂の力であるべきだと思った。
騎士道だの勇気だの、ショウタの生活にそんなものは無縁だった。だからきっと、ショウタがメロディの力になってあげられることは、そう多くない。そばにいて、手を握って、頭を撫でて、抱きしめて。彼ができるのはそこまでだ。
あとはせめて、時間を稼ぐ。ショウタはゆったりと両腕を広げた。
思考領域を、意思情報で満たす。領域から溢れ出た〝力〟が、物理的な障害となって空間に作用する。
「おっ、おおおっ!? なんだっ!?」
「さ、先へ進めん!」
「こ、これが……魔法かっ……!?」
魔法じゃないんだけどなぁ、と思いながら、ショウタは意思の力をひねり出し続ける。
アリアスフィリーゼ姫騎士殿下のデタラメなフィジカルであれば、強引に突破することも可能であろう。だが、師匠の鬼の特訓から逃げ回っていたショウタも、この思念によって作り出す力場だけには自信があった。才能があると褒めそやされたのは、この力だけだ。それがメロディの為になるというのなら、彼は全力でこの力を使う。
もっとも、騎士団の人を怪我させると後が面倒なので、それはしない。原則としてショウタはヘタレだ。
〝勇者殿〟は、政治的にどういった立場なのだろうなぁ、と、ショウタは余裕のない頭で考えた。思い切って行動してみたはいいが、これが後の王宮生活に響くとなると、ちょっと困るな、とも。貴族派の支持を継続して得られる、もっともらしい理由を考えておかなければならない。これからも姫騎士殿下と行動を共にするためにもだ。
「ま、魔法士殿! あなたのお考えもわかりますが!」
騎士隊長が、生じた力場の中を一歩一歩、強引に突き進もうとする。ショウタは脂汗を流しながら、さらに意識の力を強めた。
「そうでしょう。そうですよね! 誰だってあんな小さな子を戦場に送りたくはありませんよね!」
「ええ、送りたくはありません! ですが、綺麗事や、子供の言い訳だけが通る世の中ではないのです!」
「そんな手垢のついた言葉で、今更僕の心をどうしようってんです!」
ショウタはさらに力をひり出す。言われたことなど百も承知だ。綺麗事だけで世の中が回るなら、事態はこんなにややこしくなっちゃいない。
「だいたい! 綺麗事だの! 子供の言い訳だの! そんなのはっ!」
「おっ! おおっ!? うおおおっ!?」
別方向に生じさせた斥力場が、中央広場の石畳を引っペがしていく。根性出せばここまでできるのか、というのは、ショウタは自分でも驚きだった。
「思考停止したオトナの! 決まり文句でしょうがあああああっ!」
「おあああああッ!」
生じさせた斥力を、丸めて遠くへ投げつけるイメージ。引っペがされた石畳と共に、騎士隊長は吹き飛ばされた。噴水に叩きつけられ、騎士隊長の身体が広場に転がる。
「あっ、やばっ……!」
やりすぎたか、と思った瞬間、意思の力が緩む。広範囲に展開していた足止め用の力場が解除され、騎士たちが一斉に駆け出した。
ショウタの力場で足止めされていたとはいえ、彼らは王立騎士団。いわば精鋭エリート部隊だ。糖分を含めた栄養補給をしたばかりで、万全の状態であるショウタだから足止めが適っている状態であり、それも一定ラインを越えられれば、あっという間に捕縛されてしまう。ショウタは運動音痴である。
急いで力場を貼り直さねば、と思ったとき、ショウタの視界を掠める影があった。
広場からほど遠くない家屋の屋根を、飛び跳ねながら移動する。その素早い身のこなしは騎士のものではない。その影の姿を認めたとき、ショウタは思考領域に別の意思情報を注いだ。殺到する騎士たちの身体を擦りぬけるようにして、ショウタの姿が掻き消える。
