第16話 目を逸らす弱さに
わずか10歳の少女メロディアスは、中央帝国北部の小さな集落フィオン村で生まれた。過酷な環境で、ムーと呼ばれる大型偶蹄動物の牧畜を営み生計を立てる慎ましやかな村である。早くに両親を失くしたメロディアスは、父の親友の家で育てられ、時折実の親がいない寂しさを感じつつも、健気に日々を過ごしていた。帝国に現れた〝預言者〟を名乗る男が、冥獣神の復活を告げ、世間に混乱の影を落としたとしても、メロディアスの日常は変わらなかった。
事件が起こったのは、まさしくメロディアスが10歳の誕生日を迎えた、その日のこと。
メロディアスの村を、彼女の大好きなムーによく似た怪物たちが襲撃したのだ。実父と同じく、一族の勇敢な戦士であった養父は、メロディアスと義兄をムーの小屋に押し込め、決して出ないように言い含めると、ブーメランを片手に怪物たちへと立ち向かっていった。
村の大人たちはみな戦士だった。怒号をあげ、ブーメランを手にし怪物たちと戦う。
しかし、彼らの持つ原始的な武器では、怪物たちにはまるで歯が立たなかった。村に代々伝わる簡易攻撃魔術も、せいぜい魔獣を追い払う程度にしか効果がない。怪物たちは、山岳部付近に出現する魔獣の類とは、一線を画す強さがあった。
冥獣七王がひとり、猛牛王。そう名乗った怪物の長は、向かってくる戦士たちを、老若男女の別なく公平に、自らの持つ巨槌にてたたきつぶした。メロディアスは、12歳になるばかりの義兄と抱き合い、ムー達に囲まれながら震えていた。大人たちは、あるいは他の子供たちは、いったいどうしたのか。必死に考えないよう努力していた。
しばらくして、周囲の喧騒が止んだ。戦いはどうなったのだろう。お義父さん達はどうしたのだろう。不安と恐怖で押しつぶされそうなメロディアスを、義兄は必死に慰めてくれた。
扉が開く。薄暗い小屋の中に光が差した。だがそこに立っていたのは、優しい笑顔を浮かべた養父などではなかった。
双眸に赤い殺意をみなぎらせた牛頭の怪物。メロディアスは声にならない悲鳴をあげる。異変を察したムー達がパニックを起こした。
その瞬間、メロディアスの義兄は彼女を突き飛ばすようにして立ち上がると、猛然と怪物に向かって走っていった。メロディアスはやめてと叫ぼうとした。だが、声が出ない。喉が異様に熱かった。義兄は逃げるよう叫んだ。
ムー達と共にこの村を出るように叫んだ。義兄の身体は、怪物に届く前に、その手のひらによって軽く叩き潰される。真っ赤な血と肉が、薄暗い小屋の中に広がった。
その時、メロディアスの小さな身体を支配したのは、恐怖でも絶望でも義憤でもない。
今は亡き実父の、養父の、義兄の、そしてもう返らないであろう、すべての村人と同じ心理状態である。彼女はそこに、わずかな慙愧を残していた。
メロディアスは、村の中で一番小さな女の子だった。常に彼女を守ってくれる誰かが、村の中にはいた。だが、いつまでもそうではないと、養父は常々メロディアスに説いていた。いつかメロディアスも、守られる者ではなく守る者になる日が来る。その日のために覚えておいて欲しいことがあると。
なぜもっと早くこの気持ちに目覚められなかったのか。わずかな慙愧の正体はそれだ。
今や彼女を守るものは全て絶え、メロディアスは守られる者ではなくなった。彼女の目前には、村を襲った牛頭の怪物の群れ。そして彼女の背後には、村人たちが命を賭して守ろうとした大切なムーの群れ。ムーは家族であり、財産であり、村の象徴だ。
ムーは村そのものであり、もはやメロディアスに唯一残された、守らなければならないものだった。
メロディアスは気丈にもムー達を庇い、怪物の群れを睨みつける。怯え、おののくムー達の動揺が、幼い心に痛いほど突き刺さった。ほんの少し前までは、メロディアスも同じ気持ちだったのだ。メロディアスを抱きしめる義兄も、同じことを思ったに違いない。
誰かを守りたいと思ったとき、敵わない相手にも身体ひとつで立ち向かう。
メロディアス・フィオンがその気持ちをはっきりと自覚したとき、彼女は全世界の人間が持つ〝その気持ち〟を代行するための、権利と義務を得た。幼き少女の双肩には、重すぎる力が目覚める。