次の瞬間には、ショウタは屋根の上で、その人物の目前に姿を現していた。
母性を思わせる柔和な顔立ちは、今やその両目に冷たい使命の光を帯びている。緩やかな茶髪にエプロン。孤児院でショウタの傷の手当てをしてくれた美人先生だが、その正体は異なるものであると、今この瞬間知った。
「みっちゃんですね?」
「はい、今週のみっちゃんであります」
密偵の癖に、律儀に答える彼女は、以前話した時と姿も声もまるきり違っている。
「メロディの情報を騎士団にリークしたのも?」
「私であります。王立騎士や警邏騎士、それに騎士候補生達には無駄な動きをさせずに済みました」
その頃、ショウタ突然の消失に動揺していた騎士たちは、ようやく屋根の上でみっちゃんと対峙する彼を見つける。
みっちゃんは使命に忠実だ。そこを咎めることはできないだろう。だが、彼女はこのまま、王都内を逃げる姫騎士殿下とメロディも見つけ出そうとしている。騎士団によるローラー捜索とどちらが早いか。それはわからないが。
ただ、このまま彼女を行かせれば、二人はすぐに見つけられてしまう気がした。足止めが必要なのは、彼女も同じだ。こちらの臨戦の空気を感じ取ったか、みっちゃんはエプロンの内側からクルクルとダガーを取り出し、逆手に構えた。
「やめたほうがいいであります」
「や、やっぱそうですかね……」
みっちゃんがどれほど強いのかは知らない。彼女の力といえば、フラクターゼ伯爵を一瞬で組み伏せた、あの体術しか見ていないのだ。
ショウタは力場の行使と転移の使用で、既にかなり脳への負担がかかっている。相変わらずコスパの悪い力だ。みっちゃんを相手取り、果たしてどれほど足止めできるかは怪しい。
ショウタはそっと、腰に下げた金属棒を取り出した。ブンと振るうと、全長2メートルばかりの鞭蛇が飛び出す。まだ数度しか使ってない武器だが、すっかり馴染んでしまった。
そっと意識を騎士団の方へ逸らす。彼らは騎士隊長が気絶したことにより、わずかに統率が取れていない状態だ。屋根の上にいるショウタを捕縛するべきか、あるいは逃走した殿下とメロディを追うべきか。数の多さゆえにいささかまごついている。
「よそ見はダメでありますよ」
耳元で、そっとそんな声が聞こえる。次の瞬間、ショウタの世界がぐるんと一回転した。後頭部を押さえつけられ、足を払われる。顎を強打し、一瞬にして屋根の上に組み伏せられた。腕を捻られ、脳が揺れ、脊椎のあたりにダガーが突きつけられている。
「やはりショウタ殿は、戦闘については素人でありますね?」
「いや、はい。お恥ずかしながら……」
「申し訳ないでありますが、ショウタ殿にはしばらく大人しくして……ッ!?」
疲れた脳に意識を集中させ、溜め込んだ斥力を解放する。ショウタの背に馬乗りになったみっちゃんの身体が、ぽーんと跳ねて宙を舞った。空中で見事に姿勢を整えるみっちゃんに向けて、ショウタは立ち上がりトウビョウを振るう。
トウビョウはそれ自体が意思を持つ武器だというのは、数日触っておおよそわかっていた。ショウタのコントロールが悪くても、彼の標的さえきちんと定まっていれば、それに沿ってまっすぐ伸びる。鞭蛇は、すぐさま空中で退避のままならないみっちゃんに絡みついた。
「しょっ、ショウタど……」
「ごめんなさい、みっちゃん!」
トウビョウをぐいと引き寄せると、みっちゃんの身体が屋根の上に落下し、ごろごろと転がる。
力量差を自覚すればこそ、ショウタは容赦をしない。ぎちぎちと縛り付けつつも、トウビョウはみっちゃんの細身の身体の上を素早く這う。服の下にまで潜り込む周到さまでは、さすがにショウタの指示ではないが。
さすがに裏事のプロフェッショナルなだけはあり、簀巻き状態のみっちゃんにも動揺や恐怖は見られない。ただ、底冷えするほど冷徹な瞳が、ショウタを射抜いていた。これは、怪我をされたら後が面倒そうとか、考えているだけの余裕はない。全力でみっちゃんを、一時的にでも無力化させておく必要があった。
しゅるしゅると、服の中を出入りしながら、トウビョウが複雑に縛り上げる。
「く……」
みっちゃんはわずかに身じろぎし、苦悶の声だけを漏らしたが、ここまで来てしまえば止めるわけにはいかなかった。ショウタの攻撃意思を感じ取り、トウビョウはその小さな顎を開く。
心の中でもう一度謝った。単なる自己満足のエゴイズムに過ぎないとしても、もう一度謝った。
かぷり、と、トウビョウの牙がみっちゃんの肌、首筋にくい込む。
「―――!」
びくん、とみっちゃんは背筋を跳ねさせた。ショウタは焦る。そんなに強かったっけ、と。
トウビョウの内部で生成した特製の痺れ薬である。人体への後遺的な影響はほとんど残らない。素早く動き回り、偵察能力と戦闘能力に優れたみっちゃんを無力化するには、もうこれくらいしか残っていなかった。
みっちゃんの双眸が虚ろになっていくのを見て、ショウタの心に罪悪感じみたものがじわりと広がる。自分が今まで、どれほど平和ボケした場所で暮らしていたかを実感した。知り合いの、女性を、少し痛めつけただけで、これほどイヤな気持ちになるとは。
しゅるしゅるとトウビョウが拘束を解除し、ショウタのもとへ戻る。ショウタは意識を、完全に中央広場の方へと向けた。騎士たちは混乱の中から統率を取り戻しはじめている。何人かは、屋根の上のこちらを指差し、残る何人かは殿下達を探すためか、広場から出て行った。
戦力を分散させてくれるならよい。もう少し、足止めのしようがある。
ショウタがほっと一息をついたその時、重く、鈍い衝撃が彼の後頭部を襲った。
「……!?」
くわん、と響く感覚。ショウタは頭を抑えてよろける。思わず屋根から落ちそうになったところを、腕をぐいと掴まれる。
みっちゃんだった。ぴんぴんしていた。
「私は、演技派でありまして」
冗談とも本気ともつかぬ声で、淡々と言う。痺れ薬も、効いていなかったと、そう言うのか。
腕を掴まれ、引き寄せられ、みっちゃんと視線を至近距離で交差させる。冷たいナイフのような視線が、ショウタをえぐる。直後、杭打ち機のような膝蹴りが、ショウタの腹にめり込んだ。激痛により意識が遠のく。ブーメラン状に折れたショウタの首筋に向けて、今度は手刀が振り下ろされた。
「相手がショウタ殿だからと、少し油断したでありますね……」
その言い方はちょっとヒドいんじゃない? という思いと、このザマでは当然か。という思い。
その両方が鎌首をもたげる中で、ショウタはその意識を闇の中へと手放した。
アリアスフィリーゼとメロディアスは、通りを突っ切り、裏路地へと駆け込んだ。身を軽くするため、アリアスフィリーゼはその白磁の甲冑を脱ぎ捨て、鎧下姿となっている。このまま二人で本気で逃げようとすれば、衝撃波をまき散らしながら城壁を越えることも可能だろう。
だがわずかな迷いが、二人の足取りを重くしていた。
迷いがあるのは、アリアスフィリーゼか、メロディアスか。
「お姉ちゃん!」
ちょうど裏路地の中へ差し掛かった時、メロディがそう叫んだ。アリアスフィリーゼは立ち止まる。
「あたし、やっぱ戻る。お兄ちゃんが……」
「メロディ……」
怯えた目つきながら、そのように言う少女を見れば、何も言えなくなってしまう。
「お兄ちゃん、あたしの為に残ってくれたんでしょ? でも、この国の王様は、あたしを捕まえろって言ったんでしょ? それじゃお兄ちゃん、この国では悪い人になっちゃうんでしょ?」