人ならざるものの手によって選別された、代行者の持つ絶対権限。人類最後の希望。眩き光の証明。
〝輝煌剣ゼペリオン〟が発現したのである。
Episode 16 『目を逸らす弱さを』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「帝国軍が冥獣七王の動きを察知し、フィオン村にたどり着いたとき、彼らが見たのは光に焼き尽くされた猛牛王の姿と、ムーに囲まれて眠る少女の姿であったと聞きます」
竜人族の老人は、はっきりとした口調で、しかし淡々と語り始めた。
帝国軍は状況が咄嗟に理解できなかったが、伝承と照らし合わせることで、これこそが勇者の顕現であるという結論に達し、同時にそれが幼き少女であることに驚愕した。兵士たちは眠る少女を揺り起こし、帝国への同行を願い出る。少女はムー達を村跡に残すことを嫌がったため、生き残りのムー達を連れて、兵士たちはフィオン村跡より撤収した。
シュランツが竜人族の村より招聘されたのはその後だ。帝都の屋敷で、慣れないドレスを着せられて困惑するメロディアスを一目見たとき、シュランツはそれまで幾度と感じた輝煌剣ゼペリオンの胎動を確かに実感し、そして深く絶望した。
過酷な運命はついに、これほど幼き少女にまで降り注ぐようになったのか。
だが、軍部の将校、すなわちメロディアスを発見した部隊の指揮官は、自らの手柄に大喜びし、着飾らせたメロディアスとシュランツを皇帝に謁見させた。シュランツはメロディアスに勇者の伝承と、彼女が手にした力の正体を解き、ふたりはそれより長きに渡る戦いに身を投じることになったのである。
メロディアスは自らの使命を漠然としか理解していなかったが、勇敢なる戦士であった亡き家族の教えが、彼女の勇気を支えていた。各地に出現を始めた冥獣魔族を蹴散らしていく中、帝国ゼルシア自治領に冥獣七王のひとりを名乗る怪物が侵攻を開始する。
獅子王マグナム。メロディアスによって撃破された猛牛王の親友であったと語る彼は、打倒勇者に強い意欲を燃やしていた。
メロディアスとシュランツは即座にゼルシア自治領へ飛び、獅子王と対峙した。猛牛王を瞬殺せしめた輝煌剣の力をもってすれば、獅子王とて撃破は容易い。当初はそのように考えられていた。
だが、光の剣は彼女の意思に答えない。輝煌剣によって与えられた卓越した身体能力や魔法力は残されていたが、勇者の力の根幹を成すのは輝煌闘法と呼ばれる光の力である。それを使いこなせないメロディアスは、獅子王の持つ圧倒的な力を前に無残な敗北を喫した。
興ざめした獅子王は、勇者に2週間の猶予を与える。それまでに傷を癒し、輝煌闘法を完全に身につけてから、再度戦えと言うのだ。その際も同じ有様であれば、今度は容赦なくその身体をたたきつぶすとまで宣告した。
それから10日近くが経過したが、メロディアスが輝煌闘法の使い方に目覚める気配は一向に見られない。それどころか彼女は、自らが戦う明確な目的を、完全に喪失していた。勇者は世界のために戦うものだが、その『世界』というものが、10歳の少女にとってはあまりにも広く、漠然としすぎていたのだ。
メロディアスは勇敢な少女だ。メロディアスは心優しい少女だ。人々の勇気を背負い、戦うだけの度量が彼女にはあった。だがメロディアスは今、自分自身の〝勇気〟の出処を、完全に見失っていたのである。
獅子王がゼルシア自治領から兵を引き上げ、帝国全域にはつかの間の小康状態が訪れた。シュランツとメロディアスは、敗戦の責を追及されることから逃れるため、旧帝国領でも最先端に位置する、このグランデルドオ騎士王国を訪れたのである。
「ふむ……」
騎士王セプテトールは、シュランツの話す一部始終を真剣に聞き入っていた。
「勇者殿ほどの力を持つものならば、その行先を皇帝聖下に話さぬわけにもゆくまい。それを偽るわけにもいかず、正直に話し、こちらにも話を通しはしたが……もともと勇者殿を余に謁見させるつもりはなかったと、そういうことだな」
すべてを見透かすような蒼玉色の瞳を前にし、シュランツは苦々しげな表情で頷く。
「なにせ騎士王国は情報の伝達も遅いド田舎だ。帝国軍部の頭でっかちどもから追及を逃れるには、まあ絶好であろうよ。勇者殿の心の問題を、時間が解決してくれるのを待つつもりであったのかな。どちらにしても、二人だけで決行に移すには、無理のある計画であったな。シュランツ老」
「騎士王陛下殿!」
シュランツは立ち上がり、すがりつくような声をあげた。
「どうか、どうかもう少しお時間をくださいませ! メロディアス様も、しょせんは10歳の女の子なのでございます! そのような子に、世界の命運を背負えなどと、どうして言えましょうか! もう少し、そっとしておいてやっていただけませぬか! せめて、今のメロディアス様の、心の傷が癒えるまでは!」
「うむすまん無理だな」
騎士王セプテトールはきっぱりと言い放ち、シュランツを絶句させる。
「へ、陛下殿は、小さな女児ひとりを、平和のための犠牲にせよとおっしゃる……?」
「ではそなたは、小さな女児ひとりのために、ゼルシア自治領1万の命を犠牲にしろと申すのかね」
シュランツを見下ろす蒼玉色の瞳は冷たい。セプテトールは、すっかり冷めてしまったスープをかき混ぜながら、このように続けた。
「シュランツ老、俺もな、話を聞いたときはクソのような話だと思ったさ。10歳の幼女にすがってしか救われない世界ならば、いっそ滅んでしまえばいいともな。だが俺は何の因果かこの騎士王国に、王の子として生まれてしまったのだよ。王は間違っても、世界が滅びればいいなどと、言ってはならんのだ。それがどのようなクソであろうとな。勇者殿を犠牲にして国が助かるならば、俺はそうする」
「メロディアス様がいま、まともな戦力になるとは限らんのですぞ! 無駄死にせよとおっしゃるのか!?」
「盟主様のご要望とあらばな。確かに我が国はド田舎だ。そして、この勇者殿の迷子事件がそなた達二人の起こした狂言劇であるとしても、我が国の敷地内に勇者殿を隠し、ゼルシアの援軍にも出さぬとなると、それは俺と国の責任になるのだ。ここでゼルシアが滅びてもみろ、俺たちは帝国を中心とした国際社会から完全に孤立する。人とは度し難いものだなシュランツ老。世界の危機に、このようなちっぽけなしがらみにとらわれねばならんのだよ。まったく、クソだ」
騎士王は長々と、しかし吐き捨てるように言う。
先ほどセプテトールがウッスアに命じ、騎士剣聖ゼンガー・クレセドランに挙兵するよう連絡させたのは、万一勇者が見つからなかった場合、国際社会に対するせめてもの〝誠意〟を見せるためであった。加えて、現在急いで王都へ来るよう通達中の騎士将軍アンセム・サザンガルドもまた、〝誠意〟として援軍に向かわせる。
騎士王国を守護する戦略級騎士を、二人も出兵させることは、王国の守りを大きく揺るがす事態にほかならなかったが、勇者をひた隠し、国際社会から孤立した場合のリスクはそれをはるかに上回る。
騎士王国からゼルシア自治領まで軍を率いるとなると、どんなに急いだとしても行軍には2週間かかる。それまでにゼルシアが獅子王に滅ぼされず、残っているかどうか。希望は薄いが、これらの出兵は、諸外国からの非難を免れるためのものだ。万が一、帝国そのものを敵に回すようなことは、あってはならない。
そもそも現時点で、ゼルシアがどれほど無事であるのかすらも、わからないのだ。
ゼルシア自治領は、帝国を中心とした魔導通信ネットワークの圏内だ。獅子王の襲撃から連絡を飛ばし、帝都を経由してネットワーク圏内の最西端まで伝達がいったとして数時間。そこから不眠不休で早馬を飛ばし、途中、デルオダート水道に乗り、運河要塞まで向かったとして約1日半。運河要塞から王都へ、リコール家の使いが最速で向かったとしても、おそらく獅子王の襲撃からは現在丸2日が経過している。
獅子王マグナムは、2週間後に勇者と見えると約束した。だが、侵攻の再開は1週間で火蓋が切られたことになる。マグナムが取り交わした約束は、あくまでも勇者との再戦であり、侵攻の再開時期は明示していなかったので、嘘はついていない。