メロディアスは、利発で聡明な子であった。アリアスフィリーゼは唇を噛む。ここまで理解が早くなくとも、いいのに。素早く状況を飲み込んでしまったからこそ、メロディアスはショウタの身を案じ、戻ろうとまで言い出している。
だがそれでは、あのひ弱な少年のなけなしの〝勇気〟を蔑ろにすることになる。アリアスフィリーゼは、かぶりを振った。
「それでもメロディ、私もショウタも、あなたが〝勇者〟として戦わされることを、望んではいません」
そのフレーズは、メロディの動きを止めるには十分なものがある。
メロディアス。〝勇者〟メロディアス。
闇に包まれ、絶望に貧した人々を、希望の光で救う者。勇気の代行者。人類最後の希望。最終兵器。
伝承に語られるそれが、決して単なるおとぎ話ではないことは、歴史がきちんと証明している。それでも、勇者が現実にあらわれ、そしてそれと直接触れ合う機会が訪れるなどとは、アリアスフィリーゼとて思ってはいなかった。
そしてその残酷な宿命が、無垢なる10歳の少女に対しても降り注ぐことがある、ということもだ。
「え、えへへ、バレちゃったね……」
メロディアスは小さく笑ったが、その笑顔には力がない。アリアスフィリーゼは、こちらこそは明るい笑顔で応じようと、努めて微笑む。
「いえ、私も嘘をついていましたから、お互い様ですよ」
「お姉ちゃん、お姫様なの?」
「はい。騎士王セプテトールの子、姫騎士アリアスフィリーゼと申します」
メロディがなぜ、自らの素性を隠し、城壁の外をふらふらと出歩いていたのか。
彼女を捕まえにきた王立騎士は、その情報を断片的にしか語らなかった。だがそれでも、この小さな勇者が一度敗北を喫し、その上でこの騎士王国に足を運んだのだということだけは、なんとなく想像が及ぶ。
メロディが、心の中に重い問題を抱え込んでしまったのだろう、ということも。今の彼女はきっと、戦えない。
そんなメロディに、アリアスフィリーゼは何が出来ると言うのか。姫騎士は唇を噛んだ。無力感の溢れ出るような感覚があった。ショウタに逃がされ、メロディと共に逃げ、こんな裏路地に身を隠して。自分は、一国の姫として国を守る責務も、一人の騎士として少女を守る責務も、果たせてはいない。
「お姉ちゃん……?」
メロディは、そんな彼女の心の機微を敏感に感じ取ったのか。首をかしげ、心配そうな顔を作る。
今のあなたは、そんな顔ができるような状態じゃないでしょう。
そう思ってしまったとき、アリアスフィリーゼはとうとう、メロディの薄桃色の頭をぎゅっと、抱きすくめていた。ぽふ、という弾力とともに、少女が胸の中に埋まる。メロディは驚いたように、その小さな手で腕をぽんぽん叩いてきたが、すぐに顔をあげた。
「お姉ちゃん、鎧よりは良いけど、やっぱ硬いよう」
「ぎゃ、鎧下がですか? 胸がですか?」
「お姉ちゃんの胸は、柔らかいけど……」
そう言って、メロディは再度ぽふ、と顔をうずめる。この鎧下は革製だから、仕方がないかもしれない。そのあたり、あまり考慮はしていなかった。
アリアスフィリーゼがそっと手を回すと、少女メロディの小さな肩が、小刻みに震えているのがわかった。とぼけたことを言っても、優しい表情を見せても、やはり彼女は、何かに押しつぶされそうになっている。その気持ちが痛いほどわかってしまって、アリアスフィリーゼは強く強く、その肩を抱いた。
「お姉ちゃん、痛い……」
「メロディ、聞かせてください」
そう呟く自分の声さえ震え気味なのには、アリアスフィリーゼ自身も驚く。
「あなたの不安を、私にも教えてください。私に出来ることは、ないかもしれないけれど……」