騎士王セプテトールは不機嫌をあらわにスープをかき混ぜている。シュランツは唇を噛み、床に手をついていた。どちらにも忸怩たる思いがある。二人共、現状は決して本意のはそぐわないのだ。そしてどちらも、互いの立場をよく理解したからこそ、これ以上何も言い合うことができない。
「騎士王陛下」
その時、凛と済んだ声が晩餐会場に響いた。直後、軽快な靴の音と共に、ひとりの女が片膝をつき出現する。セプテトールは、ちらりと彼女を見る。ウェーブのかかった茶髪に柔和な顔立ち、エプロンをつけた母性的な装い。それらとは裏腹に、女の身のこなしは完全に影に生きるもののそれである。
宰相ウッスア子飼いの密偵であると、騎士王は断じた。
「孤児院でのアリア達の奇行ならば、すまんが今は聞く気分ではない。命じておいて悪いな」
「いえ、騎士王陛下。警邏騎士隊の信号弾を見て報告にあがった次第であります」
「ふむ?」
セプテトールは、スープをかき混ぜる手を止めた。
「勇者メロディアス殿は、姫騎士殿下およびショウタ殿と共に、王都へ戻ったものと思われるであります」
シュランツが、ハッと顔をあげる。密偵のみっちゃんは、淡々と告げた。
「私がメロディアス殿の来訪を知ったのは信号弾からでありましたが、特徴および名前は勇者殿のものと合致するであります」
「そうか。念のため遠ざけておいたが、結局、接触して問題を起こしたわけだなぁ……」
騎士王は腕を組み、天井を見上げ、目を瞑る。シュランツは恐る恐る声をかけた。
「き、騎士王陛下殿……」
「すべての門を閉鎖し、外を捜索中の騎士たちを呼び戻せ。魔法士殿が転移術を使うから、確実ではないがな。動員した数すべてをもってすれば、すぐに見つかるはずだ。ウッスアに伝えてこい」
「陛下殿っ!!」
シュランツが悲痛な声をあげる。食ってかかろうとした竜人族の老人を組み伏せたのは、みっちゃんであった。後頭部を抑え、足を払って冷たい床に叩きつける。一連の光景を見た近衛騎士はわずかな躊躇を見せたが、騎士王の視線を受けると一礼し、王令を宰相に伝えるべくその場を去った。
組み伏せられたシュランツの顔に、竜の鱗が浮かび上がる。頭部に黒光りする角が生え、その荒い呼吸には炎の吐息が混ざりはじめた。竜人族は感情の昂ぶりと共に一時的な竜化を果たす。それは歳を経て理性で制御できるようになると聞くが、この時のシュランツは間違いなく感情を御しきれていなかった。
それでもなお、騎士王は冷たい目で老人を見下ろす。
「言ったとおりだ、シュランツ老。俺達も事は穏便に運びたい。そなたを人質にとるなどという真似はしないが、勇者殿の身柄を確保し次第、そなたにはきちんと勇者殿を説得してもらう」
「私が従うとお思いですか、陛下殿……!」
「従わざるを得んよ。ここで我が国を敵に回したところで、何のメリットもないのはそなたが一番よくわかるはずだ。たとえ、勇者殿の力が、我が国の総戦力を上回るものであったとしてもな」
騎士王の言葉は真実であり、正鵠を射抜く。竜人族の老人は、竜の瞳から悔し涙を流しつつ、がっくりとうなだれた。
王都市民街の中央広場である。メロディアスはベンチに腰掛け、ぼうっとしていた。隣ではやはりショウタが彼女の手を握り、ぼうっとしている。雲一つない青空からは太陽の光が燦々と降り注ぎ、広場のロケーションは日向ぼっこには実に最適であった。噴水の涼やかな音に混じって、人々の談笑する声が耳に心地よい。まさしく平和そのものだ。
しばらくすると、少し離れていたアイカが両手にカップをふたつ持って戻ってきた。
「お姉ちゃん、なにそれー」
「果実汁に砂糖を加えたものです。露店で売っていたのが珍しいので、買ってきてしまいました」
メロディの質問に、アイカが笑顔で答える。
「ああ、ジュースですね……」
「うん、ジュースだねー」
ショウタがぼうっと言い、メロディが頷いた。
「えっ、二人共ご存知なんですか?」
「僕の故郷では割と普通に売ってました」
「帝都の方でも売ってるよー」
「そ、そうですか……」
アイカは少し残念そうにしていたが、カップのひとつをメロディに差し出す。メロディはお礼を言ってジュースを受け取った。帝都の方面で売っているものは魔法でキンキンに冷やしているものだが、魔法文化のない騎士王国では常温のままだ。それでも、喉を潤すには最適で、甘ったるい味は幼い味蕾を刺激してあまりある。飲みやすさもあって、カップはすぐカラになってしまった。
「あの、僕のは?」
「ショウタのは私と共有です」
「あ、そうですか……。別にいいんですけど」
「不満ですか!?」
「別にいいですけどって言ってるじゃないですかぁ!」
横では、アイカとショウタがコントをやっている。メロディの見る限り、二人の関係は主従にあるようだが、掛け合いは割とフランクだ。やたらと仲も良いし、ベタベタしてるし、いちゃいちゃしてるし。これがコイナカというものなのか。メロディアスには、よくわからない。だが、二人は端から見る限り幸せそうだし、お似合いだし、一緒にいるとこちらまでぽかぽかしてくる。
恋というのは素晴らしいモノらしい。そう教えてくれたフィオン村のお姉さんは、もういないが。
過去を思い出すと、連想が止まらなくなる。
少女の世界が灰色に変わる。中央広場の爽やかな喧騒が音を潜め、彼女は世界から置き去りにされる。
やめなければ、と思っても、無意識が埋没した苦い記憶を掘り起こす。
遠い日に戦死した両親の記憶。フィオン村を襲った怪物の記憶。目の前で潰された義兄の記憶。ボロボロになった村の記憶。そこかしこに散らばる亡骸の記憶。何も知らぬまま帝都に連れてこられ、ただ一人寂しさに泣いた記憶。冥獣魔に襲われて壊滅した、他の村々の記憶。
そして、明確なる敗北の記憶。
つい先ほど、王宮へと駆けて行った騎馬は、外国の情報を王様に伝えにいくものだという。メロディアスがこの時思い出していたのは、ほんの10日前に相対した冥獣魔族の存在であった。
獅子王マグナム。獅子頭を持つ、筋骨隆々の魔人である。冥雷と冥炎を司るこの獣魔を相手に、メロディアスは手も足も出ずに敗北した。彼女に顕現した輝煌剣はその力を貸してはくれず、苦々しい敗北の味だけが残された。満身創痍、ボロボロになって転がるメロディアスに、マグナムが告げた言葉ははっきりと覚えている。それは再戦の約束だった。
その時感じた恐怖を、メロディアスは覚えている。ムーの子達を背にし、猛牛王とその配下を睨みつけた時、確かに失念していた感情が、遅れてやってきたかのようであった。死への恐怖と絶望が全身を支配し、動けなくなる。10歳のメロディアスという無力な少女をさらけ出した、あの瞬間。拭いようのない、苦い記憶だった。
約束の期日まで、まだ少しある。だが、仮に期日より早く獅子王が侵攻を再開したとするならば、自分は使命に従い、戦わざるを得ないだろう。それが勇者の使命であるからだ。
戦うことを選んだあの日から。力を手に入れたあの時から。既にメロディアスは、力を振りかざす道を選んでしまったのだ。振り上げた拳は、振り下ろし続けるしかない。
だが、ゼペリオンは、メロディアスに答えてはくれない。
戦う意味がわからないのだ。あの恐ろしい敵に、立ち向かっていく意味が、もうわからないのだ。
なぜ自分は、あの時猛牛王相手に、敢然と立ち向かって行けたのだろう。その答えは簡単だ。背後にムー達がいたからである。守らなければならない、大切な家族たちがいたからである。
ゼルシア自治領での戦いは孤独であった。いくら自分は世界のために、人々のために戦っているのだと言い聞かせても、手足は震え、心は言うことを聞かなかった。
世界のために。人々のために。そんなものの為に勇気を振り絞れるほど、自分はいい子ではない。
孤児院の鬼ごっこの時に見せられた、ショウタやジョッシュの〝勇気〟が眩しい。なんて尊い気持ちなのだろうと、端から見て初めて気づかされた。だが、メロディアスにはもう、それを自分で出す方法がわからない。自分の後ろには、もう守るべきムーの群れはいなかった。
「……メロディ? メロディ、どうしました?」
思考の途切れ目にアイカの声が割り込んできて、メロディアスはハッとした。彼女の意識が、世界のスピードに追いつく。
「ん、んーん。なんでもないよー」