それでもきっと、心の中を打ち明けることで楽になることは、あるはずだ。アリアスフィリーゼは、ショウタの顔を思い出していた。特殊な立場であるがゆえに、自分の心情をいくらでも聞き流してくれる彼の存在に、どれほど気が晴れたことか。
アリアスフィリーゼがショウタのようになることはむずかしい。それでも、話を聞いてあげたかった。聞かせて欲しかった。
「………」
メロディアスは顔をあげない。それでもしばらくしてから、姫騎士の胸元に埋もれたまま、小さく頷いて見せた。
メロディは、ぽつぽつと語り始める。
自分が生まれた村のこと。ムーという動物のこと。勇敢なる村の戦士たちのこと。
10歳の誕生日のこと。不意に襲いかかってきた怪物たちのこと。自分を守って死んだ義兄のこと。
守らなければならないと思ったこと。湧き上がる勇気のこと。その時目覚めた不思議な力のこと。
軍人の屋敷に匿われたこと。竜人族の〝おじいちゃん〟と出会ったこと。皇帝聖下と謁見したこと。
勇者としての使命のこと。旅に出る朝のこと。道中さまざまな人々を救い彼らに感謝されたこと。
ゼルシア自治領のこと。自治領長ランヴィスドのこと。獅子王マグナムのこと。
そして、初めての敗北のこと。
「何のためにね、戦えばいいんだろうって……」
メロディは顔をうずめ、表情を見せないまま、震える声で言った。
「その時、初めて思ったの。勇者はセカイの為に、ジンルイの為に戦うんだって。わかってたつもりだったのに。でもあたし、セカイとかジンルイとか、そんなもの、よくわかんなくって……」
「………」
アリアスフィリーゼは、薄桃色の髪をそっと撫でながら、話を聞く。
「あたし、何を守ればいいんだろうって。何のために勇気を出せばいいんだろうって。もう、ムーはそこにいなくって……。あたし、知らない人達のために、そんなに強くなれるほど、いい子じゃなかった……」
「メロディ……」
どのような言葉をかけてやるべきかわからず、アリアスフィリーゼには名前を呼ぶことしかできなかった。
「お姉ちゃん、あたし、何のために戦えばよかったの? 勇気って、どうやって出せばよかったの? あたし、もう、わかんないよぉ……」
勇者メロディアスの苦悩は、想像を絶する。姫騎士は言葉を失うより他になかった。とうてい、10歳の少女が抱えるような悩みではない。アリアスフィリーゼは、メロディアスの悲嘆に、そして何よりも、この少女がそのようなことを悩まざるを得ない、この状況に、強い憤りすら覚えていた。
いや、
果たして、これがこの歳の少女に似つかわしくない苦悩だろうと、言い切れるだろうか? ましてや他の誰でもない、このプリンセス・アリアスフィリーゼが。
姫騎士殿下は、震える少女を抱きすくめながら思い出す。
騎士王セプテトールの言葉、宰相ウッスアの言葉、将軍アンセムの言葉、剣聖ゼンガーの言葉。
いずれも、国と民を守るため、騎士の模範たるべしと、幼少のアリアスフィリーゼに説くものだった。その極めて曖昧な言葉の意味を、よく理解もせずに、アリアスフィリーゼはただ頷いた。ただ大好きな彼らの期待に沿いたくて、首を縦に振り、当時はその言葉の重さもろくに考えなかった。
それでも、アリアスフィリーゼがメロディアスと比べて恵まれていたのは、すぐさま戦いに身を投じることなく、それを吟味する猶予を与えられていたことだろう。歳を経るにつれ、言葉の意味を考えるようになっていた。
国とは何か。民とは何か。曖昧模糊とした概念は、果たして幼い少女の騎士道に、庇護の対象となりうるか。
お父様は好きだ。ウッスアは好きだ。アンセムも、先生も、師匠も好きだ。王宮内の侍女たちも、文官たちも、出入りする貴族のみんなも、街に出たときに挨拶をしてくれる市民たちも、バザー会場で出会う商会ギルドのエージェント達も。そして、今は亡き、デュオ姉さまも。
会う人会う人、みな好きだった。だが、それと〝国〟は、それらと〝民〟は結びつかない。
国も民も、騎士としての庇護対象にはなり得ない。
やがて巡り来るその日、至天塔の上から黄昏の王都を眺めるその時まで、小さな姫には理解できないものだった。
だが、今ならはっきりとわかる。プリンセス・アリアスフィリーぜが守らなければならなかった〝国〟も、〝民〟も。それはきっと、彼女が昔から守りたいと思っていたものであるに、違いないのだ。
夕焼けに染まる王都の町並みが結びつけたもの。それは。
「メロディ」
アリアスフィリーゼは、震える薄桃色の髪を撫でながら、優しく言った。
「あなたは、セカイのために、ジンルイのために、その小さな心から勇気を振り絞る必要なんてありません」
「で、でも、それじゃあ……」
「それでも勇気が必要なことがあったら、メロディ、あなたは、私のために、戦ってください」
幼き日、アリアスフィリーゼは、父セプテトールに尋ねたことがある。
騎士とは何か。騎士の生き様とは何か。何を守り、何のために戦えばよいのか。
国という言葉も、民という言葉も、ろくに知らなかった頃の記憶。まだ若く、壮健であった騎士王はこう答えた。
―――迷ったときは、アリア。俺のために戦え。
続いた騎士王の言葉を、アリアスフィリーゼは自分の言葉で紡ぎなおす。
「私でなければ、ショウタのためでもいいです。〝おじい様〟のためでも、どこかで飼われているあなたの大切なムー達のためでも、孤児院で出会ったジョッシュ達のためでもいいのです。メロディ、あなたは、彼らのことが好きなのでしょう?」
「うん……」
「あなたがその時、どんなに孤独で、世界の広さに押しつぶされそうになっても、あなたのずっとずっと後ろには、私がいて、彼らがいます。メロディ、あなたが守るセカイなんていうものは、それで、いいんです」
メロディアスは、顔を上げていた。藍色の瞳はうるみながら、アリアスフィリーゼを見る。姫騎士の翠玉色の双眸もまた、じっとそれを見つめ返した。言葉は果たして伝わったのかどうか。だが、それを確認するよりも早く、アリアスフィリーゼはまた口を開いた。
「ただ、メロディ……」
紡がれた言葉は、父から言われたものではない。
「あなたが戦いたくないのなら、無理に勇気を振り絞る必要なんて、ないんです。あなたは神様じゃなくて、人間なんです。だから、辛い戦いに、一人で立ち向かっていく義務なんて、ないんですよ?」
姫という立場から、勇者に呼びかけるものではない。
それは、たった一人、少女の無垢な優しさを知ったたった一人の人間として、メロディアス・フィオンという、やはりたった一人の人間に対して呼びかけるものだった。輝煌剣ゼペリオン。たかだか一本の剣が、少女に与えた義務がなんだというのだろう。そんなものでなぜ、少女の生き様が縛られなければならないのだろう。
メロディアスは、アリアスフィリーゼの胸の中でそっと呟く。
「お姉ちゃん……」
言いたいことは、すべて言った。
伝えたいことは、すべて伝えた。
それをどのように飲み込むかは、すべてメロディ次第ということになる。彼女が戦わない道を選んだとしても、アリアスフィリーゼには責めることができない。
ショウタの言った〝落としどころ〟とはどこだったのだろう。これで良かったのだろうか。メロディが戦いから逃げることも、彼は考えていたのだろうか。
「お姉ちゃん、あたし……」
メロディアスが何かを言いかけた、その時である。
「見つけたであります。姫騎士殿下」
氷のナイフを思わせるその声音が、二人の間の静寂に突き立った。