笑顔を作って取り繕う。アイカとショウタが並んでこちらを見ていた。二人ともとぼけているけど頭が良さそうだから、見透かされているのかもしれない。こんな子供の考えていることなんて。
「難しいことなんか考えなくて、もっと楽にしていいんですよ?」
「うん……」
ショウタが苦笑いしながら言う。それでも、メロディアスには『うん……』と答えることしかできない。
フセイジツだとは、思う。
アイカも、ショウタも、初めてあったばかりの自分と一緒に遊んでくれ、話を聞いてくれ、信じてくれ、一緒におじいちゃんを探してくれるとまで言ってくれた。本当は、おじいちゃんがどこにいるかなんて知っている。王宮だ。自分を自由に遊ばせるために、今も王様を騙してくれている。この平和な国ののんびりした空気の中で、メロディアスを少しでも戦いの血なまぐささから遠ざけようとしてくれている。
自分はいい子なんかじゃない。嘘つきなのだ。こんな素敵な二人にも、嘘をついてしまっている。その事実が、メロディアスの小さな胸をちくちくと苛む。
「メロディ、抱きしめてあげましょうか?」
「えっ?」
不意にアイカがそのようなことを言い出したので、思わず顔をあげてしまった。
アイカ・ノクターンは、その顔に太陽のような笑みを浮かべて、両手を広げている。
「今は私があなたのお母さんですから、ほら、ぎゅっとしてあげます。ぎゅっと」
「お嬢様、潰さないでくださいね?」
「大丈夫です。加減はわきまえております」
何やら物騒な会話が聞こえた。
メロディは一瞬ためらい、視線を逸らしたが、カップを置いてベンチから降りると、おずおずと彼女の方に足を踏み出した。実の母親の記憶は遠い彼方で、養父の家でも奥さんは早くに亡くなっていたらしいから、メロディには女親に対するイメージが薄い。辛うじて、近所のお姉さん達がその代わりだった。
その温もりにも、もう長いあいだ触れていない。照れくささに少し顔を逸らしながら、アイカの膝の上に乗り、その胸元にそっと身体を預ける。
ごちん。
甲冑と額が衝突した。彼女は胸当てをつけているのだからして、当然の帰結である。
「お姉ちゃん、痛い……」
「おっと、そうでした……」
アイカはごほんと咳払いした。
「ではショウタで代用しましょう。彼の胸板はだいぶ薄手で頼りなくはありますが」
「失礼ながら、殿下の方が過剰に肉厚なだけです……」
「殿下じゃありません。肉厚じゃありません」
「ハイ」
どうやら、ここですぐさま鎧を外すという選択肢はないらしい。アイカの膝上に乗ったまま、メロディはショウタを見る。
この少女も今まさに気づいたところであったのだが、どうにも、誰彼構わず甘えたい気分であった。それにショウタになら、父性より母性を求められそうでもある。なんだか、太陽に干したおふとんの匂いがしそうだった。
「お兄ちゃん、いいの?」
「どうぞ」
ショウタは気取るでもなく、アイカと比べても細く頼りない太ももを叩いた。
「ご心配なく、メロディ」
膝上から膝上に、ちょこちょこと移動するメロディアスに、アイカは言った。
「薄いショウタの胸板ですが、なぜかぐっすり安らげるのは、私が身をもって実証済みです」
「は、はぁ……」
なぜか自信たっぷりなアイカに対して、困惑するショウタの声が聞こえる。メロディは、ショウタの膝上に座り込むと、息を吸ってその頭をショウタの胸に埋めた。いや、埋められるほどの深度はない。だがなぜか、確かに寝床に飛び込んだときのような安心感が、メロディの身体を包み込む。ショウタの細い指先が、そっとメロディの肩を抱き寄せてくれた。空いた手が、髪を抑えてわしゃわしゃと撫で回す。
やや肋骨の自己主張が激しいショウタの胸に、メロディは頬ずりする。定期的な頻度でのんびりと、マイペースに拍を打つ鼓動が、メロディの鼓膜に届いた。この狭い空間の中では、生命活動の証すら、抱かれるものの気持ちを和らげるらしい。
耳を胸元に押し付けているせいか、ショウタの声がややくぐもって聴こえてくる。
「あの、お嬢様。どうしました? そんな、物欲しそうな顔をなさって」
「いえ……その、いいのです。私はいつでもできますので」
「いつでもやる気なんですね?」
この時ばかりは、ショウタの胸元を独占してしまった罪悪感よりも、とめどなく湧き出る安心感を胸に留めておきたい気持ちのほうが大きい。
このまま、眠ってしまってもいいだろうか。思えば、最近はまともに休息をとる機会すらなかった。このままショウタの胸元を枕にして、寝息を立ててしまうのは、さすがに迷惑だろうか。迷惑でもいいから、この安心感に身体を預けてしまいたい。まどろみが、身体を支配しつつある。
メロディの眠気を覚ましたのは、広場になだれ込むようにして聞こえてきた、無数に重なる蹄鉄の音だった。
「王立騎士団ですね」
「あれ、またですか?」
アイカとショウタの会話はのんびりとしたものだが、すぐに空気か剣呑なものに変わる。馬の足音は明らかにこちらへ近づいており、メロディの肩を抱くショウタの力に、急激に力が入ったのだ。
顔をあげ、振り返る。そこには陽光を遮るようにして立つ、騎士達の威容があった。メロディは、ショウタの服の襟元をつかみ、身を縮こませる。この騎士団達の用向きはなんなのだろう。
まさか。
思い当たる節はいくらでもある。決して〝そう〟ではないことを祈り、メロディは目を閉じた。
アイカが、ショウタとメロディを庇うように立つ。先ほどとは打って変わった張り詰めた声で、彼女は言った。
「ご要件は」
簡潔な語句の中に威圧感がこもる。騎士達の態度が友好的ではないのに、アイカも気づいている様子だった。
「近衛騎士もいるようですね。騎士王陛下の護衛も放り出して、昼間から市民街の中央広場を訪れるには、それほどの理由があるのでしょう」
「その騎士王陛下からのご命令です」
騎士のリーダーと思しき男が馬を降り、淡々と語る。
メロディアスの全身を、絶望が支配しかけていた。嘘がばれる。黙っていた事実が、隠していた真実がばれる。
そして、とうとうその決定的なひとことが紡がれる。
それは、メロディアスにとっても、容易に信じがたい事実が添えられたものであった。
「プリンセス・アリアスフィリーゼ、勇者メロディアス殿は、至急ゼルシア自治領に向かわねばなりません。解放していただきたい」
勇者メロディアス。その名を聞いたとき、アリアスフィリーゼは、ショウタの腕の中で縮こまるひとりの少女と関連付けることを躊躇った。
勇者の存在は、彼女とて伝承でしか知らない。世界が闇に包まれ、人の世に絶望が降りる時、光の剣と共に顕現する勇気の代行者。それこそが勇者だ。その責務が、10歳かそこらの少女の肩に降りかかるなど、想像もしたことがなかった。
だが、あの孤児院で見せた卓越した身体能力と言動は、確かに勇者の印象に合致する。
こちらの動揺と困惑を、すぐに察知したのだろう。王宮でもよく見かける騎士隊長は、勇者メロディアスの近況と現状、そして騎士王陛下からくだされた命令に関して、簡潔な説明を始めた。伝聞に伝聞を重ね、いささか不確かなところはあり、多くの部分を省いているようではあったが、それでも内容は理解できる。
説明に語られる〝勇者メロディアス〟の、あまりにも不幸な境遇もまた、アリアスフィリーゼの察知するところとなってしまった。〝勇者メロディアス〟と、ショウタの腕の中にいる少女メロディが、同じ人物であるとするならば、これほど胸を痛めることはない。
「姫騎士殿下、ゼルシア自治領の状況は予断を許しません。勇者殿の力が、今こそ必要なのです」
「もし、メロディが勇者殿であるとして……」
この時、アリアスフィリーゼは、自らの声帯の震えをもって始めて、昂ぶる己の感情に気づいた。
「彼女は戦える状態にはないと、そのような判断が下ったのではないのですか……?」
「はい」
「それでも、戦えと言うのですか……?」
「はい」
「このような小さな子に、世界の命運を託すのですか……? お父様は、それで納得されているのですか……?」
わずかな沈黙の後、騎士隊長はやはり、静かに頷いた。
「はい」
かっ、と頭が熱くなるのを感じた。
メロディは確かに強い子だ。心も体も。勇者としての責務を、存分に果たすだけの資質はあるだろう。
だがその本質はやはり、10歳の女の子でしかない。孤児院で子供達に囲まれ楽しそうに談笑していた姿が、初めて入った国の大衆食堂で珍しい料理に大喜びしていた姿が、アイカとショウタと手をつなぎ歌をうたっていた姿が、そしてつい先程まで、ショウタの腕の中で安らかにしていた姿が、
それこそが、彼女のあるべき姿ではないのか。
それら全てを放り捨てて、戦場に赴けというのが、こともあろうに騎士王国の総意であると言うのか。
「勇者殿が戦わなければ、世界が滅ぶかもしれないのです」
「幼い少女を戦わせなければ滅ぶ世界など―――!」
感情のあまり、口をつき出そうになった言葉を、アリアスフィリーゼは飲み込んだ。それは、それだけは言ってはならない言葉だった。いずれ国を継ぐであろう姫の立場からも、弱きを護ることを是とする騎士の立場からも、それだけは言えない言葉だった。
「―――親子ですな」
剣呑な空気に満ち始めた中央広場。ぽつりと漏らした騎士の言葉の真意を、アリアスフィリーゼは掴めない。
わずかな躊躇があった。アイカ・ノクターンではなく、アリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオとして、王立騎士団と対立するという事実にだ。自分の実力ならば、目の前の彼らを叩き伏せ、メロディアスを逃がすことなど造作もないだろう。
だがそれは、姫騎士である自分が、騎士王の意思に背くということである。白磁の甲冑以上に重たい何かが、彼女の動きを鈍くする。
その時、不意に小さく軽い何かが、アリアスフィリーゼの脇腹あたりにぶつかった。薄桃色の髪が揺れる。メロディだ。先ほどまで、ショウタの腕の中にいたはずだが。
王立騎士団の間に、ざわめきが伝播した。ショウタがアリアスフィリーゼにメロディアスの身柄を託し、一歩、前に出たのである。胸板が薄く、手足が細く、肩も頼りない少年が今どのような表情をしているのか、アリアスフィリーゼの立ち位置からは見えない。
「殿下、メロディを連れて逃げてください」
ショウタは、きっぱりとそう言った。
「で、その、まぁ、できれば殿下の聡明な頭脳で、みんなが落ち着く落としどころを考えておいてください」
「ショウタ……」
「遠い場所で、たくさんの人が危険な目にあってるんだな、ってのはわかったんですけど、今のメロディを戦場には出せません。その、お、お、おとーさんとして……」
最後のとぼけた言葉は、にわかに殺気立つ騎士団の抜剣に、その音を遮られた。
「魔法士殿、それは逆賊としての意を示すということですかな?」
「違うんですけど! えっと、まぁ、それは後で姫騎士殿下がなんとか執り成してくれるって、僕信じてるんで!」
なんて甘いことを言うのだ、とアリアスフィリーゼは思った。楽観主義にもほどがあると。
だが現状では、アリアスフィリーゼはショウタに甘えざるを得ない。みんなが落ち着く落としどころなど、考えられるかはわからないが。メロディの心の問題を、今自分だけで解決できるかはわからないが。このまま、彼女をただ戦地へ送り出すなんてことは、できない。
アリアスフィリーゼは、メロディの手を引いた。全速力で駆けても、彼女ならついてきてくれるだろう。
「お兄ちゃん! なんで……!」
「誰かを守りたいと思ったとき、」
メロディの叫びが、空を切り裂いてショウタに届く。駆け出した二人の耳に、彼ののんびりした声が帰ってきた。
「敵わない相手にも身体ひとつで立ち向かう。人はそんな気持ちのこと、〝勇気〟と呼ぶそうです」
「お兄ちゃん……」
「僕の生まれ故郷では、〝勇気〟という言葉には〝男〟という言葉が入るんで、まぁ、そういうことなんでしょう」
直後、騎士達の怒号が、中央広場を揺るがした。彼らも宮廷魔法士たるショウタの重要性は知っている。それが軍事的、戦力的な意味ではなく、政治的な意味を強く持つことを。たとえ王意に反する行いを見せたとしても、逆賊としてその場で斬り殺すことなどそうそうできまい。
だが、すべてが終わったあと、ショウタを助けるためには。
彼の言う、〝みんなが落ち着く落としどころ〟に全てを着地させるしかない。アリアスフィリーゼは、その責務の重さを肩に感じながら、強く握ってくるメロディの手を、優しく握り返した。